おいたわしや兄上。 太平記49

「おいたわしや」とは?意味と類語!例文と使い方!

おいたわしや兄上

概要を書かねば…無作法というもの… 「」の台詞。 自身の子孫であるの剣術を「良き技だ…」と評して抜刀する際に「此方も抜かねば…無作法というもの…」と呟いた。 鬼となっても侍である彼なりの礼儀が伺える台詞である。 その後の戦闘は無一郎にとって絶望的な実力差を見せつけられる事になってしまった。 と、ここまでなら黒死牟の一セリフでしかなかったのだが… 何だこの使われ方は… 何故かやof静画では、まったく別の使われ方をされている。 ニコ動では水着、お風呂 シャワー 、着替えシーンでこのセリフが書き込まれる。 ちなみにこのセリフへの間違った使い方に対し弟の「」がツッコミとして使われる事も。 そして記事作成時点では『Pixivに投稿された作品』が表示されない 不適切な作品は除外される という不具合が生じている。 肌色多めだから仕方ないのであろう。 関連記事 関連記事 親記事.

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此方も抜かねば…無作法というもの… (こちらもぬかねばぶさほうというもの)とは【ピクシブ百科事典】

おいたわしや兄上

足利直義は慌しく幕府に駆けつけた。 幕府内は戦の準備でものものしい空気である。 将軍 尊氏もすっかり出陣の支度を整え 「おう直義、わしは近江へ行くぞ。 佐々木判官が寝返ったのじゃ」 と直義に声をかけた。 佐々木道誉が南朝の北畠親房と手を組んで兵を集めているというのである。 「まさか判官殿がこの期に及んで吉野方など…」と直義はいぶかるが、 一色右馬介も配下の忍びがいずれも同じ報告をしていると告げる。 「直義、都の守りは任せたぞ。 いざ出陣!」尊氏らは盃を叩き割って出陣していった。 直義が自分の館に戻ると、 義詮までが「播磨の赤松則祐が吉野方に寝返った」として出陣したとの報告が入っていた。 「これは妙でござりまするぞ…」と 桃井直常は考え込む。 近江と播磨に将軍父子が同時に出陣していることに 「これはまるで都を挟み撃ちにするために出て行かれたような分かれ方じゃ…」 と直常は言い、佐々木や赤松が謀反を起こしたなぞ耳にしていないと直義に告げる。 「佐々木や赤松とは話が出来ておるのじゃ!」との直常の言葉に愕然とする 直義。 都にいることの危険を悟った直義はただちに越前へ出陣し、そこで体勢を整えることを決断する。 直義派の武将たちは慌しく出陣の支度を整えて京をあと にし越前へと向かったが、 細川顕氏はひそかに直義の一行から離脱する。 近江と伊賀の国境付近で、尊氏と道誉はそろって 北畠親房と接触した。 「ほう…我らと和睦をいたしたいとのう…御舎弟直義どのも、この春まで和睦、和睦としきりに申してこられた…じゃが、一向に実が上がらぬ」 と親房は笑う。 「将軍は違いまするぞ」という道誉に「どう違う!?」と厳しく問う親房。 尊氏は親房に「幕府を認めてくれるなら吉野の帝を都へ迎える」と条 件を示す。 「世が太平を迎えるには朝廷が一つになり、武家もまた一つになること」と尊氏は言い、武家を一つにするべく最後の戦いをするので力添えをしてほ しいと訴える。 「御舎弟と戦われるのか」との親房の問いに、尊氏は 「直義と戦うのではございませぬ。 直義を支える大きな力と戦いまする」と答える。 「まことに吉野の帝を都へ…?」と親房が念を押すと、尊氏はうなずいた。 親房もうなずき、二人はお互いの目をじっと見つめ続けた。 9月19日、尊氏は義詮と共に軍を率いて近江の北へと出陣した。 ここで越前から出てきた直義の大軍と激突する。 激しい攻防の末、直義軍は敗北。 直義はほうほうの体で越前へと敗走した。 勝利した尊氏は近江・塩津に陣を布いた。 直義との和議の交渉に向かった細川顕氏が帰ってきて、直義が和議を拒否したことを尊氏に報告する。 直義はともか く桃井直常が「戦はこれから」と意気盛ん、との報告に、道誉は「桃井め、まだ勝てると思っておるのか!」と憤る。 尊氏は顕氏に命じて「直義が周囲と手を 切って一人で帰ってくれば手厚く迎える」との意向を内密に直義に伝えさせていたが、直義は「ここまで一緒に戦った面々を今さら見捨てることはできぬ」とあ くまで拒否していた。 右馬介が敵陣に忍び込んで直義の身柄をさらってこようと申し出るが、「それで事がかなうならすでにそうしておるわ」と尊氏。 「直義自 身がなぜ幕府がここまで割れてしまったか気づいてくれねば…」と尊氏は言い、フラフラと太刀を杖に立ち上がった。 その様子を道誉はふと不安げな目線で見 る。 「やむを得ぬ…戦を続けよう…幕府の中の膿は出せるだけ出しておこう…」そう言い残して、尊氏は自室にさがって行った。 自室にさがった尊氏は鎧を解こうとしたが、突然目がくらんで立ちすくんだ。 目の前にある地蔵の絵がおぼろげになったと思ったとたん、尊氏は柱にもたれるように倒れこむ。 近習たちが慌てて駆けつけるが、「少し休めば直る…他言いたすな」と尊氏は言いつけて意識を失った。 「又太郎さま…!」「兄上…!」少年時代の直義や師泰の声が洞窟に響く。 「声を出すな。 神の鎮座する岩とはあれではないか?」と少年時代の尊氏・又太郎が指差した。 又太郎は岩の上にある小さな祠の扉を開けた。 中を照らすと、小汚い木切れが浮かび上がった。 「ただの木切れじゃ…」又太郎の失望した声が上がる。 激しい雨の音に、尊氏は夢から覚めた。 体を起こした尊氏は背に異変を感じる。 手を背に伸ばしてみると手にはべっとりと血がこびりついていた。 肌脱ぎに なって首をひねって見てみると、背にできものが出来ており、ただれて血を噴き出している。 尊氏はすぐに背を服で覆い隠した。 10月、直義は越前でも敗れて、北陸から関東に向かい、鎌倉に入った。 ここから全国の直義党に指令を送ったが、11月に尊氏も軍を率いて都を出陣。 駿 河、足柄山で次々と直義軍を破って関東に迫った尊氏は、相模の早川尻で直義軍を撃破し鎌倉を奪回。 直義は熱海・伊豆山に逃げ込んだが、ここでついに捕虜と されてしまった。 尊氏は重い足取りで、右馬介と共に捕らえられた直義に面会にやって来る。 尊氏は「鎌倉は遠いのう…こたびほど鎌倉が遠いと思ったことはない」とつ ぶやき、「もう戦はやめぬか」と戦塵にまみれた姿の直義に言う。 直義さえ戦いをやめれば直冬も直常もおさまるはず、と言う尊氏に、直義は「それがしに幕府 をお任せになりまするか?」と問い返す。 義詮のような愚か者が自分の作った幕府を壊していくのは見るに耐えない、聞き入れられねば戦を続けるのみ、と直義 は言う。 かたくなな態度の直義に、尊氏は「この戦になぜ負けたか考えてみよ」と諭す。 この戦いで直義についたのは一門の者と鎌倉以来の武士だけではないか と。 「この恵源が敗れたのは、恵源が征夷大将軍ではないからじゃ。 去年兄上を負かした時に将軍の位を奪うておけばよかった…桃井にそう言われてほぞをかんだが手遅れじゃ…無念としか言いようがござらん!」 直義の言葉に「直義!」と声をあげる尊氏。 「北条を倒して以来、先帝と戦うたのも幕府を作ったのも、みなこのわしじゃ!兄上は優柔不断でわしが言わなければ何も出来なかったではござりませぬか!でも世上の者は将軍、将軍としか言わぬ。 弟はつまらぬものじゃ!わしは都へは戻らん。 戻らんぞ!」 と直義はわめく。 尊氏がすがるように「直義…頼む、わしはそなたを殺したくない。 戻ってくれ…」と懇願すると、直義はしばし兄の顔を見つめた後、不敵な笑みを見せた。 「兄上にそれがしが殺せますかのう…?それができれば、大将軍じゃ…!」 直義が立ち去って残された尊氏は右馬介に「もはや、これまでか…」とつぶやく。 右馬介は桃井直常らが直義奪回のために藤沢に集結しつつあること、南朝の 北畠親房が和議を破り、信濃から宗良親王率いる南朝軍が碓氷峠を越えて関東に侵入してきていることを告げ、状況が一刻の猶予も許さないことを進言した。 尊氏は右馬介を連れて再び直義を訪ねてきた。 尊氏の目はどこか虚ろである。 尊氏は写経していた直義に都の菓子を差し入れた。 「そなたは昔から酒も飲まず、田楽も好まず、口説くのに骨が折れる」と尊氏が言うと、「この菓子ぐらい で恵源は折れませぬ」と直義は笑う。 「わかっておる」「では、もう言い争いは無しで…」「無しじゃ。 そなたとは争わぬ」尊氏の言葉に、直義は 「将軍にそのように言われると、何やらさみしゅうござりますな。 幼い時から争って参ったんじゃ…」と 少年の日々を思い出すように言う。 「さほどに喧嘩をしたかのう?」と尊氏が言うと、「した、した…のう、右馬介」と直義は右馬介に声をかける。 右馬介が 「どちらに味方するのかと言われ難儀致しました」と答え、三人は笑いながらしばし昔ばなしに花を咲かせる。 直義は尊氏の強情が自分とはケタが違ったと笑 い、 「なぜか分からんうちに、わしがわんわん泣いておるんじゃ…今も昔も同じじゃ…兄上の強情は一枚上手じゃ」と言うと、尊氏も 「それでわしはいつも父上に叱られるのじゃ。 兄のくせにまた弟を泣かしたと…」と付け加える。 「そうそう、それを見てわしはいつも勝ったと思うておりましたんじゃ」と直義が言い、「これじゃ…」と尊氏は苦笑いする。 「兄上…来世では喧嘩をしない兄弟に生まれてみとうござりまするな…それも退屈かのう…」と苦笑する弟を、「直義…」と尊氏は今にも泣きそうな顔で見ている。 直義は差し入れの菓子に手をとり、ポリポリと噛みしめる。 そして汁の入った椀にゆっくりと手を伸ばし、それを口に持っていった。 目を見開いてその動きを 見る尊氏。 汁を飲む直義から目をそらすように、「近頃、よう昔の夢を見る…」と尊氏は少年の日に新田庄へ岩神の神体を覗きにいった思い出を語り始める。 「霊験あらたかな神だというのに、祠で覗いた神体は小さな木切れであった…」と語る尊氏に「そうでござりましたなぁ」と懐かしむ直義。 「もっと美しいものかと思うた…ただの木切れか、そう思うた」尊氏の言葉を聞くうち、直義は体内の異変を感じ始める。 「だが近頃思うのじゃ。 小さな、醜い木切れでも、あれは、岩神さまやも知れぬ。 美しゅうはないが、あれも、神やも知れぬとな…!」 焦るように一気に語りかける尊氏。 その途端、「ウウッ!!」とうめいて直義は突っ伏した。 「わけものう、そう思うのじゃ…そう思わねば…そう思わねば…!」 泣きながら話し続ける尊氏の前に、「グオオォォーッ!!」と悶え叫んで直義が倒れこむ。 「直義ッ!直義ッ!!」尊氏は直義を激しく抱きかかえ、「なぜじゃ!なぜ強情を張ったのだ!?」と問い掛ける。 「今さら、桃井たちを見捨てるわけには参 りませぬ…かと申して…このままでは足利家を滅ぼしてしまう…こうするよりほか、ございませぬ!」苦悶する直義は搾り出すように答えた。 「よく…ご決断なさいました…兄上は…ウウッ…大…将軍じゃ…足利家は、これで…安泰じゃ…」 そう言って直義は断末魔の震えを始める。 「兄上…!」「直義ーーッ!!」直義の手がパタリと落ち、目が静かに閉じられた。 尊氏は泣きながら直義を抱きしめる。 「殺した…殺してしもうた…弟を殺したーーッ!!アアーッ!!」 絶叫する尊氏。 右馬介は無言で頭を下げ、うつむく。 「父上…母上…弟…おとうとーーッ!!!」 尊氏は泣き叫びながら直義のむくろをいつまでも抱きしめ続けた。 夜が明けた。 朝もやの中で中庭の枯れた蓮の花を眺める尊氏の顔はげっそりと老け込んでいた。 「わしは…長う生きすぎた…長う生きすぎた…」 と右馬介に語り、うつむく尊氏。 「だが、まだやらねばならぬことがある…わしには、直冬が残っておる…」尊氏はそう言って立ち上がろうとするが、その途端 に崩れるように倒れこんでしまう。 右馬介に支えられた尊氏は「やらねば、ならぬことが…!」とつぶやきながら歩み始める。 「父上が殺されたと言うのはまことか!?」鞆の浦にいた 直冬のもとにも直義死去の知らせが届いていた。 「殺したのは将軍か?」と直冬は急使に問いただす。 2月26日に鎌倉円福寺で毒殺されたとの報告を聞いた直冬は「おのれ…!父上を手にかけおったか!」と泣き顔になり、 「合戦じゃ!合戦の用意を致せ!吉野方と結んで都を攻める!敵は足利尊氏だ!」と家臣たちに出陣の命を下した。 一方の尊氏は直義の死後重い病に倒れていた。 背にできた腫瘍がただれ、尊氏は医師たちの懸命の治療を受けつつ、関東の平定を進めていく。 関東をようやく鎮めて京へ戻ったのは文和3年(1353)秋のことであった。 文和3年12月、直冬は南朝と手を結んで京へと攻め上った。 桃井直常ら各地の直義党も呼応して京へ攻め込んできた。 雪の降る中、門が開き、武士たちが担ぐ輿に乗った尊氏が出陣していく。 尊氏最後の戦いが刻々と迫っていた。 尊氏51歳の暮れである。 京に突入した直冬は東寺に本陣を置いた。 桃井直常も翌文和4年1月に京へ突入。 尊氏はいったん京を捨てて逃れたが、2月に体勢を整えて巻き返し、東山に本陣を置いて東寺の直冬とにらみ合う情勢となった。 小雪の降る尊氏本陣に、武者姿の義詮が「直冬軍を押し返してきた」と意気揚揚と帰って来る。 「大将自ら存分のお働きでござりまするな」と右馬介が讃える と、「右馬介、からかうな」と義詮は笑う。 軍議に赴こうとした義詮は尊氏にそっと近づき「お加減はいかがでござりまする?」と父の病身を気遣う。 「案ずる な」と尊氏は義詮を軍議へ送り出す。 頼もしくなった義詮を見て諸将も「では我らもひと合戦…」と出かけてゆき、本陣には尊氏と右馬介だけが残された。 「右馬介、寒うはないか…?」と老いた右馬介に尊氏が鹿皮と火桶をすすめるが、「それがしも行かねばなりません」と右馬介は断る。 尊氏は右馬介に「ここに居よ」と命じながら、戦で荒れ果ててゆく都を眺めて嘆く。 「この都を、わしがどれほど大事に思うておるか…北条を倒そうと思うたのも、初めてそちとこの都を見たときからじゃ。 この都は、わしに夢を与えてくれた。 藤夜叉に会うたのもこの都じゃ…」 尊氏のまぶたに、白拍子の姿で美しく舞う 藤夜叉の姿、抱き合った夜、駆け落ちしようとした時の思い出が次々とが浮かぶ。 「おん殿がお治めになれば、この都は美しい都になると、そう思うております…」藤夜叉の声が尊氏の耳によみがえる。 「その藤夜叉の子が、この都を焼き払うておるわ…」と尊氏はつぶやく。 「それがしを直冬殿のもとへお遣わしくださいませぬか?」と右馬介が申し出る。 かつて父親代わりをしたこともある自分が直冬に戦を止めるよう言ってくる と右馬介は言い、「根は心の優しいお子でござりまする」と尊氏に直冬を語った。 右馬介は尊氏の前に膝をつき、自分の生涯の夢は一族の仇である北条を倒すこ とだった、それを尊氏のおかげで果たすことが出来たが、その恩返しがまだできていない、と言って 「何とぞ、この右馬介に最後のご奉公を…!」と懇願する。 「会うて直冬が聞き入れぬ時は?」と尊氏が問うと、 「明日までにそれがしが帰参せぬ折は、事やぶれ、どこぞに消え失せたと…そうお思い下さりませ」そう言い残して右馬介は立ち去っていった。 東寺の直冬本陣では、直冬が家臣たちに「明日の早朝、軍議」と言い渡して自室にさがっていた。 直冬は地図を取り出して戦略を練り始めるが、一緒にくるは ずの側近が入ってこず、不思議がって扉へと近づく。 するといつの間にか黒装束の右馬介が部屋に忍び込んでいた。 「推参なり!」と斬りかかる直冬だったが、 右馬介はいとも簡単に刀を奪い、これをねじふせてしまう。 「今日は右馬介としてではなく、具足師柳斎として申し上げたき儀があり、参上つかまつりました」 との右馬介の言葉に、直冬も気がつき「柳斎か、忘れておったわ。 昔そのような者がおったのう」と気を落ち着けた。 「あの赤子が、30年後に都を焼き払うお方になるとは…」と右馬介は言い、都を愛した母上も嘆こう、と直冬を諌める。 「将軍を討つためじゃ!やむをえぬわ」と答える直冬に、「将軍を討つ…?実の父上でござりまするぞ。 討てるとお思いか?」と右馬介は問う。 「将軍は我が養父を殺した!おのれの弟を殺した人でなしだ!」と叫ぶ直冬に、右馬介は言う。 「将軍がそのことで今どれほどお苦しみか、お分かりではござりますまい。 将軍はすでに御舎弟どのを手にかけられたとき、おのれの命は絶ってしまわれたのです!…大きな病を得られ、残されたあとわずかな命を、惜しげものう戦場に駆り出されて切り刻んでおられまする…」 尊氏が病魔に冒されていることを知った直冬は動揺する。 「わしには分からぬ!苦しいのなら戦をやめれば良かろう!何ゆえ弟を殺す!?何ゆえ我が子を敵とす る!?」直冬の問いに右馬介は「執念でござりまする…家を守り、幕府を守り、この都を守る。 その一念でござりまする!」と答える。 「人でなしじゃ!鬼の執 念じゃ!」と声をあげる直冬。 「若殿はいかが?若殿が父上を恨む、その執念はいかが?その恨みがこの都を焼き払うておるのじゃ!これを鬼の執念と申しませぬか!?」右馬介も声を荒らげる。 「これ以上父上を苦しめてはなりませぬ。 お引きくださりませ!」と右馬介は懇願するが、「引かぬ!」と直冬は拒絶する。 右馬介は刀を抜いて立ち上がった。 「わしを斬るのか?」とおびえる直冬。 「無念でござりまする…御免!」泣きそうな声で言って右馬介は刀を振り上げた。 しかしどうしても振り下ろせない。 直冬の顔に、母・藤夜叉に甘える不知哉丸少年の面影が重なる。 そこへ侵入者に気づいた警護の武士たちが駆け込んできた。 武士たちは刀を振り上げている右馬介に一斉に襲い掛かり、めった斬りにしていく。 右馬介は直冬の顔を見ながらドサリと倒れた。 武士の一人がとどめを差そうとすると、「よせ!」と直冬は声をあげた。 「若殿は…勝たれたのじゃ…十分、勝たれたのじゃ…父上を、許しておあげなされ…」 血の海の中で右馬介は直冬に語りかける。 「これ以上…戦うても、みなが苦しむだけでござりまする…なに…とぞ…」 右馬介はガクリと事切れた。 武士たちが右馬介のむくろに取り付いて片付けを始める中、直冬は泣き顔になって顔をそむけていた。 「佐(すけ)どの!伯耆国より援軍が到着いたしました!天の助けとはこのことじゃ!」翌朝、意気あがる桃井直常が直冬の本陣にやって来た。 「一気に攻め 込みましょうぞ!さあ本堂で軍議じゃ…!」と直常が呼びかけるが、直冬は反応しない。 直常が不審に思って声をかけると、直冬は思いつめた顔をして外へ出 た。 「東山を攻め、本陣を落として、それで勝てるか…?わしは将軍を斬れるか…?戦に勝っても、しょせん父上は斬れぬ…」 直冬がつぶやくように言うのを聞いて、直常は驚く。 「空しい限りじゃ…!」直冬はそう言って、そばに並ぶ弓の弦を次々と刀で切っていく。 「もうよい!この戦、ここから先はどうやってもわしの負けじゃ…!父上にとどめは差せぬ」直冬は刀を雪の上に投げ捨て、自らの烏帽子をはずして直常に差し出す。 その口元には、どこか笑みが浮かんでいた。 「敵がひくぞ!」「どういうわけだ!?」東山の尊氏本陣では兵士たちが騒ぎ出した。 直冬軍が突然崩壊し、一斉に京から撤退し始めたのである。 義詮も尊氏の前に駆けつけ、直冬軍の撤退を告げた。 「右馬介は?右馬介は帰参いたしたか!?」と 尊氏が慌てて周囲の者に尋ねるが、誰も勝利に興奮して聞く耳をもたない。 義詮は自分の合戦が功を奏したのだと胸を張り、「我らは勝ちましてござります る!」と尊氏に喜びの声をかけた。 しかし尊氏は全く無表情。 拍子抜けした義詮は、ただちに追撃にとりかかろうとするが、尊氏は「敵は引いたのじゃ。 引くと 決めたのじゃ。 引く者を追うことはない」と追撃をやめさせ、地図を火にくべた。 足取り重く、尊氏は本陣の中を歩いていく。 立ち止まり、ひとり天を仰いで涙する尊氏。 「わしは…また、生き残ってしもうた…!…さらばじゃ、直冬…!!…右馬介…!」 尊氏はそうつぶやくように言って立ち去っていく。 文和4年3月、直冬は都を去っていった。 そして二度と尊氏の前に現れることはなかったのである。 三年後の延文3年(1358)4月。 満開の桜が舞う中、佐々木道誉は尊氏の館を訪ねた。 尊氏から猿楽の宴に招かれたのである。 登子が道誉を出迎える。 尊氏の病はすでに重く、巷では重態の噂も流れていた。 登子と道誉が尊氏のところへやって来ると、尊氏は脇息にもたれてウトウトとしている。 登子が起こし、道誉が「うたた寝は体に毒」と言うと、「寝てはおら ん。 庭を眺めておったのじゃ」と尊氏は怒ったように言う。 一緒に来るはずだった義詮は政治に忙しく遅れてやってくる、と道誉が言うと、登子が義詮も秋には 子が出来るので頑張っているようだと尊氏に語った。 「あれはわしに似ず気短かじゃ…父上の初孫ゆえ、元服の名を考えろとせきたてるのじゃ。 まだ見ぬ孫の、 元服ときたものじゃ」と尊氏は苦笑する。 「何とおつけになりました?」と道誉と登子が尋ねると、尊氏は空中に指で二つの文字を書き、 「義満…義詮の義、思いが満つるの満、満願かなうの満じゃ…義満…!」と力強く言った。 「おお、これは良い名じゃ。 天下が満ちる名じゃ!そりゃあ、義詮どのより立派なお方になるやもしれませぬぞ!」と道誉が言う。 「そう思うか?」と尊氏が道誉の顔を覗き込むと、 「うむ。 行く末、義詮どのから義満どのへ寝返りいたそうよ…」と道誉。 「この卑怯者!」 と尊氏が言い、二人は大笑いする。 猿楽が始まるまで間があるから横に、と登子が勧めるが、尊氏は「これでよい」と脇息にもたれて庭を見る。 「妙な心地ぞ…目が覚めると庭に日が差しておるのじゃ…花が美しゅう咲いておるのじゃ…そこはかとのう、良い心地になるのじゃ…これでよい、もうこれでよい…政も足利家の行く末も忘れて、これでよいと、そう思うのじゃ」 と尊氏は二人に言う。 「わしが手に入れたいと思ったものは、もそっと大きなものじゃ。 もそっと美しいものじゃ…。 だが庭の花を見て、これでよい、と…」 尊氏の言葉に、登子が「長い間、戦いくさで家を留守にした罰でござりまする。 少しは家にいていただかねば」と言うと、道誉も「これからは御台どのに孝行いたさねばのう」と続ける。 「十分しておる!」と怒ったように言う尊氏に、「まだまだ足りませぬ」と登子。 道誉は夫婦のやりとりに笑って、舞台の様子を先に見てこようと腰を浮かせる。 すると「判官どの」と尊氏が呼び止め、道誉の前に両手をついた。 「行く末、義詮をよろしゅう頼みまするぞ…幕府を頼みまするぞ」と尊氏は道誉を見つめる。 「わしは…頼りにならん男ぞ…?」と道誉が言うと、尊氏は答える。 「いや…三十年前、初めて会うた時から、友じゃ、と思うておった…生涯の友じゃ、と…!」この言葉に道誉は一瞬震え、目を潤ませる。 「か、かなわぬな…!」道誉は苦笑して立ち上がり、「先に行っておりまするぞ」と逃げるように立ち去っていった。 「三十年前と申せば…登子が殿に初めてお会いしたのも、三十年前でござりましたな」と言いながら登子は尊氏の肩に羽織をかける。 「三十年前か…長い旅をしたのう…」と尊氏が桜を見ながらつぶやくと、登子も並んで桜を眺めながら言う。 「お一人で、いくさいくさの長旅を…でもようやく、登子のもとへ戻っておいでになりました…」登子は尊氏に晴れやかな笑顔を見せる。 尊氏は手を伸ばし、登子の手を強く握り締めた。 桜の舞う中、猿楽の舞が始まり、尊氏、登子、道誉は並んでこれを見物する。 舞を眺めていた尊氏はまたウトウトと夢見心地になっていく。 「今となっては敵も味方も無い…のう、判官どの…みな同じじゃ…」とつぶやくように言う尊氏。 その尊氏のまぶたに、多くの人々とのさまざまな思い出が次々と浮かんでくる。 「三十数年たっても、思いは同じだ…わかっておる…」高氏に語りかける父・ 貞氏。 高氏の前で 顕子と戯れて仏の絵を真っ赤に塗りつぶしていく 北条高時。 「尊氏の申す通りじゃ…天下を率いるは肩が凝る。 朕も、肩凝りじゃ…ワハハハハ」 屈託なく笑う 後醍醐天皇。 「大事なもののために死するは、負けとは申さぬものと心得おり候…」 花夜叉一座の車引きに身をやつした 楠木正成。 「尊氏どの、出あえ!一騎打ちにて、この勝負を決せん!」尊氏に一騎打ちを挑む 新田義貞。 高氏と一緒に都見物を楽しむ若き日の 一色右馬介。 「高氏どのがいやなら致し方のないこと…嫁とりの話は強いては申しますまい」 怒れる高氏をかわす母・ 清子。 「攻める時は攻める!引くときは引く!戦には仕掛け時というものがござるのじゃ」兄に語る若き日の 直義。 「誰が何と言おうと手放さん!わしから政を奪いたくば、わしを殺してからになされ!」唾を飛ばし絶叫する直義。 「…みな…共にこの世を生きたのじゃ…共に生きたのじゃ…」 尊氏のつぶやきを聞く登子と道誉。 尊氏は舞をみつめながら、またうつらうつらと目を閉じていく。 尊氏の見る幻の向こうに、池のそばで金色に輝く美しい建物が浮かんでくる… 1358年4月末、足利尊氏は54年の波乱に満ちた生涯を閉じた。 …それから40年後、尊氏の遺業は孫の 義満の手によって大輪の花を咲かせた。 南北二つの朝廷は統一され、天下は太平の世となる。 そして都は北山文化に彩られた美しい都となり、栄華をこの世にとどめるのである…。 足利将軍代々の墓所となった等持院の、夢窓疎石が造った庭園の一角に尊氏の墓がある。 等持院所蔵の尊氏自筆の達磨図、足利将軍歴代の木像を紹介。 全部自分で書いたら大変なことになっちゃうよなぁ、とつくづく思ったものである。 この最終回は第49回にあたるが、総時間は1時間20分もあり、実質2回分の内容である。 大河ドラマの第一回と最終回が通常より長いのは毎度のことだ が、まるごと2回分の時間というのは特に長いほう。 「本編内容」をみればわかるように、無理やり完結にするためにこの2回分の時間をフルに使って話を押し 込んだ節もあるが、おかげでこの最終回は第一回同様やたらに内容が濃くなる結果となった。 合戦シーンなど使い回しが多くナレーションで済ましているところ も目に付くが、散りばめられた名セリフ・名場面の数々、これぞ名作大河ドラマの最終回にふさわしい、と僕が何度も見返して感動に震える最終回である。 それにしても最終回の出演リストは超豪華。 もちろん回想シーンがあるためなのだが、これまでの物語全体を振り返り、名残惜しみつつ幕引きをするには絶妙のアイデアであったように思う。 冒頭いきなり佐々木道誉と赤松則祐が南朝について挙兵した、と言って尊氏と義詮が相次いで京を離れる。 これを直義は謀略と悟って慌てて北陸へ逃げてい く…いやほんと、狐と狸の化かし合いというところだが、これ、ほとんど史実というのが恐ろしい。 付け加えるなら話はもうちょっと複雑怪奇で、道誉と則祐は 尊氏らと示し合わせるだけではなく、実際に南朝から綸旨を受け、尊氏討伐の勅命を受けていた形跡がある。 彼らにしてみれば流動する情勢の中でどうなっても大丈夫なように立ち回っていたというあたりが真相ではないだろうか。 北陸へ逃げ出す直義らに従わず、離脱したのが先に尊氏に怒鳴りつけられ恐怖したという細川顕氏である。 直義の腹心と見られていた彼が直義のもとを離れ、義詮のもとで京都守護の大役に任じられるという変わり身の速さをみせたことに世の人はあきれ返ったという。 直義らが大慌てで北陸へ逃れた時のエピソードとして、史実とはしっくりこないのだが古典「太平記」は面白い話を記している。 夜が明けると直義一党が京から姿を消していることに驚いた義詮は尊氏の館へ駆けつけ、 「昨夜の騒ぎはただ事ではありません。 多くの兵が京から出て行ったそうですから、もしかしたら引き返して京に攻め込んでくる恐れもあるのでは?」 と尊氏に進言した。 ところが尊氏はどこ吹く風、 「運は天にあり。 何も恐れる必要はあるまい」と 言いながら歌合せの短冊を取り出して心静かに歌を詠んでいた、というのである。 このとき尊氏は「道誉討伐」と称して出陣していたと思われるので、こんな状 況が実際にあったとは考えにくいのだが、ここまで何度か現れていた尊氏の「甘い観測」「理由不明の余裕の態度」がこのエピソードにもうかがえてなかなか捨 てがたいものがある。 今度は北朝の総帥であるはずの尊氏自身が南朝に「降伏」してしまう (仲介役は赤松則祐であったらしい)。 「天下三分」と言われた当時の状況の中で二つの敵と同時に戦うことは不可能だった。 尊氏としては直義と戦わねばならぬのなら南朝と手を組むほか選択肢は 無かったのだ。 ドラマでは幕府の存続だけを条件として提示しているが、実際には幕府存続すらも考慮せず「元弘の段階に戻す」ということで話をつけてしまっ ている。 もちろんそんな約束を実際に守る気も無かっただろうが。 それは南朝も同じことで、ホントにこのあたりはみんなそろって狐と狸の化かし合いである。 親房も大変な謀略家だからなぁ。 南朝と交渉する一方で、尊氏は直義との交渉も粘り強く続けた。 交渉役にあたったのはドラマ同様に細川顕氏だったが、実は最初の交渉の際に顕氏は交渉に失敗しただけでなくまた直義陣営に舞い戻ってしまっている。 その後ドラマでも合戦シーンがある近江北・八相山での合戦 (またしても平原戦映像使いまわしのオンパレード。 湊川のシーンの背景にCGで無理やり建物を描き込む荒技も見せている)で尊氏側が勝利し、その後の交渉の中で細川顕氏、畠山国清らが直義のもとを離れて尊氏側についた。 佐々木道誉の本家筋である佐々木氏頼のようにこの情勢の中でどっちにつくか迷いに迷ったあげく出家して高野山に入ってしまう気の弱い人もいた。 このあと尊氏が体の異常、それも背中に腫瘍が出来ている事実に気がつく。 尊氏の死因が「癰(よう)」と呼ばれる背中の腫瘍であったことは公式の記録に載 る事実である。 彼が死ぬのはこの時点から7年後の延文3年(1358)のことだが、どうも晩年の数年間はずっと病との戦いを続けていたようだ。 尊氏は「直義を討て」との南朝の綸旨を受け取ると、10月4日、義詮に京の留守を任せて関東へと出陣した。 古典「太平記」では尊氏・直義両軍の最後の戦 いを駿河で行われた「薩タ(土垂)山合戦」をハイライトとして描いている。 このとき尊氏側に属した下野の宇都宮・小山一族も鎌倉目指して南下し、迎え撃っ た桃井直常と激戦している。 結局尊氏側の連戦連勝で鎌倉は攻め落とされ、直義は伊豆へ逃げ込んで捕らえられた。 このあたりの展開は、まるで16年前の「中 先代の乱」と瓜二つである。 ドラマでは例によってこのあたりの展開は映像使いまわし大集合。 まぁ同じ映像ばかり出ては余りに芸が無いと思ったか、燃える炎 をバックに地図で展開を説明し、そこに鎌倉攻防戦やら第一回の小山軍が足利庄に攻め込んでくる映像などがかぶさり、直義がガックリとする映像を入れて表現 していた。 直義が鎌倉で急死したのは観応3年2月26日。 公式には「黄疸で死去」と発表されたという。 一応「毒殺ではないか」と書いているのは古典「太平記」のみ で、史実と確認できるわけではない。 が、状況からして「毒殺」が真相だろうと多くの歴史家も考えている。 ドラマのように尊氏自らが毒を盛ったかどうかは不 明だが、尊氏自身の決断であったことは間違いないだろう。 ドラマでも描くように状況は切迫していて、「天下三分」の一つのトップである直義をこのまま放置しておくことは出来なかった。 これまでの紛争で敗れた者 も、命さえ長らえれば逆襲の機会がいくらでもあったことは尊氏もよく分かっていただろう。 それが弟の毒殺を実行した背景には違いないだろうが、ドラマで触 れていない部分もあえて指摘しておきたい。 直義が急死した2月26日は、ずばり高師直の一周忌にあたるのだ。 これが意図的なものであるとすると、尊氏は 「師直を殺された報復」として直義を同じ日に殺したとも解釈できる。 だとすると尊氏と師直の関係もまた意外に濃いものであったとも考えられる。 ま、そうした詮索はともかく、ドラマの直義毒殺シーンは余りにも強烈だった。 ここまで凄まじいシーンは、大河ドラマ史上でもまれではなかっただろうか。 尊氏役の真田広之、直義役の高嶋政伸、まさになりきり入魂の大熱演である。 毒を仰ぎ断末魔の悲鳴をあげ「兄上は大将軍じゃ…」とうめく直義、肉親を殺す罪 悪感にさいなまれて「弟を殺した!」と大絶叫する尊氏。 最終回ってだいたいおとなしく静かに幕を閉じるもんなんですけどねぇ…ドラマ中屈指の壮絶場面が最 終回に来ているという点でも「太平記」は凄かった。 第一回からほぼ出ずっぱりだった高嶋直義、余りにも壮絶な退場である。 なお、尊氏自身は直義を殺したことをどう思っていたかはこちらが勝手に想像するほかはない。 例の清水寺の願文にも見えるように、尊氏がこの一つ違いの弟 の才能を大いに認め、厚く信頼し、そして恐らく深く愛していたであろうことは間違いないと思う。 ドラマの直義も言うように、この弟がいなかったらお人好し の尊氏は何も出来なかった可能性すらある。 そんな弟を敵として戦い、自らの手で殺さねばならなかったことに、いくら常識外れの尊氏でも冷徹に振舞えたとも 思えない。 ドラマでも触れているが、直義の死の直後、尊氏は重い病に倒れて一時は重態に陥っている。 すでに病身だったと思われる尊氏だが、弟を手にかけた ことに激しいショックを受けて重態になったのでは、と感じるのは僕だけだろうか。 また、尊氏は自らの死の2ヶ月ほど前に突然 「直義に対し従二位の追贈をしてほしい」と朝廷に申請して公家達を当惑させている。 結局この追贈は実現したのだが、これも自らの死期を悟った尊氏が、弟にせめてもの罪滅ぼしをしようと思った行動ではなかっただろうか。 ドラマでは割とあっさりと触れる程度だったが、実はこの前後の南朝側は畿内と関東で同時に大反攻作戦を実行していた。 北畠親房は尊氏の「降伏」を受け入 れたが、尊氏は「直義と戦っている間は動くな」と暗に求めていた。 親房もこれに応じたはずなのだが、てんで守る気はなかったらしい。 尊氏が直義を討つため に関東へ下っているスキに、親房は次々と政権奪回の策謀をめぐらせていた。 まず尊氏との合意に基づいて北朝の崇光天皇とその皇太子は廃位され、年号は南朝の「正平」に統一された (正平の一統)。 尊氏もこの時期文書に「正平」年号を使用している。 さらに北朝の「三種の神器」を「偽物」と呼びながらしっかり接収(笑)。 北朝に仕えていた公家達は抵 抗するどころか、あわてて賀名生詣でを始めて生き残りを図る始末。 なにせ北朝の定めた官位は全て無効にすると南朝側は公表したのだ。 そしてさらに武士の所 領安堵も建武政権時代に戻すと言い出した。 「おいおい、話が違う」と義詮が慌て始めたころには、親房はついに軍事的に京を奪回する作戦を開始していた。 1352年2月26日、直義が鎌倉で死んだ その日に後村上天皇が賀名生から河内へ移動し、さらに摂津の天王寺まで進出、本格的に京へ戻る体勢に入った。 翌月の閏2月20日、北畠軍と楠木軍が義詮の 不意をついて京を急襲、義詮はたまらず近江へ逃げ出して、南朝軍はあっさりと京都奪回に成功してしまう。 北畠親房は実に17年ぶりに京都の土を踏むことが 出来たのである。 ちなみにこの南朝軍急襲の際に、細川頼之の父・細川頼春が壮絶な戦死を遂げている。 このとき、義詮はまたしてもヘマをやらかしている。 そう、上皇たちと天皇をほったらかして逃げ、南朝軍に彼らを捕らえられてしまっているのである。 南朝 側は北朝の上皇2人、天皇と皇太子をそろって拉致し、そのまま賀名生へ連れ去ってしまう。 もちろん尊氏に「北朝」を再建させないためである。 義詮はただちに南朝の年号を廃棄して「観応」年号を復活させ、約束を破った南朝を討つよう武士たちに呼びかける。 これに呼応して佐々木道誉や赤松則祐と いった南朝と通じた大名らも南朝を見限り京都へ突入、義詮らは京都を奪回した。 親房率いる南朝がつかの間の京都奪回を実現したのは一ヶ月の間に過ぎなかっ た。 幕府軍の総攻撃を受けた後村上天皇は武士と同じく甲冑に身を固めてほうほうの体で賀名生へと落ち延びていくハメになった。 この撤退の途中でドラマでは 井上倫宏さんが演じていた四条隆資が戦死している。 京都を奪回した義詮だが、困ってしまったのは担ぐべき上皇も天皇も皇太子も、さらに三種の神器までみんな南朝軍に持っていかれてしまったことである。 や むなく仏門に入ることになっていた光厳上皇の皇子・弥仁親王を新天皇に即位させることとし、神器の代わりに後村上が撤退した陣の跡から回収した神器を入れ る箱を使い、上皇の代わりに光厳の母に「治天の君」の役割を代行させて (このおばあさん、義詮を物凄く恨んでいたそうだが道誉らになんとか説得されたそうな)どうにか北朝を再建した。 この新天皇が後光厳天皇である。 この京の情勢と同時進行で関東でも南朝軍の反攻作戦が実行されていた。 ドラマでも右馬介のセリフでチラリと触れられているが、信濃にいた宗良親王 (第10回で出てきたんだけど誰も覚えちゃいないだろうなぁ)が南朝の征夷大将軍に任じられて関東へ進撃、奥州から北畠顕信の軍勢も南下して関東を目指し、新田義貞の息子たち義宗・義興らも新田党を率いて挙兵し鎌倉に迫った。 重態から回復したかどうかの尊氏は新田勢を迎え撃つが、武蔵野の小手指原で戦って苦戦 (このとき尊氏が義宗らに追われてまたまた自害を覚悟したと「太平記」は記している)、結局新田勢の一部は鎌倉を占領した(閏2月18日)。 このあと尊氏は碓氷峠の戦いで南朝軍を破ってやがて鎌倉も奪回(3月12日)。 南朝に仕えていた高時の一子・北条時行が捕らえられ処刑されたのはこの時のことである。 東西で同時に行われた南朝の大反攻作戦も一時は目を見張るほどの戦果をあげたが、しょせんは底力の無い奇策に過ぎず、一ヶ月で東西同時に崩壊してしまう こととなった。 この大作戦を敢行して一時は栄華の夢を見た南朝の総帥・北畠親房だったが、この大作戦が崩壊した翌年の1353年4月に賀名生の地で失意の うちにこの世を去った。 享年62歳である。 直義が死に、南朝の大反攻作戦が失敗に終わった後、「天下三分」の形勢の鍵を握ったのは尊氏の子であり直義の養子である足利直冬だった。 ドラマでは触れ ていないが、この時期直冬は九州を追われて中国地方に移動しており、桃井や山名ら旧直義党の大名に呼びかける一方で南朝と手を組んで、京都を奪回して勢力 を取り戻そうと図っていた。 直冬党と南朝軍は1353年6月に再び京都を占領し、義詮は今度はさすがに後光厳天皇を忘れずに連れ出して京から逃れた。 この 逃走は大変なものだったようで、細川清氏(和氏の子)が後光厳を自ら背負って山越えしたり、道誉の長男・秀綱が野伏に襲われて戦死したりしている。 結局こ の時も一ヵ月ほどで義詮は京都を奪回、9月にはしばらく関東にあった尊氏も京へ戻ってきた。 このときまた尊氏の病状が悪化し、周囲を心配させている。 そして翌1354年、ドラマでも描かれるように直冬自ら軍を率いて京へ突入し、尊氏と京の争奪戦を繰り広げる。 この戦いも結局一ヶ月ばかり後に直冬軍が 京を撤退し、尊氏側の勝利に終わるのだが、直冬軍の急な撤退は補給が続かなくなったためだろうと言われている。 しかしそれだけでもなかったようだ。 直冬と その取り巻きの中に、どこか尊氏と戦うことにためらいがあった可能性が捨てきれないのだ。 前にちょこっと触れているが、直義の子として扱われながら実は尊氏の子である直冬は、かなり屈折した思いを実父・尊氏に抱いていたことは否定できないよ うだ。 直冬は文和4年(1355)1月に京都を占領した直後、本陣とした東寺に戦勝の祈願文を奉納している。 たまたま後世に残ったこの祈願文には直冬の密 かな心情が赤裸々に記されていた。 それを口語訳してみよう。 「我が父である将軍は敵陣におわします。 これに対して一歩を進めることは罪深いことであり、心が砕け散るような思いであります。 この戦いはあくまで将軍を取り巻く悪臣どもを罰するための戦いであり、親に逆らって自分のためのみに義旗を掲げたものではありません…」 実父・尊氏に愛されず、なかなか認知されなかった末に叔父直義の養子となり、その養父をも実父に殺された直冬。 しかしその心の中に実父・尊氏に対する強 烈な情愛を潜めていたことが、この祈願文からうかがえる。 この願文を以前尊氏が清水寺に納めた願文と並べてみると、やっぱりこの二人「親子」だな、と思っ ちゃうのは僕だけだろうか。 こうした直冬の心情から逆に察すれば、尊氏が直冬に寄せた思いも決して憎悪ばかりではなかったのではないかと、僕は思う。 ま、 そこまで行かなくても直冬や諸将の心に、尊氏を攻めることへの後ろめたさがどこかあったことは確かなのだろう。 古典「太平記」は別の逸話を記している。 尊氏との決戦を行うべきか否か、直冬は諸将を引き連れて石清水八幡に赴き供物を捧げて神託を受ける。 巫女が告げた神のお告げは 「たらちねの お山を守る 神なれば このたむけをば 受くるものかは」 (お山を守る神である八幡神であるから、この供物は受け取ることができぬ。 「お山」に「親」がかかり、「この」に「子の」がひっかけてある) という歌であった。 つまり親を攻める子の願いを聞き届けることは出来ないよ、と答えたわけである。 このお告げを聞いた諸将は「こりゃダメだ」というのでゾ ロゾロと都から引き上げてしまった、と「太平記」は記すのだ。 そんな無茶な、と思ってしまう話だが、上の祈願文のことを考えるとあながち真実から遠い創作 では無いとも言える。 このことを念頭に置いて、ドラマにおける直冬撤退の展開を見ると、なかなかよく考えたなぁと僕などは感心している。 直義同様に第一回からほとんど出演し ている一色右馬介が命を捨てて直冬を説得し、その結果直冬は「父には勝てぬ」と引き上げていく。 これはこれでリアリティのある創作なのだ。 なお、一色右馬 介は吉川英治が創作したキャラクターだが、「私本太平記」ではドラマのような死に方はせず、正成の死後世を捨て、尊氏死後の物語の終幕に再登場する形と なっている。 足利直冬がその後二度と尊氏の前に現れなかったのは事実だが、かといって武士をやめてしまったわけでもない。 石見で山名氏の厄介になりながら延々と暮ら しており、ある時期までは潜在的な反幕府の旗頭として警戒される立場にあった。 しかし次第にその影響力も弱まり、中国地方を転々として、1366年に出し た書状を最後に消息不明となってしまっている。 足利家系図は1387年に亡くなったと記しているが、1400年ごろまで長寿を保って生きていたとの伝承も ある。 思えば初代将軍の子でありながら、最初から最後まで謎に満ちた人物である。 それにしても「また生き残ってしもうた…!」と嘆く老いた尊氏の姿がなんとも寂しく、哀しい。 とにかく主人公をこれでもかと痛めつける最終回である。 だが、さすがにと言うべきか、ドラマは最後の最後に尊氏に「救い」を与えている。 満開の桜を眺めながら「これでよい…」と勝手に納得する尊氏(爆)。 い や、そうとでもしないと「救い」を与えられなかったということでもある。 ドラマでは最後の戦いから3年が経ち、ひとまずの平和が訪れているように描いてい るが、実際には尊氏は死の直前まで南朝の懐良親王が席巻している九州への遠征を考えていた。 最後の最後まで心が休まらなかったというのが実態なのである。 とまぁなんだかんだ言いながらも、僕はこのドラマのこのシーンは大好きなのだ。 まず尊氏がこれから生まれてくる子に「義満」と名をつけてしまう (まだ男かどうかも分からないだろうに…)。 尊氏が果たしえなかった仕事をこの孫が果たすことになるので、未来への希望を託す形でドラマをしめくくろうという狙いですね。 尊氏が亡くなった4月30日 から4ヶ月弱経った8月22日、まるで生まれ変わりのように足利義満は誕生している。 ま、当然ながら尊氏が義満の名前を決めていたなんて事実はありませ ん。 それにしても「義詮どのから義満どのへ寝返りいたそうよ」と言う道誉のセリフは絶品。 そしてそんな道誉に、尊氏は後事を託す。 「初めて会うた時から、友じゃ、と思うておった…生涯の友じゃ、と…」のセリフには道誉だけでなく見ているこち らまでがウルウルしてしまう。 しかし第三回の道誉初登場シーンを見返してみよう。 高氏クンは立花論議をぶっ飛ばす道誉に呆気にとられているようにしか見え ないのだが(笑)。 しかし思い返せば要所要所で美味しい場面をさらっていく人でしたね、道誉って。 実は「南北朝最大の怪物」佐々木道誉の本領発揮は尊氏の死後、義詮時代と言っていい。 義詮時代に相次いだ幕府内の政変の陰には常に佐々木道誉の暗躍があ り、南朝・北朝双方との交渉も道誉があたっていた。 その一方で数々のバサラ行為で世の人々の耳目を驚かせ、様々な文化芸能のパトロンとなってそれらを花開 かせてもいる。 数々の騒動を起こしながらも道誉は足利家に逆らうことだけは絶対にせず、結果的には彼がみせた様々な暗躍は統一政権としての「室町幕府」の 体制を強化していく方向であったとも思える。 彼が政界を引退するのは1367年に義詮が死んだ直後で、このあと幼君義満を補佐して政治をみる細川頼之を管 領職に推薦したのはほかならぬ道誉であったとの見解もある。 後に名宰相とうたわれる頼之に幕府の将来を任せて安心したのか、引退した道誉は悠悠自適の余生 を近江でおくり、1373年にこの世を去っている。 北条高時の側近からスタートしたこの怪物の死に、当時の人は 「前代以来の人物が亡くなった」と感慨にふけったという。 そんな「その後」のことを知っていると、このシーンもいっそう深みが増すことだろう。 そして道誉が立ち去った後の登子と尊氏の久々の夫婦の対話も味わい深い。 「ようやく登子のもとへ戻っておいでになりました…」のセリフの部分、登子のテーマ曲が高らかに奏でられるのだが、本文に音楽を入れられないことがこれほど悔しいと思ったことはない(笑)。 大団円は桜の舞う中で猿楽の舞を見ながら、尊氏がこれまで出会った人々との思い出を回想する形となった。 この「人選」はごもっともと思いつつ、僕が入れ てほしかったなぁと思う人物は、日野俊基、赤橋守時、護良親王、赤松円心、高師直…あたりかなあ。 特に師直は入れてほしかった。 それとお詫びというかお断りなのだが、ラストの本文では実際のドラマとはやや異なる表現をさせていただいた。 実際のドラマでは尊氏がうつらうつらと目を 閉じるところで「尊氏は54年の波乱の生涯を閉じた」とのナレーションが入り、「その後義満によって大輪の花を咲かせた」と続いて金閣が映るのだ。 ここで 尊氏が目を開くカットが重なり、最後の最後にはドラマの主題曲 (たぶん尊氏のテーマなのだろう)が 高らかに鳴る中、貫禄十分に姿勢を正す尊氏の姿を映してエンディングとなっている。 つまりたぶんに映像的表現であって文章で書くといまいち感じが出ないの だ。 そこで「たぶん狙いはこういうことだろう」という形でちょいとばかりいじらせてもらった次第。 いや、当時金閣に両目のアップが重なったのを見たとき 「義満の目か?」と思っちゃった思い出があるもので。 前にも書いたがこのドラマ、病死の場合「事切れる」シーンは皆無なんですね。 うつらうつらとしている うち尊氏の目に金閣が見えたってことなんだろうと解釈させていただきました。 このドラマ、義満のことに触れることで「天下は太平になりましたとさ、めでたし、めでたし」と気楽に終わってしまうのだが、実際にはそこまでに大変な すったもんだがあったことは言うまでも無い。 だいたいナレーションでも「40年後」って言ってるもんね。 しかし古典「太平記」だって義詮が死んだ後に 「細川頼之が管領になり、天下は太平になりましたとさ、めでたし、めでたし」と唐突に終わってしまっているので、まぁ似たようなもんかもしれない。 あーーーーーーっ、長かった!この回だけでも随分長く書いちゃいましたねぇ。 ともあれ前代未聞 (だと思う)の一本の大河ドラマ全編の内容紹介、解説をしてしまうという無謀な企画をおっぱじめた私に、暖かい励ましと熱い感想を贈っていただいた多くの皆様、この企画がちゃんと完結をみたのはひとえにみなさんのおかげです。 ここに厚く御礼申し上げます。 で、念を押しておきますが私はもうこんな無謀なことは二度とやりませんよ(笑)。 次は「真田太平記」か「元禄太平記」か「台所太平記」か「平原太平記」かと勝手な憶測も一部で飛んでおりましたが (後ろ二つは分かる人少なそう)、NHKが再び南北朝ものを大河でやらない限りこんなことはしないでしょう。 他の大河をこのノリでやってみたいという方はジャンジャンやってください。 私も読み手で楽しむのが一番楽ですので。 で、次なる企画はこちらになります(笑)。

次の

太平記49

おいたわしや兄上

足利直義は慌しく幕府に駆けつけた。 幕府内は戦の準備でものものしい空気である。 将軍 尊氏もすっかり出陣の支度を整え 「おう直義、わしは近江へ行くぞ。 佐々木判官が寝返ったのじゃ」 と直義に声をかけた。 佐々木道誉が南朝の北畠親房と手を組んで兵を集めているというのである。 「まさか判官殿がこの期に及んで吉野方など…」と直義はいぶかるが、 一色右馬介も配下の忍びがいずれも同じ報告をしていると告げる。 「直義、都の守りは任せたぞ。 いざ出陣!」尊氏らは盃を叩き割って出陣していった。 直義が自分の館に戻ると、 義詮までが「播磨の赤松則祐が吉野方に寝返った」として出陣したとの報告が入っていた。 「これは妙でござりまするぞ…」と 桃井直常は考え込む。 近江と播磨に将軍父子が同時に出陣していることに 「これはまるで都を挟み撃ちにするために出て行かれたような分かれ方じゃ…」 と直常は言い、佐々木や赤松が謀反を起こしたなぞ耳にしていないと直義に告げる。 「佐々木や赤松とは話が出来ておるのじゃ!」との直常の言葉に愕然とする 直義。 都にいることの危険を悟った直義はただちに越前へ出陣し、そこで体勢を整えることを決断する。 直義派の武将たちは慌しく出陣の支度を整えて京をあと にし越前へと向かったが、 細川顕氏はひそかに直義の一行から離脱する。 近江と伊賀の国境付近で、尊氏と道誉はそろって 北畠親房と接触した。 「ほう…我らと和睦をいたしたいとのう…御舎弟直義どのも、この春まで和睦、和睦としきりに申してこられた…じゃが、一向に実が上がらぬ」 と親房は笑う。 「将軍は違いまするぞ」という道誉に「どう違う!?」と厳しく問う親房。 尊氏は親房に「幕府を認めてくれるなら吉野の帝を都へ迎える」と条 件を示す。 「世が太平を迎えるには朝廷が一つになり、武家もまた一つになること」と尊氏は言い、武家を一つにするべく最後の戦いをするので力添えをしてほ しいと訴える。 「御舎弟と戦われるのか」との親房の問いに、尊氏は 「直義と戦うのではございませぬ。 直義を支える大きな力と戦いまする」と答える。 「まことに吉野の帝を都へ…?」と親房が念を押すと、尊氏はうなずいた。 親房もうなずき、二人はお互いの目をじっと見つめ続けた。 9月19日、尊氏は義詮と共に軍を率いて近江の北へと出陣した。 ここで越前から出てきた直義の大軍と激突する。 激しい攻防の末、直義軍は敗北。 直義はほうほうの体で越前へと敗走した。 勝利した尊氏は近江・塩津に陣を布いた。 直義との和議の交渉に向かった細川顕氏が帰ってきて、直義が和議を拒否したことを尊氏に報告する。 直義はともか く桃井直常が「戦はこれから」と意気盛ん、との報告に、道誉は「桃井め、まだ勝てると思っておるのか!」と憤る。 尊氏は顕氏に命じて「直義が周囲と手を 切って一人で帰ってくれば手厚く迎える」との意向を内密に直義に伝えさせていたが、直義は「ここまで一緒に戦った面々を今さら見捨てることはできぬ」とあ くまで拒否していた。 右馬介が敵陣に忍び込んで直義の身柄をさらってこようと申し出るが、「それで事がかなうならすでにそうしておるわ」と尊氏。 「直義自 身がなぜ幕府がここまで割れてしまったか気づいてくれねば…」と尊氏は言い、フラフラと太刀を杖に立ち上がった。 その様子を道誉はふと不安げな目線で見 る。 「やむを得ぬ…戦を続けよう…幕府の中の膿は出せるだけ出しておこう…」そう言い残して、尊氏は自室にさがって行った。 自室にさがった尊氏は鎧を解こうとしたが、突然目がくらんで立ちすくんだ。 目の前にある地蔵の絵がおぼろげになったと思ったとたん、尊氏は柱にもたれるように倒れこむ。 近習たちが慌てて駆けつけるが、「少し休めば直る…他言いたすな」と尊氏は言いつけて意識を失った。 「又太郎さま…!」「兄上…!」少年時代の直義や師泰の声が洞窟に響く。 「声を出すな。 神の鎮座する岩とはあれではないか?」と少年時代の尊氏・又太郎が指差した。 又太郎は岩の上にある小さな祠の扉を開けた。 中を照らすと、小汚い木切れが浮かび上がった。 「ただの木切れじゃ…」又太郎の失望した声が上がる。 激しい雨の音に、尊氏は夢から覚めた。 体を起こした尊氏は背に異変を感じる。 手を背に伸ばしてみると手にはべっとりと血がこびりついていた。 肌脱ぎに なって首をひねって見てみると、背にできものが出来ており、ただれて血を噴き出している。 尊氏はすぐに背を服で覆い隠した。 10月、直義は越前でも敗れて、北陸から関東に向かい、鎌倉に入った。 ここから全国の直義党に指令を送ったが、11月に尊氏も軍を率いて都を出陣。 駿 河、足柄山で次々と直義軍を破って関東に迫った尊氏は、相模の早川尻で直義軍を撃破し鎌倉を奪回。 直義は熱海・伊豆山に逃げ込んだが、ここでついに捕虜と されてしまった。 尊氏は重い足取りで、右馬介と共に捕らえられた直義に面会にやって来る。 尊氏は「鎌倉は遠いのう…こたびほど鎌倉が遠いと思ったことはない」とつ ぶやき、「もう戦はやめぬか」と戦塵にまみれた姿の直義に言う。 直義さえ戦いをやめれば直冬も直常もおさまるはず、と言う尊氏に、直義は「それがしに幕府 をお任せになりまするか?」と問い返す。 義詮のような愚か者が自分の作った幕府を壊していくのは見るに耐えない、聞き入れられねば戦を続けるのみ、と直義 は言う。 かたくなな態度の直義に、尊氏は「この戦になぜ負けたか考えてみよ」と諭す。 この戦いで直義についたのは一門の者と鎌倉以来の武士だけではないか と。 「この恵源が敗れたのは、恵源が征夷大将軍ではないからじゃ。 去年兄上を負かした時に将軍の位を奪うておけばよかった…桃井にそう言われてほぞをかんだが手遅れじゃ…無念としか言いようがござらん!」 直義の言葉に「直義!」と声をあげる尊氏。 「北条を倒して以来、先帝と戦うたのも幕府を作ったのも、みなこのわしじゃ!兄上は優柔不断でわしが言わなければ何も出来なかったではござりませぬか!でも世上の者は将軍、将軍としか言わぬ。 弟はつまらぬものじゃ!わしは都へは戻らん。 戻らんぞ!」 と直義はわめく。 尊氏がすがるように「直義…頼む、わしはそなたを殺したくない。 戻ってくれ…」と懇願すると、直義はしばし兄の顔を見つめた後、不敵な笑みを見せた。 「兄上にそれがしが殺せますかのう…?それができれば、大将軍じゃ…!」 直義が立ち去って残された尊氏は右馬介に「もはや、これまでか…」とつぶやく。 右馬介は桃井直常らが直義奪回のために藤沢に集結しつつあること、南朝の 北畠親房が和議を破り、信濃から宗良親王率いる南朝軍が碓氷峠を越えて関東に侵入してきていることを告げ、状況が一刻の猶予も許さないことを進言した。 尊氏は右馬介を連れて再び直義を訪ねてきた。 尊氏の目はどこか虚ろである。 尊氏は写経していた直義に都の菓子を差し入れた。 「そなたは昔から酒も飲まず、田楽も好まず、口説くのに骨が折れる」と尊氏が言うと、「この菓子ぐらい で恵源は折れませぬ」と直義は笑う。 「わかっておる」「では、もう言い争いは無しで…」「無しじゃ。 そなたとは争わぬ」尊氏の言葉に、直義は 「将軍にそのように言われると、何やらさみしゅうござりますな。 幼い時から争って参ったんじゃ…」と 少年の日々を思い出すように言う。 「さほどに喧嘩をしたかのう?」と尊氏が言うと、「した、した…のう、右馬介」と直義は右馬介に声をかける。 右馬介が 「どちらに味方するのかと言われ難儀致しました」と答え、三人は笑いながらしばし昔ばなしに花を咲かせる。 直義は尊氏の強情が自分とはケタが違ったと笑 い、 「なぜか分からんうちに、わしがわんわん泣いておるんじゃ…今も昔も同じじゃ…兄上の強情は一枚上手じゃ」と言うと、尊氏も 「それでわしはいつも父上に叱られるのじゃ。 兄のくせにまた弟を泣かしたと…」と付け加える。 「そうそう、それを見てわしはいつも勝ったと思うておりましたんじゃ」と直義が言い、「これじゃ…」と尊氏は苦笑いする。 「兄上…来世では喧嘩をしない兄弟に生まれてみとうござりまするな…それも退屈かのう…」と苦笑する弟を、「直義…」と尊氏は今にも泣きそうな顔で見ている。 直義は差し入れの菓子に手をとり、ポリポリと噛みしめる。 そして汁の入った椀にゆっくりと手を伸ばし、それを口に持っていった。 目を見開いてその動きを 見る尊氏。 汁を飲む直義から目をそらすように、「近頃、よう昔の夢を見る…」と尊氏は少年の日に新田庄へ岩神の神体を覗きにいった思い出を語り始める。 「霊験あらたかな神だというのに、祠で覗いた神体は小さな木切れであった…」と語る尊氏に「そうでござりましたなぁ」と懐かしむ直義。 「もっと美しいものかと思うた…ただの木切れか、そう思うた」尊氏の言葉を聞くうち、直義は体内の異変を感じ始める。 「だが近頃思うのじゃ。 小さな、醜い木切れでも、あれは、岩神さまやも知れぬ。 美しゅうはないが、あれも、神やも知れぬとな…!」 焦るように一気に語りかける尊氏。 その途端、「ウウッ!!」とうめいて直義は突っ伏した。 「わけものう、そう思うのじゃ…そう思わねば…そう思わねば…!」 泣きながら話し続ける尊氏の前に、「グオオォォーッ!!」と悶え叫んで直義が倒れこむ。 「直義ッ!直義ッ!!」尊氏は直義を激しく抱きかかえ、「なぜじゃ!なぜ強情を張ったのだ!?」と問い掛ける。 「今さら、桃井たちを見捨てるわけには参 りませぬ…かと申して…このままでは足利家を滅ぼしてしまう…こうするよりほか、ございませぬ!」苦悶する直義は搾り出すように答えた。 「よく…ご決断なさいました…兄上は…ウウッ…大…将軍じゃ…足利家は、これで…安泰じゃ…」 そう言って直義は断末魔の震えを始める。 「兄上…!」「直義ーーッ!!」直義の手がパタリと落ち、目が静かに閉じられた。 尊氏は泣きながら直義を抱きしめる。 「殺した…殺してしもうた…弟を殺したーーッ!!アアーッ!!」 絶叫する尊氏。 右馬介は無言で頭を下げ、うつむく。 「父上…母上…弟…おとうとーーッ!!!」 尊氏は泣き叫びながら直義のむくろをいつまでも抱きしめ続けた。 夜が明けた。 朝もやの中で中庭の枯れた蓮の花を眺める尊氏の顔はげっそりと老け込んでいた。 「わしは…長う生きすぎた…長う生きすぎた…」 と右馬介に語り、うつむく尊氏。 「だが、まだやらねばならぬことがある…わしには、直冬が残っておる…」尊氏はそう言って立ち上がろうとするが、その途端 に崩れるように倒れこんでしまう。 右馬介に支えられた尊氏は「やらねば、ならぬことが…!」とつぶやきながら歩み始める。 「父上が殺されたと言うのはまことか!?」鞆の浦にいた 直冬のもとにも直義死去の知らせが届いていた。 「殺したのは将軍か?」と直冬は急使に問いただす。 2月26日に鎌倉円福寺で毒殺されたとの報告を聞いた直冬は「おのれ…!父上を手にかけおったか!」と泣き顔になり、 「合戦じゃ!合戦の用意を致せ!吉野方と結んで都を攻める!敵は足利尊氏だ!」と家臣たちに出陣の命を下した。 一方の尊氏は直義の死後重い病に倒れていた。 背にできた腫瘍がただれ、尊氏は医師たちの懸命の治療を受けつつ、関東の平定を進めていく。 関東をようやく鎮めて京へ戻ったのは文和3年(1353)秋のことであった。 文和3年12月、直冬は南朝と手を結んで京へと攻め上った。 桃井直常ら各地の直義党も呼応して京へ攻め込んできた。 雪の降る中、門が開き、武士たちが担ぐ輿に乗った尊氏が出陣していく。 尊氏最後の戦いが刻々と迫っていた。 尊氏51歳の暮れである。 京に突入した直冬は東寺に本陣を置いた。 桃井直常も翌文和4年1月に京へ突入。 尊氏はいったん京を捨てて逃れたが、2月に体勢を整えて巻き返し、東山に本陣を置いて東寺の直冬とにらみ合う情勢となった。 小雪の降る尊氏本陣に、武者姿の義詮が「直冬軍を押し返してきた」と意気揚揚と帰って来る。 「大将自ら存分のお働きでござりまするな」と右馬介が讃える と、「右馬介、からかうな」と義詮は笑う。 軍議に赴こうとした義詮は尊氏にそっと近づき「お加減はいかがでござりまする?」と父の病身を気遣う。 「案ずる な」と尊氏は義詮を軍議へ送り出す。 頼もしくなった義詮を見て諸将も「では我らもひと合戦…」と出かけてゆき、本陣には尊氏と右馬介だけが残された。 「右馬介、寒うはないか…?」と老いた右馬介に尊氏が鹿皮と火桶をすすめるが、「それがしも行かねばなりません」と右馬介は断る。 尊氏は右馬介に「ここに居よ」と命じながら、戦で荒れ果ててゆく都を眺めて嘆く。 「この都を、わしがどれほど大事に思うておるか…北条を倒そうと思うたのも、初めてそちとこの都を見たときからじゃ。 この都は、わしに夢を与えてくれた。 藤夜叉に会うたのもこの都じゃ…」 尊氏のまぶたに、白拍子の姿で美しく舞う 藤夜叉の姿、抱き合った夜、駆け落ちしようとした時の思い出が次々とが浮かぶ。 「おん殿がお治めになれば、この都は美しい都になると、そう思うております…」藤夜叉の声が尊氏の耳によみがえる。 「その藤夜叉の子が、この都を焼き払うておるわ…」と尊氏はつぶやく。 「それがしを直冬殿のもとへお遣わしくださいませぬか?」と右馬介が申し出る。 かつて父親代わりをしたこともある自分が直冬に戦を止めるよう言ってくる と右馬介は言い、「根は心の優しいお子でござりまする」と尊氏に直冬を語った。 右馬介は尊氏の前に膝をつき、自分の生涯の夢は一族の仇である北条を倒すこ とだった、それを尊氏のおかげで果たすことが出来たが、その恩返しがまだできていない、と言って 「何とぞ、この右馬介に最後のご奉公を…!」と懇願する。 「会うて直冬が聞き入れぬ時は?」と尊氏が問うと、 「明日までにそれがしが帰参せぬ折は、事やぶれ、どこぞに消え失せたと…そうお思い下さりませ」そう言い残して右馬介は立ち去っていった。 東寺の直冬本陣では、直冬が家臣たちに「明日の早朝、軍議」と言い渡して自室にさがっていた。 直冬は地図を取り出して戦略を練り始めるが、一緒にくるは ずの側近が入ってこず、不思議がって扉へと近づく。 するといつの間にか黒装束の右馬介が部屋に忍び込んでいた。 「推参なり!」と斬りかかる直冬だったが、 右馬介はいとも簡単に刀を奪い、これをねじふせてしまう。 「今日は右馬介としてではなく、具足師柳斎として申し上げたき儀があり、参上つかまつりました」 との右馬介の言葉に、直冬も気がつき「柳斎か、忘れておったわ。 昔そのような者がおったのう」と気を落ち着けた。 「あの赤子が、30年後に都を焼き払うお方になるとは…」と右馬介は言い、都を愛した母上も嘆こう、と直冬を諌める。 「将軍を討つためじゃ!やむをえぬわ」と答える直冬に、「将軍を討つ…?実の父上でござりまするぞ。 討てるとお思いか?」と右馬介は問う。 「将軍は我が養父を殺した!おのれの弟を殺した人でなしだ!」と叫ぶ直冬に、右馬介は言う。 「将軍がそのことで今どれほどお苦しみか、お分かりではござりますまい。 将軍はすでに御舎弟どのを手にかけられたとき、おのれの命は絶ってしまわれたのです!…大きな病を得られ、残されたあとわずかな命を、惜しげものう戦場に駆り出されて切り刻んでおられまする…」 尊氏が病魔に冒されていることを知った直冬は動揺する。 「わしには分からぬ!苦しいのなら戦をやめれば良かろう!何ゆえ弟を殺す!?何ゆえ我が子を敵とす る!?」直冬の問いに右馬介は「執念でござりまする…家を守り、幕府を守り、この都を守る。 その一念でござりまする!」と答える。 「人でなしじゃ!鬼の執 念じゃ!」と声をあげる直冬。 「若殿はいかが?若殿が父上を恨む、その執念はいかが?その恨みがこの都を焼き払うておるのじゃ!これを鬼の執念と申しませぬか!?」右馬介も声を荒らげる。 「これ以上父上を苦しめてはなりませぬ。 お引きくださりませ!」と右馬介は懇願するが、「引かぬ!」と直冬は拒絶する。 右馬介は刀を抜いて立ち上がった。 「わしを斬るのか?」とおびえる直冬。 「無念でござりまする…御免!」泣きそうな声で言って右馬介は刀を振り上げた。 しかしどうしても振り下ろせない。 直冬の顔に、母・藤夜叉に甘える不知哉丸少年の面影が重なる。 そこへ侵入者に気づいた警護の武士たちが駆け込んできた。 武士たちは刀を振り上げている右馬介に一斉に襲い掛かり、めった斬りにしていく。 右馬介は直冬の顔を見ながらドサリと倒れた。 武士の一人がとどめを差そうとすると、「よせ!」と直冬は声をあげた。 「若殿は…勝たれたのじゃ…十分、勝たれたのじゃ…父上を、許しておあげなされ…」 血の海の中で右馬介は直冬に語りかける。 「これ以上…戦うても、みなが苦しむだけでござりまする…なに…とぞ…」 右馬介はガクリと事切れた。 武士たちが右馬介のむくろに取り付いて片付けを始める中、直冬は泣き顔になって顔をそむけていた。 「佐(すけ)どの!伯耆国より援軍が到着いたしました!天の助けとはこのことじゃ!」翌朝、意気あがる桃井直常が直冬の本陣にやって来た。 「一気に攻め 込みましょうぞ!さあ本堂で軍議じゃ…!」と直常が呼びかけるが、直冬は反応しない。 直常が不審に思って声をかけると、直冬は思いつめた顔をして外へ出 た。 「東山を攻め、本陣を落として、それで勝てるか…?わしは将軍を斬れるか…?戦に勝っても、しょせん父上は斬れぬ…」 直冬がつぶやくように言うのを聞いて、直常は驚く。 「空しい限りじゃ…!」直冬はそう言って、そばに並ぶ弓の弦を次々と刀で切っていく。 「もうよい!この戦、ここから先はどうやってもわしの負けじゃ…!父上にとどめは差せぬ」直冬は刀を雪の上に投げ捨て、自らの烏帽子をはずして直常に差し出す。 その口元には、どこか笑みが浮かんでいた。 「敵がひくぞ!」「どういうわけだ!?」東山の尊氏本陣では兵士たちが騒ぎ出した。 直冬軍が突然崩壊し、一斉に京から撤退し始めたのである。 義詮も尊氏の前に駆けつけ、直冬軍の撤退を告げた。 「右馬介は?右馬介は帰参いたしたか!?」と 尊氏が慌てて周囲の者に尋ねるが、誰も勝利に興奮して聞く耳をもたない。 義詮は自分の合戦が功を奏したのだと胸を張り、「我らは勝ちましてござります る!」と尊氏に喜びの声をかけた。 しかし尊氏は全く無表情。 拍子抜けした義詮は、ただちに追撃にとりかかろうとするが、尊氏は「敵は引いたのじゃ。 引くと 決めたのじゃ。 引く者を追うことはない」と追撃をやめさせ、地図を火にくべた。 足取り重く、尊氏は本陣の中を歩いていく。 立ち止まり、ひとり天を仰いで涙する尊氏。 「わしは…また、生き残ってしもうた…!…さらばじゃ、直冬…!!…右馬介…!」 尊氏はそうつぶやくように言って立ち去っていく。 文和4年3月、直冬は都を去っていった。 そして二度と尊氏の前に現れることはなかったのである。 三年後の延文3年(1358)4月。 満開の桜が舞う中、佐々木道誉は尊氏の館を訪ねた。 尊氏から猿楽の宴に招かれたのである。 登子が道誉を出迎える。 尊氏の病はすでに重く、巷では重態の噂も流れていた。 登子と道誉が尊氏のところへやって来ると、尊氏は脇息にもたれてウトウトとしている。 登子が起こし、道誉が「うたた寝は体に毒」と言うと、「寝てはおら ん。 庭を眺めておったのじゃ」と尊氏は怒ったように言う。 一緒に来るはずだった義詮は政治に忙しく遅れてやってくる、と道誉が言うと、登子が義詮も秋には 子が出来るので頑張っているようだと尊氏に語った。 「あれはわしに似ず気短かじゃ…父上の初孫ゆえ、元服の名を考えろとせきたてるのじゃ。 まだ見ぬ孫の、 元服ときたものじゃ」と尊氏は苦笑する。 「何とおつけになりました?」と道誉と登子が尋ねると、尊氏は空中に指で二つの文字を書き、 「義満…義詮の義、思いが満つるの満、満願かなうの満じゃ…義満…!」と力強く言った。 「おお、これは良い名じゃ。 天下が満ちる名じゃ!そりゃあ、義詮どのより立派なお方になるやもしれませぬぞ!」と道誉が言う。 「そう思うか?」と尊氏が道誉の顔を覗き込むと、 「うむ。 行く末、義詮どのから義満どのへ寝返りいたそうよ…」と道誉。 「この卑怯者!」 と尊氏が言い、二人は大笑いする。 猿楽が始まるまで間があるから横に、と登子が勧めるが、尊氏は「これでよい」と脇息にもたれて庭を見る。 「妙な心地ぞ…目が覚めると庭に日が差しておるのじゃ…花が美しゅう咲いておるのじゃ…そこはかとのう、良い心地になるのじゃ…これでよい、もうこれでよい…政も足利家の行く末も忘れて、これでよいと、そう思うのじゃ」 と尊氏は二人に言う。 「わしが手に入れたいと思ったものは、もそっと大きなものじゃ。 もそっと美しいものじゃ…。 だが庭の花を見て、これでよい、と…」 尊氏の言葉に、登子が「長い間、戦いくさで家を留守にした罰でござりまする。 少しは家にいていただかねば」と言うと、道誉も「これからは御台どのに孝行いたさねばのう」と続ける。 「十分しておる!」と怒ったように言う尊氏に、「まだまだ足りませぬ」と登子。 道誉は夫婦のやりとりに笑って、舞台の様子を先に見てこようと腰を浮かせる。 すると「判官どの」と尊氏が呼び止め、道誉の前に両手をついた。 「行く末、義詮をよろしゅう頼みまするぞ…幕府を頼みまするぞ」と尊氏は道誉を見つめる。 「わしは…頼りにならん男ぞ…?」と道誉が言うと、尊氏は答える。 「いや…三十年前、初めて会うた時から、友じゃ、と思うておった…生涯の友じゃ、と…!」この言葉に道誉は一瞬震え、目を潤ませる。 「か、かなわぬな…!」道誉は苦笑して立ち上がり、「先に行っておりまするぞ」と逃げるように立ち去っていった。 「三十年前と申せば…登子が殿に初めてお会いしたのも、三十年前でござりましたな」と言いながら登子は尊氏の肩に羽織をかける。 「三十年前か…長い旅をしたのう…」と尊氏が桜を見ながらつぶやくと、登子も並んで桜を眺めながら言う。 「お一人で、いくさいくさの長旅を…でもようやく、登子のもとへ戻っておいでになりました…」登子は尊氏に晴れやかな笑顔を見せる。 尊氏は手を伸ばし、登子の手を強く握り締めた。 桜の舞う中、猿楽の舞が始まり、尊氏、登子、道誉は並んでこれを見物する。 舞を眺めていた尊氏はまたウトウトと夢見心地になっていく。 「今となっては敵も味方も無い…のう、判官どの…みな同じじゃ…」とつぶやくように言う尊氏。 その尊氏のまぶたに、多くの人々とのさまざまな思い出が次々と浮かんでくる。 「三十数年たっても、思いは同じだ…わかっておる…」高氏に語りかける父・ 貞氏。 高氏の前で 顕子と戯れて仏の絵を真っ赤に塗りつぶしていく 北条高時。 「尊氏の申す通りじゃ…天下を率いるは肩が凝る。 朕も、肩凝りじゃ…ワハハハハ」 屈託なく笑う 後醍醐天皇。 「大事なもののために死するは、負けとは申さぬものと心得おり候…」 花夜叉一座の車引きに身をやつした 楠木正成。 「尊氏どの、出あえ!一騎打ちにて、この勝負を決せん!」尊氏に一騎打ちを挑む 新田義貞。 高氏と一緒に都見物を楽しむ若き日の 一色右馬介。 「高氏どのがいやなら致し方のないこと…嫁とりの話は強いては申しますまい」 怒れる高氏をかわす母・ 清子。 「攻める時は攻める!引くときは引く!戦には仕掛け時というものがござるのじゃ」兄に語る若き日の 直義。 「誰が何と言おうと手放さん!わしから政を奪いたくば、わしを殺してからになされ!」唾を飛ばし絶叫する直義。 「…みな…共にこの世を生きたのじゃ…共に生きたのじゃ…」 尊氏のつぶやきを聞く登子と道誉。 尊氏は舞をみつめながら、またうつらうつらと目を閉じていく。 尊氏の見る幻の向こうに、池のそばで金色に輝く美しい建物が浮かんでくる… 1358年4月末、足利尊氏は54年の波乱に満ちた生涯を閉じた。 …それから40年後、尊氏の遺業は孫の 義満の手によって大輪の花を咲かせた。 南北二つの朝廷は統一され、天下は太平の世となる。 そして都は北山文化に彩られた美しい都となり、栄華をこの世にとどめるのである…。 足利将軍代々の墓所となった等持院の、夢窓疎石が造った庭園の一角に尊氏の墓がある。 等持院所蔵の尊氏自筆の達磨図、足利将軍歴代の木像を紹介。 全部自分で書いたら大変なことになっちゃうよなぁ、とつくづく思ったものである。 この最終回は第49回にあたるが、総時間は1時間20分もあり、実質2回分の内容である。 大河ドラマの第一回と最終回が通常より長いのは毎度のことだ が、まるごと2回分の時間というのは特に長いほう。 「本編内容」をみればわかるように、無理やり完結にするためにこの2回分の時間をフルに使って話を押し 込んだ節もあるが、おかげでこの最終回は第一回同様やたらに内容が濃くなる結果となった。 合戦シーンなど使い回しが多くナレーションで済ましているところ も目に付くが、散りばめられた名セリフ・名場面の数々、これぞ名作大河ドラマの最終回にふさわしい、と僕が何度も見返して感動に震える最終回である。 それにしても最終回の出演リストは超豪華。 もちろん回想シーンがあるためなのだが、これまでの物語全体を振り返り、名残惜しみつつ幕引きをするには絶妙のアイデアであったように思う。 冒頭いきなり佐々木道誉と赤松則祐が南朝について挙兵した、と言って尊氏と義詮が相次いで京を離れる。 これを直義は謀略と悟って慌てて北陸へ逃げてい く…いやほんと、狐と狸の化かし合いというところだが、これ、ほとんど史実というのが恐ろしい。 付け加えるなら話はもうちょっと複雑怪奇で、道誉と則祐は 尊氏らと示し合わせるだけではなく、実際に南朝から綸旨を受け、尊氏討伐の勅命を受けていた形跡がある。 彼らにしてみれば流動する情勢の中でどうなっても大丈夫なように立ち回っていたというあたりが真相ではないだろうか。 北陸へ逃げ出す直義らに従わず、離脱したのが先に尊氏に怒鳴りつけられ恐怖したという細川顕氏である。 直義の腹心と見られていた彼が直義のもとを離れ、義詮のもとで京都守護の大役に任じられるという変わり身の速さをみせたことに世の人はあきれ返ったという。 直義らが大慌てで北陸へ逃れた時のエピソードとして、史実とはしっくりこないのだが古典「太平記」は面白い話を記している。 夜が明けると直義一党が京から姿を消していることに驚いた義詮は尊氏の館へ駆けつけ、 「昨夜の騒ぎはただ事ではありません。 多くの兵が京から出て行ったそうですから、もしかしたら引き返して京に攻め込んでくる恐れもあるのでは?」 と尊氏に進言した。 ところが尊氏はどこ吹く風、 「運は天にあり。 何も恐れる必要はあるまい」と 言いながら歌合せの短冊を取り出して心静かに歌を詠んでいた、というのである。 このとき尊氏は「道誉討伐」と称して出陣していたと思われるので、こんな状 況が実際にあったとは考えにくいのだが、ここまで何度か現れていた尊氏の「甘い観測」「理由不明の余裕の態度」がこのエピソードにもうかがえてなかなか捨 てがたいものがある。 今度は北朝の総帥であるはずの尊氏自身が南朝に「降伏」してしまう (仲介役は赤松則祐であったらしい)。 「天下三分」と言われた当時の状況の中で二つの敵と同時に戦うことは不可能だった。 尊氏としては直義と戦わねばならぬのなら南朝と手を組むほか選択肢は 無かったのだ。 ドラマでは幕府の存続だけを条件として提示しているが、実際には幕府存続すらも考慮せず「元弘の段階に戻す」ということで話をつけてしまっ ている。 もちろんそんな約束を実際に守る気も無かっただろうが。 それは南朝も同じことで、ホントにこのあたりはみんなそろって狐と狸の化かし合いである。 親房も大変な謀略家だからなぁ。 南朝と交渉する一方で、尊氏は直義との交渉も粘り強く続けた。 交渉役にあたったのはドラマ同様に細川顕氏だったが、実は最初の交渉の際に顕氏は交渉に失敗しただけでなくまた直義陣営に舞い戻ってしまっている。 その後ドラマでも合戦シーンがある近江北・八相山での合戦 (またしても平原戦映像使いまわしのオンパレード。 湊川のシーンの背景にCGで無理やり建物を描き込む荒技も見せている)で尊氏側が勝利し、その後の交渉の中で細川顕氏、畠山国清らが直義のもとを離れて尊氏側についた。 佐々木道誉の本家筋である佐々木氏頼のようにこの情勢の中でどっちにつくか迷いに迷ったあげく出家して高野山に入ってしまう気の弱い人もいた。 このあと尊氏が体の異常、それも背中に腫瘍が出来ている事実に気がつく。 尊氏の死因が「癰(よう)」と呼ばれる背中の腫瘍であったことは公式の記録に載 る事実である。 彼が死ぬのはこの時点から7年後の延文3年(1358)のことだが、どうも晩年の数年間はずっと病との戦いを続けていたようだ。 尊氏は「直義を討て」との南朝の綸旨を受け取ると、10月4日、義詮に京の留守を任せて関東へと出陣した。 古典「太平記」では尊氏・直義両軍の最後の戦 いを駿河で行われた「薩タ(土垂)山合戦」をハイライトとして描いている。 このとき尊氏側に属した下野の宇都宮・小山一族も鎌倉目指して南下し、迎え撃っ た桃井直常と激戦している。 結局尊氏側の連戦連勝で鎌倉は攻め落とされ、直義は伊豆へ逃げ込んで捕らえられた。 このあたりの展開は、まるで16年前の「中 先代の乱」と瓜二つである。 ドラマでは例によってこのあたりの展開は映像使いまわし大集合。 まぁ同じ映像ばかり出ては余りに芸が無いと思ったか、燃える炎 をバックに地図で展開を説明し、そこに鎌倉攻防戦やら第一回の小山軍が足利庄に攻め込んでくる映像などがかぶさり、直義がガックリとする映像を入れて表現 していた。 直義が鎌倉で急死したのは観応3年2月26日。 公式には「黄疸で死去」と発表されたという。 一応「毒殺ではないか」と書いているのは古典「太平記」のみ で、史実と確認できるわけではない。 が、状況からして「毒殺」が真相だろうと多くの歴史家も考えている。 ドラマのように尊氏自らが毒を盛ったかどうかは不 明だが、尊氏自身の決断であったことは間違いないだろう。 ドラマでも描くように状況は切迫していて、「天下三分」の一つのトップである直義をこのまま放置しておくことは出来なかった。 これまでの紛争で敗れた者 も、命さえ長らえれば逆襲の機会がいくらでもあったことは尊氏もよく分かっていただろう。 それが弟の毒殺を実行した背景には違いないだろうが、ドラマで触 れていない部分もあえて指摘しておきたい。 直義が急死した2月26日は、ずばり高師直の一周忌にあたるのだ。 これが意図的なものであるとすると、尊氏は 「師直を殺された報復」として直義を同じ日に殺したとも解釈できる。 だとすると尊氏と師直の関係もまた意外に濃いものであったとも考えられる。 ま、そうした詮索はともかく、ドラマの直義毒殺シーンは余りにも強烈だった。 ここまで凄まじいシーンは、大河ドラマ史上でもまれではなかっただろうか。 尊氏役の真田広之、直義役の高嶋政伸、まさになりきり入魂の大熱演である。 毒を仰ぎ断末魔の悲鳴をあげ「兄上は大将軍じゃ…」とうめく直義、肉親を殺す罪 悪感にさいなまれて「弟を殺した!」と大絶叫する尊氏。 最終回ってだいたいおとなしく静かに幕を閉じるもんなんですけどねぇ…ドラマ中屈指の壮絶場面が最 終回に来ているという点でも「太平記」は凄かった。 第一回からほぼ出ずっぱりだった高嶋直義、余りにも壮絶な退場である。 なお、尊氏自身は直義を殺したことをどう思っていたかはこちらが勝手に想像するほかはない。 例の清水寺の願文にも見えるように、尊氏がこの一つ違いの弟 の才能を大いに認め、厚く信頼し、そして恐らく深く愛していたであろうことは間違いないと思う。 ドラマの直義も言うように、この弟がいなかったらお人好し の尊氏は何も出来なかった可能性すらある。 そんな弟を敵として戦い、自らの手で殺さねばならなかったことに、いくら常識外れの尊氏でも冷徹に振舞えたとも 思えない。 ドラマでも触れているが、直義の死の直後、尊氏は重い病に倒れて一時は重態に陥っている。 すでに病身だったと思われる尊氏だが、弟を手にかけた ことに激しいショックを受けて重態になったのでは、と感じるのは僕だけだろうか。 また、尊氏は自らの死の2ヶ月ほど前に突然 「直義に対し従二位の追贈をしてほしい」と朝廷に申請して公家達を当惑させている。 結局この追贈は実現したのだが、これも自らの死期を悟った尊氏が、弟にせめてもの罪滅ぼしをしようと思った行動ではなかっただろうか。 ドラマでは割とあっさりと触れる程度だったが、実はこの前後の南朝側は畿内と関東で同時に大反攻作戦を実行していた。 北畠親房は尊氏の「降伏」を受け入 れたが、尊氏は「直義と戦っている間は動くな」と暗に求めていた。 親房もこれに応じたはずなのだが、てんで守る気はなかったらしい。 尊氏が直義を討つため に関東へ下っているスキに、親房は次々と政権奪回の策謀をめぐらせていた。 まず尊氏との合意に基づいて北朝の崇光天皇とその皇太子は廃位され、年号は南朝の「正平」に統一された (正平の一統)。 尊氏もこの時期文書に「正平」年号を使用している。 さらに北朝の「三種の神器」を「偽物」と呼びながらしっかり接収(笑)。 北朝に仕えていた公家達は抵 抗するどころか、あわてて賀名生詣でを始めて生き残りを図る始末。 なにせ北朝の定めた官位は全て無効にすると南朝側は公表したのだ。 そしてさらに武士の所 領安堵も建武政権時代に戻すと言い出した。 「おいおい、話が違う」と義詮が慌て始めたころには、親房はついに軍事的に京を奪回する作戦を開始していた。 1352年2月26日、直義が鎌倉で死んだ その日に後村上天皇が賀名生から河内へ移動し、さらに摂津の天王寺まで進出、本格的に京へ戻る体勢に入った。 翌月の閏2月20日、北畠軍と楠木軍が義詮の 不意をついて京を急襲、義詮はたまらず近江へ逃げ出して、南朝軍はあっさりと京都奪回に成功してしまう。 北畠親房は実に17年ぶりに京都の土を踏むことが 出来たのである。 ちなみにこの南朝軍急襲の際に、細川頼之の父・細川頼春が壮絶な戦死を遂げている。 このとき、義詮はまたしてもヘマをやらかしている。 そう、上皇たちと天皇をほったらかして逃げ、南朝軍に彼らを捕らえられてしまっているのである。 南朝 側は北朝の上皇2人、天皇と皇太子をそろって拉致し、そのまま賀名生へ連れ去ってしまう。 もちろん尊氏に「北朝」を再建させないためである。 義詮はただちに南朝の年号を廃棄して「観応」年号を復活させ、約束を破った南朝を討つよう武士たちに呼びかける。 これに呼応して佐々木道誉や赤松則祐と いった南朝と通じた大名らも南朝を見限り京都へ突入、義詮らは京都を奪回した。 親房率いる南朝がつかの間の京都奪回を実現したのは一ヶ月の間に過ぎなかっ た。 幕府軍の総攻撃を受けた後村上天皇は武士と同じく甲冑に身を固めてほうほうの体で賀名生へと落ち延びていくハメになった。 この撤退の途中でドラマでは 井上倫宏さんが演じていた四条隆資が戦死している。 京都を奪回した義詮だが、困ってしまったのは担ぐべき上皇も天皇も皇太子も、さらに三種の神器までみんな南朝軍に持っていかれてしまったことである。 や むなく仏門に入ることになっていた光厳上皇の皇子・弥仁親王を新天皇に即位させることとし、神器の代わりに後村上が撤退した陣の跡から回収した神器を入れ る箱を使い、上皇の代わりに光厳の母に「治天の君」の役割を代行させて (このおばあさん、義詮を物凄く恨んでいたそうだが道誉らになんとか説得されたそうな)どうにか北朝を再建した。 この新天皇が後光厳天皇である。 この京の情勢と同時進行で関東でも南朝軍の反攻作戦が実行されていた。 ドラマでも右馬介のセリフでチラリと触れられているが、信濃にいた宗良親王 (第10回で出てきたんだけど誰も覚えちゃいないだろうなぁ)が南朝の征夷大将軍に任じられて関東へ進撃、奥州から北畠顕信の軍勢も南下して関東を目指し、新田義貞の息子たち義宗・義興らも新田党を率いて挙兵し鎌倉に迫った。 重態から回復したかどうかの尊氏は新田勢を迎え撃つが、武蔵野の小手指原で戦って苦戦 (このとき尊氏が義宗らに追われてまたまた自害を覚悟したと「太平記」は記している)、結局新田勢の一部は鎌倉を占領した(閏2月18日)。 このあと尊氏は碓氷峠の戦いで南朝軍を破ってやがて鎌倉も奪回(3月12日)。 南朝に仕えていた高時の一子・北条時行が捕らえられ処刑されたのはこの時のことである。 東西で同時に行われた南朝の大反攻作戦も一時は目を見張るほどの戦果をあげたが、しょせんは底力の無い奇策に過ぎず、一ヶ月で東西同時に崩壊してしまう こととなった。 この大作戦を敢行して一時は栄華の夢を見た南朝の総帥・北畠親房だったが、この大作戦が崩壊した翌年の1353年4月に賀名生の地で失意の うちにこの世を去った。 享年62歳である。 直義が死に、南朝の大反攻作戦が失敗に終わった後、「天下三分」の形勢の鍵を握ったのは尊氏の子であり直義の養子である足利直冬だった。 ドラマでは触れ ていないが、この時期直冬は九州を追われて中国地方に移動しており、桃井や山名ら旧直義党の大名に呼びかける一方で南朝と手を組んで、京都を奪回して勢力 を取り戻そうと図っていた。 直冬党と南朝軍は1353年6月に再び京都を占領し、義詮は今度はさすがに後光厳天皇を忘れずに連れ出して京から逃れた。 この 逃走は大変なものだったようで、細川清氏(和氏の子)が後光厳を自ら背負って山越えしたり、道誉の長男・秀綱が野伏に襲われて戦死したりしている。 結局こ の時も一ヵ月ほどで義詮は京都を奪回、9月にはしばらく関東にあった尊氏も京へ戻ってきた。 このときまた尊氏の病状が悪化し、周囲を心配させている。 そして翌1354年、ドラマでも描かれるように直冬自ら軍を率いて京へ突入し、尊氏と京の争奪戦を繰り広げる。 この戦いも結局一ヶ月ばかり後に直冬軍が 京を撤退し、尊氏側の勝利に終わるのだが、直冬軍の急な撤退は補給が続かなくなったためだろうと言われている。 しかしそれだけでもなかったようだ。 直冬と その取り巻きの中に、どこか尊氏と戦うことにためらいがあった可能性が捨てきれないのだ。 前にちょこっと触れているが、直義の子として扱われながら実は尊氏の子である直冬は、かなり屈折した思いを実父・尊氏に抱いていたことは否定できないよ うだ。 直冬は文和4年(1355)1月に京都を占領した直後、本陣とした東寺に戦勝の祈願文を奉納している。 たまたま後世に残ったこの祈願文には直冬の密 かな心情が赤裸々に記されていた。 それを口語訳してみよう。 「我が父である将軍は敵陣におわします。 これに対して一歩を進めることは罪深いことであり、心が砕け散るような思いであります。 この戦いはあくまで将軍を取り巻く悪臣どもを罰するための戦いであり、親に逆らって自分のためのみに義旗を掲げたものではありません…」 実父・尊氏に愛されず、なかなか認知されなかった末に叔父直義の養子となり、その養父をも実父に殺された直冬。 しかしその心の中に実父・尊氏に対する強 烈な情愛を潜めていたことが、この祈願文からうかがえる。 この願文を以前尊氏が清水寺に納めた願文と並べてみると、やっぱりこの二人「親子」だな、と思っ ちゃうのは僕だけだろうか。 こうした直冬の心情から逆に察すれば、尊氏が直冬に寄せた思いも決して憎悪ばかりではなかったのではないかと、僕は思う。 ま、 そこまで行かなくても直冬や諸将の心に、尊氏を攻めることへの後ろめたさがどこかあったことは確かなのだろう。 古典「太平記」は別の逸話を記している。 尊氏との決戦を行うべきか否か、直冬は諸将を引き連れて石清水八幡に赴き供物を捧げて神託を受ける。 巫女が告げた神のお告げは 「たらちねの お山を守る 神なれば このたむけをば 受くるものかは」 (お山を守る神である八幡神であるから、この供物は受け取ることができぬ。 「お山」に「親」がかかり、「この」に「子の」がひっかけてある) という歌であった。 つまり親を攻める子の願いを聞き届けることは出来ないよ、と答えたわけである。 このお告げを聞いた諸将は「こりゃダメだ」というのでゾ ロゾロと都から引き上げてしまった、と「太平記」は記すのだ。 そんな無茶な、と思ってしまう話だが、上の祈願文のことを考えるとあながち真実から遠い創作 では無いとも言える。 このことを念頭に置いて、ドラマにおける直冬撤退の展開を見ると、なかなかよく考えたなぁと僕などは感心している。 直義同様に第一回からほとんど出演し ている一色右馬介が命を捨てて直冬を説得し、その結果直冬は「父には勝てぬ」と引き上げていく。 これはこれでリアリティのある創作なのだ。 なお、一色右馬 介は吉川英治が創作したキャラクターだが、「私本太平記」ではドラマのような死に方はせず、正成の死後世を捨て、尊氏死後の物語の終幕に再登場する形と なっている。 足利直冬がその後二度と尊氏の前に現れなかったのは事実だが、かといって武士をやめてしまったわけでもない。 石見で山名氏の厄介になりながら延々と暮ら しており、ある時期までは潜在的な反幕府の旗頭として警戒される立場にあった。 しかし次第にその影響力も弱まり、中国地方を転々として、1366年に出し た書状を最後に消息不明となってしまっている。 足利家系図は1387年に亡くなったと記しているが、1400年ごろまで長寿を保って生きていたとの伝承も ある。 思えば初代将軍の子でありながら、最初から最後まで謎に満ちた人物である。 それにしても「また生き残ってしもうた…!」と嘆く老いた尊氏の姿がなんとも寂しく、哀しい。 とにかく主人公をこれでもかと痛めつける最終回である。 だが、さすがにと言うべきか、ドラマは最後の最後に尊氏に「救い」を与えている。 満開の桜を眺めながら「これでよい…」と勝手に納得する尊氏(爆)。 い や、そうとでもしないと「救い」を与えられなかったということでもある。 ドラマでは最後の戦いから3年が経ち、ひとまずの平和が訪れているように描いてい るが、実際には尊氏は死の直前まで南朝の懐良親王が席巻している九州への遠征を考えていた。 最後の最後まで心が休まらなかったというのが実態なのである。 とまぁなんだかんだ言いながらも、僕はこのドラマのこのシーンは大好きなのだ。 まず尊氏がこれから生まれてくる子に「義満」と名をつけてしまう (まだ男かどうかも分からないだろうに…)。 尊氏が果たしえなかった仕事をこの孫が果たすことになるので、未来への希望を託す形でドラマをしめくくろうという狙いですね。 尊氏が亡くなった4月30日 から4ヶ月弱経った8月22日、まるで生まれ変わりのように足利義満は誕生している。 ま、当然ながら尊氏が義満の名前を決めていたなんて事実はありませ ん。 それにしても「義詮どのから義満どのへ寝返りいたそうよ」と言う道誉のセリフは絶品。 そしてそんな道誉に、尊氏は後事を託す。 「初めて会うた時から、友じゃ、と思うておった…生涯の友じゃ、と…」のセリフには道誉だけでなく見ているこち らまでがウルウルしてしまう。 しかし第三回の道誉初登場シーンを見返してみよう。 高氏クンは立花論議をぶっ飛ばす道誉に呆気にとられているようにしか見え ないのだが(笑)。 しかし思い返せば要所要所で美味しい場面をさらっていく人でしたね、道誉って。 実は「南北朝最大の怪物」佐々木道誉の本領発揮は尊氏の死後、義詮時代と言っていい。 義詮時代に相次いだ幕府内の政変の陰には常に佐々木道誉の暗躍があ り、南朝・北朝双方との交渉も道誉があたっていた。 その一方で数々のバサラ行為で世の人々の耳目を驚かせ、様々な文化芸能のパトロンとなってそれらを花開 かせてもいる。 数々の騒動を起こしながらも道誉は足利家に逆らうことだけは絶対にせず、結果的には彼がみせた様々な暗躍は統一政権としての「室町幕府」の 体制を強化していく方向であったとも思える。 彼が政界を引退するのは1367年に義詮が死んだ直後で、このあと幼君義満を補佐して政治をみる細川頼之を管 領職に推薦したのはほかならぬ道誉であったとの見解もある。 後に名宰相とうたわれる頼之に幕府の将来を任せて安心したのか、引退した道誉は悠悠自適の余生 を近江でおくり、1373年にこの世を去っている。 北条高時の側近からスタートしたこの怪物の死に、当時の人は 「前代以来の人物が亡くなった」と感慨にふけったという。 そんな「その後」のことを知っていると、このシーンもいっそう深みが増すことだろう。 そして道誉が立ち去った後の登子と尊氏の久々の夫婦の対話も味わい深い。 「ようやく登子のもとへ戻っておいでになりました…」のセリフの部分、登子のテーマ曲が高らかに奏でられるのだが、本文に音楽を入れられないことがこれほど悔しいと思ったことはない(笑)。 大団円は桜の舞う中で猿楽の舞を見ながら、尊氏がこれまで出会った人々との思い出を回想する形となった。 この「人選」はごもっともと思いつつ、僕が入れ てほしかったなぁと思う人物は、日野俊基、赤橋守時、護良親王、赤松円心、高師直…あたりかなあ。 特に師直は入れてほしかった。 それとお詫びというかお断りなのだが、ラストの本文では実際のドラマとはやや異なる表現をさせていただいた。 実際のドラマでは尊氏がうつらうつらと目を 閉じるところで「尊氏は54年の波乱の生涯を閉じた」とのナレーションが入り、「その後義満によって大輪の花を咲かせた」と続いて金閣が映るのだ。 ここで 尊氏が目を開くカットが重なり、最後の最後にはドラマの主題曲 (たぶん尊氏のテーマなのだろう)が 高らかに鳴る中、貫禄十分に姿勢を正す尊氏の姿を映してエンディングとなっている。 つまりたぶんに映像的表現であって文章で書くといまいち感じが出ないの だ。 そこで「たぶん狙いはこういうことだろう」という形でちょいとばかりいじらせてもらった次第。 いや、当時金閣に両目のアップが重なったのを見たとき 「義満の目か?」と思っちゃった思い出があるもので。 前にも書いたがこのドラマ、病死の場合「事切れる」シーンは皆無なんですね。 うつらうつらとしている うち尊氏の目に金閣が見えたってことなんだろうと解釈させていただきました。 このドラマ、義満のことに触れることで「天下は太平になりましたとさ、めでたし、めでたし」と気楽に終わってしまうのだが、実際にはそこまでに大変な すったもんだがあったことは言うまでも無い。 だいたいナレーションでも「40年後」って言ってるもんね。 しかし古典「太平記」だって義詮が死んだ後に 「細川頼之が管領になり、天下は太平になりましたとさ、めでたし、めでたし」と唐突に終わってしまっているので、まぁ似たようなもんかもしれない。 あーーーーーーっ、長かった!この回だけでも随分長く書いちゃいましたねぇ。 ともあれ前代未聞 (だと思う)の一本の大河ドラマ全編の内容紹介、解説をしてしまうという無謀な企画をおっぱじめた私に、暖かい励ましと熱い感想を贈っていただいた多くの皆様、この企画がちゃんと完結をみたのはひとえにみなさんのおかげです。 ここに厚く御礼申し上げます。 で、念を押しておきますが私はもうこんな無謀なことは二度とやりませんよ(笑)。 次は「真田太平記」か「元禄太平記」か「台所太平記」か「平原太平記」かと勝手な憶測も一部で飛んでおりましたが (後ろ二つは分かる人少なそう)、NHKが再び南北朝ものを大河でやらない限りこんなことはしないでしょう。 他の大河をこのノリでやってみたいという方はジャンジャンやってください。 私も読み手で楽しむのが一番楽ですので。 で、次なる企画はこちらになります(笑)。

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