ゲド戦記。 ゲド戦記 (映画)

【ジブリ4作品上映】賛否分かれる「ゲド戦記」が入った理由を考察|好奇心は猫の塊

ゲド戦記

魔法が存在する「アースシー」という世界でくり広げられる冒険譚を描いた、ファンタジー小説『ゲド戦記』。 『指輪物語』や『ナルニア国物語』とあわせて、世界3大ファンタジーとして愛されています。 作者のアーシュラ・K・ル=グウィンは、SFの女王と称されるアメリカの小説家。 『ゲド戦記』をはじめ数々の作品で文学賞を受賞していて、なかでも英語圏のSF、ファンタジー作品に贈られる「ローカス賞」は19回と、全作家のなかで最多となっています。 『ゲド戦記』を発表して以降、さまざまな作家がその世界観を踏襲するようになり、魔法が出てくるファンタジー小説の礎を築いた存在だといえるでしょう。 日本でいうと、映画監督の宮崎駿や、漫画家の萩尾望都もそのひとりです。 『ゲド戦記』は2006年にスタジオジブリによって映画化もされました。 本作の世界では、ありとあらゆるものに「真の名」というものがついています。 魔法が存在するアースシーにおいてこれはとても大事なもので、作中でゲドはこのように語りました。 「何かに魔法をかけようと思ったら、人はまず、その真の名を知らなくてはならない。 わたしの故郷では、誰も、絶対に信用できる人以外には、生涯、本名はあかさずにおく。 なぜって、名まえは大きな力と同時に、たいへんな危険をもはらんでいるからね。 」(『ゲド戦記 こわれた腕環』から引用) そのため、人々は通り名を用いてお互いを呼んでいるのです。 では『ゲド戦記』の主な登場人物を紹介しましょう。 ハイタカ:真の名はゲド。 幼い頃から才能にあふれ、後に大賢人となる優秀な魔法使いです。 竜と交渉できる竜王でもあります。 オジオン:真の名はアイハル。 人々から敬愛されている大賢人で、ハイタカの才能を見抜き、「ゲド」という真の名を授けた恩師でもあります。 カラスノエンドウ:真の名はエスタリオル。 ハイタカとは真の名を明かすほどの親友で、ともに影との戦いに挑む魔法使いです。 アルハ:真の名はテナー。 魔法を忌み嫌うカルガド帝国の巫女でしたが、ハイタカのおかげで自由の身となります。 後に、ハイタカの妻となりました。 テルー:真の名はテハヌー。 ハイタカとアルハの養女ですが、その正体は竜の化身です。 幼い頃に受けた虐待のせいで、顔の左半分にケロイドがあります。 アレン:真の名はレバンネン。 アースシーの北に位置するエンラッドの王子です。 ハイタカとの旅の後、アースシーの王座に就きました。 映画ではハイタカに代わり主人公となっています。 『ゲド戦記』原作小説のあらすじをわかりやすく紹介! 本作の舞台となるのは、アースシーと呼ばれる、無数の島と海から成り立つ世界です。 物語はハイタカの一生をなぞりながら進み、本編4巻と外伝2巻をもって完結します。 第1巻『ゲド戦記 影との戦い』 幼い頃から才能にあふれ、偉大な師オジオンのもとで修業を積んだハイタカは、ロークの学院に進学しました。 しかし自分の力を誇示しようと、学院で禁止されていた術を使ってしまい、自身の心の闇である「影」に脅かされ続けることになるのです。 オジオンの助言により、ハイタカはカラスノエンドウとともに「影」との対決に挑みます。 第2巻『ゲド戦記 こわれた腕環』 名前も家族も奪われ、カルガド帝国の聖地アチュアンの墓地を守る巫女となったアルハ。 彼女の前に現れたのは、アースシーに平和をもたらす「エレス・アクベの腕環」の片割れを探しに来たハイタカでした。 彼の言葉に感化され、アルハは巫女としてではなく、本来の自分であるテナーとして生きる道を選びます。 第3巻『ゲド戦記 さいはての島へ』 世界の均衡が崩れたせいで、魔法の力が失われてしまったアースシー。 原因を探るために、大賢人ハイタカは、エンラッドの王子アレンとともに世界の果てまで旅をすることになりました。 ついに元凶がクモという魔法使いであることを突き止めた2人は、黄泉の国での戦いに臨みます。 第4巻『ゲド戦記 帰還』 前作ですべての力を失い、大賢人の地位を降りて故郷へ帰ったゲドは、ゴハ(アルハ)と、彼女が引き取った少女テルーの3人で暮らし始めました。 しかし、彼らを目障りに思う魔法使いによって、穏やかな生活は終わりを告げます。 そこに現れた竜の長カレシンにより、謎に満ちたテルーの正体が明らかになるのですが……。 原作小説の名言を紹介! 心に響く名言が数多くある『ゲド戦記』。 いくつかご紹介します。 「自分がしなければならないことは、しでかしたことを取り消すことではなく、手をつけたことをやりとげることなのだ。 」(『ゲド戦記 影との戦い』から引用) 第1巻は、ハイタカが精神的に大きな成長を遂げる物語です。 自らの心の闇と向き合うのは、彼にとって負わなければならない責任でもありました。 ハイタカに限らず、多くの人を奮い立たせてくれる名言でしょう。 「自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。 勝手のわからない大きな荷物である。 それは、決して気楽なものではない。 自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。 」(『ゲド戦記 こわれた腕環』から引用) 巫女の役目から解き放たれたものの、いざ自由を手にしてみると戸惑ってしまうテナー。 自由には責任がともない、軽々しいものではないということを教えてくれる名言です。 「死を拒絶する事は生を拒絶することでもあるんだよ。 」(『ゲド戦記 さいはての島へ』から引用) 死への恐怖を口にしたアレンをなだめる、ハイタカの言葉です。 いずれ来る終わりに怯えるよりも、人生とは「限りある生をいかに生きるのか」に焦点を当てるべきだと教えてくれる名言でしょう。 ジブリ映画の「ゲド戦記」は、タイトルこそ小説と同じですが、中身はまったくの別もの。 原作の第3巻の要素を中心に、宮崎駿の短編「シュナの旅」を加味した独自のものとなっています。 そのため、原作小説の『ゲド戦記』とは大きく異なる箇所があるのです。 まず、アレンとハイタカの出会い方。 原作では父王の命令でハイタカを訪ねるアレンですが、映画版ではなんと父王を殺して、逃走中にハイタカと出会います。 このアレンの父親殺しは、世界の均衡が崩れた結果生まれた災いの力が、アレンの精神にも影響を及ぼしていたことを表現するためのオリジナル設定です。 次に、テルーの年齢です。 映画版ではアレンと同年代の少女として登場しますが、原作のテルーはまだ幼く、おまけにひどい火傷の後遺症で言葉もろくに話せません。 そして、原作と真逆に設定されているのが「影」の存在です。 原作に登場するハイタカの影は、憎しみや傲慢といった負の感情、すなわち心の闇です。 しかし映画版のアレンの影は、心の光として描写されているのです。 小説『ゲド戦記』の外伝『ドラゴンフライ アースシーの五つの物語』も面白い! 本作は『ゲド戦記』の外伝にあたり、5つの中短編が収録されています。 表題作の「ドラゴンフライ」は、テルーと同じく竜の化身であるドラゴンフライ(真の名はアイリアン)が、かつて入学を断られた女人禁制のロークの学院で、権力闘争に巻き込まれていく物語。 彼女はもうひとつの『ゲド戦記』外伝である『アースシーの風』にも登場するので、あわせて読むともっと楽しめるでしょう。 他にも、ロークの学院の黎明期を描いた「カワウソ」、ゲドの師であるオジオンの若き頃が語られる「地の骨」など、本編につながる前日譚が収められています。 また作者自身によるアースシーについての解説もあるため、『ゲド戦記』の世界観への理解がさらに深まること必至。 ファンならぜひ読んでおきたい、おすすめの一冊です。 ファンタジーというと、どうしても子どもが読むものだという印象を抱く方も多いかもしれません。 しかし『ゲド戦記』は奥が深く、大人が読んでも十分に楽しめるファンタジー小説です。 まだ読んだことがない方は、ぜひこの機会にアースシーの冒険に漕ぎ出してみてください。

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TOHO THEATER LIST/一生に一度は、映画館でジブリを。『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』シアターリスト

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特に『』は世界中に大勢のファンがいるほどの人気作で、過去にさんがアニメ化を申し出たものの断られ、数年後に息子のさんの手によって映画化されています。 映画が完成した際、さんは日本に来られなかったので、監督がさんの地元まで行って特別に試写会を開きました。 そして、上映終了後に吾朗監督から感想を聞かれたさんは「いい映画ですね」と簡単にコメントしたのですが、それを吾朗監督が自分のブログに書いたことで事態はややこしくなったらしい。 さんの感想は「It is not my book. It is your film. It is a good film. 」という短いもので、 「私の本ではなく、あなたの映画です。 いい映画ですね」みたいな意味ですが、吾朗監督はこれを肯定的に受け止めてしまったのです。 そのことを知ったさんは、「あのコメントはあくまでも監督だけに申し上げたもの。 ・ これを読むと、「全体としては美しいが、急いで作られたこのアニメでは多くの細部がカットされ、『トトロ』の緻密な正確さもなければ、『』の素晴らしく豊かなディテールも斬新さもない」など、かなり厳しい意見が並んでいます。 しかも、相当な長文で書かれていることから、「言いたいことがたくさんあったんだろうな…」という心情も推測できますね(言葉は丁寧だけど、かなり細かくダメ出ししているのでw)。 まあ、人気小説が映画化されても、必ずしも全ての原作者が満足しているとは限りません。 中には「原作者の意向にそぐわないパターン」もあるわけで、そういう意味では「当然の反応」なのかも(笑)。 ちなみに「原作者が激怒した映画」として有名なのは、やはり原作、監督の『シャイニング』でしょう。

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『ゲド戦記』の原作者、アニメ版に激怒?

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「」も参照 アレン(レバンネン) 主人公。 エンラッドの王子。 17歳。 やがて心の均衡を失い、衝動的に父王を殺害した挙句、国を捨てて失踪。 放浪中に偶然ハイタカに命を救われ、ハイタカと共に、世界に異変を引き起こしている災いの根源を探す旅に同行する。 テルー(テハヌー) ヒロイン。 顔に火傷の痕がある少女。 テナーと共に作物や羊を育てて暮らしているが、特に自分の命を大切にしない人間には容易に心を開かず、両親に虐待された末に捨てられた辛い過去を持つ。 心に闇を持ち折に触れて自暴自棄になるアレンを嫌っていたが、彼もまた自分のように心に傷を負っていると知ると、徐々にアレンに歩み寄るようになっていった。 清廉な心を持つハイタカには出会ってからすぐに信用し、彼のことをタカと呼び慕っている。 ハイタカ(ゲド) アースシーの大賢人。 世界の均衡が崩れつつある事を察知し、アレンと共に災いの源を探る旅に出る。 頬に傷がある。 世界の均衡を崩さぬよう、みだりに魔法を使ってはならないと考えている。 テナー ハイタカの昔なじみで、彼のよき理解者。 ゲドという彼の真の名を知っている。 親に捨てられたテルーを女手一つで育てている。 昔、カルガド帝国にあるアチュアンの墓地の巫女をしていた。 このことは台詞のみで語られている。 映画では髪は金色だが、原作では髪は黒い。 クモ 永遠の命を得るために、禁断の生死両界を分かつ扉を開いた魔法使い。 かつて魔法を濫用したが、ゲドに阻止されたため、密かに彼に復讐する機会を伺っている。 男性だが、声優とその外見から女性的に見えるキャラクターとなっている。 英語版での名前はCob。 かつて「ハブナーのクモ」と呼ばれ、人が金を払いさえすればパルンの『知恵の書』を使い、望み通りの人間をあの世から好き勝手に呼び出していた。 しかし、自らの師の魂を呼び出されて憤った若き日のハイタカは、泣き喚いて必死に抵抗するクモを無理矢理に黄泉の国まで連れて行き、恐怖の底に突き落とした。 その後クモは、改心を誓って西へと去ったが、その心の底ではハイタカへの復讐を強く誓っていた。 ウサギ 人狩りを生業とするクモの手下。 小心者だが、クモの力をかさに着て傍若無人に振る舞う。 アレンを坊っちゃん、テルーをお嬢ちゃんと呼ぶ。 これは本人が希望した呼び方らしい。 英語版での名前はHare。 国王 エンラッドの賢王で、アレンの父。 賢王の名にふさわしく、国民のことを常に考えており、国土の各地から報告される異常事態を深く憂慮していた。 ある夜、突如アレンに刺殺され、身に帯びていた魔法の剣を奪われる。 王妃 アレンの母。 国を継ぐ者として、アレンを厳しく躾ける。 いつも愛猫を抱いている。 女主人 都城ホート・タウンに住む元まじない師。 今ではすっかり魔法を信じられなくなり、模造品の生地を商っている。 ハジア売り 常習すると死に至るハジアを売りさばく売人。 ハジアとは麻薬の一種であり、アレンに気安く近づき言葉巧みにハジアを売りつけようとする。 しかし、あと一歩のところハイタカに止められ、腐れて「強がるんじゃねぇよ呪い野郎、どうせお前も魔法が使えねぇんだろう」と半ば暴言のような捨て台詞を吐き捨てて走り去る。 既にハジアに侵された犠牲者もいる。 ハイタカ曰く「ハジアを口にすると精神が肉体から離れ、やがて最期は死」とのこと。 ルート エンラッド国王の側近の老魔法使い。 世界の均衡が崩れつつある事に憂慮している。 2人組のオバさん テナーの家の近くに住む村人。 テナーの作る薬を買っているが、内心ではテナーやテルーの事を薄気味悪がっている。 なお、この2人組の動きは、で王宮の大階段のシーンを手がけたアニメーター、大塚伸治によるものである。 その一方、原案『』の影響が強いため、原作とは異なる点も多い。 本作品と原作ゲド戦記の主要な相違点は以下のとおりである。 影の意味 原作3巻にアレンの影は出てこない。 鈴木敏夫が『ゲド戦記』のテーマに触れる入り口として導入を提案した。 原作1巻の影の物語をハイタカからアレンに移植し、影の役割も変わっている。 制作者によると本作では影の意味は原作とは対照的に設定されているようである。 原作では若きハイタカ(ゲド)の影が「心の闇(憎しみや傲慢)」として描かれているが、映画ではアレンの影が「心の光の存在」であるとして描かれている。 原作における影は、光を受けた時に認識することができる、様々な受入れがたい心の傷(良心の呵責など)や、結果的に自分を害することに繋がる弱い心(憎しみや傲慢など)である。 原作では影は、様々なゲドの経験から蓄積された無自覚な否定したい心の部分が召喚魔法により具現化し実体を脅かす存在となり、実体であるゲドにつきまといゲドは次第に追いつめられていく。 しかし、少年ゲドが影から逃げるのをやめて正面から向き合ったとき、彼は影が自分の一部であることを悟り受け入れ全き人となる。 「影は自己認識へ、大人へ、光への旅の案内人なのです」(「夜の言葉」より)。 宮崎吾朗のインタビューによると、映画では悪役クモの仕業によって主人公の「心の光の部分」が切り離されて、光が肉体を追う影となってしまい、影は心の闇に支配されたアレンの実体と一つに戻ろうとして追いかけていたと説明されている。 つまり、アレンの影こそが実は「心の光の存在」だった。 テルーから「レバンネン、そうして命はずっと続いていくんだよ。 」という言葉を聞かされ、闇に支配されていたアレンの心に「光」が戻る。 原作者は映画に対するコメントの中でアレンが分割した理由が不明確であることについて批判をしている。 アレンとゲドの関係 映画ではアレンが心の闇に支配されて国王(父)を殺害し国を出奔、そしてハイタカに出会って旅に同行するという展開になっているが、原作ではアレンは、エンラッドや諸国の異常を知らせるよう父に命じられて、ロークの大賢人たるゲドに会いに行き、そして2人で旅に出る流れになっている。 アレンの父殺し アレンが国王である父親を殺すという設定は原作にはなく、映画オリジナルである。 テルーが親から虐待されたという原作に準拠した設定ともあいまって、田を耕さずハジアを売ったり、人を売り買いする人が儲けたりなどの均衡の崩れた世界を象徴している。 世界の均衡を崩し、人の頭を変にする災いの力はアレンの身にも及んでいた。 劇中、アレンが父を刺したのと同じ構図で、アレンがハイタカに斬りかかるシーンもある。 2度目のハイタカに斬りかかる方は、劇中はっきりとクモに操られていることが示される。 アレンの父殺しという設定のできた経緯は、書籍「ロマンアルバム ゲド戦記」のインタビューに詳しく記述されている。 発案者はプロデューサーの鈴木で、主人公の旅立ちの理由を模索していた吾朗は、「この子は父を殺しちゃうんだよ」という鈴木の一言に初め驚いたそうだが、アレンのキャラクターに合うと思い取り入れた。 脚本家の丹羽圭子のインタビューでは、当初アレンはおかしくなった父親に殺されそうになり国を飛び出す、というシノプシスがあったが、鈴木が「今の時代を考えると、息子が父を刺すほうがリアルだ」と発案し、吾朗が取り入れたと言う。 アレンの父殺しの理由は劇中はっきりとは説明されず曖昧だが、宮崎吾朗はインタビューで、「アレンは父を憎んでいたわけではなく、たぶん尊敬しており好きでもあったが、自分が陥っていた閉塞感やがんじがらめな気分を抑えきれなくなり暴走し、彼を取り巻く世界、社会の『象徴』である父親に抑えきれなくなった感情の矛先が向かった」という講釈をしている。 よく父である宮崎駿と宮崎吾朗の関係になぞらえられた推察がされるが、吾朗自身は「父さえいなければ、生きられると思った。 」というキャッチコピーに対しても、自分のことではない、と否定している。 韓国公開版では、この部分の台詞がカットされており、韓国の配給会社は「スタジオジブリ側で韓国的情緒を考慮し、台詞を変えることを先に要請してきた」としている一方、スタジオジブリは「セリフが変わったのは、一言で言えば韓国の配給会社側が観客を配慮したもの」と否定している。 テルーの描写 映画ではテルーは火傷の跡こそ描かれているものの、基本的にジブリ作品におけるヒロインのデザインを踏襲したものとなっている。 『シュナの旅』のヒロイン、テアにも似ている。 ジブリの定石である少年と少女の物語にするため、原作では5 - 6歳(4巻)なのをアレンと見た目が同年代の少女に変更。 火傷の位置は原作では右半身だが、映画では左の目から頬にかけて痣状にある。 原作では「顔の半分が化して目がつぶれている」とか「手が溶けて鉤爪のようになっている」など醜悪さを表現する描写が少なくない。 また原作では炎によって喉も潰れており、「テルーの唄」のような歌を歌うことも出来ないとされる。 物語の世界 映画ではホート・タウンとその周辺で物語が進められるが、原作においてはゲドとアレンは辺境の島々から死後の世界まで、アースシーの世界を縦横に横断している。 原作では肌の黒い人間がマジョリティ、白い人間はカルガド圏出身のマイノリティである。 しかし、映画ではハイタカの肌がやや黒い以外は誰の肌も褐色とはおよそ言えない。 原作者は物語で肌の色が濃いのは邪悪さと結びつけられる因習に批判的なため、この肌の表現にこだわりを持ち、表紙の人物のデザインについて出版社と争うこともあり、ドラマ版製作者と対立したこともある。 アニメ作品では自然の物音の音源が厳密に選定されていないことが多く、例えば、真夏の都会の真ん中でやが鳴いていたりする作品がしばしばあるが、本作では世界観に合わせて本物のの声がサンプリングされている。 物語の解決 原作では、誰か悪者を暴力で倒すことによって物語の解決を図ろうとはしていない。 それに対して映画では、世界の均衡が崩れつつあるのも、竜が食い合うのも悪役クモが生死両方を分かつ扉を開けた影響とされ、その悪役クモを倒すことによって、共食いをしていた竜がラストシーンで仲睦まじく天空高く飛ぶようになる姿を描き、物語は解決を見せ、終わっている。 アレンはすべてのいきさつを知る大賢人ゲドと共に国へ帰る。 本作品の映画の公式パンフレットに『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す』と記載されているとおり、世界の均衡を崩し、人々の頭をおかしくしているのは、クモである。 しかし、劇中ではクモは敗れたのみで、世界の崩れた均衡の全てが解決したかどうかは明確ではない。 また、クモの台詞の中に「均衡はすでに我ら人間の手によって破壊されつつある」とあるため、クモだけが災いの原因とは言えない可能性が大きい。 劇中、世界の均衡を唯一崩せる存在は「人間」であると暗に示されており、世界の均衡を崩しているのは、本来は自分たちの物ではない物まで欲する人間の強欲な働きである。 クモが不死を欲した事は均衡を崩す強欲な人間の働きの代表であるといえよう。 ハイタカも過去の教訓から、均衡を崩さぬよう魔法の使用を控えている。 原案『シュナの旅』との関係 [ ] 本作品は、プロットや部分的な絵作りにおいて、原案としてクレジットされている作の『』からの翻案が多い。 その主要なものは以下のとおりである。 プロット ストーリーの前半で、主人公の少年は悪者に捕まったヒロインの少女を助ける。 そしてストーリーのラストでは、心の闇に沈んでしまった主人公の少年が、ヒロインの少女によって心の光を取り戻す。 これは本作品と『シュナの旅』に共通するプロット。 人狩り 人狩りに捕まって首輪を付けられているシーン。 また、人買いの車から助けられた際に、同時に枷(かせ)をはずされた同乗の犠牲者達が、再び捕まるという恐怖のために動けないでいるシーンは『シュナの旅』とほぼ同一である。 旅の風景 物語の前半で出てくる「砂漠の上に打ち捨てられた巨大船」の風景、また「人々が捨てて去った村の家を覗き込むシーン」は『シュナの旅』と構図が全く同一である。 ヤックル アレンの馬はシュナの愛畜ヤックルに酷似している。 宮崎吾朗も「あれはヤックルみたいなものです」「ではなくシュナの旅を参考にした」とインタビューに答えている。 ただし2本の角は製作過程で取ってしまった、と言っている。 スタッフ [ ]• 原作: (『』)• 原案: (『』)• 監督:• 脚本:宮崎吾朗、• 作画演出:• 作画監督:• 作画協力:アニメトロトロ、、、、、、、、、、、、• 美術監督:• 音楽:• 色彩設計:• デジタル作画監督:• 映像演出:奥井敦• 録音演出:• 整音:高木創• 効果:笠松広司• 整音監修:井上秀司• 編集:• プロデューサー:• 協賛:• 制作:• 制作進行:齋藤純也、、伊藤郷平、仲澤慎太郎、橋本綾• 公開までの流れ [ ] 監督就任の経緯 [ ] 監督の宮崎吾朗の父親であるは本作の古参ファンであり、その世界観に大きな影響を受けてきた。 『』(1984年)を映画化する以前、彼は原作の出版元に映画化を打診していたが、その当時原作者のル=グィンは自身の作品のアニメ化には消極的で、アニメとはのようなものだと見做しており、1990年代に再オファーするも、この時も原作者の許可は下りなかった。 清水は彼女に宮崎駿に伝えていいのか念押しし、後日スタジオジブリにそのメッセージを伝えた。 宮崎駿は 「これが20年前なら、すぐにでも飛びついたのに……。 」 と戸惑ったが、「ハウルの動く城」を製作中だったこと、および「これまでの自作品で既に『ゲド戦記』の要素を取り入れて作ってきたから、今更できない」として、監督を断った。 しかし、本作をジブリで映画化したかったプロデューサーの鈴木敏夫は、ジブリ内で本作映画化を検討する研究会を立ち上げた。 当初のスタッフは鈴木とプロデューサー、有力な若手アニメーターと宮崎吾朗。 その時点では吾朗は美術館館長としての参加だったが、次第に研究会の中心人物として動くようになっていった。 その過程で鈴木は、他のアニメスタッフではなく、吾朗を監督に起用することを画策した。 発表当時のインタビューでは、「前提としてジブリの今後を考え、当の鈴木を含め駿や高畑勲が高齢であるため」と述べた。 当初はジブリ全スタッフから「なぜ宮崎駿の息子というだけで監督なんだ」と異論を唱えられたと言う。 宮崎吾朗は絵コンテやレイアウトを書きながら色々なスタッフと渡り合い、自分の能力を証明し、溶け込んでいった。 また、宮崎吾朗が製作の素人だったということもあり、新たな方法論や発想が生まれることとなった。 スタッフも自由に仕事が出来るようになり、鈴木敏夫は「ジブリのスタッフが持つ感性と力がうまく引き出された」 と評している。 宮崎親子の確執 [ ] この作品については、宮崎親子に関する確執が公開前から取り沙汰されており、公開に至るまで親子間、又はジブリ内での紆余曲折が、しばしば話題にされた。 宮崎駿は、映画監督経験がない吾朗が監督に就く事に「あいつに監督ができるわけがないだろう。 絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていないやつなんだ」と言って猛反対した。 ここで鈴木は吾朗にイメージ画を描かせ、吾朗は『竜とアレンが向き合う絵』を描きあげた。 これを見た駿は唸り黙ってしまったという。 そして吾朗に「お前、本当にやれるのか? 」と3日に渡って何度も問いただしたが、それでも吾朗は監督をやると返答し続け、そして宮崎駿はようやく吾朗が監督するのを呑んだという。 鈴木はこれを聞き、一枚描いてくれと頼み、それがホート・タウンの町の原型となるイメージ画となった。 それでも息子の仕事の進行具合が気になっている様子を見かねた鈴木が、独身社員の出会いの場を建前に宮崎駿を含む本作品の製作スタッフを集め、すき焼きパーティーを催す。 その席で本作品の出来具合を(古参の)女性スタッフに訊ねると「ミヤさん(宮崎)が引退した後、ローンの支払いをどうするか心配をしていたが杞憂だった」と言われ、「ふざけるな!」とヘソを曲げたという。 2005年6月に鈴木と吾朗は、原作者に吾朗を監督にする了解を得るため渡米を予定していたところ、駿は「吾朗がやると決めたじゃないか」「監督というのは少しでも時間があったら、1枚でも多くの画を描くべきだ。 原作者と交渉するのはプロデューサーの仕事だろう!」 と一喝した。 「じゃあミヤさんが来てくださいよ」と鈴木に促され、仕方なく駿と鈴木が渡米する。 帰国後、駿はスクリプトの件で「あんなこと、言わなきゃよかった」 と言い、その後も悩むこととなったが、結局シナリオには一切関わらなかった。 ただし、脚本に行き詰まる吾朗に対し「『ゲド戦記』なんかやらずに『シュナの旅』をやればいいんだ」 と助言し、それが本作の大きな指針となった。 その後もゲド戦記(と息子)に対する宮崎駿の執念と確執は燻り続け、2005年暮れになって鈴木の下へ現れた宮崎駿は「今からでも間に合うから吾郎を降板させて、俺に監督をさせろ」と言い出し、鈴木を困惑させる。 その時の宮崎駿案によるプロットは老いて襤褸を纏ったゲドを基軸とする物語であった。 ただそれは宮崎駿が次もやろうと奮起した言葉でもあったと鈴木は語っている。 公開前より「行かない」と言っていた宮崎駿であったが、初号試写に現れ関係者を驚かせる。 鈴木は「行かないと言ってたのに何故来たの? どうせ途中で帰るんでしょ」と忠告し、事実、駿はその通りに上映途中で煙草のために数分席を立って、「気持ちで映画を作っちゃいけない」と語った。 その後試写室に戻り、試写の後「大人になってない、それだけ」と感想を述べた。 宮崎は初号を隣の席で共に見た色彩設計のに自身のアトリエで、「初めてにしてはよくやったっていうのは演出にとって侮辱だからね。 この1本で世の中変えようと思ってやんなきゃいけないんだから。 変わりゃしないんだけれど。 変わらないけどそう思ってやるのがね、映画を作るってことだから」と話している。 後に宮崎駿は本作品に対し、保田を通じて「素直に描けていて良かった」との感想を吾朗に伝えた。 なお、後のジブリ作品「」では吾朗の監督起用に駿は反対していない。 海外での反響 [ ] で特別招待作品として上映。 映画祭での上映に対する現地の評判は最低ランクで、スタジオジブリの評価を著しく下げた。 「ウニタ」紙のダリオ・ゾンダは「平板なスタイル、創造性に欠けた絵で、それはリアリズムの上に成り立つファンタジーに供する想像を生み出すことを放棄している」、キャッスルロック. it は「アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない」と評した。 北米での劇場公開 北米ではの契約により、2006年当時、劇場公開は不可能であった。 公開から4年後となる2010年8月13日より、ニューヨークやロサンゼルスなど都市部限定でPG13指定で公開となった。 原作者の反応 [ ] 原作者のル=グウィンは試写会後、吾朗に感想を問われ「私の本ではない。 吾朗の映画だ。 」と述べた。 その後、この発言を吾朗が無断でブログに紹介した ことや、日本人ファンからのメールなどを受けて、映画に対する感想を公式に発表する。 ル=グウィンはこのコメントの中で、「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などと記した。 また、原作にはない、王子が父を殺すエピソードについても、「動機がなく、きまぐれ。 人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と強い違和感を表明している。 国内での反響 [ ] 多くの映画評論家は、この作品に厳しい評価をした。 2006年度の最低映画との評価を、それぞれ独立した映画評論雑誌5誌から受けている。 「」「」「」「」「」「」「」等、国内の雑誌でも酷評されている。 2008年7月11日にので地上波初放送された。 これは、翌週に放映された「」(17. は、「初監督でこれだけのものが普通の人に作れるだろうか? 合格点を与えていいだろう。 次は本当の父殺しの映画を作るべきだ。 」と評価した。 テレビ放送の視聴率 [ ] 回数 放送日時 視聴率 1 2008年 07月11日 16. 配給の東宝は初動の結果を受け、興行収入100億円超を目標に掲げたが、9月に入ると85億円に下方修正した。 最終的にはそれをさらに下回る76. 9億円だったが、2006年邦画興行収入1位 となった。 優秀アニメーション作品賞• 第3回 第1位• 第3回 作品賞• 2006年ワーストテン 第1位 挿入歌に対する批判と謝罪 [ ] 「」2006年11月号誌上においては、「作詞者宮崎吾朗氏への疑問」と題して劇中挿入歌である『テルーの唄』に対し、「の『こころ』に、ある範囲を超えて似すぎている」「参考資料として『こころ』を詞のもとにしたならば、原詩・萩原朔太郎、編詞・宮崎吾朗とでも表記するべきで、作詞・宮崎吾朗とすることにためらいはなかったのか」との批判を行った。 2006年10月21日、はこの件につき報道した。 記事の中では、「盗作ではないがモラルの問題として謝辞を入れるべき」「シングルCD購入者はそうであるとは分からず、先行する芸術に尊敬が欠けている」旨述べた。 2006年10月24日、鈴木敏夫は「ゲド戦記」プロデューサーとしてこの件につき声明し、「表記について思慮不足だった」との旨を述べ謝罪した。 2007年7月4日、DVD及びVHSにて発売された本作品のスタッフロールに、「『テルーの唄』の歌詞は、萩原朔太郎の詩『こころ』に着想を得て作詞されました。 」との表記が追加された。 原詩との関連についてオリジナルサウンドトラック、劇場用パンフレット、公式サイト、TV番組『ゲド戦記音図鑑~テルーの唄はこうして生まれた』等、映画に関係が深い媒体では『こころ』に着想を得て作詞された旨が解説されていたが、歌そのものの媒体であるシングルCDには解説がなく、劇場公開当時のスタッフロールにも表記が無かった。 本問題については「やであり、表記については問題がない」という見方がある。 法律としては現在、『こころ』のはを満了し消滅している。 キャッチコピー [ ]• 「見えぬものこそ。 」()• 「父さえいなければ、生きられると思った。 「かつて人と竜はひとつだった。 」 コマーシャル [ ] 本作品は、協賛しているののコマーシャルにも起用されている。 挿入歌の「テルーの唄」をバックに、テルーの声優のがアフレコをしている場面で、劇中のセリフを吹き込むというもの。 関連商品 [ ] 作品本編に関するもの [ ] 映像ソフト• ゲド戦記 - (2007年7月4日)• ゲド戦記 DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2007年7月4日)• ゲド戦記 特別収録版 DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2007年7月4日)• ゲド戦記 Blu-ray Disc - (2011年11月16日) 出版• ソフトカバー版 ゲド戦記III さいはての島へ (2006年4月7日)• ゲド戦記(スタジオジブリ絵コンテ全集15)(徳間書店、2006年7月31日)• 僕たちの好きなゲド戦記(、2006年8月13日)• ゲド戦記(ジス・イズ・アニメーション)(、2006年8月20日)• ゲド戦記の世界 「ゲド戦記」はじめて読本(、2006年8月25日)• ゲド戦記詩画集(宮崎吾朗/詩・絵)(スタジオジブリ、2006年8月31日)• ゲド戦記(徳間アニメ絵本)(、2006年8月31日)• THE ART OF TALES from EARTHSEA ゲド戦記(スタジオジブリ責任編集、徳間書店、2006年9月1日)• ゲド戦記 TALES from EARTHSEA(徳間書店〈ロマンアルバム〉、2006年9月1日)• Works of ゲド戦記 Digital Artwork|STUDIO GHIBLI(、2007年9月10日)• ゲド戦記 サウンドトラック SACD HYBRID(Stereo/Multi-ch) (2006年7月12日)TKGA-503• スタジオジブリ・プロデュース 「ゲド戦記歌集」(手嶋葵)(2006年7月12日)YCCW-10028• ゲド戦記 ピアノプラス(寺嶋民哉) 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2006年11月29日)TKCA-73148 脚注 [ ] []• 2020-06-18. 2020年6月18日閲覧。 「WORKS OF ゲド戦記」(BNN刊)において• スポーツ京郷 2006年8月2日• 参考文献:公式パンフレット• yomiuri. 2008年10月5日閲覧。 このことは、2006年6月5日にタワーレコード渋谷で開催されたゲド戦記CD発売記念記者会でも鈴木が語っている。 『プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル 宮崎 駿の仕事』 NHKエンタープライズ 2009年• アニメ! アニメ! 2010年8月1日• より抜粋• FM東京『ジブリ汗まみれ』第7回• でのリリースが行われたスタジオジブリの作品では最後である。 関連項目 [ ]• - 背景絵を彼の作風をモデルに描いた。 「ゲド戦記にはクロード・ロランの世界観が似合う」とがスタッフとの歓談のなか漏らした意見を、スタッフが採用した。 関連書籍 [ ]• ニュータイプ編『アースシーの風に乗って~映画「ゲド戦記」完全ガイド』(2006年)• フィルムコミック1~4巻 外部リンク [ ]• - (2008年7月11日放送分)• - 金曜ロードショー(2011年7月15日放送分)• - (英語)• - (英語).

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