あいりん facebook 葬儀。 怖い町? 人情の町?「あいりん地区」のリアルとは 白波瀬達也氏インタビュー 『貧困と地域』著者|ビジネス+IT

大阪のドヤ街・釜ヶ崎の歴史を振り返る

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<目次>• 白波瀬達也氏(以下、白波瀬氏):多くの場合、公的機関は「あいりん地区」、民間団体は「釜ヶ崎」という呼び方をします。 メディアでは「あいりん地区(釜ヶ崎)」のように併記されることが多いですね。 基本的に同じ場所を指しているのですが、「釜ヶ崎」は昔の地名であり、今は西成区北東部の簡易宿泊所が集中する場所のことをアバウトに指す名称です。 「あいりん地区」も同様の地域を指すのですが、度重なる暴動への対応をきっかけに1966年に行政が明確に区域を設定しています。 この本では行政が貧困問題にどう向き合ってきたのか、詳しく描きたかったので、「あいりん地区」という地名を使いました。 白波瀬氏:あいりん地区は、日本の社会状況に大きく影響され続けてきた町でもあります。 ご指摘の通り、あいりん地区と言えば男性ばかりが暮らす「日雇労働者の町」「ドヤ街」のイメージをもっている人が多いと思いますが、1960年代の中頃まで、男女の人口比がそれほど変わない町で、研究者たちはスラムとみなしていました。 白波瀬氏:社会学者の大橋薫の分析によれば、スラムとドヤ街には貧困が共通しているが、社会関係や住まいなどに違いが見られるのです。 スラムの住民は家族もちが多く、住居と職業、収入が固定しており、人間関係が緊密。 一方、ドヤ街は単身世帯が多く、住居と職業、収入が流動的かつ臨時的で、人間関係が希薄。 随分昔の研究ですが、このように特徴の違いが述べられています。 高度経済成長期以前は、日雇労働者を相手にした町、ドヤ街、歓楽街、長屋、商店街などがひしめき合っていました。 ドヤが多く集まりつつ、スラムの性格ももった町であったと言われています。 しかし、1960年代後半から様子が変わっていきました。 1961年に労働者に対する警察の不適切な対応がきっかけとなり「第一次釜ヶ崎暴動」が起こります。 その後何度も暴動が繰り返され、1966年の第五次暴動ではパチンコ店や交番に2000人が放火や投石を行います。 この暴動をきっかけに、大阪市・大阪府・大阪府警から構成された「愛隣対策三者連絡協議会」が設置され、「釜ヶ崎」は「あいりん地区」(愛隣地区)に改称することになりました。 当時は、1970年の大阪万博に向け、労働者の需要が高まっていた時期でもありました。 そこで行政は住所不定者への支援を手厚くするために「あいりん総合センター」や「大阪市立更生相談所」を設立し、日雇労働者の安定的な供給を目指します。 各地の失業者を吸収し、労働市場に再参入させる仕組みでした。 その一方で、行政による住宅政策や頻発する暴動により家族世帯は地区外に流出していきました。 こうして、あいりん地区は日雇労働者の集積地に性格を変え、単身男性が多く暮らす町になったのです。 あいりん地区の中心部に位置する萩之茶屋小学校には、1961年に1290人もの児童数がいましたが、1990年には137名と、30年間で10分の1まで減少しています。 このように子どもの姿がどんどん少なくなっていったのです。 そして、バブルが崩壊すると求人が減少し、野宿生活を余儀なくされる人々が町に溢れます。 その結果、行政・民間が様々な対策を行い、住民の多くは生活保護を受給しながら地域に定住するようになっていきました。 あいりん地区は深刻な高齢化に直面しており、日雇労働者が集まる場所としての機能はどんどん小さくなっています。

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あいりん地区で「孤立死」が日常化する意味

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net 今日も角一ビン空けたで・・・ 寝るわ。 ワシアル中やな完璧。 net 酒を口から飲むから量が過ぎるんやで。 浣腸器で尻の穴から入れたら僅かな量で昏睡出来るんやで。 角瓶1本なら一ヵ月は持つやろな。 net バイ菌は加熱したら死ぬけど 毒素は消えへんさかいな。 net 店名伏せるけどガード下のホルモンでは酷い目にあった。 腹痛で少しの我慢も出来ず何回も歩きながら糞漏らした事あるし。 流石に懲りて食べてないけど、いつも前を通り過ぎる時、人だかり見ながら、みんな腹は大丈夫なんかなと思う。 net 何や?昼やないけ。 トンテキ定食でも食いにいくで。 net もうすぐ、イカ焼きとビールでいっぱいやる。 ええやろ?それにしてもわし、イカ焼き大好物やな。 net ゲソだけ食って身は猫に投げるゲソ。 net 身はネコに投げる? なんも、おもんない。 net 今夜は 豚ヒレ肉のローストきのこソース ジャーマンポテト 新玉ねぎとカニ缶のサラダ を作ったよ。 〆に抹茶アイス食べた。 net 山王の玉出スーパーでレジやってる三つ編みのねぇちゃんに惚れてもうた。 98 ID:QewXhAR30 数年前、漏れがソープで体験したこと。 入店して待合室に通されると、オバサンが数人の客と話をしていた。 スポーツ新聞を読みつつ聞き耳をたてていると、全盲の息子が筆下ろしをしたいと言うので付き添いで来たらしい。 オバサン 以下母 は色々心配事を口にしていたが、話し相手の客数人は「大丈夫」「心配しなくていいよ」となだめていた。 暫くたって奥から白杖持った青年と姫が待合室にやってきた。 革靴はピカピカで結構いい服をきている。 この日のために揃えてあげたのだろう。 母はソファから飛び出して姫と軽く会釈したあと、「どうだった?いいこと出来た?」 青年「うん。 よかったよ。 このお姉さんのおかげで」 実は姫を指差すつもりが別の方向だったので、姫が素早く指した方向に移動。 母は顔をくしゃくしゃにして泣きながら「あんたよかったね〜!!」と背中を何度もさすっていた。 客も拍手したり「よかったなあ」と激励していて、今まで無口だった893風の客まで立ち上がって 青年の肩をポンポン叩きながら「あんたも一人前の男になったぞ」と祝福していた。 姫も感動して泣いていた。 実に素晴らしい光景。 涙腺の弱い漏れは新聞で顔を隠しながら泣いた。 net アホか!白人と黒人位違うぞ。 13 店名伏せるけどガード下のホルモンでは酷い目にあった。 腹痛で少しの我慢も出来ず何回も歩きながら糞漏らした事あるし。 流石に懲りて食べてないけど、いつも前を通り過ぎる時、人だかり見ながら、みんな腹は大丈夫なんかなと思う。 net 常連連中や普段から雑菌に汚染されてる物を口にしてる連中なら 免疫有るんだろ。 繊細な人なら1発で腹壊すと思いますね。 net その逆も真なりで日頃残飯し か食っていないとたまに御馳 走にありついたら確実に腹を 壊すんだよ。 net 質問〜。 net 日頃食べている物しか消化しないみたいだね。 net ホルモン屋や玉出の食い物なんて、トレーサビリティーなんてわからんやろ。 でも中国の屋台よりは、全然マシやで。 中国なんて、本当にドブネズミの肉使いよるからな。 net あんちゃーんら、あんちゃんら。 あんちゃんらはアオカンか? ええか、雨やで。 焼肉焼いても段ボールの家焼くなやで。 net 何回も腹壊してます。 net. 718 お前はもう出てくるな。 場をわきまえよ。 出入り禁止。 net 俺も今日久しぶりに宅配ピザ頼んだけどな、かなりイマイチやったな。 あれやったら、もう頼まんやろな。 無駄にカロリー摂取したわ〜 総レス数 1001 194 KB.

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怖い町? 人情の町?「あいりん地区」のリアルとは 白波瀬達也氏インタビュー 『貧困と地域』著者|ビジネス+IT

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日本を代表するドヤ街、大阪の釜ヶ崎。 私は日本の三大ドヤ街、すなわち東京の山谷、横浜の寿町、大阪釜ヶ崎をすべて訪問したんですが、やはり釜ヶ崎の衝撃というものは特別なものがありました。 山谷や寿町も地区内に入り込んだ途端、他とは違う独特な雰囲気を感じたんですが、釜ヶ崎は別格なものでした。 これは言葉では言い表すことが難しいんで、実際に行かれてみることをお勧めします。 今回はそんな釜ヶ崎が歩んできた歴史を振り返っておこうと思います。 一般的には釜ヶ崎という名称よりも、行政が名付けたあいりん地区の方が一般的かも知れません。 釜ヶ崎という地名は大正時代まで実際にあった地名であり、地元の人は釜ヶ崎と呼んでいます。 実は釜ヶ崎にスラムができるまえ、長町 現在のでんでんタウンの辺り に大規模なスラムがありました。 というのも江戸時代、長町は宿場町として栄えていたのですが、同時に貧困層が多く寄り付く街でもありました。 飢えに苦しむ人も多く窃盗などの犯罪行為も蔓延っていたそうです。 そのため、そのような人たちを救済するための小屋が建てられることになりました。 長町で苦しむ貧困者や病人に加えて、他の町からもそうした人が住み着くようになりました。 こうして長町は貧困者などの浮浪者が行き着く街となり、スラムと化したのです。 最盛期の1800年代後半には2000もの木賃宿が存在し、およそ7000人もの人が暮らしていたんです。 これだけ多くの放浪者が住んでいた長町スラムですが、コレラが流行したり、衛生面での問題点が指摘されていました。 こうしたことから1987年には木賃宿が大阪市内で営業禁止になるなり、1903年に内国勧業博覧会が開催されることにがきっかけで、長町にあった木造宿は一掃され、スラムは消滅することになりました。 そして長町スラムにいた貧困層が行き着いた先、それが当時の今宮村の釜ヶ崎だったわけです。 釜ヶ崎ではスラム誕生から頻繁に暴動が起こっていました。 特に大規模なものは「西成暴動」や「釜ヶ崎暴動」と呼ばれ、1961年の第一次暴動から、2008年の第24次暴動まで、数えること24回にもわたって暴動が繰り返されていたのです。 まさか2000年代に平和で安全な国・日本で暴動が起こっていたとは誰も思っていないでしょう。 そして一部関西ローカルの番組を除いて、マスごみさんはこれを報じていませんでした。 暴力団や警察など日本の闇の部分が絡んでいるので、なかなか報道しづらい状況にあったのかも知れません。 24回も暴動が起こったていたわけですが、一貫していることは、暴動の原因は労働者たちの鬱憤がたまっていたということです。 ドヤ街 寄せ場 では、労働者たちが日雇いの仕事を探して、雇用されることになるのですが、その際に手配師 今でいう派遣会社みたいなイメージ がピンハネが行われていました。 さらにその手配師たちを束ねる暴力団にもピンハネをされていたわけですから、常に不満を抱えた状態で生活していたことが予想できます。 その不満は時として警察官にも向かいます。 例えば1990年の22次暴動では警察が暴力団から賄賂を受け取っていたことをきっかけに大規模な暴動に進展しました。 その様子は海外でも報じられるなど、ニシナリの名を世界に知らしめることになったのです。 むろん、賄賂を受け取っていた警察が悪いのですが、これをきっかけに暴動が発生するというのは日本でも釜ヶ崎だけではないでしょうか。 人々の余裕を奪っていきます。 ちょっとしたいざこざでも時として不満が爆発するのです。 この釜ヶ崎の歴史を振り返ることで、日本の闇の部分、そして貧困という永遠に無くなることのない社会問題を少しでも考えるきっかけになるかも知れません。 現在釜ヶ崎では高齢化や不況の煽りを受けて、日雇い求人数が減少しています。 求人を斡旋しているあいりん総合センターは閑古鳥が鳴いているかのように静まりかえっています。 そして釜ヶ崎は「日雇い労働者の街」から「福祉のまち」へと次第に役割を変化させています。

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