前田 利家。 豊臣政権五大老!?前田利家とはどんな人?生涯・名言・偉業について解説

豊臣政権五大老!?前田利家とはどんな人?生涯・名言・偉業について解説

前田 利家

【 】 前田 利家(まえだ としいえ)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、。 加賀藩主前田氏の祖です。 豊臣政権の五大老の一人。 加賀百万石の祖でありますが、 前田家が実際に百万石を超えるのは ・利常ら の息子たちの世代からでした。 【死没】 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日) 【改名】 犬千代(幼名)、利家 【別名】 又左衞門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将、加賀大納言 【渾名】 槍の又左衞門、槍の又左 【どんな人物?】 尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の 主前田利春の四男でした。 はじめ小姓として14歳のころに に仕え、 青年時代は赤母衣衆として従軍しました。 槍の名手であったため 「槍の又左」の異名を持ったとのことです。 その後は の与力として、 北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、 能登一国23万石を拝領し大名となりました。 【 と結婚する】 永禄元年(1558年)、 尾張上四郡を支配していた 守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の 息子である織田信賢との争いである 浮野の戦いにも従軍し功積を挙げました。 「槍の又左」の異名で呼ばれ始めたのも、 この戦いの頃からとのことです。 この戦いの後、 永禄初年頃に新設された 赤と黒の母衣衆 ( の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の 赤母衣衆筆頭に抜擢され 多くの与力を添えられた上に、 100貫の加増を受けたのでした。 同年、従妹であるまつ(芳春院)を 正室に迎えて、すぐに長女・幸が誕生しました。 【笠斬りと呼ばれた事件】 永禄2年(1559年)、 織田信長の寵愛を受けた 同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし、 拾阿弥を斬殺したまま出奔しました。 【結婚後にまさかの 生活】 当初、この罪での成敗は避けられませんでしたが、 柴田勝家や らの 織田信長への取り成しにより、 出仕停止処分に減罰され、 浪人暮らしとなりました。 この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受けました。 【 に参加するも・・】 その後、永禄3年(1560年)、 出仕停止を受けていたのにも関わらず、 織田信長に無断で桶狭間の戦いに参加して 朝の合戦で首一つ、 本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てました。 けれども、帰参は許されませんでした。 【ようやく帰参を許される】 翌年の永禄4年(1561年)、 森部の戦いでも無断参戦しました。 ここで斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、 「頸取足立」の異名を持つ 足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げました。 この時、足立以外にも首級1つを挙げました。 2つの首級を持参して織田信長の面前に出ると、 今回は戦功が認められ、 織田信長から300貫が加増されて 450貫文となり、ようやく帰参を許されたとのことです。 【 後は に】 織田信長が の変により に討たれると、 はじめは柴田勝家に付いていましたが、 後に羽柴秀吉に臣従しました。 以後、豊臣家の宿老として の天下平定事業に従軍し、 加賀国・越中国を与えられ 加賀藩百万石の礎を築いてくことになります。 また、豊臣政権五大老に列せられ、 の傅役(後見人)を任じられます。 の死後、 対立が顕在化する武断派と文治派の争いに 仲裁役として働き、 覇権奪取のため横行する の牽制に尽力しましたが、 豊臣秀吉の死の8ヶ月後に病死しました。 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、 大坂の自邸で病没したとのことです。 享年62歳、満年齢は60歳とのことでした。 【あわや加賀征伐に・・・】 前田利家の死後、 徳川家康により加賀征伐が検討されます。 前田利長は母の芳春院(まつ)が 人質になる条件を受け入れ、 加賀征伐は撤回されたのでした。 【前田利家の槍】 前田利家は三間半柄(約6m30cm) の長く派手な造りの槍を持ち歩き、 初陣以降、 緒戦で槍先による功を挙げた 武辺者であったため、 槍の又左の異名で称えられました。 【織田信長に賞賛される】 元服前の小姓・前田犬千代として 初陣した萱津の戦いでは、 合戦の際に目立つ様、 自ら朱色に塗った三間半柄の槍を持って 首級ひとつを挙げる功を立てました。 それをみた織田信長は 「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛したとのことです。 【イケメンであった】 細身で端正な顔立ちの美貌で知られていました。 小姓時代にはその容姿のために 織田信長から寵愛を受けていたそうです。 【高身長】 男性の平均身長が157cm程度の時代に 推定6尺(約182cm)を誇る類稀なる 恵まれた体格の持ち主でした。 なお、この身長は残された前田利家の着物から 算出した値です。 イケメンの高身長ということで、 非常に見栄えのいい武将であったと伝わっています。 【実は隻眼?】 元服直後の稲生の合戦で負傷し、 隻眼になったとの説が存在しています。 【計算高く世渡り上手】 前田利家の烏帽子兜は大きいですが、 実用しやすい合戦用の小型の烏帽子兜も使用しており、 石川県立歴史博物館には、 行軍用兜の横に合戦用兜が展示してあります。 「槍の又左」と呼ばれ勇名を馳せる一方、 計算高く世渡り上手な一面もあったとのことです。 【そろばんを愛用】 前田家の決済はすべて前田利家自身で行ったため、 愛用の算盤(そろばん)が家宝として残っています。 なお、算盤は当時日本に伝わったばかりであり、 それを使えるというだけで稀有なことであったようです。 【晩年は茶の湯や能を好む】 後年には漢籍などの学問も学び、 茶の湯、能などの文化的活動も積極的に行ったそうです。 茶道は ・織田有楽に学び、 茶入は豊臣秀吉から譲られた名品で 天下三茄子の一つに数えられる「富士茄子」でした。 前田利家はこの中でも特に能を好み、 気晴らしや社交術として 三日に一度は稽古をする程の熱の 入れようであったということです。 【傾奇の若者がお好き】 であり、 若年の頃は派手な拵えの槍を持って歩いたので、 「又左衛門の槍」といって 人々から避けられていたそうです。 そのためなのか、 晩年になっても多少とも 傾奇の傾向のある若者を愛したということです。 加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。 名はまつで篠原一計の子した。 母(竹野氏)が前田利家の母の姉であるため、 前田利家とは従兄妹関係にあたります。 学問や武芸に通じた女性でありました。 【生まれ】 天文16年(1547年)7月9日、 尾張国海東郡沖島(現在の愛知県あま市)に 篠原一計の娘として生まれたとされています。 【母の再婚で前田家へ預けられる】 天文19年(1550年)に父である 篠原一計が死去し、 母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚すると、 まつは母の妹が嫁いでいる 尾張荒子城主・前田利昌に 養育されることになりました。 なお、女性1人が産む子供の数が多かった 戦国時代にあっても 11人の実子がいる女性は稀有であり、 記録が残る限りでは、 伊達晴宗の正室 と並んで 最も数が多いとのことです。 更にその子孫は 近代以降の皇室などに血脈を伝えています。 【まつは安産及び子育ての女神様?】 まつは母の中の母親だったともいえるでしょう。 現代だったらドクターストップがかかってしまう程 多くの子を産み育て、戦国時代を生き抜き、 子孫を繋いでいったまつ。 安産及び子育ての女神様みたいです。 ご利益ありそうです。 【夫のピンチを救う~賤ケ岳~】 天正11年(1583年)、 で柴田勝家方に与した 前田利家が敗走した際、 で羽柴秀吉に会って 和議を講じて前田利家の危機を救ったのでした。 慶長4年(1599年)に 前田利家が病死すると出家し、芳春院と号します。 【加賀征伐の危機!まつが救う!】 慶長5年(1600)年、 前田家に徳川家康から 謀反の嫌疑がかけられた際には、 交戦を主張する前田利長を宥め、 それを解消させるため、 自ら人質となって江戸に下り、 14年間もの期間を江戸の地でで過ごしたのでした。 後に江戸幕藩体制において 諸大名妻子の江戸居住制が確立しましたが、 芳春院はその第一号となったのでした。 【まつの死去と前田家】 元和3年(1617年)に 内で死去、享年71歳でした。 墓所は金沢市の野田山墓地、 市北区の大徳寺芳春院(分骨)。 芳春院の化粧料7500石は、 次男である前田利政の子の前田直之に与えられ、 前田直之は合計1万石を領して前田利常に仕え、 その子孫は前田土佐守家として本家を支えていったのでした。 【高台院( )との関係】 豊臣秀吉の正室高台院(ねね、おね、 )とは 懇意の間柄であったことで知られています。 城下に住んでいた頃から親交があり、 前田利家との婚姻では 仲人の役割りを果たしたと伝わっています。 【満1歳の娘を養女に出す】 子供のいない秀吉夫妻のために、 豪姫を養女にさせています。 まだ数え2歳(満1歳)の子供を手放したことから、 おねとの信頼関係が強かったと言えましょう。 【蒲生家の跡目相続】 死後の蒲生家の跡目相続について、 蒲生氏郷の子・鶴千代(後の蒲生秀行)が 会津を襲封できたのは、 まつが高台院に請願したためであったとされています。 【まつ、秀頼の乳母の地位になる】 前田利家が豊臣秀頼の傳役となったことから、 まつは秀頼の乳母の地位を得えます。 醍醐の花見でも豊臣秀吉の妻妾と共に 列席するなど、 乳母の地位にあったので主賓の一人となったのでした。 【まつがいたから加賀百万石を成し得た、かもしれない】 母と別れ、現代なら小学生で母となり、 戦国時代の武将である夫と歩んできたまつ。 夫の危機を救い、お家の危機を救い、 加賀百万石の祖となり 子供を産み育て、 やがてはその子孫が皇室まで紡いでいったのです。 まつの存在こそが、 加賀百万石となったと言ってもいいと思います。 少なくとも自分はそう思います。 【悩める貴女に・・】 親が~とか、 夫が~とか、 子育てが~とか、 仕事が~とか、 生き方~とか、 悩んで落ち込んでいたら、 まつさんの生涯を辿っていくと 何かしらパワーをもらえそうです。 まつさんは正しく「しし座の女性」。 どっしりとお強い!!.

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前田利家の死因は何?最期の様子と遺言に込められた徳川家康への想い

前田 利家

主の祖。 のの一人。 俗に加賀百万石の祖とも称されるが、前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家のたちの世代からである。 略歴 [ ] 荒子村(現・荒子)の荒子城主の四男。 はじめとして14歳のころにに仕え、青年時代はとして従軍し、の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。 その後のとして、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、一国23万石を拝領しとなる。 信長がによりに討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後にに臣従した。 以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、・を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。 また、豊臣政権五大老に列せられ、の傅役(後見人)を任じられる。 秀吉の死後、対立が顕在化するとの争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行するの牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。 生涯 [ ] 富士大権現天満天神宮(荒子城跡)にある前田利家誕生碑(名古屋市中川区荒子) 7年()、荒子村(現・名古屋市中川区荒子)において、その地を支配していた・の当主である(利昌とも)の四男として生まれる。 幼名は 犬千代。 荒子前田家はの一族ともの一族ともいわれるが確かなものではない。 当時の領地は2,000貫だった(利家記)。 生年に関しては、これまでは『松雲公御考記』などの前田家側の記録から天文7年12月(1月)説が有力だったが、近年では、秀吉が没した時に利家が「」を行ったとする伝えをもとに秀吉と同年とする天文5年()を生年とする説 やこれを訂正した天文6年()を生年とする説 が提示されている。 はじめ前田氏は、織田家筆頭家老のの与力であったが(『信長公記』『加賀藩史稿』)、天文20年()頃にに小姓として仕える。 若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたであった。 翌天文21年()に尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の主・と信長の間に起こったで初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てる(村井重頼覚書)。 その後、元服して 前田又左衞門利家と名乗った(又四郎、孫四郎とも)。 馬廻り・赤母衣衆 [ ] 前田利家騎馬像() 青年時代の利家は血気盛んで 槍の又左衞門、 槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。 2年()、信長と、その弟のによる織田家の家督争いであるでは、なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げる。 元年()、尾張上四郡を支配していた守護代主・(岩倉織田氏)の息子・との争いであるにも従軍し功積を挙げた。 前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いの頃からという。 また、この戦いの後、永禄初年頃に新設された赤と黒の 母衣衆(ほろしゅう:信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の(あかほろしゅう)筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。 同年、従妹であるまつ()を室に迎えて、すぐに長女・を儲ける。 永禄2年()、信長の寵愛を受けたのと諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔した。 この事件は俗に、「笄(こうがい)斬り」と呼ばれている。 当初、この罪での成敗は避けられなかったが、やらの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。 この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受ける。 その後、永禄3年()、出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断でに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。 翌永禄4年()、でも無断参戦する。 ここで斎藤家重臣・の家来で、「頸取足立」の異名を持つなる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。 この時、足立以外にも首級1つを挙げている。 2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり 、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。 利家の中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・が継いでいたが、永禄12年()に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。 理由は利久に実子がなく(養子はが居た)、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(『村井重頼覚書』)。 以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加する。 元年()4月には・とのでは撤退する信長の警護を担当し、6月のではなる者を討ち取る功績を上げる。 同年9月にはとの間に起こったで春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げる。 元年()8月の、同2年()7月の、同3年()5月のなどでは・・・らと共に鉄砲奉行としての参戦が確認されている。 北陸方面軍の一員 [ ] 天正2年()には柴田勝家のとなり、の鎮圧に従事した。 この際の苛烈な一向一揆の弾圧については、から出土した瓦に刻まれた「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」などの記録 などによって伺うことができる。 一揆から生き残り、まもなく行われた小丸城の普請に参加した人夫によるものと考えられており、1932年小丸城二の丸から出土したものである(現在は武生越前の里郷土資料館所蔵)。 翌年には越前一向一揆は平定されたが、この際に佐々成政・とともに府中10万石を与えられ(三人相知で、3万3千石が個別に与えられたわけではない [ — ])、「」と呼ばれるようになる。 平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなどの平定に従事するが、信長の命により攻め()、攻め()にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと思われる [ ]。 能登国主 [ ] 天正9年()、織田信長より一国を与えられ、主となり23万石を領有する大名となった。 旧領(・)では、この時点で「」が成立したと解釈され、利家は初代藩主とされている(しかし、近年では徳川氏へ従属した利長を「初代加賀藩主」とする解釈もなされている)。 翌年、難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りしてを築城した。 賤ヶ岳の戦い~加賀国半国加増 [ ] 詳細は「」を参照 天正10年()6月ので信長が家臣のにより討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠るを攻略中であり、に加わることができなかった。 信長の死亡後まもない6月27日に織田家の後継人事等を決定するにおいて羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であったことから(若き頃よりの親交、地理的な問題ともされるが真偽は不明)そのまま勝家に与することになるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。 同年11月には勝家の命を受け、・とともに(現)にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った。 そして天正11年()4月のでは、利家は5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、戦わないうちに戦線を放棄するような動きがあり、これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される。 合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。 利家は(現)に籠るが、敗北してへ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。 その後、府中城に使者として入ったの勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。 戦後本領を安堵されるとともにの旧領・のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀のに移した。 佐久間盛政は一向一揆の拠点であった尾山御坊の後に城を築いた際に現地の地名にちなんで金沢城と命名したが、利家は盛政色の排除と一向衆との融和、更に自身の出身地である「尾張国」にも通じることから、金沢城を「尾山城」と改名した。 だが、尾山御坊以前から使われていた金沢の地名が定着していたために、利家の晩年もしくはその没後に「金沢城」に名称が戻され、後世に伝えられることになる。 小牧・長久手の戦い [ ] 詳細は「」を参照 天正12年()の秀吉と・が衝突したでは、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻したが、で成政を撃破した()。 4月9日の長久手の戦いでは秀吉方は敗北を喫したが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。 この間、と共に、北陸方面の守備を委ねられていた利家は北陸を動かなかった。 末森城の戦いに勝った利家は、続いて加賀越中国境の荒山・勝山砦を攻略、越中国へも攻め込んだ(奥村氏文書)。 9月19日、利家は秀吉より一連の戦いの勝利を賀されている(前田育徳会文書・温故足徴)。 成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家はと連絡をとって越中国境に進出させたり、成政の部将となっている越中国衆・に誘いの手を伸ばしたりしている。 また、兵を派遣して越中国を攻撃した。 天正13年()、3月に秀吉はを鎮圧。 6月には弟・を大将としてへ遣わし、これを平定した。 北陸道の惣職 [ ] 天正12年(1584年)8月、利家が先導役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと佐々成政は降伏()した。 利家の嫡子・が越中国の4郡のうち・・の3郡を加増され、前田一族で76万5千石に達す。 同年4月に、越前国の国主である丹羽長秀が没しは国替えとなり、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。 秀吉から諸大名の窓口としての機能を求められたのである 、とりわけの件では徳川家康に代わって奔走し、秀吉から処分の取り消しを引き出した。 では8,000の兵でを守備(息子の利長が九州まで従軍)。 同年7月に秀吉はに任官し、9月に秀吉がを賜ると天正14年(1586年)に利家に(名字)を名乗らせ・に任官させている(前田家譜)。 天正16年(1588年)には秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜された。 天正18年()1月21日にはに任じられる(前田家譜)。 また、秀吉が主催したやのにも陪席する。 その後はのなどに対して上洛を求める交渉役 となる。 北条氏制圧のためのでは北国勢の総指揮として上杉景勝・と共にに入り、北条氏の北端要所のを攻略、他の諸城も次々と攻略した。 続いてに入り、・を陥す(上杉家文書・前田家譜)。 7月5日、北条氏は降伏。 陸奥国のもこの時すでに小田原に出向いて降参していたが、彼に対する尋問は利家らが行ったという()。 先に上洛を促していることや、秀吉への奏者を務めていることなど、利家は伊達政宗やとの外交についても取次をしており 、南部信直との交渉は天正14年8月頃から確認される。 小田原落城後、秀吉は奥羽へ軍を進める。 秀吉自身は8月に帰陣の途についたが、利家らは残って奥羽の鎮圧に努めた。 文禄・慶長の役~加能越の太守へ [ ] 詳細は「」を参照 国内を統一した後の秀吉は唐入り(高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵を始める。 天正19年()8月、秀吉より出兵の命が出され、の築城が始められた。 翌元年()3月16日に利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かった(言経卿記)。 従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。 初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き、思い止まらせた。 7月22日、秀吉は母・危篤の報を得て、急ぎ帰京する。 葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが10月1日(多聞院日記)。 約3ヶ月間名護屋を留守にしていたが、その問、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは、家康と利家であり、のちのの原型がみてとれる。 文禄2年(1593年)1月、渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まったが、間もなくとの講和の動きが進み、結局は渡海に及ばなかった。 5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。 8月、誕生の報に、秀吉は大坂に戻る。 利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城した。 このときにまつの侍女であるとの間に生まれた子供が猿千代、のちの第三代加賀藩主・である。 文禄3年(1594年)1月5日、利家は、上杉景勝・毛利輝元と同日に従三位に叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられたことでこれまで景勝・輝元の後塵を拝していた官位の序列の面において逆転することになる。 これは、秀吉が利家を徳川家康に対抗させ、豊臣一族を補佐させる存在にすべく、儀礼的な面でも序列の引き上げを図ったものとみられている。 4年()には越中の残るをも利長に加増、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る。 前田家の石高は加能越にまたがり83万石余(うち越中は利家監督のもとが統治、能登は生前よりに分与)となり利家の生涯で最大となる。 五大老・秀頼の傅役 [ ] 慶長3年()になると秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになる。 3月15日にに妻のまつと陪席すると、4月20日に嫡子・利長に家督を譲り、のために赴いた。 この時、隠居料として加賀・、越中、能登にて計1万5千石を与えられている(加賀藩歴譜)。 しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられる。 しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった。 なおこの政治体制を「」と言う。 そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。 慶長4年元旦()、諸大名は伏見に出頭し、新主秀頼に年賀の礼を行った。 利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席した。 そして10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従しに入る。 以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる(言経・利家夜話)。 最期 [ ] しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・・と無断で婚姻政策を進めた。 利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。 利家には、上杉景勝・・の三大老や五奉行の、また後にで家康方につくこととなる武断派の・・・らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康も利家と対立することは不利と悟りへ退去すること等で和解した。 この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。 この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っている(『浅川聞書』)。 その後、4年()、大坂の自邸で病没した。 62 (満60歳没)。 利家の死後、家康により加賀征伐が検討される。 利長は母の芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。 法名:高徳院殿桃雲浄見大居士。 墓所:石川県金沢市野田町の、金沢市宝町の。 肖像画は所蔵のもののほか数点。 利家着用であったと伝えられる武具も現存する。 人物・逸話 [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2012年4月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2012年4月) 武勇 [ ]• 利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、 槍の又左の異名で称えられた。 元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。 元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞したとの逸話が残る。 この時、利家は矢を抜くことなく戦後の首実検にも参加したという。 稲生の合戦の後、浮野の戦いでも槍先による功を挙げ、この戦いの際に槍の又左の異名がついたとも言われる。 姉川の浅井攻めでは浅井助七郎なる者を討ち取るなどの活躍をみせ信長から「今にはじまらず比類なき槍」と賞賛され、大坂本願寺攻めでは、春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒し、無事味方を退却させたことから「日本無双の槍」「堤の上の槍」と称えられている。 長篠の合戦では撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣のに助けられ一命を得た。 加藤清正は利家からあまり兵法や軍略の話を聞かないと言った嫡子・利長に対し、「あれ程武略に通じた父上がおられるのに勿体ない」と言って羨ましがったという。 利家は生涯38の戦に参戦し、その戦い方は織田信長の下で得たものであった。 普段から合戦については「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。 信長公がそうであった。 」と説いていた。 またある時、女婿の宇喜多秀家が利家の戦法を質したところ、「先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」という信長流の戦い方を語ったという。 のに夜な夜なが出るという噂が立ったとき、自らを志願して一晩過ごし、何ごともなかったように天守から戻ってきたため、秀吉から豪胆ぶりを讃えられたと言われている。 また、この時にの一つを下賜されたと言われている。 身体的特徴 [ ]• 細身で端正な顔立ちの美貌で知られた。 小姓時代にはその容姿のために信長から寵愛を受けていた(後述)。 男性の平均身長が157cm程度の時代に6尺(約182cm)を誇る類稀なる恵まれた体格の持ち主で(遺された利家の着物から推定6尺とされている)、前述のように顔も端整であったことから、非常に見栄えのいい武将であったと言われている。 元服直後の稲生の合戦で負傷し、になったとの説が存在する。 利家の烏帽子兜は大きいが、合戦用の小型の烏帽子兜も使用しており、石川県立歴史博物館には、行軍用兜の横に合戦用兜が展示してある。 頭脳 [ ]• 「槍の又左」と呼ばれ勇名を馳せる一方、計算高く世渡り上手な一面もあった。 の際、を裏切りながら落ちてきた勝家を厚遇し、裏切ったという印象を薄めたり(先述したように勝家と秀吉との人間関係に苦しんだうえでの対応もあったが)、秀頼の後見人として豊臣家を支えつつも、死の間際、利家の病床を見舞いに来た家康に息子の利長のことを頼んだとの話が残ったりもしている(一方で、利家が布団の下に抜き身の刀を忍ばせていたというエピソードが残っていたり、上記の話が江戸時代に幕府に提出するために作られた二次史料で、外様の大大名であった前田家が徳川家に媚びるため創作された記述とも言われ真偽は不明である)。 前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が家宝として残っている(算盤は当時日本に伝わったばかりであり、それを使えるというだけで稀有なことであった)。 客を招いて算盤の教えを家臣と共に受けた際、理解できずに悩んで首をひねる者も多かった中、利家はいち早くその概略を理解し「これは便利なものだ」と頷いたという。 笄斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。 時には(まつ)に「」と揶揄されたこともある利家ではあるが、滅亡後に家来を養えず困っている多くの大名に金を貸しており、遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかったことにしてやれ」と利長に命じている事実が存在する。 また死の際には、「御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」と言ってありとあらゆる書類に対し花押を押してから没した。 後年にはなどの学問も学び、、などの文化的も積極的に行った。 茶道は・に学び、は秀吉から譲られた名品での一つに数えられる「富士茄子」であった。 利家はこの中でも特に能を好み、気晴らしや社交術として三日に一度は稽古をする程の熱の入れようであったという。 利家は秀吉のにより、改易されたのを庇護し、築城術や科学の知識豊かな右近を高く評価し、屋敷や3万石の禄を与えたりなどをしている。 、の後には嫡子・利長がの整備などを命じるなど、右近を参謀として重用し、親しい関係が続いた。 人柄・対人関係 [ ]• であり、若年の頃は派手な拵えの槍を持って歩いたので、「又左衛門の槍」といって人々から避けられていた(『亜相公御夜話』)。 利家は晩年になっても多少とも傾奇の傾向のある若者を愛したという。 小姓時代には信長から寵愛を受け、()の相手も務めていたことが加賀藩の資料『』に「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。 同じく信長の小姓として有名な(蘭丸)やにも衆道を務めていたとの説が存在するものの、実際に衆道の有無を記した資料は殆ど存在しないため、この『亜相公御夜話』に記されたエピソードはとても珍しいものとされている。 一方、乃至政彦はこの文章を単純に「不寝番として側近く仕えるほどに親しく接したことを誇っただけ」と見る説を立てている。 織田政権時代は同輩、豊臣政権時代では主となる秀吉とは、清洲時代に隣同士、安土時代に向かい同士の住居であったこともあってか、秀吉が時代から夫婦共に親しく、天正2年(1574年)には子供のなかった秀吉夫婦に四女のを授ける程の関係であり、秀吉と敵対関係になった賤ヶ岳以降、家臣として秀吉に下った後も二人で灸をすえ合うなど友人関係を内密で続けたという。 足軽あがりの秀吉と、傍流ながら豪族出身の利家は当初懸隔した身分であったが、一時利家が浪人したこともあって、同様な関係から追い越されていった織田家臣だちに比べてわだかまりが少なく、対等に近い友人関係からスムーズに主従関係へと転じていった。 「律義者」であったので、秀吉もの後見人を任せたと思われる。 但し、利家の遺言状に豊臣家の名はなく、織田家の名前と織田家に対する忠義のみを記しているだけである。 豊臣政権では諸大名の連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われたという。 秀吉側近のは「御位も国数も大納言様(利家)は下なれども、お城にて人々用ひ(人々の尊信)は、五雙倍にも大納言様つよく候。 これは第一御武辺者なり。 さてまた太閤様(秀吉)御前よき故にても候由、お城にても道中にても、内府(家康)より人々あがまへ、我らまでも心いさみ申す」と語っている(利家は家康より官位も領国石高も下だが、彼は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、人望は利家のほうがはるかに大きい、という意)。 なかでも傍輩衆の、、、、らから慕われたようである。 利家はその信頼から晩年の秀吉に意見できる、数少ない人物であった。 また秀吉は遺言覚書の中で利家の性格を「律義者」であると呼びかけている。 上記の者たちに留まらず、・らに代表されると呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後のやらのと武断派との争いの仲裁役として働いた。 なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われ、事実、利家存命中は姻戚問題で利家邸、家康邸に各大名が集結する騒ぎとなった際も、姻戚問題を起こした当人にも関わらず利家邸に出席している。 また利家が没すると、その直後に清正を含む武断派が、石田三成を襲撃する騒ぎが起こっている。 家康の法度破りで諸大名が家康・利家両邸に集まる騒ぎとなった際、利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換し、一応の和解となり、両者の衝突を回避しようとする細川忠興、浅野幸長らの取り成しにより、利家が家康のもとを訪問することとなった。 この時、利家は息子の利長に「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、儂は家康に約束を守らせるために直談判に行く。 話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。 もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言って伏見城に向かった。 (利家公御夜話)• 危篤の際には自らを縫い、利家に着せようとするまつ()が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。 後生が恐ろしいものです。 どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。 だから地獄に落ちるはずが無い。 もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、・どもを相手にひと戦してくれよう。 その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだといい(古心堂叢書利家公夜話首書)、一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいう。 のちにからこの話を聞いた家康は「天晴れ」と賞賛したという(の『』)。 加賀にはこのような歌が遺されている。 「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ 梅の花は葵より高い所に咲く」という意味である。 家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家が天下をおさめる大将軍となった。 前田家は大々名であるとはいえ、徳川家の家来にならなければならなかった。 その時の運に対し、加賀の人々はその口惜しさを歌ったと伝えられている。 阿波隼人という老侍が利家に拝謁したとき、老齢で長袴のためつまずいて転んでしまった。 それを見た家臣らは大笑いしたが、利家は「静まれ。 老人とはこうした過ちが多いものだ。 それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。 許せぬ。 笑っていた者は切腹いたせ」と激怒した。 家臣らは震え上がり、阿波も利家が自分をかばってくれたことに感謝するも切腹まではという気持ちもあり、利家に切腹命令を取り下げてもらうように嘆願したと伝わる(『』)。 種村某という勇士がにいた。 利家は彼の武勇を認めて家臣にしたいと考えたが種村は応じなかった。 利家は種村が琵琶好きだと聞いて、白雲という琵琶を贈って家臣になるよう誘った。 種村も遂に折れて前田の家臣となり、佐々成政の朝日山合戦で大活躍した(『』)。 佐々成政が末森城を攻めたとき、近習の戸田与五郎なる者が2人の豪族への出兵命令を伝える使者になった。 しかし戸田は豪族の説得に手間取って遅参した。 利家は激怒し、戸田は討死覚悟で手柄を立てた。 利家は激怒することで戸田が面目躍如のために手柄を立てると計算していたのである(の『』)。 義理の甥である(慶次郎)とはソリが合わなかったと後年の逸話集などには記述されるが、同時代における史料や文書、利家の回顧録などにはその様なものはなく、利益に付き従った野崎知通による回顧録には利家の嫡子利長と利益が不仲であったとされる記述は存在する。 また、利益出奔の際にイタズラで水風呂に入れられたとの逸話があるが、この逸話の初出は江戸後期の随筆集『翁草』であり、後年の創作である可能性が高い。 桶狭間の戦いの前年、普段から信長配下の武将に対して横柄な態度が多かったという信長お気に入りの茶坊主の拾阿弥が、利家佩刀の笄(こうがい、妻のまつからもらったものともいわれる)を盗み、利家を激怒させた。 利家は拾阿弥を成敗すると言って聞かなかったが、信長の取り成しで一時はこれが収まり大事には至らなかった。 しかし、その後も拾阿弥は利家に対し度重なる侮辱を繰り返したため、利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺し、織田家を出奔する。 この事件は世に「笄斬り」とよばれる。 後年、この時期のことを語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。 だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人(信用できる人物)だ」と言っている。 14年()3月22日 - ・兼に叙任。 昇殿を聴される。 天正17年()4月 - 右近衛権中将に転任。 筑前守如元。 天正18年()• 1月22日 - 豊臣利家として、に昇叙し、に補任。 の家格に列す(『時慶御記』)。 10月20日 - 参議辞職。 3年()• 4月1日 - ・に昇叙転任。 5月20日 - 権中納言辞任。 元年()5月11日 - ・に昇叙転任。 慶長2年()1月16日 - 権大納言辞任。 慶長3年()7月 - 豊家五大老の一角として就任。 慶長4年()• 閏3月3日 - 薨去。 閏3月24日 -。 系譜 [ ]• 正室:まつ()• 長女: - 室• 長男: - 初代藩主• 次女:蕭 - 室• 四女:(樹正院) - 豊臣秀吉養女、室• 五女:与免 - 婚約者• 次男: - 祖• 側室:千代保()• 四男: - 第二代藩主• 側室:お岩 隆興院 笠間氏女• 六女: - 豊臣秀吉養女• 九女:保智(清妙院) - 婚約者、室• 男児3人早世• 側室:お在 金晴院(小塚氏女)• 三男:• 側室:お幸和・阿古和 (山本氏女)• 五男: - 初代藩主• 側室:阿千代 逞正院• 六男:• 女児 早世• 女子: - 室、家臣小林氏娘• 前田利家・ - (室) - 徳(室) - - 女(室) - - 女(室) - - - () - - - - 家臣 [ ]• 荒子衆• 与力衆• 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 15,6点から20点ほど確認されている前田利家画像の中でも、古くからよく知られた肖像画。 中世より加賀の海に関わるで、江戸時代に町々を務めた中山家に伝来。 同家は、天正11年(1583年)における利家の金沢入国時に先導をしたとされ、本図もこの時賜ったと伝えられる(村上尚子「前田利家画像に関する基礎的調査」『紀要』第19号、2009年4月30日、pp. 12-13。 なお同論文は、利家画像を網羅的に掲載・解説している)。 『加賀藩史料』によると、信長の伯父津田孫三郎信家を烏帽子親としてその偏諱を受けたとある。 なおこの信家は岩倉城主・の子と思われるが、伯父ではなく信長の従兄弟(叔母の子)であり、信長の伯父・津田孫三郎()と混同した誤りであると推定される。 出典 [ ] []• 『豊臣秀吉研究』角川書店、1975年。 292. , p. 11, 「前田利家とその時代」. 12, 「前田利家とその時代」. , p. 93, 木越祐馨「前田利家と一向一揆」. , p. 75, 見瀬和雄「前田利家の領国経営」. 『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社、2001年1月。 「金沢城と前田利家」『加能史料研究』597号、2008年。 (所収:)• , p. 14-16, 「織豊期前田氏権力の形成と展開」. 国書刊行会『史籍雑纂. 第二』「当代記」• , p. 43, 宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」. 宮本義己「豊臣政権下における家康の危機」『大日光』67号、1996年。 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。 , p. 184. , p. 185. 千葉一大 「豊臣政権と北奥大名南部家」、山本博文・堀新・曽根勇二編 『偽りの秀吉像を打ち壊す』 柏書房、2013年、92頁。 瀬戸薫「前田利家と南部信直」『市史かなざわ』5号、1999年。 矢部健太郎「太閤秀吉の政権構想と大名の序列」『歴史評論』640号、2003年。 のちに 矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』吉川弘文館、2011年。 に所収• 上杉家への代替地は東蒲原。 のちに藤田信吉が津川城に入る。 (『管窺武鑑』上杉博物館『国宝 上杉家文書』など)• 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年、68-69頁。 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年、97頁。 283. , p. 287-288. 『』洋泉社、2013年。 , p. 45-47, 宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」. 参考文献 [ ]• 『前田利家』〈人物叢書〉、1988年(原著1966年)、新装版。 花ヶ前盛明編 『前田利家のすべて』(新装版) 、2001年。 大西泰正編 『前田利家・利長』 〈織豊大名の研究 第三巻〉、2016年。 前田利家を主題とした作品 [ ] 小説• 前田利家()• 前田利家()• 前田利家()• 百万石異聞・前田利家と松 ()• 前田利家()• 利家とまつ()• 前田利家() 漫画• 前田利家()• 利家とまつ() テレビドラマ• (2002年、NHK大河ドラマ、演:) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• (『』)•

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【刀剣ワールド 城】前田利家と城|日本の城と戦国武将

前田 利家

前田家の家督を利久から利家へ譲るように と命じたのです。 利久は病弱の為に「武者道少御無沙汰」と信長から言われます。 これは利久が武家としての役目を果たせないと信長から判断されたのです。 利家が代わって前田家の主となる事に、利久の妻や家臣が抵抗。 この時に起きた前田家内の不和が、慶次や利家に不満や怒りを抱かせたのかもしれません。 慶次は養父・利久と共に利久が城代であった荒子城から出て行きました。 放浪する慶次と出世する利家 荒子城を出た慶次は利家が主となった前田家を離れて、 京で暮していたと言われています。 慶次は京で公家や文人から、和漢古今の書や連歌・茶道を習い教養を身に着けます。 慶次は京で文武両道の才能を磨いていました。 「かぶき者」として破天荒な性格だと思われる慶次ですが、しっかりした教養を身につけ「源氏物語」を人に聞かせる講釈ができるほどでした。 一方で利家は織田家家臣として戦で功績を上げて行きます。 北陸の一向一揆や上杉謙信との戦いに参加した功績から、天正9年(1581年)に能登一国を信長から与えられます。 織田家の家臣として利家は出世をしていました。 そんな利家の前に慶次と利久が現れます。 京で文武を学ぶ日々とはいえ生活が安定しない放浪の身でした。 複雑な思いはありましたが慶次と利久は加賀の利家を頼り、天正11年(1583年)から前田家に仕える家臣となります。 時代は信長が本能寺に倒れて、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下取りに動いている頃です。 利久の死 利久は能登七尾に領地を与えられます。 慶次は佐々成政や神保家との戦で活躍し、戦国武将としての勇名はここから広まります。 一度は出て行った前田家で慶次も利久も懸命に働きました。 しかし天正15年(1587年)8月に利久が亡くなり、慶次は利久の領地を、慶次の嫡男である正虎に継がせます。 新たな世代に、変わりつつある前田家の置かれた状況も変わっていました。 豊臣秀吉が天下を取り、前田家は豊臣家に従うようになっていました。 天正18年(1590年)、豊臣家による関東北条家を攻める小田原征伐に前田家は出陣します。 慶次は義理の叔父である利家に従い、家臣の勤めを果たしていました。 慶次再度の出奔 小田原攻めの翌年、 天正19年(1591年)に慶次は 前田家を再度出奔します。 この時の慶次は50代とも言われる年齢だったとも言われています。 この時に慶次が利家を騙して水風呂に入れるイタズラをしてから、 利家が持っていた名馬「松風」を奪い前田家から出て行ったと言う伝説もあります。 出奔した慶次を息子の正虎が説得しますが、慶次は前田家へ二度と戻りませんでした。 慶次は 上杉景勝の家臣になり、残りの生涯を上杉の領地である米沢で過ごします。 きょうのまとめ 前田利家と前田慶次の関係について見てきましが、いかがでしたでしょうか。 簡単にまとめます。 二度目の出奔も、前田家には利長など利家の息子が居て跡継ぎの心配は無く、 利久の死で慶次が前田家に居続ける理由が無かったからだと思われます。 利家と慶次の仲を分けたのは、養子という「慶次の立場」だったのではないでしょうか。 前田利家の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>> その他の人物はこちら 安土桃山時代に活躍した歴史上の人物 関連記事 >>>> 時代別 歴史上の人物 関連記事 >>>>.

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