大槻 玄沢。 ビールを愛した近代日本の人々・大槻玄沢|歴史人物伝|キリン歴史ミュージアム|キリン

大槻玄沢の画像、名言、年表、子孫を徹底紹介

大槻 玄沢

JR前の大槻三賢人像 正面向かって左側の大槻磐渓 時代 後期 - 初期 生誕 元年() 死没 11年(、享年78) 改名 六二郎・平次郎・平次・磐渓・磐翁 戒名 尚文院愛古磐叟居士 墓所 主君 藩 西洋砲術指南取扱 学頭 藩主学問相手近習格 等 氏族 江戸大槻家 父母 父: 継母: タホ 兄弟 ・しん・みの・?・いな・ 磐渓 妻 光・淑・悦 子 春・順之助・陽・・・雪・和歌 大槻 磐渓(おおつき ばんけい、元年() - 11年())、名は清崇、後期からにかけて活躍した。 文章家としても名高い。 の、学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客としての結成に走り、後はとして謹慎幽閉された。 父はの。 子にと(で『』編者)がいる。 親戚に明倫養賢堂の学頭、がいる。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] (享和元年)、木挽町の幕臣浦上氏の邸内で生まれる。 父・は、彼を六番目の次男であったことから 六二郎と名づけた。 3歳の頃、母がで没しているが、のち後妻タホの手で育てられた。 1816年(文化13年)、して 平次郎と称する。 この頃、父・玄沢とその蘭学仲間・が雑談中、を盛んにするために玄沢が訳した蘭語()を、当時の学術用語である体の文章に翻訳させるため、磐渓をとして育てようと話し合ったというエピソードがある。 実際に磐渓は、漢学者としての道を辿ることになる。 また、父玄沢の医学の師匠・に跡継ぎが無く、玄沢に磐渓をに欲しいと頼んだことがある。 玄沢はこの話をするため息子を呼んだところ、磐渓は頑なにこれを拒んだ。 師匠家の頼みであるため、玄沢は説得を続けたが磐渓は結局折れず、後に玄沢は「あれはなかなか見所がある」と嬉し泣きしたという。 学問修行 [ ] 現在は泰心院の山門として移築された正門 磐渓はここで学び、幕末には学頭を務めることになる 磐渓の本格的な学問修行は、、16歳のころ(昌平黌)でを務めるのに入門したことから始まる。 ここで磐渓は高弟のから文章を、から経学を学んだ。 葛西は父の玄沢と懇意でもあった。 翌、17歳で昌平黌に入寮し、27歳までの11年間、(断続的ではあるが)ここで学び続けることになる。 春、父の弟子・を伴って、初めて郷里の 中里村へ帰郷し、一族のや、仙台藩の・を訪ねている。 また、江戸から大槻家を訪ねていたとここで初対面を果たした。 22歳の頃、仙台藩校のに入る。 ここで学頭を務める親族のに抜擢され、指南役見習となった。 しかしこの職は普通30-40歳程度の学者が就く職であり、これを行き過ぎとみた父玄沢の意見により、翌、磐渓は江戸の昌平黌に戻った。 ところが、翌にはまた明倫養賢堂へ戻っている。 また、このころの学友にがいる。 関西遊学 [ ] このように、郷里の東北には縁があったものの、未だを越えたことがなかった磐渓は、、27歳の頃、父の取り組む蘭学の修行を念頭に、・を経てへの遊学を決意した。 この旅程が、彼の旅日記『西遊紀程』にまとめられている。 この旅程で磐渓は多くの学者達の教えを受けながら長崎へと向かったが、当時一介の書生であった磐渓が高名な学者達と対面出来たのには、有名な蘭学者・大槻玄沢の息子であったという要因も無視できない。 、でのとの出会いは特筆に値する。 ここで磐渓の漢文を見た山陽は、磐渓に「後来有望なり」との評価を与え、酒杯を共にすることとを望んだ。 ここで頼山陽は、完成間近の『』の原稿を磐渓に見せた。 しかし酔った磐渓は、あろうことか大学者である頼の原稿に対して批評を始めてしまい、頼の一喝をくらってしまう。 しかし、頼も磐渓の批評を気にしていたのか、彼の指摘を受けて『日本外史』構成を改定した。 磐渓は後にこのことを「自分の放言も、暗に山陽を助けたことになった」と述懐している。 また同日、山陽の弟子であり、美濃蘭学の祖と呼ばれるの娘・とも出会っている。 細香に聡明さと柔和さを感じた磐渓は、後に彼女への思いを漢詩「和細香女史見寄三首」に書き残しており、そこには彼女への慕情が読み取れる。 の宿にて、で父玄沢が病に倒れたとの知らせを受け、急遽長崎遊学を中断し、急ぎ江戸へ帰還した。 玄沢は既にに没していた。 翌7月、改めて蘭学修行のために長崎遊学を実現させた。 しかし、当時長崎はの影響で騒然としており、オランダ人との接触ができなかったため、結局蘭学修行は出来ずに翌年江戸に帰った。 こうして磐渓の蘭学修行は実現せず、また、頼山陽の賛辞を受けたこともあり、最終的に蘭学ではなく漢学を志すことになった。 ただ、この長崎滞在中にと出会っていたことが、後にひとつの転機となった。 仙台藩士時代 [ ] 、32歳のころ、磐渓は学問修行が認められ、仙台藩の正式な藩士(江戸定詰)となり、兄・の庇護から離れ一家の主人となった。 12月に妻・光(みつ)を迎えたが、虚弱なため翌年没し、家庭生活はわずか半年に終わった。 、35歳で再婚し、淑(よし)を娶った。 よしとの間には3男4女の子宝に恵まれ、この中に次男・や3男・がいる。 にが流行すると、このせいで長男・順之助を亡くしてしまう。 天然痘の脅威に強い関心を抱いた磐渓は、の研究で功のあった蘭方医・の助言に従い、子ども達に種痘を試みた。 これは、まだ迷信の強い江戸で悪評判を呼び、「大槻はオランダ気違いで子どもを殺す」と非難を呼んだ。 砲術修行 [ ] 、の(現在の)で、の指導のもと洋式軍の訓練が行われた。 砲撃演習も行われ、これを見学していた磐渓は「漢学を本業、西洋砲術を副業として文武両刀たらん」と西洋砲術を学ぶ決意をする。 、秋帆の門人・から西洋砲術の皆伝を受け、2月には藩から「西洋砲術稽古人」を命じられた。 11月にはが西洋式の試し撃ちを行ったが、磐渓はこの手助けを行っている。 11月には藩から「西洋流砲術指南取扱」を命じられ、12月にに入門している。 開国論 [ ] ペリー一行の上陸 また、この頃から磐渓は開国論を唱え、には・へ開国論「献芹微衷」(けんきんびちゅう)5編を建白した。 彼の主張は 親露開国論であり、以後、知識人の間ではイメージの悪かった・ではなく、古くから交流のあったに接近しつつしようという考えである。 そもそも、家柄により幼いころから異国の文化に触れる環境で育ったため、磐渓には西洋人を「夷敵」ととらえる発想はなかったようである。 しかし、当時の世論は圧倒的にが優勢であり、磐渓の態度は多くの非難を浴びた。 したには、幕府が諸藩に対応の助言を求めたことに応じ、藩命で見学のため2度へ出張している。 その後に開国論をまとめた「米利幹議」(めりけんぎ)、「魯西亜議」(ろしあぎ)2つの外交建白書を著した。 わが国には自国の戦いでありますが、彼らには補給線がありませんから、戦争にはならないでしょう。 万里の波濤を越え、断固たる決意で渡来したからには、少しは御聞届の必要がありましょう。 (後略)」(加藤祐三『幕末外交と開国』講談社、2012年)などであるという。 にがに再来航すると、藩命を受けて横浜の日米応接所に出向いた。 応接所警備を任されていた参謀長の佐久間象山の助けもあり、仕事ははかどり、その過程で彼は漁船に乗って黒船に近づき、中国人通訳・に漢詩を送ったこともあった。 この話を聞きつけたは、に乗り込むための奇策を磐渓に相談したというエピソードがある。 後に松陰はへの密航事件をとがめられ、投獄されている。 戊辰戦争期 [ ] 明倫養賢堂学頭 [ ] 9月、磐渓は仙台への帰還を命じられている。 これには、藩の情報通として藩主に重宝されている磐渓を暗殺されたの二の舞にはさせたくないという意図があった。 翌10月、による幕府への推挙も辞退して帰国の途に着いた。 幕末の仙台藩においては、討幕派の・・らと、佐幕派の・・・そして大槻磐渓らとの激しい抗争が展開された。 、将軍が上洛すると、仙台藩は朝廷からの藩単独での上洛令と、幕府からの将軍に随従する形での上洛令との、矛盾する2つの命を受けた。 いずれをとるかで両派の間で激しい論争が起きたが、藩主は、佐幕派の意見を受け入れて将軍に随伴して上洛した。 磐渓もこれに随行し、攘夷論が沸騰する京都において捨て身の覚悟で開国論を主張するつもりであった。 しかし、彼の身の安全を心配した但木土佐のはからいにより、別命を受け待機することになる。 その後藩校の明倫養賢堂で学頭添役(副学頭)として教鞭をとった。 10月、前学頭・大槻習斎の死を受け明倫養賢堂の学頭にも就任し、その発言はの執政に対しても大きな影響力を持った。 実際に、戊辰戦争期でのにおける諸戦争を指導した仙台藩の但木土佐、玉虫左太夫などは磐渓の教え子に当たる。 ところが、明倫養賢堂の改革案などが部下の反対にあうなど、経理運営は上手くいかず、に陥ってしまう。 には病気を理由に学頭を辞して隠居するが、2月に藩主の「学問相手近習格」に任ぜられ、再び出仕する。 3月には林学斎から再び幕府への推挙があったが、またも辞退している。 主戦論 [ ] 奥羽越列藩同盟旗 、を機に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩には追討の命が下った。 仙台藩ではこれに対処するため、への建白書が起草され、磐渓がこの草稿を書いた。 既に東征軍が出発していたため、建白書は時期遅しとして討幕派の藩参政・の抑止にあい朝廷に届けられずに終わったが、これが東京の「」に掲載され、薩長を憤慨させた。 旧知の仲であるはこの建白書を見ると磐渓が書いたものに違いないと断定し、これが後の幽閉につながっている。 閏4月11日、に奥羽14藩の代表が集まり、盟約書()が審議されて奥羽列藩同盟が発足した。 仙台藩が奥羽列藩同盟の盟主になると、論客として各藩の参謀と関わりを持った。 率いる仙台藩の洋式歩兵隊に「」という名を与えたのも磐渓である。 なお、磐渓の影響を受けた星も以前は過激な攘夷論者で、開国論を唱える磐渓と但木土佐の暗殺を謀ったところ、逆にその愚を諭され、脱藩したという逸話がある。 戦犯に [ ] 9月、仙台藩は降伏し、戦争は敗北に終わった。 磐渓は中里村の大槻宗家で逮捕され、仙台へ護送され、翌4月に監獄入りとなった。 この間、一度の尋問も罪状の申し渡しも無かった。 後に明らかとなる罪状は、以下のようなものであった。 仙台藩から朝廷への建白書の執筆• 盟約書の執筆• 令旨の執筆• プロシア国領事宛書簡の執筆 晩年の大槻磐渓(中央) 左は大槻如電、右は(1874年1月) 戦後の仙台藩は新政府から勤王派と評価されたかつての倒幕派が中枢を占め、戦争を主導した佐幕派への報復的戦後処理が行われた。 この戦後処理では存続が許されたものの、主戦派の指導者、・ら磐渓の教え子はに処せられた。 仙台藩の戦後処理に当たった議事局議長は、藩の学問主導を巡り大槻家と激しい敵対関係にあった。 良佐の父・は、と明倫養賢堂の主導権を巡り敗れた人物で、良佐はその仇を磐渓に報ずることを公言していた。 磐渓もまた斬首刑者のリストに入っていたが、高名な漢学者であり、さらに老体であることなどからとなった。 元旦には病を理由に仮出獄を許されが、これは磐渓を先生扱いしていた牢の医師・同室者・獄吏らとの謀りごとであり、本人はいたって健康、出獄当日には大酒を飲んだという。 には謹慎も解かれ、晴れて白日の身となった。 なお、政府から初めての尋問があり、これに答弁書を出したのはのことで、入獄から2年後のこのときになって初めて自分の罪状を知った。 5月には東京に移住した。 その後陸軍から出仕を勧められたが、「亡国の臣何の面目あって朝班に就くべき」としてこれを固辞した。 晩年 [ ] 戦後の磐渓は、江戸で静かに余生を送った。 以前より西洋文明への関心が高かった磐渓は、で様変わりする世相を興味深く見守りつつ暮らした。 酒に酔うと「それみろ、俺が攘夷論の火のような中で、開国せにゃならぬと言ってきた。 その通りであろう。 あの時、鎖国攘夷を唱えた者は、本当に世界の形勢を知らぬ大たわけだ」と述べることがあったという。 この頃は父・玄沢への思いを募らせ、には玄沢の行った新元会()を再び行ったり、には玄沢没後50年忌に際し、「追遠会」を行うなどしている。 なお、この頃はやとの交友が目立つ。 、午後4時ごろ世を去った。 享年78。 父・玄沢、兄・磐里らと同じく、のに葬られた。 著作 [ ] 『献芹微衷』 (けんきんびちゅう)。 1849年。 「海堡篇」「陸戦篇」「海戦篇」「隣好篇・上」「隣好篇・下」の5編からなる。 ・に建白された、磐渓の開国論をまとめた最初のものである。 島国である日本の海防を説き、親ロシアよりの開国を主張している。 『米利幹議』『魯西亜議』 (めりけんぎ)(ろしあぎ)。 1853年。 『米利幹議』は、に際して浦和で見聞きしたことを報告したもの。 『魯西亜議』はがに来航した際に書かれた建白書。 『献芹微衷』同様、ここにも磐渓のロシアびいきが現れている。 『近古史談』 年間の成立。 「織篇第一」「豊篇第二」「徳篇第三上」「徳篇第四下」の4巻からなる。 の活躍と、それに関する磐渓の論評を記したものであり、広く読まれのネタにもなった。 の漢文教科書にも採用されている。 磐渓には、ペリーの来航以来、動揺する世情を憂い、過去の英雄達の行動を学ぶことで士気を鼓舞する意図があった様である。 『孟子約解』 (もうしやっかい)。 漢学者として書いた注釈書。 関連人物 [ ] 父・玄沢の代から存在した学者間のネットワークは、磐渓にとって人脈構築の大きな助けになったといえる。 また、磐渓は酒豪としても知られており、その人脈にはいわゆる「酒飲み友達」も多かった。 大槻家 [ ] 大槻玄沢以後、大槻家は優れた学者を何人も輩出し、「西にあり、東に大槻氏あり」と称された。 実際、仙台藩の学業は、明倫養賢堂をはじめ大槻家の人材が多く担っている。 また、特に有名な大槻玄沢・大槻磐渓・大槻文彦の3代は、「 大槻三賢人」と呼ばれた。 玄沢の叔父・清慶の家系がの大槻宗家にあたり、さらにそこから仙台藩の職を歴任した大槻平泉の 仙台分家、玄沢ら江戸に常駐した 江戸分家に分かれた。 ・の弟子。 蘭学興隆期の総帥格で、青年期の磐渓は「玄沢の息子」としても知られた存在であった。 玄沢はロシアに漂流し帰還したと交流があり、またの遣日使節で、帰国した一行によるロシア情勢を伝えた『環海異聞』などの著作があり、これが後に磐渓の新露開国論に影響したと推測される。 ・ 長男は夭折したが、次男如電は様々な方面に才能を発揮するタイプで、博学家として多くの著作を残した。 三男の文彦は言語学者として知られ、1つのことを地道にやり遂げる性格で、後に生涯をかけ日本初の国語辞書たる『』を編纂した。 兄弟2人とも、投獄後の父・磐渓の名誉回復にも奔走した。 ・ 同じ大槻一門。 藩職を担った仙台大槻家。 平泉は長くの・の学頭を務め、玄沢の勧めにより蘭学の教育も導入するなど、藩校の近代化に尽力した。 その息子の習斎も、一時期学頭を務めている。 子孫 孫の幸(さち)は中村勝麻呂に嫁ぎ、曾孫にの後妻となった静 しず 、その弟に名誉教授で英国憲政史のがいる。 は義母の幸が語る言葉や時代の様子が歴史そのものであったとしている。 家系図 [ ] 江戸大槻家 仙台大槻家 大槻宗家 師事した人物 [ ] ここでは、上記「生涯」で触れなかった人物のみ取り上げる。 と称された書家。 磐渓は葛西因是の紹介で巻を知り、21歳の頃、彼から書を習った。 息子の文彦によれば、門人というわけではなく、個人的な関係で書を学んだ様である。 巻もであったため、磐渓とは酒宴仲間でもあった。 漢詩人。 磐渓は彼から漢詩を学んだ。 仙台藩の人物 [ ] 父・玄沢高弟の。 大槻宗家の清臣の長女・恵和子を娶ったため、大槻家と縁戚関係がある。 磐渓より12歳年長にあたり、磐渓にとってはよき兄貴分であった。 磐渓17歳の頃の東北旅行にも同行し、非常に親しい関係が長く続いた。 仙台藩医学校蘭方外科助教も務めている。 ・ 戊辰戦争期の仙台藩の中核・主戦論者。 共に磐渓の教え子で、彼の佐幕思想・開国論に大きな影響を受けた。 両者とも戦後斬首刑に処せられている。 仙台藩士。 以前は過激な攘夷論者で、開国論を唱える磐渓と但木土佐の暗殺を謀ったところ、逆にその愚を諭され、脱藩したという逸話がある。 後に仙台藩の洋式歩兵部隊・を率い、・らとともにまで戦い抜いた。 儒学者。 直接の弟子ではないが、磐渓に影響を受けたと彼自身が語っている。 磐渓がの学頭時代、「指南役見習」を命じられたが、上司の磐渓とは方針が対立した。 尊攘倒幕論者でもあったため後に磐渓の批判に回り、敗戦責任を追及したり、磐渓をかばう息子達に非難を浴びせることもあった。 その他交友関係 [ ] の門下で砲術を学んだ同門。 その後も付き合いは続いており、磐渓は開国論の先達者として象山を尊敬していた。 互いに大酒飲みで天下を語ることが好きだった彼とは馬が合った様である。 また、(象山の弟子)に磐渓を紹介したのも彼だと思われる。 鯨海酔侯と呼ばれた大酒飲みで、磐渓とは詩作・酒飲み仲間であった。 しかし、2人の仲は戊辰戦争に前後して大きく変わってしまう。 、仙台藩が朝廷へ提出した建白書を見た容堂は、「これは磐渓が書いたものに違いない。 その罪、断じて許すべからず」と断じ、これが戦後の磐渓逮捕につながった。 また、下獄された磐渓を救うことも拒否したという。 維新前後からの交遊関係があった。 容堂とは異なり、晩年までその付き合いは続いている。 松平春嶽は兄。 磐渓とは明治初年から交遊が続き、、磐渓はの田安家別邸に転居している。 また、息子は磐渓の門人となり、漢学の講義を受けた。 維新前からの付き合いで、従者としてで渡米した際も磐渓に相談があったという。 また、息子のとも付き合いが続いた。 生前に面識があったかどうかは定かではないが、徳川軍が北上し、仙台に入っていた時期、主戦論者の磐渓と会っていた可能性は否定しきれない。 また、の土方歳三像に添えられている「殉節両雄之碑」の撰文は磐渓が行っている。 人物・評価 [ ] JR一関前に設置された大槻三賢人像 家系の影響から、幼い頃より高名な人物と多く交わる機会が多く、エリート(やや揶揄した言い方すれば「お坊ちゃん」)として育ったことから、性格は鷹揚で、暗さは無かったという。 天下国家を語ることを好み、酒と書をこよなく愛した。 英雄志向が強く、この時代では珍しく、に注目していた一人でもある。 磐渓自身も砲術修行を行っており、砲兵から皇帝にまで上り詰めたナポレオンに興味を持ったのであろう。 が圧倒的優勢を占めていた幕末期においてを唱えていたことから、開明的な思想の持ち主であったといえる。 この開国論には、父・玄沢のの影響もあったことは確かであろうが、ら幕府中枢から得た確度の高い海外情報にも基づいていたのも事実である。 彼の佐幕論も、単なるの延命策やとは一線を画すものであった。 息子の文彦によれば、その理想は天皇親政ではなく、将軍家を宰相とするを想定していたようである。 しかし、思想家・ブレーンとしては有能であった半面、の運営に失敗するなど、実務家の能力には欠けていたようである。 また、幕末の仙台藩においては主戦論の理論的主導者であったため、など、その敗戦責任を厳しく問う声もあった。 磐渓の影響を受け、幕末の仙台藩執政を担当したも、戦後「我は儒者の言を用いて誤りたり」と、暗に磐渓を批判している。 美しい漢文の文章には、の賞賛を受けるなど、当時から定評があり、の活躍を記した『近古史談』は、の漢文の教科書としても使われていた。 には、のの手により、前に磐渓を含めた大槻三賢人の胸像が建立された。 脚注・出典 [ ] []• 大島 p20• 大島 p25• 葛西因是(健蔵)、松崎慊堂(退蔵)は「林家の五蔵」と呼ばれた高弟たちであった。 その他の3人は、平井直蔵、大郷金蔵、(捨蔵)。 大島 p30-33• 大島 p50• 高田 p67• 大島 p72-74• 大島 p163• 大島 p102-103• 阿曽沼 p47• 大島 p164-167• の「西遊日記」には、滞在中に「献芹微衷」を読んだことが記されている。 大島 p248-250• 庄司「大槻磐渓伝」• 一関市博物館 企画展冊子 p36• 一関市博物館 企画展冊子 p36• 大島 p271• 大島 p286• 大島 p289-290• 一関市博物館 企画展冊子 p36• 大島 p295• 大島 p338• 大島 p117• 『ダ・ダ・スコ』「建部清庵と大槻一族」p8• 朝日新聞『聞蔵IIビジュアル 人物データベース』• 佐波正一、佐波薫、中村妙子の『三本の苗木 キリスト者の家に生まれて』• 『ダ・ダ・スコ』p25-29• 大島 p24・190• 阿曽沼 p38• 大島 p195-196• 阿曽沼 p57-58• 阿曽沼 p56• 大島 p204-205• 大島 p205• 大島 p207• 阿曽沼 p57• 大島 p169• 大島 p247 参考文献 [ ] 書籍• 『近古史談 本文篇』 菊池真一編、<索引叢書40>和泉書院、1996年• 『近古史談 注釈索引篇』 <索引叢書47>和泉書院、2000年• 若林力 『近古史談全注釈』 、2001年• 大島英介 『大槻磐渓の世界 昨夢詩情のこころ』 宝文堂、2004年(主に本著を参照)• 『遂げずばやまじ 日本の近代化に尽くした大槻三賢人』 、2008年• 『仙台戊辰戦史 北方政権を目指した勇者たち』 、2005年• 『大槻磐渓 東北を動かした右文左武の人』 一関市博物館企画展冊子、2004年• 阿曽沼要 『大槻三賢人』 高橋印刷株式会社、2004年、私家版• 『言葉の海へ』 MC新書、2007年/新潮文庫(新版)、2018年• WEBマンガ「オレとシロバカ」(作ひげばあさん)連載中 論文• 庄司荘一「大槻磐渓伝」、『高野山大学論叢』22巻所収、1987年• 「学者の群像『大槻一族』」「建部清庵と大槻一族」、タウン情報誌『ダ・ダ・スコ』第70号所収、2005年 外部リンク [ ]• :大槻三賢人に関する展示がある。 2004年には企画展「大槻磐渓 -東北を動かした右文左武の人-」が催された。 学職 先代: 学頭 1865年10月 — 1866年4月 次代:.

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医師協だより 第66号

大槻 玄沢

18指定 公開状況 非公開 大槻玄沢〈おおつきげんたく〉は、江戸時代中期の蘭学者であり、わが国最初の蘭学塾を開くとともに、多数の著・訳書を著わし、日本の蘭学の発展に多大な足跡を残した人物です。 文政10年 1827 3月20日、71歳でその生涯を閉じ、高輪東禅寺に葬られました。 なお現在の墓は、墓地内の所々にあった大槻家の墓を、明治年間になって一か所に集めたものであり、玄沢の墓の周りには、妻や子の玄幹〈げんかん〉 蘭方医 ・盤渓〈ばんけい〉 儒者・砲術家 、孫の文彦 国語学者 など大槻家代々の墓が並んでいます。 大槻茂質〈しげかた〉、号盤水 玄沢は通称 は、宝暦7年 1757 9月28日、陸奥国磐井郡中里 現在の岩手県一関市 に生まれました。 大槻家は代々医者の家柄であり、父は一関藩医でした。 13歳の時から医学を学び、安永7年 1778 江戸に出て、杉田玄白に師事し、オランダ医学の研究を始め、前野良沢についてオランダ語を学び、天明5年 1785 には長崎に遊学してさらにオランダ語の学識を深めました。 玄沢は蘭学の普及にも熱心であり、天明6年に仙台藩医員となって江戸京橋に移り住むと、ここに日本最初の蘭学塾である「芝蘭堂〈しらんどう〉」を開きました。 橋本宗吉・稲村三伯・宇田川玄真ら多くの蘭学者を育てるとともに、天明8年には、オランダ語の初学者のための手引書である『蘭学階梯』を刊行しました。 玄沢は、師杉田玄白のあとを継いで蘭学書の翻訳を続け、寛政10年には、玄白の命により『解体新書』の重訂をほぼ完成し、後に『重訂解体新書』として出版されましたが、単なる原著の翻訳ではなく、多くの蘭学書を読み、それらをまとめたものであり、玄沢の深い学識を示すとともに、江戸時代の解剖学書として重要なものの一つです。 蘭学の先駆者である杉田玄白・前野良沢らの跡を継ぎ、日本の蘭学を隆盛に導いた功績は非常に大きなものです。

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大槻玄沢

大槻 玄沢

大槻玄沢 おおつきげんたく• 出身 生年月日 1757年 没年月日 1827年 年齢 江戸時代後期の蘭学者。 名は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)、出身地の磐井にちなみ「磐水(ばんすい)」と号した。 『解体新書』の翻訳で名高い蘭学者・杉田玄白と前野良沢の弟子で、通称の「玄沢」は師である2人から1文字ずつもらってつけたもの。 一関藩の藩医・大槻玄梁の子として陸奥国西磐井郡中里(現・岩手県西磐井郡)に生まれ、13歳の時に同郷の医師・建部清庵に指示し医学を学び、長じて江戸へ遊学に出ると杉田玄白の私塾「天真楼」にて医学を学ぶかたわら、前野良沢にオランダ語を学んだ。 長崎遊学中にはオランダ通詞・本木良永に奇遇し語学の習得に励んだ。 1786年(天明6)、江戸詰めの仙台藩医となり江戸へ出ると、私塾「芝蘭堂(しらんどう)」を開き多くの優れた門弟を育てた。 特に「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた、橋本宗吉、宇田川玄真、稲村三伯、山村才助は名高い。 玄沢により蘭学は本場長崎だけでなく江戸でも本格的に学べるようになり、その裾野は格段に広がった。 また、1794年(寛政6)に江戸へ出府していたオランダ商館長(カピタン)に初めて対談した玄沢は、この年の閏11月11日が西暦で1795年1月1日にあたることから、私塾「芝蘭堂」に多くの蘭学者やオランダ愛好家を招き、「オランダ正月」と呼ばれる新年会を開いた。 この新年会は以後、数十年にわたり毎年開かれ、招待客のなかには師の杉田玄白やロシア帰りの大黒屋光太夫などもおり、蘭学者たちの交流と最新情報の交換の場となった。 著書は非常に多く、代表的なものとして、蘭学入門書『蘭学階梯』、師の杉田玄白から改訂を命じられた『解体新書』の改訂版『重訂解体新書』、オランダ商館長との対談をまとめた『西賓対晤』などがある。 墓所は東京都港区にある東禅寺。 玄沢の息子・大槻磐渓、孫の国学者・大槻文彦とあわせ故郷の一関では「大槻三賢人」と呼ばれている。 江戸をもっと深く知る 現代に続いているあの人物達の血縁 話題ごとに江戸の人物や名言をまとめて見る 出身別にみるとわかる江戸の有名人達の共通点 生まれた・亡くなった人物/偉人を日付別にみる 亡くなった年齢ごとに人物/偉人を見る 教科書には載ってなかった偉人の意外な一面 有名な事件・出来事が起こった場所 江戸をテーマにした映像作品 イメージ通りの人物を演じた俳優たち アニメ・ゲームで見つかる江戸の新たな魅力 人物の新たな魅力を演じる声優たち 江戸ガイドブログ最新記事 3月16日: 3月15日: 12月28日: 12月16日: 10月14日: 10月12日: 10月12日: 10月6日: 8月21日: 8月20日: 8月19日: 8月17日: 8月16日: 8月15日: 8月14日: 他の時代を知る 戦国時代の武将/大名・名言・画像・子孫を網羅した総合サイト 幕末志士の写真・子孫・名言を徹底紹介した幕末総合サイト 明治時代の人物・名言・画像を網羅した総合サイト 大正時代の人物・名言・子孫を網羅した総合サイト 昭和時代の人物・名言・名作を網羅した総合サイト.

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