サッチャー 政権。 イギリスは如何に「英国病」を克服したか?

サッチャリズムとは

サッチャー 政権

敬虔なメソジスト教徒の家に生まれたマーガレットはグランサムの市長も務めた父の アルフレッドをとても尊敬。 彼女が政治の世界に関心を持つきっかけを作りました。 オックスフォード大学に進学したマーガレットは、化学を専攻し1947年に卒業します。 マーガレットは化学関連の会社に就職する一方、政治家になるための機会を探していました。 24歳の時、マーガレットはイングランド南部のケントで下院選挙に出馬しますが落選。 翌年の選挙にも敗北してしまいます。 1953年、サッチャー夫妻は双子に恵まれ、サッチャーは育児と政治活動に奔走します。 1953年、サッチャーは弁護士資格を取得し育児と仕事の両立を目指します。 と同時に、女性の権利の拡張を主張しました。 前年にエリザベス2世が即位したことと相まって、女性の地位に関する関心が高まっていたこともその理由でしょう。 1959年、サッチャーはロンドン北部にあるフィンチリー選挙区に 保守党候補として立候補。 ついに、 初当選を果たしました。 議員となってから11年が過ぎた1970年、この年の6月に行われた総選挙で保守党は政権を奪還。 財政が悪化する中、教育関連予算の削減を迫られたサッチャーは児童に対する牛乳の無償配給を廃止します。 この決定は多くの人々の反発をまねき、「 ミルク泥棒」と批判されてしまいました。 イギリスは16世紀以降、世界各地を植民地として支配してきました。 広大な植民地を持つイギリスはイギリス帝国と呼ばれることもあります。 しかし、第一次・第二次の二つの世界大戦で、イギリスによる植民地支配は崩れました。 第二次世界大戦後の1947年、イギリスの最重要植民地だったインドやパキスンタンが独立。 1940年代から1950年代にかけて、イギリスが所有していた南アジア、東南アジアの植民地も次々と独立していきました。 また、1957年のガーナの独立を皮切りにアフリカの植民地も次々と独立。 1970年代以降は中東やオセアニア、カリブ海の国々も独立していきました。 かつてのイギリスの繁栄を保証していた植民地の独立は、イギリスの社会・経済に大きな影響を与えていきます。 第二次世界大戦の末期、ドイツの降伏で一足早く戦争が終結したヨーロッパでは、イギリスの総選挙に注目が集まります。 結果は、 チャーチル率いる 保守党の大敗。 ポツダム会談参加中だったチャーチルは帰国し、内閣総辞職します。 かわって組閣したのが 労働党の アトリーでした。 アトリー内閣は国民が原則無用で医療サービスを受けられる国民保健サービスの確立を目指します。 アトリー内閣が実施した社会保障政策は「 ゆりかごから墓場まで」というスローガンのとおり、充実したものとなりました。 しかし、この高福祉政策は巨額の財政支出を伴うもので、政府は巨額の財政支出を迫られます。 また、アトリー内閣は1945年から51年の間に石炭・電力・ガス・鉄鋼・鉄道・運輸などの 重要産業を次々と国有化する社会主義的な政策を実施しました。 1960年から70年代、イギリス経済は長期的停滞に見舞われます。 これを イギリス病 英国病 といいました。 その原因はいくつか考えられます。 一つ目は、保有していた多くの 植民地の喪失です。 二つ目は、 重要産業の国有化による競争力の低下。 国有化により、経営努力が減退した企業は国際競争力が低下し、輸出が減少。 イギリス貿易は赤字額が増大します。 三つめは 労働運動の激化。 労働環境の改善や賃上げを求めるストライキが頻発し、自動車産業などは大きなダメージを受けます。 加えて、1973年のオイルショックの発生により経済の低迷と物価の上昇が同時に起きる スタグフレーションまで発生してしまいました。 このようなイギリスの状況は「 瀕死の病人」とさえ評されました。

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サッチャーとは

サッチャー 政権

敬虔なメソジスト教徒の家に生まれたマーガレットはグランサムの市長も務めた父の アルフレッドをとても尊敬。 彼女が政治の世界に関心を持つきっかけを作りました。 オックスフォード大学に進学したマーガレットは、化学を専攻し1947年に卒業します。 マーガレットは化学関連の会社に就職する一方、政治家になるための機会を探していました。 24歳の時、マーガレットはイングランド南部のケントで下院選挙に出馬しますが落選。 翌年の選挙にも敗北してしまいます。 1953年、サッチャー夫妻は双子に恵まれ、サッチャーは育児と政治活動に奔走します。 1953年、サッチャーは弁護士資格を取得し育児と仕事の両立を目指します。 と同時に、女性の権利の拡張を主張しました。 前年にエリザベス2世が即位したことと相まって、女性の地位に関する関心が高まっていたこともその理由でしょう。 1959年、サッチャーはロンドン北部にあるフィンチリー選挙区に 保守党候補として立候補。 ついに、 初当選を果たしました。 議員となってから11年が過ぎた1970年、この年の6月に行われた総選挙で保守党は政権を奪還。 財政が悪化する中、教育関連予算の削減を迫られたサッチャーは児童に対する牛乳の無償配給を廃止します。 この決定は多くの人々の反発をまねき、「 ミルク泥棒」と批判されてしまいました。 イギリスは16世紀以降、世界各地を植民地として支配してきました。 広大な植民地を持つイギリスはイギリス帝国と呼ばれることもあります。 しかし、第一次・第二次の二つの世界大戦で、イギリスによる植民地支配は崩れました。 第二次世界大戦後の1947年、イギリスの最重要植民地だったインドやパキスンタンが独立。 1940年代から1950年代にかけて、イギリスが所有していた南アジア、東南アジアの植民地も次々と独立していきました。 また、1957年のガーナの独立を皮切りにアフリカの植民地も次々と独立。 1970年代以降は中東やオセアニア、カリブ海の国々も独立していきました。 かつてのイギリスの繁栄を保証していた植民地の独立は、イギリスの社会・経済に大きな影響を与えていきます。 第二次世界大戦の末期、ドイツの降伏で一足早く戦争が終結したヨーロッパでは、イギリスの総選挙に注目が集まります。 結果は、 チャーチル率いる 保守党の大敗。 ポツダム会談参加中だったチャーチルは帰国し、内閣総辞職します。 かわって組閣したのが 労働党の アトリーでした。 アトリー内閣は国民が原則無用で医療サービスを受けられる国民保健サービスの確立を目指します。 アトリー内閣が実施した社会保障政策は「 ゆりかごから墓場まで」というスローガンのとおり、充実したものとなりました。 しかし、この高福祉政策は巨額の財政支出を伴うもので、政府は巨額の財政支出を迫られます。 また、アトリー内閣は1945年から51年の間に石炭・電力・ガス・鉄鋼・鉄道・運輸などの 重要産業を次々と国有化する社会主義的な政策を実施しました。 1960年から70年代、イギリス経済は長期的停滞に見舞われます。 これを イギリス病 英国病 といいました。 その原因はいくつか考えられます。 一つ目は、保有していた多くの 植民地の喪失です。 二つ目は、 重要産業の国有化による競争力の低下。 国有化により、経営努力が減退した企業は国際競争力が低下し、輸出が減少。 イギリス貿易は赤字額が増大します。 三つめは 労働運動の激化。 労働環境の改善や賃上げを求めるストライキが頻発し、自動車産業などは大きなダメージを受けます。 加えて、1973年のオイルショックの発生により経済の低迷と物価の上昇が同時に起きる スタグフレーションまで発生してしまいました。 このようなイギリスの状況は「 瀕死の病人」とさえ評されました。

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【サッチャリズムとは】具体的な政策や社会への影響をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド

サッチャー 政権

サッチャーの炭坑スト対策は、完璧であった。 サッチャーは、スカーギルら共産党分子が支配する労組が、どうやってストを貫徹させるのか熟知していた。 そしてそれが国民に受け入れられるモノではなく、いずれは破綻するものだと分かっていた。 73年、石炭労組がヒース政権打倒に成功したのは、全国炭坑ストによって石炭不足を発生させ、石炭に頼るイギリス経済を麻痺させることによって国民の不満を政府に向かわせたからだった。 つまり炭坑労組が石炭というイギリスの基盤エネルギーの生産・供給をコントロールできたからこそ、それを人質にして政権を揺さぶったり、年間10億ポンド(3000億円)もの巨大な助成金をせしめることができたわけだ。 だからサッチャーはまず、炭坑依存度を下げた。 炭坑労組が政権を打倒できた物理的原因は、イギリス社会が石炭(炭坑)に大きく依存しているからで、まず石炭や炭坑に依存しない社会を作ることが必要だ。 なのでサッチャーは秘密裏に石炭備蓄を進め、さらに不足時には石炭を緊急輸入できる手筈を整えた。 火力発電所も石炭以外の重油で発電できるように改良し、石炭供給が止まっても、電力供給が止まらないようにした。 北海油田の開発が進み、石油が採掘できるようになったのも、サッチャーには大きく幸いした。 こうして、 炭坑労組がストを行っても、イギリス経済が止まらないように体勢を整えた。 79年の「 不満の冬」によって、地滑り的大勝利を得たサッチャー保守党。 安定多数の議席を得ていたサッチャーにとって、労組を叩くだけならいつでも可能であった。 しかしサッチャーは、イギリス社会には根本的な改革が必要であり、そのためには周到に準備を進め、時期を選ぶことが重要だと考えていた。 たとえば労組を叩くにも、それなりの正統性が必要だし、それを国民に浸透させる時間も必要だと考えていた。 そうしなければまた、労組によって国の経済が脅かされる時代に戻りかねない。 だから石炭備蓄量がまだ十分でなかった第一次政権では、炭坑労組との対決を先延ばしにした。 不満の冬によって、国民の労組に対する目は厳しくなっていたが、基幹産業の労組が社会インフラを握っている以上、まだまだ油断ができなかったのだ。 というわけで23の不採算炭坑の閉鎖を提案してみたモノの、炭坑労組が全国ストをちらつかせると、すぐに提案を引っ込めて、5%もの賃上げに応じてストを回避したわけだ。 サッチャーはそうして炭坑労組との対決を先延ばしにし、その間に 基幹産業の労組がストを行っても、国民生活に大きな影響が及ばないように法律を改正した。 労働組合に支配されていた個人を解放し、労働組合の利益のために搾取されていた労働者に、権利を与えた。 すなわち「 労働組合の民主化」である。

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