熊の子見ていた核戦争。 熊之巣

クマ

熊の子見ていた核戦争

昭和20年(1945年)8月14日、この日は熊谷市民にとって永久に忘れることのできない日である。 午後11時30分頃、房総半島の南方より侵入してきた数十機のB29は、空襲警報下(当夜は警戒警報出ず)の熊谷を襲った。 最初の2機は偵察のためか、市街地上空を北方へ去り、すぐ引き返して来たとおもうと、すでに佐谷田、久下方面は火に包まれていた。 そして高度3000〜5000メートルの上空から、昼をあざむく照明弾とともに、夕立雨のように落下する無数の油脂焼夷弾とエレクトロン焼夷弾によって、市街地は瞬時にして火の海と化した。 火に焼かれる者、傷つき倒れる者、逃げまどう人たち、子を探す親、父母を求める子どもなど、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄であった。 当時のアメリカ軍は、熊谷市は、中島飛行機株式会社の飛行機部品(機体及びエンジン)製造の中心地の一つとして考えており、また中島製品の最も重要な分配センターの一つと考えていた。 そのことが、熊谷市が空襲を受けた理由のひとつと考えられる。 また、軍の施設として、埼玉県所沢市に次ぐ第二の操縦教育の学校となる熊谷飛行学校があった。 当初は操縦教育を行っていたが、本土決戦が近づくにつれ飛行部隊として編成換えが行われ、特攻隊操縦者の養成の任務を受けた。 敗戦後は米軍の進駐が行われ、米軍が基地から撤退した現在では、航空自衛隊熊谷基地となっている。 多くの消防団員、警防団員は、我が家の焼けるのを見棄て、家族の行方も求めず、全力を尽くして消火につとめ、市民の避難誘導に当たったのである。 市街地の3分の2を焼き尽し、死者266名の多きを出した火は、翌15日午後5時ごろようやく消えたが、余燼(よじん)はなお数日にわたってくすぶっていた。 街は一面の焼け野原となり、多くの犠牲者が星川に、防空壕の中に、道路や溝に焼け死んでいた。 特に星川付近は100名近い焼死者が重なっており、悲惨の極みであった。 そして皮肉にも空襲を受けた翌日終戦となり、埼玉県下唯一の「戦災指定都市」の指定を受けた。 あと1日早く戦争が終わっていれば多くの死傷者を出さずに済んだのではないだろうか。 『熊谷市史 通史編』、『新編埼玉県史 資料編20』、『戦前戦中戦後の熊谷の様子』・『戦前戦中戦後の熊谷の様子』 市民の生活状況としては、日常の生活用品である人々の衣服や食糧事情等に厳しさが増した。 衣服は、男性はカーキー色の国民服、女性は着物を縫い直して上着ともんぺの上下に分かれている標準服を着るようになった。 また、両手を開けておかないといざという時に困るので、雑のうを常備し、三角巾や薬、手ぬぐい、少しばかりの食べ物を入れておいた。 食料等生活必需品は切符配給制となり、物が手に入りにくい状況となった。 1〜1. 5メートルほど掘った土を俵に詰めた土嚢(どのう)を盛り上げ、街路樹等でカモフラージュしたものである。 通行中に攻撃にあった時とっさに身を隠す目的で作られたもので、各家庭、職場でも急場しのぎの防空壕が盛んに作られ、空襲に備えた。 また、家々の前には万事に備え、防火水槽、バケツ、火はたきなどが用意された。 熊谷市の軍需産業に関連する施設としては、昭和58(1983)年に廃線となった東武熊谷線がある。 これは軍の要請により建設された国策線であり、群馬県太田・小泉地区にある中島飛行機工場に勤務する工員と資材輸送のために要請されたものだった。 地区名 罹災世帯数 罹災人員 死亡者 当時の世帯数 本町 782 3195 95 1144 元町 569 3306 27 911 宮町 315 1277 4 956 荒川 135 540 0 668 筑波 475 1999 22 905 銀座 395 1743 22 825 下石 417 1793 20 1036 石原 358 1565 30 942 東熊谷 358 910 14 982 中西 167 15 0 767 箱田 13 47 0 892 佐谷田 32 久下 太井 万吉 その他 266 注)市街地のみのまとめ• 被災面積358,000坪(市街地面積の74%)• 被災戸数3,630戸(全戸数の40%)• 罹災者15,390人(うち、死者234人、負傷者3,000人) 焼失した公共建物等 熊谷市役所、北武蔵地方事務所、市公会堂、熊谷郵便局、熊谷地方裁判所、熊谷土木工営所、専売局熊谷出張所、埼玉県繭検定所、中央農林金庫熊谷支所、県立熊谷高等女学校、市立熊谷西国民学校、県立熊谷醸造試験所、武州銀行熊谷支店、日東製粉熊谷工場、武蔵製麦熊谷工場、富士光機熊谷工場、理研工業(株)熊谷工場、秩父鉄道(株)本社、寺院六箇所等 『熊谷市史 通史編』 団 目標設定爆撃 爆弾投下機 投下時間 爆撃高度 照準 目標名 種別 最初 最終 最低 最高 目視 レーダー補正 レーダー 313 熊谷市街 P 11 15:23 16:35 15200 19000 1 - 10 314 熊谷市街 P 60(1)注)1 15:31 16:39 14000 17000 9 7 44 熊谷市街 P 11(2)注)2 15:24 15:58 14200 16100 1 1 9• 注) 時間は米軍使用のもので、日本時間より約8時間早い。 注)1 は風力測定機1機• 注)2 は先導機2機Pは第一次目標を示す 団 爆弾の種類 信管のセット 搭載量 投下量 投棄 帰還時搭載 発 トン 発 トン 発 トン 発 トン 313 AN-M17A1-500 I. 5000ftj上空で散開 471 117. 8 358 89. 0 115 28. 6 - - 314 M-19-500 I. 5000ftj上空で散開 1480 296. 0 1372 274. 4 108 21. 6 - - N-M47A2-100 I. 対物接触 6791 234. 1 6321 218. 0 459 15. 8 - - AN-M56-4000 L.. 瞬間信管 6 12. 0 6 12. 0 - - 11 0. 3 M-46フォット・フラッシュ 近接信管 28 270. 27 - 1 - - -• 注)爆撃の選択…作戦番号329-熊谷市街 この作戦遂行のため、M-47焼夷弾とE-46焼夷集束弾が合せ搭載された。 M-47爆弾は目標にぶつかった時爆発する信管を先端につけ、焼夷集束弾は目標の5000フィート上空で(子爆弾が)散らばるように信管がつけられた。 全ての爆撃が25フィート等間隔で投下されることになっていた。 『新編埼玉県史 資料編20』 空襲を受けた翌8月15日正午、「終戦の詔(みことのり)」が放送されたが、おそらく多くの罹災者はこれを聞くことはなかったであろう。 焼失した市役所は旧町役場に移り、臨時復興課を設けて罹災者の救助、焼跡の整理等の活動を始めた。 また、市議会議員を中心に「新生熊谷建設同志会」(のちに「熊谷市復興後援会」)を作り、熊谷の復興に懸命の努力を傾けた。 被災者の住宅に関しては、木材の産地が近くにあったこと、建築資材の払い下げの便等があったことなどにより比較的容易に木材が入手できた。 また、群馬、秋田県等から木材等を入手することにより応急住宅、簡易住宅等の建設に力を注ぎ、昭和21(1946)年から25(1950)年の間に市営住宅758戸、一般住宅3,416戸を建設した。 また、周辺郡市からの多大な寄付金により、多くの戦災者への救護費等に充てることができた。 昭和21(1946)年2月戦災復興院により係官が熊谷に派遣され、熊谷戦災復興計画基本方針が樹立された。 方針としては、1. 市民生活の向上、2. 地方的美観の発揚、3. 気候、風土、習慣に即応する等、特色ある都市建設を目標に復興計画を定め、街路計画、公園緑地計画、下水道計画、復興土地区画整理を重点項目として復興計画を進めた。 街路計画では新たに都市計画道路を決定し、都市の骨格として近代的都市にふさわしい道路建設を目指し、土地区画整理事業では罹災面積は約116. 4ヘクタールであったが、約165. 7ヘクタールの広大な地域を区画整理の区域として申請し、何度かの区域変更を経てこの困難な事業を推進し、近代都市としての復興を遂げた。 『熊谷市史 通史編』 熊谷市民にとっては忘れることのできないあの悲惨な戦災も、今では市内にはもうその痕跡は見られない。 けれども、当時をしのぶことのできるいくつかのものがある。 5-1. 灯籠流し 熊谷仏教会は、星川保勝会と共催で、昭和25(1950)年以来、毎年8月16日の夜、星川で「灯籠流し」を行っている。 星川は戦災犠牲者の最も多かった(100名近い)ところで、街の中央部を流れて市民の憩いの場でもある。 この日は多くの市民が星川に集い、各自で灯籠を星川に流し、夜遅くまで、いつまでも死者の霊を慰めている。 また、昭和50(1975)年8月16日、すなわち戦災30周年を期して、熊谷市戦災慰霊碑建立奉賛会は終戦前夜の空襲で死没した266名の霊を慰め、永遠の平和を祈るため、星川上に「戦災慰霊の女神」像を建立した。 この像は、北村西望氏が「熊谷直実像」に続いて、北村氏自らの手によって造られたものである。 像の高さは1. 725メートルである。 この女神像は死没した人の遺族はもちろん、多くの市民からの浄財によってできたものであり、「灯籠流し」の時だけではなく、星川で憩う人々や多くの人々によって崇められている。 『熊谷市史 通史編』 <展示風景> 5-3. 熊谷市戦没者戦災死没者追悼式• 期日:10月上旬• 場所:熊谷市立文化センター• 主催:熊谷市(担当 福祉部福祉課)• 内容:戦没者戦災死没者の方々のご冥福を心からお祈りするとともに、悲惨な戦争という史実をかみしめ、恒久平和を願い、戦没者戦災死没者追悼式を挙行している。 5-4. 熊谷市平和展• 開催時期:毎年8月中旬頃• 場所:熊谷市役所1階ロビー• 主催:熊谷市(担当 庶務課庶務係)• 内容:写真パネル、戦時中の衣料品、日用品等を展示。 また、戦後50周年事業で作成した「戦火の熊谷」等のビデオ放映を実施している。 5-5. 平和バスの運行• 開催時期:毎年8月上旬頃• 場所:熊谷市役所出発• 主催:熊谷市(担当 庶務課庶務係)• 内容:核兵器の無い恒久平和への願いを込めて平和資料館等を見学する。

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総務省|一般戦災死没者の追悼|熊谷市における戦災の状況(埼玉県)

熊の子見ていた核戦争

もともとシリコンバレーの中には、黙示録的なシナリオを信じており、その準備に膨大な時間と労力、そしてコストをかけることを厭わない若手IT長者が多数いることで知られています。 軽井沢の山の上に、地上1階、地下3階の堅牢な巨大建造物を建てた ビル・ゲイツも、そのひとりです。 この建造物の地上部分の外観は別荘ですが、地下は広大な核シェルターのような造りになっているという話も。 米国の高級誌『ニューヨーカー』の2017年1月30日版には、「」と題する長い記事が掲載されています。 Reddit共同設立者 スティーブ・ハフマンの場合 彼がインタビューした人々の中のひとりは、 レディット(Reddit)の若い共同設立者でCEOの スティーブ・ハフマン(Steve Huffman:33歳)でした。 サンフランシスコ在住のスティーブ・ハフマンは、大きな青い目、薄茶色の髪、落ち着きのないいかにも好奇心旺盛な態度の、やや落ち着きのない雰囲気を持っています。 バージニア大学では、ダンス競技の花形でした。 また、彼はルームメイトのウェブサイトにハッキングするなど、悪戯が好きな男です。 スティーブ・ハフマンは、彼が信じている 迫りつつある災厄に「備えて」います。 彼が集中しているのは、サンアンドレアス断層の地震、核戦争、パンデミックというよりは、 米国政府の特殊な構造が生み出す「大規模な崩壊」です。 自然災害ではないのです。 ハフマンは言います。 「私は 2、3台のオートバイをもっている。 たくさんの銃と弾薬もある。 それに、 豊富な食物も。 これだけあれば、ある程度の期間は家にこもることができる」 シリコンバレーのエリートの半数が「保険」をかけている 『ニューヨーカー』のによると、ハフマン曰く、シリコンバレーで成功した彼の エリートの友人のうち、半分以上が、「最後の審判の日」のために、何らかの「保険」をかけているとのこと。 「保険」とは、ビル・ゲイツのように 他国に隠れ家を造ったり、あるいは 農地や自家発電システムを建設したり、大規模な経済災害と戦争が一度に襲ってきたとしても、ある程度は快適に避難生活が送れるように準備しているということです。 こうしたサバイバル生活のノウハウを持ち、未曽有の大災害に備えている人々を プレッパー(prepper)と呼んでいます。 彼らは、全米で300万にとも400万人とも言われています。 それは、このようなライフスタイルを実践している人々です。 によれば、ハフマンは「最後の審判の日」を生き抜くことができるように、2015年11月に レーザー眼科手術を受けたようです。 理由は、「 世界の終わりがやってきたとき、コンタクトレンズやメガネを手に入れることは困難になるだろうから」というものです。 ハフマンは、世界最大規模のソーシャル・ニュースサイトと掲示板「レディット(Reddit)」を立ち上げた人間として、それが大衆の中に恐怖をどれだけ広げてしまうのか痛いほど理解しています。 「 大衆が、ソーシャル・メディアの中でつながったとき、パニックなるのは避けられない」とハフマンは言います。 例の ピザゲイト事件で逮捕されたエドガー・ウェルチ容疑者が、その典型だと言います。 ピザゲイトは、ウィキリークス(WikiLeaks)」が11月初めに暴露したメールが発端となり、ハフマンのソーシャル・メディア「Reddit」や、ネット掲示板「4chan」などを介して広まった情報(デマとされている)を鵜呑みにしてしまった米国のオルタナ右翼(alt-right)が、ワシントンD. の ピザ店「コメット・ピンポン」に銃を持って押し入った事件です。 ウィキリークスが大統領選の直前、ヒラリーを支援する5万通に及ぶ民主党のメールを公開したところ、その中にピザ店「コメット・ピンポン」のオーナーであるアレファンティス氏の名前があったというのが、犯行の動機です。 そのメールの中には、ヒラリーが私用メールアドレスを使ってやりとりしていた大量のメールが含まれており、ワシントン・ポストによれば、「ヒラリーと小児性愛者グループとの関連」をうかがわせる内容が多数出てきた、とのことです。 トランプ政権で国家安全保障担当の大統領補佐官に任命された マイケル・フリンが、大統領選の投票日前の11月3日に、「 判断は自己自身で、ニューヨーク市警がヒラリー氏のメールをマネーロンダリングや児童性犯罪で告発……必見!」とツイートしたことも、騒動を大きくした原因のひとつになりました。 その様子を見ていたハフマンは、「 いとも簡単にデマを生成し、人々をパニックに陥れることができる」と愕然としたのです。 ニューズウィークその他の米国の主流メディアは、これを「 デマ」「 フェイク・ニュース」と報じていますが、とはいえ、現実に、毎年多数の幼児が誘拐されたり失踪しており、そのたびに CIA首謀者説が流されてきたことも事実です。 また、キュレーション・サイトのバズフィード(Buzzfeed)によれば、「特にシリコンバレーとニューヨークでは、政治的な異なった立場の人々が次々と裕福になっており、想定し得る終わりの日に備えている」ということです。 バズフィードの記事は、どういうわけか、すぐに削除されてしまいました。 ページ内の商標は全て商標権者に属します。 銘柄の選択等、投資の最終決定は、ご自身の判断でなさるようにお願いいたします。 また、本サイトに掲載している全ての記事およびデータについては、その情報源の確実性を保証したものではありません。 本サイトの提供情報を利用することで被った被害について、当社および情報提供元は一切責任を負いません。 万一、本サイトの提供情報の内容に誤りがあった場合でも、当社および情報提供元は一切責任を負いません。 本WEBサイトの記載内容は、予告なしに変更することがあります。

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熊の子見ていた核戦争

冷戦時代、われわれアメリカ人は米ソが意図して核戦争を始める不安に絶えず怯えて暮らしていた。 が、実は第3次世界大戦より、核兵器で うっかり自国を吹っ飛ばす不安の方がはるかに強かった。 核事故には縁起でもない軍事用コードネームがいろいろついている。 例えば「Broken Arrow(折れた矢)」、「Faded Giant(消えた巨人)」、「NUCFLASH(核の閃光)」など。 このような事故は実言うとこれまで何十回も起こってるのだが、ここでは米国内で起こった5大事件に絞って紹介しようと思う。 旧ソビエトまで含めたら何時間あっても足りないからね。 ロシアは、核潜水艦が行方不明になるか、核爆弾積んだまま潜水艦が行方不明になるか、核潜水艦の原子炉がするか、以上3つ全部が一度に起こる、という事故が1週間置きぐらいのペースで起きていたからね。 Kompetentnyh? Nyet. 1950年8月には加州フェアフィールド・スーサン空軍基地(旧称)から爆撃機10機がグアムに向け飛び発った。 第2次世界大戦で日本に投下した原爆の大体2倍の破壊力を持つ核爆弾「Mark IV(Mark 4)」を各機搭載して。 離陸後すぐ、B-29のうち1機に エンジン故障が発生した。 機上にいたのはロバート・トラヴィス(Robert Travis)将軍だ。 着陸用ギアが引っ込められないことに気づいた将軍は、直ちに基地に引き返すよう機体にコマンドを出した。 機体高度が下がってゆくのに気づいたパイロットは、基地の住宅をなんとか回避しながら、基地北西端に突入。 この最初の衝撃で乗員20名のうち、将軍はじめ12名が死亡した。 機体は炎上し、Mark IVの装備の一部だった5000ポンド(2268kg)分の通常兵器が爆発、地上にいた7名が死亡した。 爆弾に核分裂カプセルを装備していたら、死者の数はたちどころに6桁に跳ね上がる危ないところだった。 空軍は事件をひた隠しにし、訓練機に搭載した通常爆弾の爆発、ということにした。 殉職した将軍の名に因み、同基地が名称を「トラヴィス空軍基地」に改めたのは、事故発生からわずか数ヶ月後のことだった。 「Broken Arrow」は、核戦争勃発の危険性のない核事故を指す。 増炉フェルミ1号、1966年 -- Faded Giant ジョン・フーラーの著書タイトル『We Almost Lost Detroit』とその恐ろしい表紙、この核の悪夢を歌うGil Scott-Heronのグルーヴィーなスロージャムの影響で一躍、「デトロイト全市焼失の危機」の夜として不滅の名を刻んだ事故。 フェルミ1号の事故は、作業ミス、ずさんな安全基準、単なる原子炉建設の経験不足が原因で起こった。 設計技師たちが冷却システムに変更を加える際、変更内容を記録に残さなかったため、原子炉で働くエンジニアたちも液化ナトリウムの密閉タンク内に分散プレートが余分に入ってるとは知らなかった。 炉心溶融が起こると、原子炉燃料が過熱し、冷却システムで対処できる温度を超えてしまう。 すると、それを取り巻くインフラ(密閉タンク、冷却システム、ひどい時には炉の床まで)も溶け出す。 事故が起こった1966年当時まだそんな言葉は生まれていなかったが、「原子炉が溶けに溶け、しまいには地面貫通して地球の裏側の中国まで溶けちゃうんじゃないの?」(技術的にはありえない)という発想から「チャイナ・シンドローム」という言葉も生まれた。 フェルミ1号は本当はデトロイトとトレドの間にあるのだが、本のタイトルが『We Almost Lost Toledo』ではデトロイトほどのインパクトは出せなかったと思う。 このように「Faded Giant」は、兵器以外の核事故を指す(こんな暗号だれが実生活で使うんだろう? 皆目見当つかないけど)。 タイビー島、1958年 -- Broken Arrow ジョージア州タイビー島沖。 ちょうどジョージア-サウスカロライナ州境界線のある辺りの、港町サバンナからそう遠くない海底の約10フィート(3m)の 沈泥の下に水素爆弾がひとつ埋まっている。 そこに落ちて、もうかれこれ50年以上になる。 1958年、が訓練飛行中、空中衝突事故に遭った。 機体には「Mark 15」という、爆薬400ポンド(181kg)と高濃縮ウランを実装した全長12フィート(3. 7m)の軽量な水素爆弾が積んである。 事故機のクルーは、これから不時着するって瀬戸際にこんな物騒なもの運んでたんじゃ堪らんと判断、海に捨てていいか聞いて投棄許可を取り付けた。 爆弾は海面に触れても爆発することもなく海に飲まれて消え、それっきりその姿を人目に晒すことはなかった。 爆弾が完全に戦闘状態にあったかどうかをめぐっては若干意見の食い違いもある。 一部の報道ではそうだったように書かれているが、空軍の正式な書類にはダミーのカプセルを搭載していたと記されているのだ。 爆弾捜索の試みも何度か行われたが、周辺地質からの自然放射のため捜索は困難を極めた。 もし仮に戦闘状態で爆発していたとしたら、サバンナの街は今ごろ間違いなく消し飛んでいたはずだ。 アイダホ・フォールズ、1961年 -- Faded Giant 「スリーマイル島(TMI)事故の話は?」と思う方もいるだろう。 確かにあれもひどい事故だった。 住民のいる地域に放射性ガスも漏れたし。 でも、 アメリカ核事故史上最も脳裏に焼きついて離れない恐怖体験をひとつ選べと言われたら、 アイダホ・フォールズ以外考えられない。 それにこの事件のことは比較的知られていない。 事故にあった「SL-1」はアイダホ州アイダホ・フォールズにほど近い、海軍の訓練用原子炉である。 1961年1月3日夜、高熱を知らせるアラームが鳴り、そばにいた緊急要員が現場に急行した。 が、放射レベルがあまりにも高く制御ルームに近寄るのもままならない。 こうして1時間半も足止めになった後、ようやく入った時には係員2名が被曝した後だった。 うち1名は瀕死の状態だったが間もなく死亡。 原子炉の建物から外に運び出した後も遺体そのものの持つ放射能があまりにも高く、結局ふたりの遺体は鉛とコンクリートの墓に埋めるほかなかった。 話にはまだ続きがある。 事故から数日後、救助隊が第3の運転技師の遺体を発見したのだ。 その男性は原子炉の上に立ってる時に事故が起こったらしく、爆発の力で制御棒(control rod:CR)が跳ね上がって胸部を貫通、天井に磔になっていた。 事故原因の鍵は、核反応レートを制御するクルーの能力にある。 持続可能な核反応を維持するには、核分裂のたびに中性子を必要充分な数だけ生成し、さらに多くの原子にぶつけ、そこでまた核分裂を起こす状態にキープしないといけない。 この制御は、中性子が核分裂を起こす確率を操作することで行う。 どう操作するのか?... だが、これは主に中性子を無害に吸収する素材の棒をコントロールすることで行う。 つまり原子炉に制御棒を入れれば入れるほど反応は減速するというわけ。 折悪しくSL-1では整備点検中で、主制御棒を数インチだけ引き抜くはずだったが、間違ってほとんど引き抜いてしまった。 この原子炉は大型の制御棒を1本だけ使う設計なので、たったひとつの操作ミス(制御棒をほとんど全部引き抜くこと)でも核反応は瞬時に臨界を超え、核分裂が次々起こって指数関数的に増える状態に陥ってしまう。 それが起こってしまった。 エネルギー出力がすさまじい勢いで増大し、冷却水が蒸発し、原子炉本体もところどころ蒸発し、大爆発が発生。 爆発そのものの影響で核反応は停止となった。 僕はずっとあの(デトロイトの核の悪夢を歌った)Gil Scott-Heronが『We Almost Lost Idaho Falls(アイダホフォールズ全市焼失の危機)』って本書かないかなと思って期待してるのだけど...。 NORAD、1979年 -- NUCFLASH未遂 ソビエトが本当に核攻撃してきたら迎撃に使うシステム。 そんなものでソビエト核攻撃のコンピュータミュレーションなんかするもんじゃないと、NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が思い知った事件。 ミサイル防衛の要を担うNORADの元に、ロシア核爆弾の本格的な砲列が米国に向かっている緊急事態を示すサインが入ってきた。 これを受けNORADは直ちに完全戦闘状態の核兵器を積んだ飛行機複数をスクランブル発進させ、防弾装備の大統領緊急特別機も空に飛ばした(大統領の搭乗は間に合わなかったが)。 指という指がボタンを叩く。 飛行クルーの司令官たちは攻撃開始の合図を待った。 こうして緊迫の6分が経過。 その間、誰も第3次世界大戦が本当に起こったかどうか確かなところは知らなかった... しかも妙なことに誰ひとりとして米露大統領直通電話(ホットライン)の「赤い電話」でソビエトに真意を尋ねようとする者もいなかった。 結局、高度早期警戒レーダー&サテライトから「ミサイル検出ゼロ」との報せが入って誤解は氷解。 訓練用テープが何かの手違いで流れ、警戒シグナル誤発動を誘導したことがわかった。 軍の専門用語で「NUCFLASH」は核戦争勃発の原因になる核爆発を指す。 おまけ:ダルースの熊 空軍基地の金網によじ登る熊を見て、ある警備員が警報を鳴らした。 近在の各基地に中継の際、伝達ミスで「intruder alert! (侵入者に警戒!)」を「Nuke Russia Now! (ロシアへ直ちに核攻撃せよ!)」と伝えてしまった。 訂正した頃にはもう、核爆弾を装備したジェット機が何台も滑走路に出ていつでも出動できる体制になっていた。 --- こんなの怖くもなんともないと思うかもしれないが、ここで紹介したような事故は 米国側だけでも他に何十件とある。 あのキューバミサイル危機のことだってここでは触れていない。 悲しい教訓だが、剥き出しの攻撃より恐ろしいのは、 能力不足と操作ミスなのである。 ソース: Farmer, James H. "Korea and the A-Bomb. " Flight Journal, Dec. 2010. "The SL-1 Reactor Accident. "Nuclear Accidents. "Criticality Accidents. 関連: UPDATE:表記を一部訂正しました。 Great thanks to 氏。 Ed Grabianowski(/satomi)• Tags :•

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