ぴく と 小説。 岬林 守

【wrwrd】真の終わりはまたいつか2【ぴくとはうす】

ぴく と 小説

pkt side 雨は好きじゃない。 じめじめするし、暗いし、濡れてしまうから。 だから、この状況は必ずしも僕にとって良くはない。 ざあざあと、雨が地面を濡らして、傘がたくさんの雨粒を弾くような状況は。 もはや不幸としか言いようがないよ。 たまたま散歩に出掛けた帰り道に、ゲリラ豪雨に遭遇するなんて。 そんで、不幸中の幸いは折り畳み傘を持っていた事。 ほんっと、運が良いのか悪いのか..... そんな事を考えながらも、家に向かってひたすらに歩き続けていた。 しかし、家までもう少しの場所まで来たその時。 とある音が僕を引き止めた。 「にゃー」 微かに聞こえた、猫の声。 耳を傾ければ、雨音混じりで聞こえにくいが、何度も、何度も聞こえる。 まさかと思って、その声がする方向へと駆け寄った。 僕の視界に映ったのは、今にも氾濫しそうな川の水面下でもがいている、小さな白猫。 『ああぁぁ!!、っもう!!』 傘を投げ捨て、川へと飛び込む。 準備体操もせず荒れ狂う冷水に浸かった体が一瞬硬直する。 だが、そんなのに気を取られている暇はない。 急いで子猫を抱き上げ、うねる水流に対抗しながら陸地を目指した。 ーーーーーーーーーーーーーー 『もう、溺れるんじゃないぞ』 そう言って腕に抱えていた子猫を降ろす。 その子は体を振って水気を落とした後に、さっさと立ち去ってしまった。 頭や服に当たる雨粒はもう気にならない。 投げ捨てた衝撃で使い物にならなくなった傘を拾い上げて、再び家の方へと歩き出す。 もちろん寒いし、だるいし気持ち悪い。 でもなってしまったものはどうしようもない。 仕方がないので、先刻よりは早足で家を目指した。 家に着いても疲れていては何をする気もせず、体を軽く拭いた後、着替えだけして眠りについた。 [newpage] 昨夜の大雨が嘘の様に、雲一つない晴天を窓から眺める。 こんな景色を観ると大抵は気分が上がる、のだが、どうも体が重い。 昨日のあの所作か?と思ったが、顔まで熱くなっているのを理解して、棚から体温計を取り出した。 ピピッ 音が鳴り、電子板に表示された数字をそのまま読み上げる。 『38. うっわ見事に熱あんじゃん.... 』 こういうのは意識してしまうともっと駄目になる物だ。 ベッドに背中から倒れ込み、はぁ、と息を吐いた。 ピロリン どこか軽快そうな電子音が静かだった部屋に鳴る。 そこには、 鬱《ぴくとさーん。 本日がなんの日か、覚えてらっしゃいますかー?》 と、書かれてた。 そうだ。 前々からの約束で、今日はWR国で皆さんと一緒にお茶会をする事になっていんだった。 うわマジ最悪じゃん..... でもこれは完全に僕の不注意が原因だ。 皆さんに迷惑を掛ける訳にはいかないな。 そう思いつつ、適当に返信しといた。 白いパーカーに腕を通し、ピンで留めるタイプの黒い蝶ネクタイを付ける。 熱があると思わせない様に。 風邪だと悟らせない様に。 そう決意して、家を出た。 [newpage] コ「ちわっす!!ぴくとの兄貴お久しぶりっす!!!」 鬱「やっほ〜」 ゾ「チッスチッス!!チッスチッス!!」 ロ「元気にやっとりましたか!? 」 基地に着くと、わちゃわちゃしながらも丁寧に出迎えてくれるWR国の幹部の皆さん。 『ご無沙汰してました!いやーそれにしても皆さんお久しぶりですね!!』 いつも道理に、何事もなかった様に話さなくちゃな。 ト「そうやな。 何気に、結構な期間会ってなかったんちゃう?」 ゾ「せやなぁ」 鬱「そやなぁ」 コ「それなぁ」 『あれなぁ』 ロ「わかる!!!!!」 某VOICEROID曲風 ト「お前らそれがしたかっただけやろ!てかぴくとさんも便乗しないでください!!」 ゾ「ンヒヒヒャヒャヒャwwwこうなるとは思ってなかってんwww」 『僕もwまさかこんなにも上手く行くとはww』 鬱「なんか察したからwwついww」 ロ「アッハハハハハハハwwww!!いや、おもろいなぁwwww」 コ「ヒーッヒーwwwハッハッハwwワッハハハハッハハッハハッハハハァハハッハアッハハh」 『コネシマさん大丈夫ですか??』 鬱「さあてと、立ち話も野暮ですし、はよ中行きましょ」 ト「せやで。 」 ロ「あっちょっゾム!!お前待てや!!」 『........ 子供みたい 二つの意味で 小声 』 ロ「ん〜?ぴくとさん。 何か言うてはりましたか?」 『イエナニモ』 ト「wwwww」 鬱「草生えますわぁ」 こんなほのぼのとした会話をしていると、自分が病人な事をつい忘れてしまう。 が、突如として、締め付ける様な激しい頭痛に襲われる。 少しふらついてしまったが、慌てて気を持ち直した。 鬱「ぴくとさん、大丈夫ですか?」 『うん、ちょっと目眩がしただけ』 鬱くんから心配されので、適当な理由を付けてはぐらかした。 それ以上は何も訊かれなかった。 バレてないかな?取り敢えずは一安心。 鬱くんはこーゆー時だけ鋭いから、用心しなくちゃ。 ずきずきと痛む頭を押さえながら、僕はWR国の基地に足を踏み入れた。 雑談に花を咲かせてる内に、目的地の一歩手前まで来た。 そこは重厚感がある大きな扉の前で、プレートには「会議室」と記されていた。 グ「ぴくとよ!待ってたゾ!!」 エ「こんにちは〜準備は万端やで〜」 オ「やっっっっと!!お茶会が始められるんやな!!」 ショ「うっす、いつぶりで」 扉を開ければ白いテーブルに真っ赤なテーブルクロスが掛かった円卓と、それを囲んで座っているWR国の幹部の皆さん、パート2。 正確に言えば一人、違うが。 『お久しぶりです!待たせてしまってすいません』 エ「いや、丁度終わったとこやから、そんな心配せんくてもええですよ」 ショ「オスマンさんとグルッペンさんはつまみ食いしようとしてましたけどね」 ト「ほ〜う。 」 オスマンさんに急かされて、僕らも席に着いた。 グ「それでは諸君!このお茶会に乾杯!!」 全「乾杯!!!!」 グルッペンさんの一言で、賑やかなお茶会が始まった。 でもこれ全部を鬱くんが作ったのだと言われると、どうも解せない。 いや美味しいけどね。 美味しいんだけど、やっぱりどこか可笑しい。 そんな気がする。 鬱「ぴくとさん?ぴくとさん?」 『ん?どーしたの鬱くん』 鬱「なんか失礼な事考えてません?」 『いやそんな事あるわけないよー 棒 』 鬱「にしては喋り方が片言になって『それは置いといて!そっちのお菓子取って!!』えぇ... 」 ゾ「シッマ、こっちのケーキも食べてみ?美味いで!!」 コ「ちょっ.... せめて飲み物くれへんか.... 」 オ「はあぁ.... とってもおいしいめぅ〜」 ト「この紅茶美味いなぁ」 エ「これは世界三大銘茶の一つ、ダージリンティーって言うんや。 本当なら、万全の状態で来たかったと後悔してる。 未だに痛む頭は、少しでも動くと更にキリキリと響き、苦しい。 折角鬱くんが作ってくれたお菓子の数々も、今は美味しく頂けないや。 ゾ「ぴくとさん!!」 『うぉわっ!? 』 いきなりゾムさんに声を掛けられて、思わず肩が跳ねた。 ゾ「ヒャヒャヒャw相変わらずええ反応やなぁ」 『んもーこっちの身が持ちませんよ..... それで、どうかしましたか?』 ゾ「いや、どうせなら食後の運動せえへんか!!? 久しぶりにぴくとさんと戦ってみたいねん!!」 え ロ「お!久々やな!!俺もやるで!!」 ショ「俺もやりたいっすね」 グ「それは面白そうだな!!」 オ「なになに?暴れるんだったら俺もやる〜」 コ「よっしゃあ!!思いっきり戦えるで!!」 えっえっ ト「まあ、ええんやないか?最近は特に大きな被害もあらへんかったしな」 エ「やられたら三倍返しや!!さっき煽られた恨み、晴らさせてもらうで!!」 ええぇぇ..... コネシマさんやショッピさん、ロボロさん達はともかく、一応常識人枠のトントンさんやエーミールさんまで... もう僕の味方は鬱くんしか........ コ「大先生もやるよな!!!!」 鬱「せやなぁ.... まあ、たまにはええでしょ。 とんち、第二訓練場使ってええか?」 ト「おん、ええで」 コ「しゃああぁぁ!!そうと決まったらはよ行くで!!」 前言撤回。 どうやら僕の味方は最初から居なかったようだ。 [newpage] てんやわんやで話は進み、ルールはじゃんけんの結果、総当たり戦になった。 それこそ最初の内は激しい乱戦が繰り広げられてた。 が、今このフィールド上に立っているのは僕とゾムさんだけ。 いや僕もう立ってるだけでも辛いんだけどな.... そんな僕とは対照的に、ゾムさんはとても楽しそうだ。 フードで隠れてても表情が分かるぐらいには。 二本のナイフを振りかぶり、僕の胸元目掛けて突進して来る。 咄嗟に剣で防ぐが力が強く、やや押され気味の体勢になってしまう。 しかしいつまでも動かないこの状態に痺れを切らしたのか、僕の横腹に蹴りを入れようとする。 こちらもそれを脚で受け止め、ズレた重心を狙って隠していたナイフを投げる。 いとも容易く避けられたけど。 ゾ「んふふ、どうしたんやぴくとさん。 いつもより動き鈍いんちゃうか?」 『舐められたもんっすね.... 』 こうして言葉を交わしている間にも止まることのない攻防戦。 いつもより身体が動かない事も、そろそろ限界が近いのも分かり切ってる。 滲む汗の量も尋常じゃない。 温度感覚が狂ってんだ。 正常に機能してない脳に押し寄せる痛みと気だるさが、僕の身体に重く伸し掛る。 熱いのに、 寒くて、 苦しくて、 いたくて 、つらくて、 なんだか 、 めが、 ちかちか 、 するなぁって 、 あれ 、 なんで 、 ゆかが 、 こんなに 、 ちかいの ? おきな、きゃ 、 しんぱい 、 かけちゃう 、 から 、 はやく 僕はそのまま床に突っ伏し、意識を失った。 [newpage] 頭にひんやりした何かが触れる感覚で目が覚めた。 重い瞼を開けば、見慣れた面々が驚いたような顔をする。 ショ「えぴくとさん起きt「ぴくとさんが起きたあぁぁああ!!!!」クソ先輩煩いっす」 ゾ「ぴくとさん、だ、大丈夫なんか!? 」 ト「どこか痛む所とかあらへんか?! 」 『あっ、僕は全然大丈夫ですよ』 かなり心配を掛けてしまったらしい。 あーあ。 僕の努力はどこへやら..... ひとまず起き上がろうとしたが、腕に全く力が入らず、身体が思うように動かない。 ぺ神さんに支えられ、やっとの事で身体を起こせた。 神「やっぱり、大丈夫なんかじゃないでしょ。 熱、何度あると思ってんの?」 『え〜っと、39度ぐらい?』 神「41. 3度だよ。 」 全「はああぁぁぁああ!?!? 」 『えっそんなに!? 』 コ「お風呂より熱々やん!!」 神「そ。 だから少なくとも今日と明日は絶対安静!大人しくしてね!」 『まじかぁ..... 』 ロ「ぴくとさんぴくとさん」 『ん?なんでs』 全「すいませんでしたああぁぁぁああ!!」 『えっなんで皆さんが謝るんですか!? 』 ロ「なんでって、悪いのは俺らやろ!!ぴくとさんの容態に気づけんくて、無理までさせてもうたし.... 」 ゾ「ごめんな!!俺も気づけへんくて、それなのに本気でやってもうた..... 」 『いえいえいえ!!悪いのは僕の方ですよ!!これは僕の不注意が原因ですし、皆さんは何もゲホッゲホ』 ショ「ぴくとさん!? 」 大声で喋った所為か、喉がガラガラになって痛い。 割れるような頭痛は収まる気配がなし、くらくらしてくる。 それに加えて寒気もするし、やっぱり自分は病人な事を痛感する。 神「ああもう言ったそばから。 はいこれ飲んで。 錠剤苦手なら水と一緒に、あ、お湯の方が良いかな?」 テキパキと手馴れた動きで風邪薬とぬるま湯を用意して、僕に差し出してくれた。 お礼を言ってそれを受け取ろうとするが、手が震えて上手く掴めない。 神「あーこれ軽い痙攣も起こしてるね。 お薬追加〜っと」 ペ神さんは棚からまた違う薬と、CMで見た事があるゼリーの様な物も取り出した。 グ「まさかそれは..... 」 神「そう、薬を包んでもぐもぐするやつだよ」 オ「美味しそう.... 」 鬱「マンちゃん?マンちゃん?」 神 カチャカチャ 「それじゃ、口開けて?」 『えっ?』 全「えっ?」 エ「あの〜、もしかしなくてもこれは...... 」 神「うん。 あーんだよ。 あーーん」 『えっ普通にやだ』 神「じゃあ自分でスプーンとお皿持てるの?」 『うっ...... 』 ショ「観念した方が良いっすよ」 『ううっ.... 』 神「ほい、あーん」 『ううぅぅ...... あー パクッ モキュモキュ ゴックン 、意外と美味しいかも..... 』 鬱「良かったじゃないすか」 『屈辱的だけどね』 そんな他愛もない会話をしている内に、ゼリーのお皿は空っぽになった。 神「薬も飲んだし、あとはもう寝るだけだね。 皆が居ると煩いから、ちょっと出てってもらおうか」 『あっ、いえ、あの!!』 ペ神さんの命令で外に行こうとする鬱くんの袖を引っ張って止める。 意図した事ではなかったが、自分が望んだ事だ。 『その、僕が寝るまでは、皆さんと一緒に居たいんですけど.... だめ、ですか?...... 』 これ以上迷惑を掛けてしまう事は、百も承知だった。 けれど、もう少しだけ、温かくて居心地の良い空間に居たいんだ。 そんな意味を込めて言ったつもり。 しかし何故か、鬱くん達は顔を押さえて上を向いていた。 理由は分からなかったが、いいよと言われたのでとても嬉しかった。 そしてそのまま、眠りに着いた。 全 「一緒に居たい」とかいつものぴくとさんじゃ絶対言わないし.... 不意打ちすぎるやろ..... [newpage] ・あとがき はぁい、春の七草です。 気軽に七草とでも呼んでください。 痛いとこ突かれた そうなんです.... ネタはあるんですが、文字起こしがひたすらに面倒なんです.... なので今年以内に次の小説を出すのは難しいかと...... もうすぐハッピーメリークルシミマスですね。 末永くお幸せに爆発してくださいそこらのカップルの方々。

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一迅社文庫アイリス

ぴく と 小説

十年をひと 昔 ( むかし )というならば、この物語の 発端 ( ほったん )は今からふた昔半もまえのことになる。 世の中のできごとはといえば、 選挙 ( せんきょ )の 規則 ( きそく )があらたまって、 普通選挙法 ( ふつうせんきょほう )というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。 昭和三年四月四日、 農山漁村 ( のうさんぎょそん )の名が全部あてはまるような、 瀬戸内海 ( せとないかい )べりの一寒村へ、若い女の先生が 赴任 ( ふにん )してきた。 百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を 湖 ( みずうみ )のような形にみせる役をしている細長い 岬 ( みさき )の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で 渡 ( わた )ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。 交通がすごくふべんなので、小学校の生徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの本村の小学校へかようのである。 手作 ( てづく )りのわらぞうりは一日できれた。 それがみんなはじまんであった。 毎朝、新らしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。 じぶんのぞうりをじぶんの手で作るのも、五年生になってからの仕事である。 日曜日に、だれかの家へ集まってぞうりを作るのはたのしかった。 小さな子どもらは、うらやましそうにそれをながめて、しらずしらずのうちに、ぞうり作りをおぼえてゆく。 小さい子どもたちにとって、五年生になるということは、ひとり立ちを意味するほどのことであった。 しかし、分教場もたのしかった。 分教場の先生は二人で、うんと年よりの男先生と、子どものように若い女先生がくるのにきまっていた。 それはまるで、そういう規則があるかのように、大昔からそうだった。 職員室 ( しょくいんしつ )のとなりの 宿直室 ( しゅくちょくしつ )に男先生は住みつき、女先生は遠い道をかよってくるのも、男先生が三、四年を受けもち、女先生が一、二年と全部の 唱歌 ( しょうか )と四年女生の 裁縫 ( さいほう )を教える、それも昔からのきまりであった。 生徒たちは先生を呼ぶのに名をいわず、男先生、 女 ( おなご )先生といった。 年よりの男先生が 恩給 ( おんきゅう )をたのしみに 腰 ( こし )をすえているのと反対に、女先生のほうは、一年かせいぜい二年すると 転任 ( てんにん )した。 なんでも、校長になれない男先生の教師としての最後のつとめと、 新米 ( しんまい )の女先生が苦労のしはじめを、この 岬 ( みさき )の村の分教場でつとめるのだという 噂 ( うわさ )もあるが、うそかほんとかはわからない。 だが、だいたいほんとうのようでもある。 そうして、昭和三年の四月四日にもどろう。 その朝、岬の村の五年生以上の生徒たちは、本校まで五キロの道をいそいそと歩いていた。 みんな、それぞれ一つずつ 進級 ( しんきゅう )したことが心をはずませ、足もとも軽かったのだ。 かばんの中は新らしい教科書にかわっているし、 今日 ( きょう )から新らしい教室で、新らしい先生に教えてもらうたのしみは、いつも通る道までが新らしく感じられた。 それというのも、今日は、新らしく分教場へ 赴任 ( ふにん )してくる女先生に、この道で出あうということもあった。 「こんどのもまた、女学校 出え出えの卵じゃいよったぞ」 「そんなら、また 半人前 ( はんにんまえ )先生か」 「どうせ、 岬 ( みさき )はいつでも半人前じゃないか」 「 貧乏村 ( びんぼうむら )なら、半人前でもしようがない」 正規の 師範 ( しはん )出ではなく、女学校出の 準 ( じゅん )教員(今では 助教 ( じょきょう )というのだろうか)のことを、口のわるい 大人 ( おとな )たちが、半人前などというのをまねて、じぶんたちも、もう大人になったようなつもりでいっているのだが、たいして悪気はなかった。 しかし、 今日 ( きょう )はじめてこの道を歩くことになった五年生たちは、目をぱちくりさせながら、今日仲間入りをしたばかりの 遠慮 ( えんりょ )さで、きいている。 だが、前方から近づいてくる人の姿をみとめると、まっさきに 歓声 ( かんせい )をあげたのは五年生だった。 「わあ、おなご先生ェ」 それは、ついこないだまで教えてもらっていた小林先生である。 いつもはさっさとすれちがいながらおじぎを返すだけの小林先生も、今日は立ちどまって、なつかしそうにみんなの顔をかわるがわる見まわした。 「今日で、ほんとにおわかれね。 もうこの道で、みんなに出あうことはないわね。 よく勉強してね」 そのしんみりした 口調 ( くちょう )に涙ぐんだ女の子もいた。 この小林先生だけは、これまでの女先生の例をやぶって、まえの先生が病気でやめたあと、三年半も岬の村を動かなかった先生であった。 だから、ここで出あった生徒たちは、いちどは小林先生に 教 ( おそ )わったことのあるものばかりだ。 先生がかわるというようなことは、本来ならば新学期のその日になってはじめて分かるのだが、小林先生は、かた破りに十日もまえに生徒に話したのである。 三月二十五日の 修業式 ( しゅうぎょうしき )に本校へいった帰り、ちょうど、いま、立っているこのへんで、別れのことばをいい、みんなに、キャラメルの 小箱 ( こばこ )を一箱ずつくれた。 だからみんなは、今日この道を新らしい女先生が歩いてくるとばかり思っていたのに、それを 迎 ( むか )えるまえに小林先生にあってしまったのである。 小林先生も、今日は分教場にいる子どもたちに、別れのあいさつにゆくところなのであろう。 「先生、こんどくる先生は?」 「さあ、もうそろそろ見えるでしょう」 「こんどの先生、どんな先生?」 「しらんのよ、まだ」 「また女学校出え出え?」 「さあ、ほんとにしらんの。 でもみんな、 性 ( しょう )わるしたら、だめよ」 そういって小林先生は笑った。 先生もはじめの一年は 途中 ( とちゅう )の道でひどく 困 ( こま )らされて、生徒の前もかまわず泣いたこともあった。 泣かした生徒はもうここにはいないけれど、ここにいる子の兄や姉である。 若いのと、なれないのとで、 岬 ( みさき )へくるたいていの女先生が、一度は泣かされるのを、本校通いの子どもらは 伝説 ( でんせつ )として知っていた。 四年もいた小林先生のあとなので、子どもたちの 好奇心 ( こうきしん )はわくわくしていた。 小林先生と別れてからも、みんなはまた、こんどくる先生の姿を前方に 期待 ( きたい )しながら、作戦をこらした。 「 芋女 ( いもじょ )ォって、どなるか」 「芋女でなかったら、どうする」 「芋女に、きまっとると思うがな」 口ぐちに芋女芋女といっているのは、この地方がさつま芋の 本場 ( ほんば )であり、その芋畑のまん中にある女学校なので、こんないたずらな呼びかたも生まれたわけだ。 小林先生もその芋女出身だった。 子どもたちは、こんどくる女先生をも芋女出ときめて、もうくるか、もう見えるかと、道がまがるたびに前方を見わたしたが、彼らの期待する芋女出え出えの若い先生の姿にはついに出あわず、本村の広い県道に出てしまった。 と同時に、もうおなご先生のことなどかなぐり捨てて、小走りになった。 いつも見るくせになっている県道ぞいの宿屋の 玄関 ( げんかん )の大時計が、いつもより十分ほどすすんでいたからだ。 時計がすすんだのではなく、小林先生と立ち話をしただけおそくなったのだ。 背中や 脇 ( わき )の下で筆箱を鳴らしながら、ほこりを立ててみんなは走りつづけた。 そうして、その日の帰り道、ふたたび女先生のことを思いだしたのは県道から、 岬 ( みさき )のほうへわかれた山道にさしかかってからである。 しかもまた、向こうから小林先生が歩いてくるのだ。 長い 袂 ( たもと )の着物をきた小林先生は、その袂をひらひらさせながら、みょうに両手を動かしている。 「せんせえ」 「おなごせんせえ」 女の子はみんな走りだした。 先生の 笑顔 ( えがお )がだんだんはっきりと近づいてくると、先生の両手が見えない 綱 ( つな )をひっぱっていることがわかって、みんな笑った。 先生はまるで、ほんとに綱でもひきよせているように、両手をかわるがわる動かし、とうとう立ちどまってみんなをひきよせてしまった。 「先生、こんどのおなご先生、きた?」 「きたわ。 どうして?」 「まだ学校にいるん?」 「ああ、そのこと。 舟できたのよ、今日は」 「ふうん。 そいでまた、舟で 去 ( い )んだん?」 「そう、わたしにもいっしょに舟で帰ろうとすすめてくれたけど、先生、も一ぺんあんたらの顔みたかったから、やめた」 「わァ」 女の子たちがよろこんで 歓声 ( かんせい )をあげるのを、男の子はにやにやして見ている。 やがてひとりがたずねた。 「こんどの先生、どんな先生ぞな?」 「いーい先生らしい。 かわいらしい」 小林先生はふっと思いだしたような笑顔をした。 「 芋女 ( いもじょ )?」 「ちがう、ちがう。 えらい先生よ、こんどの先生」 「でも、 新米 ( しんまい )じゃろ」 小林先生はきゅうにおこったような顔をして、 「あんたら、じぶんで教えてもらう先生でもないのに、どうしてそんなこというの。 はじめっから新米でない先生て、ないのよ。 またわたしのときみたいに、泣かすつもりでしょう」 そのけんまくに、心の中を見すかされたと思って目をそらすものもあった。 小林先生が分教場にかよいだしたころの生徒は、わざと一列 横隊 ( おうたい )になっておじぎをしたり、芋女っとさけんだり、穴があくほど見つめたり、にやにや笑いをしたりと、いろんな方法で新米の先生をいやがらせたものだった。 しかし、三年半のうちにはもうどんなことをしても先生のほうで困らなくなり、かえって先生が手出しをしてふざけたりした。 五キロの道のりでは、なにかなくてはやりきれなかったのだろう。 ころをみて、またひとりの生徒がたずねた。 「こんどの先生、何いう名前?」 「 大石 ( おおいし )先生。 でもからだは、ちっちゃあい人。 小林でもわたしはのっぽだけど、ほんとに、ちっちゃあい人よ。 わたしの 肩 ( かた )ぐらい」 「わあ!」 まるで喜ぶようなその笑い声をきくと、小林先生はまた きっとなって、 「だけど、わたしらより、ずっとずっとえらい先生よ。 わたしのように半人前ではないのよ」 「ふうん。 そいで先生、舟でかようんかな?」 ここが大問題だというようにきくのへ、先生のほうも、ここだなという顔をして、 「舟は今日だけよ。 明日 ( あした )からみんな 会 ( あ )えるわ。 でも、こんどの先生は泣かんよ。 わたし、ちゃんといっといたもの。 本校の生徒と行きし 戻 ( もど )りに出あうけど、もしもいたずらしたら、 猿 ( さる )が遊んでると思っときなさい。 もしもなんかいってなぶったら、 烏 ( からす )が鳴いたと思っときなさいって」 「わあ」 「わあ」 みんないっせいに笑った。 いっしょに笑って、それで別れて帰ってゆく、小林先生のうしろ姿が、つぎの曲がり角に消えさるまで、生徒たちは口ぐちに 叫 ( さけ )んだ。 「せんせえ」 「さよならあ」 「 嫁 ( よめ )さーん」 「さよならあ」 小林先生はお嫁にゆくためにやめたのを、みんなはもう知っていたのだ。 先生が最後にふりかえって手をふって、それで見えなくなると、さすがにみんなの胸には、へんな、もの悲しさがのこり、一日のつかれも出てきて、もっそりと歩いた。 帰ると、村は大さわぎだった。 「こんどのおなご先生は、洋服きとるど」 「こんどのおなご先生は、 芋女 ( いもじょ )とちがうど」 「こんどのおなご先生は、こんまい人じゃど」 そしてつぎの日である。 芋女出でない、小さな先生にたいして、どきどきするような 作戦 ( さくせん )がこらされた。 こそこそ、こそこそ こそこそ、こそこそ 道みちささやきながら歩いてゆく彼らは、いきなりどぎもをぬかれたのである。 場所もわるかった。 見通 ( みとお )しのきかぬ曲がり角の近くで、この道にめずらしい自転車が見えたのだ。 自転車はすうっと鳥のように近づいてきたかと思うと、洋服をきた女が、みんなのほうへにこっと笑いかけて、 「おはよう!」 と、風のように行きすぎた。 どうしたってそれは女先生にちがいなかった。 歩いてくるとばっかり思っていた女先生は自転車をとばしてきたのだ。 自転車にのった女先生ははじめてである。 洋服をきた女先生もはじめて見る。 はじめての日に、おはよう! とあいさつをした先生もはじめてだ。 みんな、しばらくはぽかんとしてそのうしろ姿を見おくっていた。 全然これは生徒の 敗 ( ま )けである。 どうもこれは、いつもの 新任 ( しんにん )先生とはだいぶようすがちがう。 少々のいたずらでは、泣きそうもないと思った。 「ごついな」 「おなごのくせに、自転車にのったりして」 「なまいきじゃな、ちっと」 男の子たちがこんなふうに 批評 ( ひひょう )している 一方 ( いっぽう )では、女の子はまた女の子らしく、少しちがった見方で、話がはずみだしている。 「ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな」 「でも、モダンガールいうのは、男のように 髪 ( かみ )をここのとこで、さんぱつしとることじゃろ」 そういって耳のうしろで二本の指を 鋏 ( はさみ )にしてみせてから、 「あの先生は、ちゃんと髪ゆうとったもん」 「それでも、洋服きとるもん」 「ひょっとしたら、自転車屋の子かもしれんな。 あんなきれいな自転車にのるのは。 ぴかぴか光っとったもん」 「うちらも自転車にのれたらええな。 この道をすうっと走りる、 気色 ( きしょく )がええじゃろ」 なんとしても自転車では 太刀打 ( たちう )ちできない。 しょい投げをくわされたように、みんながっかりしていることだけはまちがいなかった。 なんとか鼻をあかしてやる方法を考えだしたいと、めいめい思っているのだが、なに一つ思いつかないうちに 岬 ( みさき )の道を出はずれていた。 宿屋の 玄関 ( げんかん )の柱時計は今日もまた、みんなの足どりを正直にしめして八分ほどすぎている。 それ、とばかり背中と 脇 ( わき )の下の筆入れはいっせいに鳴りだし、ぞうりはほこりを 舞 ( ま )いあがらせた。 ところが、ちょうどその同じころ、 岬 ( みさき )の村でも大さわぎだった。 昨日 ( きのう )は舟にのってきたとかで、気がつかぬうちにまた舟で帰ったのをきいた村のおかみさんたちは、今日こそ、どんな顔をして道を通るかと、その洋服をきているという女先生を見たがっていた。 ことに村の入り口の 関所 ( せきしょ )とあだ名のあるよろずやのおかみさんときたら、岬の村へくるほどの人は、だれよりも先にじぶんが見る 権利 ( けんり )がある、とでもいうように、朝のおきぬけから通りのほうへ気をくばっていた。 だいぶ 永 ( なが )らく雨がなかったので、かわいた表通りに水をまいておくのも、新らしい先生を 迎 ( むか )えるにはよかろうと、ぞうきんバケツをもって出てきたとき、向こうから、さあっと自転車が走ってきたのだ。 おやっと思うまもなく、 「おはようございます」 あいそよく頭をさげて通りすぎた女がある。 「おはようございます」 返事をしたとたんに、はっと気がついたが、ちょうど下り坂になった道を自転車はもう走りさっていた。 よろずやのおかみさんはあわてて、となりの 大工 ( だいく )さんとこへ走りこみ、井戸ばたでせんたくものをつけているおかみさんに大声でいった。 「ちょっと、ちょっと、いま、洋服きた女が自転車にのって通ったの、あれがおなご先生かいの?」 「白いシャツきて、男みたような黒の上着きとったかいの」 「うん、そうじゃ」 「なんと、自転車でかいの」 昨日入学式に長女の 松江 ( まつえ )をつれて学校へいった大工のおかみさんは、せんたくものを忘れて、あきれた声でいった。 よろずやのおかみさんは、わが意を得たという顔で、 「ほんに世もかわったのう。 おなご先生が自転車にのる。 おてんばといわれせんかいな」 口では 心配 ( しんぱい )そうにいったが、その顔はもうおてんばときめている目つきをしていた。 よろずやの前から学校までは自転車で二、三分であろうが、すうっと風をきって走っていって十五分もたたぬうちに、女先生の 噂 ( うわさ )はもう村中にひろまっていた。 学校でも生徒たちは大さわぎだった。 職員室の入り口のわきに置いた自転車をとりまいて、五十人たらずの生徒は、がやがや、わやわや、まるで 雀 ( すずめ )のけんかだった。 そのくせ女先生が話しかけようとして近づくと、やっぱり雀のようにぱあっと 散 ( ち )ってしまう。 しかたなく職員室にもどると、たったひとりの 同僚 ( どうりょう )の男先生は、じつにそっけない顔でだまっている。 まるでそれは、話しかけられるのは困りますとでもいっているふうに、 机 ( つくえ )の上の 担当箱 ( たんとうばこ )のかげにうつむきこんで、なにか書類を見ているのだ。 授業 ( じゅぎょう )のうちあわせなどは、きのう小林先生との事務ひきつぎですんでいるので、もうことさら用事はないのだが、それにしてもあんまり、そっけなさすぎると、女先生は不平だったらしい。 しかし、男先生は男先生で、困っていたのだ。 女学校の 師範 ( しはん )科を出た 正教員 ( せいきょういん )のぱりぱりは、 芋女 ( いもじょ )出え出えの半人前の先生とは、だいぶようすがちがうぞ。 からだこそ小さいが、頭もよいらしい。 話があうかな。 昨日、洋服をきてきたので、だいぶハイカラさんだとは思っていたが、自転車にのってくるとは思わなんだ。 困ったな。 なんで 今年 ( ことし )にかぎって、こんな 上等 ( じょうとう )を 岬 ( みさき )へよこしたんだろう。 校長も、どうかしとる。 この男先生は、 百姓 ( ひゃくしょう )の 息子 ( むすこ )が、十年がかりで 検定試験 ( けんていしけん )をうけ、やっと四、五年前に一人前の先生になったという、努力型の人間だった。 いつも 下駄 ( げた )ばきで、一枚かんばんの洋服は 肩 ( かた )のところがやけて、ようかん色にかわっていた。 子どももなく年とった奥さんと二人で、 貯金 ( ちょきん )だけをたのしみに、 倹約 ( けんやく )にくらしているような人だから、人のいやがるこのふべんな 岬 ( みさき )の村へきたのも、つきあいがなくてよいと、じぶんからの希望であったという 変 ( かわ )り 種 ( だね )だった。 靴 ( くつ )をはくのは 職員会議 ( しょくいんかいぎ )などで本校へ出むいてゆくときだけ、自転車などは、まださわったこともなかったのだ。 しかし、村ではけっこう気にいられて、魚や野菜に不自由はしなかった。 村の人と同じように、 垢 ( あか )をつけて、村の人と同じものを食べて、村のことばをつかっているこの男先生に、新任の女先生の洋服と自転車はひどく気づまりな思いをさせてしまった。 しかし、女先生はそれを知らない。 前任の小林先生から、本校通学の生徒のいたずらについては聞いていたのだが、男先生についてはただ、「へんこつよ、気にしないで」とささやかれただけだった。 だが、へんこつというよりも、まるでいじわるでもされそうな気がして、たった二日目だというのに、うっかりしていると、ためいきが出そうになる。 女先生の名は大石 久子 ( ひさこ )。 湖のような入り江の向こう岸の、大きな一本松のある村の生まれである。 岬の村から見る一本松は 盆栽 ( ぼんさい )の木のように小さく見えたが、その一本松のそばにある家ではお母さんがひとり、 娘 ( むすめ )のつとめぶりを案じてくれている。 ついこのあいだのこと、 「 岬 ( みさき )は遠くて気のどくだけど、一年だけがまんしてください。 一年たったら本校へもどしますからな。 分教場の 苦労 ( くろう )は、さきしといたほうがいいですよ」 亡 ( な )くなった父親と友だちの校長先生にそういわれて、一年のしんぼうだと思ってやってきた大石先生である。 歩いてかようにはあまりに遠いから、 下宿 ( げしゅく )をしてはとすすめられたのを、 母子 ( おやこ )いっしょにくらせるのをただ一つのたのしみにして、市の女学校の 師範 ( しはん )科の二年を 離 ( はな )れてくらしていた母親のことを思い、片道八キロを自転車でかよう決心をした大石先生である。 自転車は久子としたしかった自転車屋の娘の手づるで、五か月 月賦 ( げっぷ )で手にいれたのだ。 着物がないので、母親のセルの着物を黒く 染 ( そ )め、へたでもじぶんで 縫 ( ぬ )った。 それともしらぬ人びとは、おてんばで自転車にのり、ハイカラぶって洋服をきていると思ったかもしれぬ。 なにしろ昭和三年である。 普通選挙 ( ふつうせんきょ )がおこなわれても、それをよそごとに思っているへんぴな村のことである。 その自転車が新らしく光っていたから、その黒い手縫いのスウツに 垢 ( あか )がついていなかったから、その白いブラウスがまっ白であったから、岬の村の人にはひどくぜいたくに見え、おてんばに見え、よりつきがたい女に見えたのであろう。 しかしそれも、大石先生にはまだなっとくのゆかぬ、 赴任 ( ふにん )二日目である。 ことばの通じない外国へでもやってきたような心細さで、一本松のわが家のあたりばかりを見やっていた。 カッ カッ カッ カッ 始業を報じる 板木 ( ばんぎ )が鳴りひびいて、大石先生はおどろいて我れにかえった。 ここでは最高の四年生の 級長 ( きゅうちょう )に 昨日 ( きのう )えらばれたばかりの男の子が、背のびをして 板木 ( ばんぎ )をたたいていた。 校庭に出ると、今日はじめて親の手をはなれ、ひとりで学校へきた 気負 ( きお )いと一種の不安をみせて、一年生のかたまりだけは、 独特 ( どくとく )な、無言のざわめきをみせている。 三、四年の組がさっさと教室へはいっていったあと、大石先生はしばらく両手をたたきながら、それにあわせて足ぶみをさせ、うしろむきのまま教室へみちびいた。 はじめてじぶんにかえったようなゆとりが心にわいてきた。 席 ( せき )におさまると、 出席簿 ( しゅっせきぼ )をもったまま 教壇 ( きょうだん )をおり、 「さ、みんな、じぶんの名前をよばれたら、大きな声で返事するんですよ。 「岡田磯吉くん、いないんですか」 見まわすと、いちばんうしろの席の、ずぬけて大きな男の子が、びっくりするほど大声で、答えた。 「いる」 「じゃあ、ハイって返事するのよ。 岡田磯吉くん」 返事した子の顔を見ながら、その子の席へ近づいてゆくと、二年生がどっと笑いだした。 本ものの岡田磯吉は困って突っ立っている。 「ソンキよ、返事せえ」 きょうだいらしく、よくにた顔をした二年生の女の子が、磯吉にむかって、小声でけしかけている。 「みんなソンキっていうの?」 先生にきかれて、みんなは一ようにうなずいた。 「そう、そんなら、磯吉のソンキさん」 また、どっと笑うなかで、先生も一しょに笑いだしながら鉛筆を動かし、その呼び名をも 出席簿 ( しゅっせきぼ )に小さくつけこんだ。 「つぎは、 竹下竹一 ( たけしたたけいち )くん」 「ハイ」りこうそうな男の子である。 「そうそう、はっきりと、よくお返事できたわ。 みんながまた笑いだしたことで 相沢仁太 ( あいざわにた )というその子はますますいい気になり、つぎに呼んだ 森岡正 ( もりおかただし )のときも、「タンコ」とどなった。 そして、じぶんの番になると、いっそう大声で、 「ハーイ」 先生は笑顔のなかで、少したしなめるように、 「相沢仁太くんは、少しおせっかいね。 声も大きすぎるわ。 こんどは、よばれた人が、ちゃんと返事してね。 「 西口 ( にしぐち )ミサ子さん」 「ハイ」 「ミキちゃんていうんでしょ」 彼女もまた、かぶりをふり、小さな声で、 「ミイさん、いうん」 「あら、ミイさんいうの。 かわいらしいのね。 ハイっていいましょうね、マスノさん」 すると、おせっかいの仁太がまた口をいれた。 「マアちゃんじゃ」 先生はもうそれを 無視 ( むし )して、つぎつぎと名前を呼んだ。 「 木下富士子 ( きのしたふじこ )さん」 「ハイ」 「 山石早苗 ( やまいしさなえ )さん」 「ハイ」 返事のたびにその子の顔に 微笑 ( びしょう )をおくりながら、 「 加部 ( かべ )小ツルさん」 急にみんながわいわいさわぎだした。 何ごとかとおどろいた先生も、口ぐちにいっていることがわかると、香川マスノのヘイよりも、もっとおかしく、若い先生はとうとう笑いだしてしまった。 みんなはいっているのだった。 カベコッツル、カベコッツル、 壁 ( かべ )に頭をカベコッツル。 勝気 ( かちき )らしい加部小ツルは泣きもせず、しかし赤い顔をしてうつむいていた。 そのさわぎもやっとおさまって、おしまいの 片桐 ( かたぎり )コトエの出席をとったときにはもう、四十五分の授業時間はたってしまっていた。 加部 ( かべ )小ツルがチリリンヤ( 腰 ( こし )にリンをつけて、用足しをする 便利屋 ( べんりや ))の 娘 ( むすめ )であり、 木下富士子 ( きのしたふじこ )が 旧家 ( きゅうか )の子どもであり、ヘイと返事をした 香川 ( かがわ )マスノが町の料理屋の娘であり、ソンキの 岡田磯吉 ( おかだいそきち )の家が 豆腐屋 ( とうふや )で、タンコの 森岡正 ( もりおかただし )が 網元 ( あみもと )の 息子 ( むすこ )と、先生の心のメモにはその日のうちに書きこまれた。 それぞれの家業は豆腐屋とよばれ、米屋とよばれ、網屋とよばれてはいても、そのどの家もめいめいの商売だけでは 暮 ( くら )しがたたず、 百姓 ( ひゃくしょう )もしていれば、 片手間 ( かたてま )には 漁師 ( りょうし )もやっている、そういう 状態 ( じょうたい )は大石先生の村と同じである。 だれもかれも 寸暇 ( すんか )をおしんで働かねば暮しのたたぬ村、だが、だれもかれも働くことをいとわぬ人たちであることは、その顔を見ればわかる。 この、 今日 ( きょう )はじめて一つの数から教えこまれようとしている小さな子どもが、学校から帰ればすぐに子守りになり、 麦搗 ( むぎつ )きを手つだわされ、 網曳 ( あみひ )きにゆくというのだ。 働くことしか 目的 ( もくてき )がないようなこの寒村の子どもたちと、どのようにしてつながってゆくかを思うとき、一本松をながめて 涙 ( なみだ )ぐんだ 感傷 ( かんしょう )は、 恥 ( は )ずかしさでしか考えられない。 今日はじめて 教壇 ( きょうだん )に立った大石先生の心に、今日はじめて集団生活につながった十二人の一年生の 瞳 ( ひとみ )は、それぞれの個性にかがやいてことさら印象ぶかくうつったのである。 この瞳を、どうしてにごしてよいものか! その日、ペタルをふんで八キロの道を一本松の村へと帰ってゆく大石先生のはつらつとした姿は、朝よりもいっそうおてんばらしく、村人の目にうつった。 「さよなら」 「さよなら」 「さよなら」 出あう人みんなにあいさつをしながら走ったが、返事をかえす人はすくなかった。 時たまあっても、だまってうなずくだけである。 そのはずで、村ではもう大石先生 批判 ( ひはん )の声があがっていたのだ。 西口屋じゃ、なんぞ持っていってお 上手 ( じょうず )したんかもしれん。 なんにも知らぬ大石先生は、 小柄 ( こがら )なからだをかろやかにのせて、村はずれの坂道にさしかかると、少し前こごみになって足に力をくわえ、このはりきった思いを一刻も早く母に語ろうと、ペタルをふみつづけた。 歩けばたいして感じないほどのゆるやかな坂道は、 往 ( ゆ )きにはこころよくすべりこんだのだが、そのこころよさが帰りには重い荷物となる。 そんなことさえ、帰りでよかったとありがたがるほどすなおな気持であった。 やがて 平坦 ( へいたん )な道にさしかかると、朝がた出あった生徒の一団も帰ってきた。 なんのことか、はじめは分からなかった先生も、それがじぶんのことと分かると思わず声を出して笑った。 それがあだ名になったと、さとったからだ。 わざと、リリリリリとベルを鳴らし、すれちがいながら、高い声でいった。 「さよならァ」 わあっと 喚声 ( かんせい )があがり、また、大石小石! と呼びかける声が遠のいてゆく。 おなご先生のほかに、小石先生という名がその日生まれたのである。 からだが小つぶなからでもあるだろう。 新らしい自転車に 夕陽 ( ゆうひ )がまぶしくうつり、きらきらさせながら小石先生の姿は 岬 ( みさき )の道を走っていった。 とっぱなまで四キロの細長い岬のまん中あたりにも小さな 部落 ( ぶらく )がある。 入り海にそった白い道は、この小部落にさしかかるとともに、しぜんに岬を横ぎって、やがて 外海 ( そとうみ )ぞいに、海を見おろしながら小石先生の学校のある岬村へとのびている。 この外海ぞいの道にさしかかる前後に、本校へかよう生徒たちと出あうのが、毎日のきまりのようになっていて、もしも、少しでも場所がちがうと、どちらかがあわてねばならぬ。 「わあ、小石先生きたぞう」 急に足ばやになるのはたいてい生徒のほうだが、たまには先生のほうでも、入り海ぞいの道で行く手に生徒の姿を見つけ、あわててペタルに力を入れることもある。 そんなとき、生徒のほうの、よろこぶまいことか。 顔をまっかにして走る先生にむかって、はやしたてた。 「やあい、先生のくせに、おくれたぞォ」 「月給、ひくぞォ」 そして、わざと自転車の前に 法度 ( はっと )する子どもさえあった。 そんなことがたびかさなると、その日家へ帰ったときの先生は、お母さんにこぼした。 「子どものくせに、月給ひくぞォだって。 勘定 ( かんじょう )だかいのよ。 いやんなる」 お母さんは笑いながら、 「そんなこと、おまえ、気にする 馬鹿 ( ばか )があるかいな。 でもまあ、一年のしんぼうじゃ。 しんぼう、しんぼう」 だが、そういってなぐさめられるほど、苦痛は感じていなかった。 なれてくると、朝はやく自転車をとばす八キロの道のりはあんがいたのしく、 岬 ( みさき )を横ぎるころにはスピードが出てきて、いつのまにか 競争 ( きょうそう )をしていた。 それがまた生徒の心へひびかぬはずがなく、負けずに足が早くなった。 シーソーゲームのように 押 ( お )しつ押されつ、一学期も終ったある日、用事で本校へ出むいていった男先生はみょうなことをきいてかえった。 この一学期間、岬の生徒は一度もちこくしないというのだ。 片道五キロを歩いてかよう 苦労 ( くろう )はだれにもわかっていることで、昔から、岬の子どものちこくだけは大目に見られていたのだが、逆に一度もちこくがないとなると、これは当然ほめられねばならぬ。 もちろん、一大事件としてほめられたのだ。 男先生はそれを、じぶんの 手柄 ( てがら )のように思ってよろこび、 「なんしろ、今年の生徒んなかには、たちのよいのがおるからなあ」 五年生のなかにたったひとり、本校の大ぜいのなかでも 群 ( ぐん )をぬいてできのよい女の子がいることで、 岬 ( みさき )からかよっている三十人の男女生徒がちこくしなかったようにいった。 だがそれは、じつは女先生の自転車のためだったのだ。 しかし、女先生だとて、そうとは気がつかなかった。 そして、たびたび、この岬の村の子どもらの 勤勉 ( きんべん )さに感心し、いたずらぐらいはしんぼうすべきことだと思った。 そう思いながら、心の中ではじぶんの勤勉さをも、ひそかにほめてやった。 そして窓の外に目をやり、じぶんをいつもはげましてくれるお母さんのことを思った。 おだやかな入り海はいかにも夏らしくぎらぎら光って、母のいる一本松の村は白い夏雲の下にかすんで見えた。 あけっぴろげの窓から、海風が流れこんできて、もうあと二日で夏休みになるよろこびが、からだじゅうにしみこむような気がした。 だが、少し悲しいのは、なんとしても気をゆるさぬような村の人たちのことだ。 それを男先生にこぼすと、男先生は 奥歯 ( おくば )のない口を大きくあけて笑い、 「そりゃあ無理な 注文 ( ちゅうもん )じゃ。 あんたが、なんぼ熱心に家庭訪問してもですな、洋服と自転車がじゃましとりますワ。 ちっとばかりまぶしくて、気がおけるんです。 そんな村ですからな」 女先生はびっくりしてしまった。 顔を赤らめ、うつむいて考えこんだ。 往復四里(十六キロ)の道を……。 夏休み中にもなんどかそれについて考えたが、決心のつかぬうちに二学期がきた。 暦 ( こよみ )のうえでは九月といっても、 永 ( なが )い休みのあとだけに暑さは暑さ以上にこたえ、女先生の小さなからだは少しやせて、顔色もよくなかった。 その朝家を出かけるとき、先生のお母さんはいったのである。 「なんじゃかんじゃというても、三分の一は 過 ( す )ぎたでないか。 しんぼう、しんぼう。 もうちょっとのしんぼう」 手つだって自転車を出してくれながら、なぐさめてくれた。 しかし、先生でもお母さんの前では、ちょっとわがままをいってみたくなることは、ふつうの人間と同じである。 「あーあ、しんぼ、しんぼか」 腹でも立てているように、さあっと自転車をとばした。 しばらくぶりに風をきって走るこころよさが身にしみるようだったが、 今日 ( きょう )からまた、自転車でかようことを思うと気が重くなった。 休み中なんどか話がでて、 岬 ( みさき )で部屋でも借りようかといってもみたが、けっきょくは自転車をつづけることになったのである。 自転車も、朝はよいけれど、焼けつくような、 暑熱 ( しょねつ )のてりかえす道を、背中に 夕陽 ( ゆうひ )をうけてもどってくるときのつらさは、ときに 呼吸 ( いき )もとまるかと思うこともある。 岬の村は目の前なのに、日がな毎日馬鹿念をいれて、入り海をぐるりとまわってかようことを考えると、くやしくてならない。 しかも自転車は岬の人たちの気にいらないというのだ。 あんちきしょ! 口に出してはいわないが、目の前に横たわる 岬 ( みさき )をにらまえると、思わず足に力がはいる。 めずらしく波のざわめく入り江の海を右にへだてて、岬に 逆行 ( ぎゃっこう )して走りながら、ああ、と思った。 今日は二百十日なのだ。 そうと気がつくと、なんとなくあらしをふくんだ風が、じゃけんに 頬 ( ほお )をなぐり、 潮 ( しお )っぽい 香 ( かお )りをぞんぶんにただよわせている。 岬の山のてっぺんがかすかにゆれ動いているようなのは、外海の波の荒さを思わせて、ちょっと不安にもなった。 途中 ( とちゅう )で自転車をおりねばならないかもしれぬからなのだ。 そうなると自転車ほどじゃまものはない。 しかし、だからといって今おりるわけにはもうゆかないのだと考えながら、いつしか、空想は羽のある鳥のように飛びまわっていた。 ……風よ 凪 ( な )げ! アリババのようにわたしが命令をくだすと、風はたちまち力をぬいて、海はうそのように静まりかえる。 まるで、いま 眠 ( ねむ )りからさめたばかりの 湖 ( みずうみ )のような静かさです。 橋よかかれ! さっとわたしが人さし指を前にのばすと、海の上にはたちまち橋がかかる。 りっぱな、 虹 ( にじ )のようにきれいな橋です。 わたしだけに見える、そして、わたしだけがとおれる橋なのです。 わたしの自転車は、そっとその橋の上にさしかかります。 わたしはゆっくりとペタルをふみます。 あわてて海におちこむと大へんですから。 こうして七色のそり橋をゆっくりと 渡 ( わた )りましたが、いつもより四十五分も早く岬の村へつきました。 さあ大へんです。 わたしの姿を見た村の人たちは、いそいで時計の針を四十五分ほどすすめるし、子どもたちときたら、見るも気のどくなほどあわてふためいて、食べかけの 朝飯 ( あさめし )をのどにつめ、あとはろくに食べずに家をとびだしました。 わたしが学校につくと、いま起きだしたばかりの男先生はおどろいて井戸ばたにかけつけ、 手水 ( ちょうず )をつかいはじめるし、年とった奥さんは奥さんで、ねまきも着かえるまがなく 七輪 ( しちりん )をやけにあおぎながら、片手で 衿 ( えり )もとを合わせ合わせ、きまりわるそうなていさい笑いをし、そっと目もとや口もとをこすりました。 目のわるい奥さんは、朝おきるといつも目やにがたまっているのです…… ここだけはほんとのことなので、思わずくすっと笑ったとき、 空想 ( くうそう )は 霧 ( きり )のように消えてしまった。 ゆく手から、風にみだされながらいつもの声がきこえたのである。 「小石せんせえ」 ひと月ぶりの声をきくと、ぐっとからだに力がはいり、「はーい」と答えたものの、風はその声をうしろのほうへもっていったようだ。 思ったとおり、外海の側は大きく波が立ちさわいでいて、いかにも 厄日 ( やくび )らしいさまを見せている。 「おそいのね、 今日 ( きょう )は。 四十五分ぐらいおくれているかもしれないわよ」 それをきくと、なつかしそうに立ちどまって、何か話しかけそうにした子どもたちは、本気にして走りだした。 先生のほうも、風にさからって、いっそう足に力をいれた。 ときどき方向のきまらぬような 舞 ( ま )い舞い風がふいてきて、何度も自転車をおりねばならなくなったりした。 まったく、四十五分ほどおくれそうだ。 海べの村でも一本松はいつも 岬 ( みさき )にまもられているかたちで、厄日にもたいしたことはないのにくらべると、細長い岬の村は、 外海側 ( そとうみがわ )の半分がいつも相当の害をうけるらしい。 木々の小枝のちぎれてとびちった道を、自転車も 難渋 ( なんじゅう )しながら進んだ。 押 ( お )して歩くほうが多かったかもしれぬ。 こうして、ほんとうにずいぶんおくれて村にさしかかったのであったが、村中が一目で見えるところまできて、先生は思わず立ちどまって 叫 ( さけ )んだ。 「あらッ」 村のとっつきの小さな 波止場 ( はとば )では、波止場のすぐ入り口で漁船がてんぷくして、 鯨 ( くじら )の背のような 船底 ( ふなぞこ )を見せているし、波止場にはいれなかったのか、道路の上にも 幾隻 ( いくせき )かの船があげられていた。 海から打ちあげられた 砂利 ( じゃり )で道はうずまり、とうてい自転車などとおれそうもないほど荒れているのだ。 まるで、よその村へきたような変りかただった。 海べりの家ではどこもみな、 屋根 ( やね )がわらをはがされたらしく、屋根の上に人があがっていた。 だれひとり先生にあいさつをするゆとりもないらしいなかを、先生もまた、道に打ちあげられた石をよけながら、自転車を押してやっと学校にたどりついた。 門をはいってゆくと、どっと一年生が走ってきて、とりまいた。 そのどの顔にも、生き生きとした目の光があった。 それは、昨夜のあらしのおとずれを、よろこんででもいるように元気なのだ。 うわずった声の調子で、口ぐちに話しかけようとするのを、少し出しゃばりの香川マスノが、わたしが 報告 ( ほうこく )の役だとでもいうふうに、その声の高さでみんなをおさえ、 「せんせ、ソンキのうち、ぺっちゃんこにつぶれたん。 蟹 ( かに )をたたきつけたように」 マスノのうすいくちびるから出たことばにおどろき、だんだん大きく目をみひらいた先生は、顔色さえも少しかえて、 「まあ、ソンキさん、うちの人たち、けがしなかったの?」 見まわすと、ソンキの 岡田磯吉 ( おかだいそきち )は、びっくりしたのがまださめないようなようすで、こっくりをした。 「せんせ、わたしのうちは、井戸のはねつるべの 棹 ( さお )がまっ二つに折れて、井戸ばたの水がめがわれたん」 やっぱりマスノがそういった。 「大へんだったのね。 ほかのうち、どうだったの」 「よろずやの 小父 ( おじ )さんが、屋根のかこいをしよって、屋根から落ちたん」 「まあ」 「ミイさんとこでさえ、雨戸をとばしたんで。 なあミイさん」 気がつくと、マスノがひとりでしゃべっている。 「ほかの人どうしたの。 なんでもなかったの?」 山石早苗 ( やまいしさなえ )と目があうと、 内気 ( うちき )な早苗はあかい顔をしてこっくりした。 マスノは先生のスカートをひっぱって、じぶんのほうへ注意をひき、 「せんせせんせ、それよりもまだ 大騒動 ( おおそうどう )なんよ。 米屋の竹一ん 家 ( く )は、ぬすっとにはいられたのに、なあ竹一。 米一 俵 ( ぴょう )、とられたんなあ」 同意をもとめられて竹一は、うんとうなずき、 「ゆだんしとったんじゃ。 こんな 雨風 ( あめかぜ )の日はだいじょうぶだと思うたら、 今朝 ( けさ )んなって見てみたら、ちゃんと 納屋 ( なや )の戸があいとったん。 ぬすっとの家まで、米つぶがこぼれとるかもしれんいうて、お父つぁんがさがしたけんど、こぼれとらなんだん」 「まあ、いろんなことがあったのね。 井戸の屋根がふっとんで、見おぼえのトタン屋根のあたりが 空白 ( くうはく )になり、そのあたりの空に白い雲がとんでいた。 走りまわっていたらしいうしろはちまきの男先生が、いつもに似合わずあいそのよい顔で、 「やあ、おなご先生、どうです。 ゆうべは、だいぶあばれましたな」 たすきがけの奥さんも出てきて、頭の手ぬぐいをぬぎながら久しぶりのあいさつをし、 「一本松が、折れましたな」 「え、ほんとですか」 先生はとびあがるほどおどろき、じぶんの村のほうに目をやった。 一本松はいつものところにちゃんと立っているが、よくみると少しちがった姿をしている。 たいした 暴風 ( ぼうふう )でもなかったのに、年をへた 老松 ( ろうしょう )は、枝をはったその 幹 ( みき )の一部を風にうばわれたものらしい。 それにしても、入り海をとりかこんだ村むらにとって、大昔から何かにつけて目じるしにされてきた 名物 ( めいぶつ )の老松が 難 ( なん )にあったのを、地元のじぶんが気づかずにいたのが恥ずかしかった。 しかも今朝がたは、ごうまんにもいい気になって、一本松の下から人さし指一本で 魔法 ( まほう )の橋をかけ、波をしずめたのだ。 村の時計を四十五分も進めさせることで、村中の人を大さわぎさせたのに、きてみればそれどころでない大さわぎなのだ。 男先生はあわてて 手水 ( ちょうず )をつかっているどころでなく、はだしになって働いている。 奥さんは 七輪 ( しちりん )などとっくにすまして、きりりとしたたすきがけで働いているではないか。 ああ、二学期第一日は出発からまちがっていた、と女先生はひそかに考えた。 家を出るときの、お母さんにたいしてのぶあいそを 悔 ( く )いたのである。 三時間目の 唱歌 ( しょうか )のとき、女先生は思いついて、生徒をつれ、 災難 ( さいなん )をうけた家へお 見舞 ( みま )いにゆくことにした。 いちばん学校に近い西口ミサ子の家へより、見舞いのことばをのべた。 なんといっても家がぺっちゃんこになったソンキの家が 被害 ( ひがい )の第一番だとみんながいうので、つぎには 荒神様 ( こうじんさま )の上にあるソンキの家へむかった。 マスノが 今朝 ( けさ )いった、 蟹 ( かに )をたたきつけたようだというのを思いだし、それは 大人 ( おとな )の口まねだろうと思いながら、へんに実感をともなって 想像 ( そうぞう )された。 だが家はもう近所の人たちの手だすけであらかた片づいていた。 別棟 ( べつむね )の 豆腐納屋 ( とうふなや )のほうが助かったので、そこの土間にじかに 畳 ( たたみ )をいれて、そこへ 家財道具 ( かざいどうぐ )をはこんでいた。 一家七人が今夜からそこに 寝 ( ね )るのかと思うと、気のどくさですぐにはことばも出ないでいるのを、手つだい人のなかから川本松江の父親が口をだし、 大工 ( だいく )らしいひょうきんさで、しかしいくぶんかの 皮肉 ( ひにく )をまじえていった。 「あ、これはこれは先生、先生まで手つだいにきておくれたんかな。 そんならひとつ、その大ぜいの 弟子 ( でし )を使うて道路の石でも浜へころがして つかあさらんか(くださいませんか)。 ここは大工でないと都合がわるいですわい。 それとも、 手斧 ( ちょうな )でも持ちますかな」 よいなぐさみものといわんばかりに、そこらの人たちが笑う。 先生ははっとし、のんきらしく見られたことを 恥 ( は )じた。 そのとおりだと思った。 しかし、せっかくきたのだから、 一言 ( ひとこと )でもソンキの家の人たちに 見舞 ( みま )いをいおうと思い、なんとなくぐずぐずしていたが、だれも取りあってくれない。 しかたなくもどりかけながらてれかくしに子どもたちにはかった。 「ね、みんなで、これから道路の 砂利掃除 ( じゃりそうじ )をしようか」 「うん、うん」 「しよう、しよう」 子どもたちは大よろこびで、くもの子が散るようにかけだした。 あらしのあとらしい、すがすがしさをともなった暑さにつつまれて、村は 隅 ( すみ )ずみまではっきりと見えた。 「よいしょっと!」 「こいつめ!」 「こんちきィ」 めいめいの力におうじた石をかかえては、道路のはじから二メートルばかり下の浜へ落とすのである。 二人がかりでやっと動くような大きな石ころもまじえて、まるで 荒磯 ( あらいそ )のように石だらけの道だった。 今はもう、ただ静かにたたえているだけのような海の水が、昨夜はこの高い道路の 石垣 ( いしがき )をのりこえて、こんな石まで打ちあげるほどあれくるったのかと思うと、そのふしぎな自然の力におどろきあきれるばかりだった。 波は石をはこび、風は家をたおし、 岬 ( みさき )の村はまったく大騒動の一夜であったのだ。 同じ二百十日も、 岬 ( みさき )の内と外ではこうもちがうのかと思いながら、先生は抱えた石をどしんと浜になげ、すぐそばで、なれたしぐさで石をけとばしている三年生の男の子にきいた。 「 時化 ( しけ )のとき、いつもこんなふうになるの?」 「はい」 「そして、みんなで 石掃除 ( いしそうじ )するの?」 「はい」 ちょうど、そこを香川マスノの母親がとおりかかり、 「まあま先生、ごくろうでござんすな。 でも、今日は ざっとにしたほうがよろしいですわ。 どうせまた、うしろ七日や二百二十日がひかえとりますからな」 本村のほうで料理屋と宿屋をしているマスノの母は、わが子のいる岬へようすを見にきたということであった。 マスノがとんできて、母親の 腰 ( こし )にかじりつき、 「お母さん、おそろしかったんで、ゆうべ。 うち、ごつげな音がして、おばあさんにかじりついて 寝 ( ね )たん。 朝おきたら、はねつるべの 棹 ( さお )が折れとったんで。 水がめがわれてしもたん」 今朝 ( けさ )きいたことをマスノはくりかえして母に語っていた。 ふんふんといちいちうなずいていたマスノの母親は、半分は先生にむかって、 「岬じゃあ船がながされたり、屋根がつぶれたり、ごっそり 壁 ( かべ )が落ちて家の中が見とおしになった家もあると聞いたもんですからな、びっくりしてきたんですけど、つるべの 棹 ( さお )ぐらいでよかった、よかった」 マスノの母親がいってから、 「マアちゃん、ごっそり 壁 ( かべ )が落ちたって、だれのうち?」 マスノはかかえていた石を、すてるのをわすれたように、 得意 ( とくい )の表情になって、 「 仁太 ( にた )んとこよ先生。 壁が落ちて 押入 ( おしい )れん中ずぶぬれになってしもたん。 見にいったら、中がまる見えじゃった。 ばあやんが押入れん中で こないして 天井 ( てんじょう )見よった」 顔をしかめて ばあやんのまねをしたので、先生は思わず 吹 ( ふ )きだしたのである。 「押入れが、まあ」 そういったあとで、笑いはこみあげてきて、ころころと声に出てしまった。 なぜそんなに先生が笑いだすのか生徒たちにはわからなかったが、マスノはひとり、じぶんが先生をよろこばしたような気になって、きげんのよい顔をした。 みんなはいつかよろずやのそばまできていた。 よろずやのおかみさんはすごいけんまくを顔に出して走りよってきて、先生の前に立った。 肩 ( かた )でいきをしながら、すぐにはものもいえないようだ。 きゅうに笑いを消した先生は、すぐおじぎをしながら、 「あら、失礼いたしました。 しけで大へんでしたなあ。 今日 ( きょう )は石ころ 掃除 ( そうじ )のお手つだいをしていますの」 しかし、おかみさんはまるで聞こえないようなようすで、 「おなご先生、あんたいま、なにがおかしいて笑うたんですか?」 「…………」 「人が 災難 ( さいなん )に 会 ( お )うたのが、そんなおかしいんですか。 うちのお父さんは屋根から落ちましたが、それもおかしいでしょう。 みんごと 大 ( たい )した 怪我 ( けが )は、しませなんだけんど、大怪我でもしたら、なお、おかしいでしょう」 「すみません。 おていさいに、 道掃除 ( みちそうじ )などしてもらいますまい。 とにかく、わたしの家の前はほっといてもらいます。 そんなら、じぶんだけでやりゃあよい……」 あとのほうはひとり 言 ( ごと )のようにつぶやきながら、びっくりして 二 ( に )の句もつげないでいる先生をのこして、ぷりぷりしながら引きかえすと、となりの 川本大工 ( かわもとだいく )のおかみさんに、わざとらしい大声で話しかけた。 「あきれた人もあるもんじゃな。 ひとの災難を聞いて、けらけら笑う先生があろうか。 ひとつ、ねじこんできた」 やがてそれは、また尾ひれがついて村中に伝わってゆくにちがいない。 じっと突っ立って、二分間ほど考えこんでいた先生は、 心配 ( しんぱい )そうにとりまいている生徒たちに気がつくと、 泣 ( な )きそうな顔で笑って、しかし声だけは 快活 ( かいかつ )に、 「さ、もうやめましょう。 小石先生しっぱいの巻だ。 浜で、歌でもうたおうか」 くるっときびすをかえして先に立った。 その口もとは笑っているが、ぽろんと 涙 ( なみだ )をこぼしたのを、子どもたちが見のがすわけはない。 「先生が、泣きよる」 「よろずやのばあやんが、泣かしたんど」 そんなささやきがきこえて、あとはひっそりと、ぞうりの足音だけになった。 ふりかえって、泣いてなんかいないよう、と笑ってみせようかと思ったとたん、また涙がこぼれそうになったので、だまった。 このさい笑うのはよくないとも思った。 さっき笑ったのも、よろずやのおかみさんがいうように、人の災難を笑ったというよりも、ほんとうのところは、マスノの身ぶりがおかしく、それにつづいて、 押入 ( おしい )れの 連想 ( れんそう )は、一学期のある日の、 仁太 ( にた )を思いだして笑わせたのであった。 「 天皇陛下 ( てんのうへいか )はどこにいらっしゃいますか?」 ハイ ハイ と手があがったなかで、めずらしく仁太がさされ、 「はい、仁太くん」 仁太はからだじゅうからしぼり出すような、れいの大声で、 「天皇陛下は、押入れの中におります」 あんまりきばつな答えに、先生は涙を出して笑った。 先生だけでなく、ほかの生徒も笑ったのだ。 笑いは 教室 ( きょうしつ )をゆるがし、学校のそとまでひびいていったほどだった。 東京、 宮城 ( きゅうじょう )、などという声がきこえても、仁太はがてんのゆかぬ顔をしていた。 「どうして、 押入 ( おしい )れに天皇陛下がいるの?」 笑いがやまってからきくと、仁太は少々 自信 ( じしん )をなくした声で、 「学校の、押入れん中にかくしてあるんじゃないんかいや」 それでわかった。 仁太がいうのは天皇陛下の写真だったのだ。 奉安殿 ( ほうあんでん )のなかった学校では、天皇陛下の写真は押入れにかぎをかけてしまってあったのだ。 仁太の家の押入れの 壁 ( かべ )が落ちたことは、それを思いださせたのであった。 若い女先生は、思いだすたびに笑わずにいられなかったのであるが、そんな言いわけをよろずやのおかみさんに聞いてももらえず、だまって歩いた。 涙がこぼれている今でさえ、その話はおかしい。 しかしそのおかしさを、よろずやのおかみさんのことばは、差し引きして つりをとったのである。 浜にでて歌でもうたわぬことには、先生も生徒も気持のやりばがなかった。 浜におりると先生はすぐ、両手をタクトにして、歌いだした。 うさぎゃおこるし かにゃはじょかくし しかたなくなく あなへとにげる おしまいまで歌っているうちに、失敗した 蟹 ( かに )のあわてぶりが、じぶんたちの仲間ができたようなおもしろさで思いだされ、いつかまた、心から笑っている先生だった。 「このみち」だの「ちんちん千鳥」だの、一学期中におぼえた歌をみんな歌い、「お山の大将」でひとやすみになると、生徒たちはてんでに走りまわり、おとなしく先生をとりまいているのは一年生の五、六人だけだった。 手入れなどめったにしない乱れた 髪 ( かみ )の 毛 ( け )を、うしろで だんごにしている女の子もいるし、いがぐりが耳の上までのびほうだいの男の子もあった。 床屋 ( とこや )のない村では学校のバリカンがひどく役に立ち、それは男先生のうけもちだった。 髪の毛を だんごにしている女の子のほうは、女先生が気をくばって、 水銀軟膏 ( すいぎんなんこう )をぬりこんでやらねばならない。 さっそく、 明日 ( あした )はそれをやろうと思いながら先生は立ちあがり、 「さ、今日はこれでおしまい。 帰りましょう」 はたはたとスカートの 膝 ( ひざ )をはらい、一足うしろにさがったとたん、きゃあっと 悲鳴 ( ひめい )をあげてたおれた。 落とし穴に落ちこんだのだ。 いっしょに 悲鳴 ( ひめい )をあげたもの、げらげら笑いながら近よってくるもの、手をたたいてよろこぶもの、おどろいて声をのんでいるもの、そのさわぎのなかから、先生はなかなか立ちあがろうとしなかった。 横なりに、くの字にねたまま、砂の上に 髪 ( かみ )の 毛 ( け )をじかにくっつけている。 笑ったものも、手をたたいたものも、だまりこんでしまった。 異様 ( いよう )なものを感じたのだ。 つぶった両の目から 涙 ( なみだ )が流れているのを見ると、 山石早苗 ( やまいしさなえ )が急に泣きだした。 その泣き声にはげまされでもしたように「だいじょうぶ」といいながらやっと半身をおこした先生は、そうっと穴の中の足を動かし、こわいものにさわるようなようすで、 靴 ( くつ )のボタンをはずし右の足くびにふれたと思うと、そのまままた横になってしまった。 もう起きあがろうとはしない。 やがて、目をつぶったまま、 「だれか、男先生、よんできて。 おなご先生が足の骨折って、歩かれんて」 蜂 ( はち )の 巣 ( す )をつついたような大さわぎになった。 大きな子供たちがどたばたかけだしていったあとで、女の子はわあわあ泣きだした。 まるで 半鐘 ( はんしょう )でも鳴りだしたように、村中の人がとびだして、みんなそこへかけつけてきた。 まっさきにきた竹一の父親は、うつむいてねている女先生に近よって、砂の上にひざをつき、 「どうしました、先生」 と、のぞきこんだ。 しかし、先生は顔をしかめたまま、ものがいえないらしい。 子どもたちからきかされて、足のけがだとわかると、少し安心したようすで、 「くじいたんでしょう。 どれどれ」 足もとの方にまわり、靴をぬがせにかかると、先生は、うっと声を出してますます顔をしかめた。 靴のあとをくっきりとつけて、先生の足くびは、二倍もの太さになったかと思うほどはれていた。 血は出ていなかった。 「 冷 ( ひ )やすと、よかろうがな」 もう大ぜい集まってきている人たちにいうと、 徳田吉次 ( とくだきちじ )のお父つぁんが、いそいでよごれた 腰 ( こし )の手ぬぐいを 潮水 ( しおみず )にぬらしてきた。 「いたいんですかい、ひどく?」 かけつけた男先生にきかれて、女先生はだまってうなずいた。 「歩けそうにないですかい?」 また、うなずいた。 「一ぺん、立ってみたら?」 だまっている。 西口ミサコの家からミサ子の母親が、うどんこと卵をねったはり 薬 ( ぐすり )を 布 ( ぬの )にのばしてもってきた。 「骨は、折れとらんと思いますが、早く 医者 ( いしゃ )にかかるか、もみりょうじしたほうがよろしいで」 「もみ医者なら中町の 草加 ( くさか )がよかろう。 骨つぎもするし」 「草加より、 橋本外科 ( はしもとげか )のほうが、そりゃあよかろう」 口ぐちにいろんなことをいったが、なにをどうするにも 岬 ( みさき )の村では外科の医者も、もみりょうじもなかった。 たった一つはっきりしていることは、どうしても先生は歩けないということだった。 あれこれ相談のけっか、舟で中町までつれてゆくことになった。 漁師 ( りょうし )の 森岡正 ( もりおかただし )の家の舟で、 加部 ( かべ )小ツルのお父さんと竹一の兄がこいでゆくことに話がきまった。 男先生はついてゆくことになり、女先生をおんぶして舟にのった。 坐 ( すわ )らせたり、おぶったり、ねかせたりするたびに、女先生のがまんした口から思わずうなり声が出た。 舟が 渚 ( なぎさ )をはなれだすと、わあっと、女の子の泣き声がかたまってとんできた。 「せんせえ」 「おなごせんせえ」 声をかぎりにさけぶものもいる。 小石先生は身動きもできず、目をつぶったまま、だまってその声におくられた。 「せんせえ」 声はしだいに遠ざかり、船は入り海のまん中に出た。 朝、 魔法 ( まほう )の橋をかけた海を、先生は今、痛さをこらえながら、かえってゆく。 十日すぎても、半月たっても女先生は姿を見せなかった。 職員室 ( しょくいんしつ )の外の 壁 ( かべ )にもたせてある自転車にほこりがたまり、子どもたちはそれをとりまいて、しょんぼりしていた。 もう小石先生はこないのではないかと考えるものもあった。 本校がよいの生徒にしてもそうだ。 先生の自転車がどれほど毎日のはげみになっていたか、めいめいが、長い道中どれほど小石先生の姿をまっていたか、小石先生にあわなくなってから、そう思った。 村の人にしても同じだった。 だれがどうというのではなく、 不当 ( ふとう )につらくあたっていたことを、ひそかに 悔 ( く )いているようだった。 なぜなら、小石先生の 評判 ( ひょうばん )がきゅうによくなったのだ。 「あの先生ほど、はじめから子どもにうけた先生は、これまでになかったろうな」 「早うなおってもらわんと、こまる。 岬 ( みさき )の子どもが、先生をちんばにして、てなことになると、こまるもん。 あとへ 来手 ( きて )がなかったりすると、なおこまる」 「ちんばになんぞ、ならにゃえいがなァ。 若い 身空 ( みそら )で、ちんばじゃ、なおっても、かようにこまるじゃろな」 こんなふうに女先生の 噂 ( うわさ )をした。 どうしてももういちど 岬 ( みさき )の学校へきてもらいたい気持がふくまれていた。 きてもらわないと、ほんとに 困 ( こま )るのだ。 直接 ( ちょくせつ )に、もっとも困ったのは男先生だった。 小さな村の小学校では、 唱歌 ( しょうか )は一週一度だった。 その一時間を、男先生はもてあましたのだ。 女先生が休みだしてから、はじめのうちは、ならった歌を合唱させたり、じょうずらしい子どもに 独唱 ( どくしょう )させたりした。 そうしてひと月ほどはすんだが、いつまでもごまかすわけにもゆかず、そこで男先生はとうとうオルガンのけいこをはじめ、そのために 汗 ( あせ )を流した。 先生は声をあげて歌うのである。 うれしくたのしく歌ってわかれて、日曜日をむかえるという寸法の時間割であったのが、子どもにとっても先生にとっても、きゅうにおもしろくない土曜日の三時間目になってしまった。 男先生にとっては、なおのことである。 木曜日ごろになると、もう男先生は土曜日の三時間目が気になりだし、そのために、きゅうに気短かになって、ちょっとのことで生徒にあたりちらした。 わき見をしたといっては 叱 ( しか )りつけ、わすれものをしてきた生徒をうしろに立たせた。 「男先生、このごろ、おこりばっかりするようになったな」 「すかんようになったな。 どうしたんじゃろな」 子どもたちがふしぎがるそのわけを、一ばんよく知っている男先生の 奥 ( おく )さんは、ひそかに心配して、それとなく男先生を助けようとした。 金曜日の夜になると、奥さんは内職の 麦稈真田 ( ばっかんさなだ )をやめてオルガンのそばに立ち、先生をはげました。 「わたしが生徒になりますわ」 「うん、なってくれ」 豆ランプが、ちろちろゆらぎながら、オルガンと、二人の年より 夫婦 ( ふうふ )の姿をてらしているところは、もしも女の子がこれを見たら、ふるえあがりそうな 光景 ( こうけい )である。 やみと光りの 交錯 ( こうさく )のなかで先生と奥さんは歌いかわしていた。 ヒヒヒフ ミミミ イイイムイ 奥さんだけが歌い、それにオルガンの 調子 ( ちょうし )があうまでにはだいぶ夜もふけた。 村はもう 一軒 ( いっけん )のこらず 寝 ( ね )しずまっていることで、かえって気がねでもしているように、奥さんは豆ランプを消してから足さぐりで部屋にもどりながら、ほうっとため息をし、ひそやかに話しかけた。 「おなご先生も、えらい 苦労 ( くろう )かけますな」 「うん。 しかし、むこうにすりゃあ、もっと苦労じゃろうて」 「そうですとも、あんたのオルガンどころじゃありませんわ。 足一本折られたんですもん」 「もしかしたら、大石先生はもう、もどってこんかもしれんぞ。 先生よりも、あの母親のほうが、えらいけんまくだったもんな。 かけがえのない 娘 ( むすめ )ですさかい、二度とふたたび、そんな 性 ( しょう )わるの村へは、もうやりとうありません、いうてな」 「そうでしょうな。 しかし、こられんならこられんで、 代 ( かわ )りの先生がきてくれんと困りますな」 人にきかれたら困るとでもいうようにないしょ声でいって、うらめしそうに、ちらりと海のむこうを見た。 一本松の村も静かにねむっているらしく、星くずのような遠い 灯 ( ひ )がかすかにまたたいている。 こんな夜ふけに、こんな苦労をしているのはじぶんたちだけだと思うと、女先生がうらめしかった。 あれ以来、 奥 ( おく )さんもまたひと役かって、四年生五人の 裁縫 ( さいほう )をうけもっていたのだ。 しかし、 雑巾 ( ぞうきん )さしの裁縫はちっとも苦労ではなかった。 まるで手まりでもかがるように、ていねいにさすのを、一時間のあいだ、かわるがわるにみてやればそれですむ。 だが、 唱歌 ( しょうか )だけは、なんとしてもオルガンがむつかしい。 オルガンは、裁縫するようには手が動かないからだ。 それを一生けんめい、ひきこなそうとする男先生の勉強ぶりは、奥さんにとっては、 神々 ( こうごう )しいようでさえあった。 十月だというのに、男先生は、たらたら 汗 ( あせ )を流していた。 外へきこえるのをはばかって、教室の窓はいつもしめてあったから、汗はよけい流れた。 先生ならばオルガンぐらいひけるのがあたりまえなのだが、なにしろ、小学校を出たきり、努力ひとつで教師になった男先生としては、なによりもオルガンがにが手であった。 田舎 ( いなか )のこととて、どこの学校にも音楽専任の先生はいなかった。 どの先生もじぶんの受けもちの生徒に、体操も唱歌も教えねばならない。 そんなこともいやで、じぶんからたのんで、こんなへんぴな 岬 ( みさき )へきたのであったのに、今になってオルガンの前で汗を流すなど、オルガンをたたきつけたいほど 腹 ( はら )が立った。 しかし、今夜はそうではなかった。 奥さんひとりの生徒にしろ、ひき手と歌い手の調子が合うところまでいったのだ。 そんなわけで、男先生のほうは、わりとごきげんだった。 そこで奥さんにむかって、少し鼻をたかくした。 「おれだって、ひく気になればオルガンぐらい、すぐひけるんだよ」 奥さんもすなおにうなずいた。 「そうですとも、そうですとも」 大石先生が休みだしてから、明日は六回目ぐらいの唱歌の時間になる。 男先生にとっては、明日の唱歌の時間がたのしみにさえなってきた。 「きっと生徒が、びっくりするぞ」 「そうですね。 男先生もオルガンがひけると思うて、見なおすでしょうね」 「そうだよ。 ひとつ、しゃんとした歌を教えるのも必要だからな。 大石先生ときたら、あほらしくもない歌ばっかり教えとるからな。 『ちんちんちどり』、だことの、『ちょっきんちょっきんちょっきんな』、だことの、まるで 盆 ( ぼん )おどりの歌みたよな 柔 ( やお )い歌ばっかりでないか」 「それでも、子どもはよろこんどりますわ」 「ふん。 しかし女の子ならそれもよかろうが、男の子にはふさわしからぬ歌だな。 ここらでひとつ、わしが、 大和魂 ( やまとだましい )をふるいおこすような歌を教えるのも必要だろ。 生徒は女ばっかりでないんだからな」 奥さんの前で胸をはるようにして、ことのついでのように、今のさっきまで二人でけいこをした 唱歌 ( しょうか )を歌った。 そして、いよいよあくる日、唱歌の時間がきても、生徒はのろのろと教室にはいった。 どうせ、 今日 ( きょう )もまた、オルガンなしに歌わされるのだと思って、はこぶ足もかるくなかったのだろう。 小石先生だと、土曜日の二時間目が終ると、そのままひとり教室にのこって、オルガンを鳴らしていたし、三時間目の 板木 ( ばんぎ )が鳴るとともに行進曲にかわり、みんなの足どりをひとりでに浮き立たせて、しぜんに教室へみちびいていた。 どんなにそれがたのしかったことか、みんな、心のどこかにそれを知っていた。 口ではいえない、それはうれしさであった。 だから、小石先生がこなくなった今、口ではいえないものたりなさが、みんなの心のどっかにあった。 それを、気づくというほどでなく、みんなには気づいていたのだ。 「先生は聞き役しとるから、みんなすきな歌うたえ」 オルガンなど見向きもせずに、男先生はそういうのだ。 歌えといわれても、オルガンが鳴らぬと歌はすぐには出てこなかった。 出てきても調子っぱずれだったりする。 ところが、今日は少しちがう。 教室にはいると男先生はもう、オルガンの前にちゃんと 腰 ( こし )かけてまっていた。 女先生とは少し調子がちがうが、ブブーと、おじぎのあいずも鳴った。 みんなの顔に、おや? といういろが見えた。 二枚の黒板には、いつも女先生がしていたように、右側には 楽譜 ( がくふ )が、左側には今日ならう歌が立てがきに書かれていた。 千引 ( ちびき )の 岩 ( いわ )は 重 ( おも )からず 国家 ( こっか )につくす 義 ( ぎ )は 重 ( おも )し 事 ( こと )あるその 日 ( ひ )、 敵 ( てき )あるその 日 ( ひ ) ふりくる 矢 ( や )だまのただ 中 ( なか )を おかしてすすみて 国 ( くに )のため つくせや 男児 ( だんじ )の 本分 ( ほんぶん )を、 赤心 ( せきしん )を 漢字には全部ふりがながうってある。 男先生はオルガンの前から 教壇 ( きょうだん )にきて、いつもの 授業 ( じゅぎょう )のときのように、 ひっちく竹の 棒 ( ぼう )の先で、一語一語を 指 ( さ )ししめしながら、この歌の意味を説明しはじめた。 まるで 修身 ( しゅうしん )の時間のようだった。 いくらくりかえして、この歌の深い意味をとき聞かしても、のみこめる子どもは 幾人 ( いくにん )もいなかった。 一年生がまっさきに、二年生がつづいて、がやがや がやがや。 三年生と四年生の中にも、こそこそ こそこそ ささやき声がおこった。 と、とつぜん、ぴしっ! と ひっちく竹が鳴った。 教壇の上の机をはげしくたたいたのである。 とたんに、ざわめきはやみ、 鳩 ( はと )のような目がいっせいに男先生の顔をみつめた。 男先生はきびしく、しかし一種のやさしさをこめて、 「大石先生は、まだとうぶん学校へ出られんちゅうことだから、これから、男先生が 唱歌 ( しょうか )もおしえる。 よくおぼえるように」 そういったかと思うと、オルガンのほうへゆき、うつむきこんでしまった。 まるでそれを恥ずかしがってでもいるようにみえた。 しかもその 姿勢 ( しせい )で男先生は歌いだしたのである。 「ヒヒヒフミミミ イイイムイ はいッ」 生徒たちはきゅうに笑いだしてしまった。 ドレミハを、男先生は昔流に歌ったのである。 しかし、いくら笑われても、今さらドレミハにして歌う自信が男先生にはなかった。 そこでとうとう、ヒフミヨイムナヒ(ドレミの 音階 ( おんかい ))からはじめて、男先生流に教えた。 そうなるとなったで、生徒たちはすっかりよろこんだ。 たちまちおぼえてしまって、その日から大はやりになってしまった。 だれひとり、その 勇壮活発 ( ゆうそうかっぱつ )な 歌詞 ( かし )をうたって男先生の 意図 ( いと )に 添 ( そ )おうとするものはなく、イイイイ ムイミーと歌うのだった。 それからまた、何度目かの土曜日、やっぱり「千引の岩」をうたわされての帰り道であった。 一年生の 香川 ( かがわ )マスノは、ませた口ぶりで、いっしょに歩いていた 山石早苗 ( やまいしさなえ )にささやいた。 「男先生の唱歌、 ほんすかん。 やっぱりおなご先生の歌のほうがすきじゃ」 そういってからすぐ、女先生におそわったのを歌い出した。 あかい ちいさーな じょうぶくろ…… お昼きりの一年生の女の子ばかりがかたまっていた。 「おなご先生、いつんなったら、くるんじゃろなあ」 マスノの目が一本松のほうへむくと、それにさそわれてみんなの目が一本松の村へそそがれた。 「おなご先生の顔、見たいな」 そういったのは小ツやんの 加部 ( かべ )小ツルである。 通りかかったソンキの 岡田磯吉 ( おかだいそきち )と、キッチンの 徳田吉次 ( とくだきちじ )が仲間にはいってきて、口まねで、 「おなご先生の顔、みたいな」 いつしか、それは実感になってしまったらしく、立ちどまっていっしょに一本松のほうを見た。 「おなご先生、入院しとるんど」 ソンキが聞いたことを聞いたとおりにいうと、小ツやんが横どりして、 「入院したのは、はじめのことじゃ。 もう 退院 ( たいいん )したんど。 うちのお 父 ( とっ )つぁん、 昨日 ( きのう )道で先生に 会 ( お )うたいよったもん」 それで小ツルは、だれよりもさきに顔が見たいと思いついたらしい。 チリリンヤの彼女の父親は、船と陸と両方の 便利屋 ( べんりや )だった。 昨日は大八車をひいて町までいったのである。 すくなくも一日おきぐらいに、入り江をとりまく町や村をたのまれた用たしでぐるぐるまわってくるチリリンヤは、船や車にいろんな 噂話 ( うわさばなし )もいっしょに積みこんでもどってきた。 大石先生のけががアキレス 腱 ( けん )がきれたということも、二、三か月はよく歩けまいということも、それらはみんな、 腰 ( こし )に 鈴 ( すず )をつけて歩きまわっているチリリンヤが聞いてきたものだった。 「そんなら、もうすぐに、先生くるかしらん。 早うくるとええけんどな」 早苗 ( さなえ )が目をかがやかすと、小ツルはまたそれを横どりして、 「こられるもんか。 まだ足が立たんのに」 そして小ツルは、少し調子にのって、 「おなご先生ん 家 ( く )へ、いってみるか、みんなで」 いっておいて、ぐるっと、ひとりひとりの顔を見まわした。 竹一 ( たけいち )も、タンコの 森岡正 ( もりおかただし )も、 仁太 ( にた )もいつのまにか仲間入りしていた。 しかし、だれひとり、すぐには小ツルの思いつきにさんせいするものはなかった。 ただだまって一本松の方を見ているのは、そこまでの 距離 ( きょり )が、自分たちの計算では 見当 ( けんとう )がつかなかったからだ。 片道八キロ、 大人 ( おとな )のことばで二里という道のりは、一年生の足の経験でははかりしれなかった。 とほうもない遠さであり、海の上からは 一瞬 ( いっしゅん )で見わたす近さでもある。 ただ 氏神 ( うじがみ )さまより遠いということは、少しこわかった。 彼らはまだ、だれひとり一本松まで歩いていったものがないのだ。 その 途中 ( とちゅう )にある本村の氏神さまへは、毎年の 祭 ( まつり )に、歩いたり、船にのったりしてゆくのだが、そこから先がどのくらいなのか、だれも知らない。 たったひとり仁太が、ついこないだ一本松より一つ先の町へいったことがある。 しかしそれは、氏神さまの下からバスにのって、一本松のそばを通ったというだけのことだった。 それでもみんなは、仁太をとりまいた。 「仁太、氏神さまから一本松まで、何時間ぐらいかかった?」 すると仁太は、 得意 ( とくい )になって、あおばなをすすりもせずに、 「氏神さまからなら、すぐじゃった。 バスがな、ぶぶうってラッパ鳴らしよって、一本松のとこ突っ走ったもん。 まんじゅう一つ食うてしまわんうちじゃったど」 「うそつけえ、まんじゅう一つなら、一分間でくえらァ」 竹一がそういうと、川本松江が西口ミサ子に、「なあ」と同意をもとめながら、 「なんぼバスが早うても、一分間のはずがないわ、なァ」 みんなの反対にあうと、仁太はむきになり、 「そやってぼく、氏神さまのとこで食いかけたまんじゅうが、バスをおりてもまだ、ちゃんと手に持っとったもん」 「ほんまか?」 「ほんまじゃ」 「ゆびきりじゃ、こい」 「よし、ゆびきりするがい」 それで、みんなは安心をした。 仁太 ( にた )が生まれてはじめてのったバスのめずらしさに、まんじゅうを食べるのも忘れて、運転手の手もとを見ていたなど、だれも考えなかった。 ただ、ともかくも仁太だけがバスにのったことと、一本松のまだつぎの町でおりるまで、まんじゅう一つを食べるまがなかったことと、この二つからわりだして、 氏神 ( うじがみ )さまから一本松までの遠さを、たいしたことではないと思った。 たとえ自転車にのってとはいえ、女先生は毎日、あんなに朝早く、一本松からかよっていたではないか。 と、そんなことも遠さとしてより、近さとしてみんなの頭に 浮 ( う )かんだらしい。 そんな気持の動いているときに、 対岸 ( たいがん )の海ぞい道にバスが走っているのが見えたからたまらない。 小さく小さくみえるバスは、まったく、あっというほどのまに走って林の中へ姿を消した。 「ああ、行きた!」 マスノがとんきょうに 叫 ( さけ )んだ。 なんということなく男の子にさえ力をもっているマスノの一声である。 「いこうや」 「うん、いこう」 正と竹一がさんせいした。 「いこう、いこう。 走っていって、走ってもどろ」 「そうじゃ、そうじゃ」 小ツルと 松江 ( まつえ )がとびとびして勇みたった。 だまっているのは 早苗 ( さなえ )と、 片桐 ( かたぎり )コトエだけである。 早苗はもちまえの無口からであったが、コトエのほうは 複雑 ( ふくざつ )な顔をしていた。 家のことを思いだしていたのであろう。 「コトやん、いかんの?」 小ツルがとがめだてるようにいうと、コトやんはますます不安な表情になり、 「 祖母 ( おばん )に、 問 ( と )うてから」 その小さな声には自信がなかった。 一年生のコトエをかしらに五人きょうだいの彼女は、背中にいつも子どものいないことがなかった。 数 ( かぞ )え年五つぐらいから彼女は子守り役を引きうけさせられていたのだ。 家へ帰って 相談 ( そうだん )すれば、とてもゆるされる見こみはなかった。 そしてまた、それは早苗や松江や小ツルも同じであった。 みんな、しゅんとして顔を見あった。 数え年十 歳 ( さい )になるまでは遊んでもよいというのが、昔からの子どもの 掟 ( おきて )のようになっていたが、遊ぶといっても、それはほんとうに自由に遊ぶのではなく、いつも弟や妹をつれたり、赤ん坊をおんぶしてのうえでのことだった。 ほんとに、すき勝手に遊んでよいのはひとりっ子のマスノとミサ子だけだ。 コトエの一言はみんなにそれを思いださせたが、しかし、思いとどまることはできない空気だった。 「めし食べたら、そうっとぬけだしてこうや」 小ツルが、乗りかかった船だとでもいうように、みんなをけしかけた。 「そうじゃ、みんなうちの人にいうたら、行かしてくれんかもしれん。 だまっていこうや」 竹一が 知恵 ( ちえ )をめぐらしてそう 決断 ( けつだん )した。 こうなるともう、だれひとり反対するものはなく、秘密で出かけることがかえってみんなをうきうきさせた。 「そうっとぬけだしてな、 波止 ( はと )の 上 ( うえ )ぐらいからいっしょになろう」 正がそういうと、 総帥格 ( そうすいかく )のマスノはいっそうこまかく頭をつかい、 「 波止 ( はと )の 上 ( うえ )は、よろずやの ばあやんに見つかるとうるさいから、 藪 ( やぶ )のとこぐらいにしようや」 「それがえい。 みんな、畑の道とおってぬけていこう」 めいめい、きゅうにいそがしくなった。 「ほんまに、走っていって、走ってもどらんかな」 念をおしたのはコトエである。 みんなが走って帰ってゆくあとから、コトエは考え考え歩いた。 どう考えても、だまってぬけだす 工夫 ( くふう )はないように思えた。 じぶんだけはやめようか。 しかしそれはできない。 そんなことをしたら、明日からだれも遊んでくれないかもしれぬと思った。 のけものになるのはいやだ。 だまってぬけだせたとしても、あとで おばんやお母さんに 叱 ( しか )られるのもいやだ。 赤んぼなんぞ、なければよかった。 そう思うと、いつもはかわいい赤ん坊のタケシの顔がにくらしくなり、一日ぐらい、ほったらかしたくなった。 彼女の足はきゅうにあともどりをし、畑のほうへ歩いていった。 藪 ( やぶ )が見えだすと走った。 だれかに見つかりそうで、どきどきした。 二時間後のことである。 子どもについてまっさきに心配しだしたのはコトエの おばんであった。 「腹もへろうのに、なにこそしよるやら」 はじめはひとり 言 ( ごと )をいった。 もどればタケシをコトエの背中にくくりつけておいて、おばんは畑へ二番ささげをつみにゆく手はずになっているのに、コトエは帰らないのだ。 学校へ見にいったところで、今ごろいるはずもないと思い、赤ん坊と 結 ( ゆわ )いひもをもって、いちばん仲よしの早苗のところへのぞきにいった。 てっきりそこで遊びほうけていると思ったのだ。 「こんにちは。 うちのコトは、きとらんかいの?」 もちろんいるわけがない。 それどころか早苗もまだ帰らないというのだ。 かえりに 荒神 ( こうじん )さまをのぞいてみたが、杉の木かげに遊んでいたのはコトエより少し大きい子や、小さい子ばかりだった。 だれにともなく大声で、 「おまえら、うちのコト、知らんかいの?」 「しらんで」 「一ぺんも、今日は見んで」 「早苗さん 家 ( く )とちがうか」 いろんな返事が矢つぎ早にとんできた。 それはみな腹の立つ返事ばかりだった。 「しょうのないやつじゃ、ほんまに。 見つけたら、すぐもどれいよったと、いうておくれ」 おばんは、ひょいと投げるようにして赤ん坊を背中にやり、まだわかりもしない赤ん坊に話しかけた。 「 姉 ( ねえ )やんは、どこへうせやがったんじゃろな。 コトのやつめ、もどってきたら、どやしつけてやらんならん」 しかし、 昼飯 ( ひるめし )もまだなのを思うと、少し心配になった。 心配しいしい 土間 ( どま )でぞうりを作っていると、川本 大工 ( だいく )のおかみさんが、気ぜわしそうな足どりでやってきた。 「こんちは、えいお天気で。 うちのマツを見にきたんじゃけんど、見えんなあ」 それを聞くと、コトエのおばんはぞうり作りの手をおいて、 「マッちゃんもかいな。 昼飯も食べんと、どこをほっつき歩きよんのかしらん」 「うちのマツは昼飯はたべにもどったがいな。 箸 ( はし )おいて、用ありげに立っていって、すぐもどるかと思や、もどってきやせん」 コトエのおばんはきゅうに心配になってきた。 もうぞうりどころでなかった。 大工のおかみさんが、さがしてくるといって帰ったあとも、心配はだんだんひろがってくるばかりだった。 出たり入ったり、立ったり 坐 ( すわ )ったり、おちつかなかった。 あそびたいさかりじゃもん。 毎日子守りばっかりじゃあ、 謀反 ( むほん )もおこしたかろう…… ぽとんと 涙 ( なみだ )が落ちた。 その涙でかすんだ目に、小さいときから子守りばかりさせたためか、出っ 尻 ( ちり )になってしまった幼いコトエのかわいそうな姿が浮かんできて消えなかった。 今日 ( きょう )は若いもんまでがおそいなあ…… 外に出て 沖 ( おき )をながめた。 鰺漁 ( あじりょう )に出ているコトエの両親たちの帰りまでが、今日はとくべつおそいように、おばんには思えた。 「まだ、もどってこんかえ」 大工のおかみさんの三度目の声がかかるまでに、小ツルの姉と、早苗の弟と、富士子の母親とが、めいめいの家の娘をあんじてみにきた。 まもなく一年生の全部がいないとわかり、やがて本校帰りの生徒のひとりが、八幡堂という 文房具 ( ぶんぼうぐ )屋のそばでみんなを見かけたというのをきいて、やっと心配は半分になった。 それだけに 噂 ( うわさ )は村中にひろがり、てんでにかってなことをいいあった。 「 芝居 ( しばい )がきたというから、行ったんじゃないかな」 「 銭 ( ぜに )もないのに、どうして」 「のぼりやかんばんでも、口あけて見よるかもしれん」 「子どもっちゃ、ものずきなことやの」 一年生の家の者も今は半分笑顔で話しあった。 「いんま、腹へらして、足に豆こしらえて、もどってくるわいの」 「どんな顔して、もどってくるかしらん。 阿呆 ( あほ )くらいが」 「もどったら、おこったもんかいの、おこらんほうがよかろうか」 「ほめるわけにゃ、いくまいがのう」 こんなのんきそうなことがいえたのも、ソンキの兄や、仁太や富士子の父親たちが 迎 ( むか )えに出むいた安心からであった。 それにしても、だれひとり大石先生を思いださなかったとは、なんとしたうかつさだったろう。 三人の出迎え人は、本村にさしかかると、これはと思う人に行きあうたびにたずねた。 「ちょっとおたずねですがな、お昼すぎごろに、 七 ( なな ) 八 ( やっ )つぐらいの子どもらが十人ほど通ったのを、見ませなんだかいな」 同じことを何べんくりかえしたろう。 そこで、子どもたちはどうしていたろう。 藪 ( やぶ )の上へまっさきについたのは、いうまでもなくコトエだった。 コトエはそこで、草むらに学校の 包 ( つつ )みをかくして、みんなをまった。 吉次とソンキが先をあらそうように走ってきた。 つづいて竹一と正と。 いちばんおくれてきたのは富士子と仁太であった。 仁太は用心ぶかく、シャツやズボンの四つのポケットを、そら豆の 煎 ( い )ったのでふくらましていた。 家にあっただけみんな持ってきたのだという。 それを気前よくみんなに少しずつ分けてやりながら、いちばんうれしそうな顔をしていた。 ぽりぽりいり豆をかみながら 一行 ( いっこう )は出発した。 「おなご先生、びっくりするど」 「おう、よろこぶど」 コトエひとりは先頭に立ってみんなをふりかえった。 走っていって走って帰るはずなのに、だれもかれものんびりと歩いていると思った。 行けばわかるのに、みんな口ぐちに女先生のことばかりいっている。 「おなご先生、ちんばひいて歩くんど」 「おなご先生の足、まだ痛いんかしらん」 「そりゃ痛いから、ちんばひくんじゃないか」 するとソンキは、ちょこちょこと前にすすみ、 「な、みんな。 アキレスはここじゃど。 この太い筋が、切れたんど」 じぶんのアキレス 腱 ( けん )のあたりをさすってみせ、 「こんなとこがきれたんじゃもん、痛うのうて」 ようやくみんなの足は早くなっていった。 子どもたちだけでこの道を歩くのは、はじめてだった。 山ひだを一つすぎるごとに新らしい 眺 ( なが )めがあらわれて、あきなかった。 岬 ( みさき )を横ぎり、入り海ぞいの道にかかると、一本松の村はななめうしろに遠のく。 それだけ近くなっているのが、うそのような気がして心細くなったが、だれも口には出さない。 やがて、はるかかなたに本校がえりの生徒のかたまりがみえた。 みんな、はっとして顔を見あわせた。 「かくれ、かくれ。 大いそぎで」 マスノの一声は、あとの十一人を 猿 ( さる )のようにすばしこくさせ、 萱山 ( かややま )の中へ走りこませた。 がさがさと音がして萱がゆれた。 「じっとして! 音さしたらいかん」 マスノがうすいくちびるをそらして、少しつった切れ長の目にものをいわせると、竹一や正までが声もからだもひそめてしまった。 みんなの背の倍もありそうな 笹萱 ( ささがや )の山は、十二人の子どもをかくしてさやさやと鳴った。 しかし気づかれずに大きな生徒たちをやりすごせたのは、じつにマスノの 機転 ( きてん )であった。 彼女ににらまれると、みんなは 猫 ( ねこ )のようにおとなしくなるのだ。 岬 ( みさき )の道を出て、いよいよ本村にはいるころから、みんなはしぜんと小声にしゃべっていた。 一本松の村までには 幾 ( いく )つかの町や村の、たくさんの 部落 ( ぶらく )があった。 大小のその村むらをすぎては 迎 ( むか )え、すぎてはまた迎え、あきるほどそれをくりかえしても、一本松はなかなかこなかった。 岬の村からみれば、あんなに近かった一本松、目の前に見えていた一本松、それが今は姿さえも見せない。 八キロ、大人のいう二里の遠さを足の裏から感じだして、だんだんだまりこんでいった。 行きあう人の顔も、見おぼえがなかった。 まるで遠い国へきたような心細さが、みんなの胸の中にだんだん、 重石 ( おもし )のようにしずんでいく。 もう一つ、 はなをまわれば一本松は目の前にながめられることを、だれもしらないのだ。 きいても らちのあかぬ仁太にきくことも、もうあきらめてしまって、ただ前へ前へとひと足でも進むよりほかなかった。 竹一とミサ子はまっさきにぞうりをきらし、きれぬ片方をミサ子にやって、竹一ははだしになっていた。 吉次も正もあやしかった。 だれも 一銭 ( いっせん )ももっていないのだ。 ぞうりは買えるわけがない。 はだしで帰らねばならないだろうことは、歩いてきた道の遠さと考えあわせて、ぞうりのきれかけたものの気持はよけいみじめだった。 とつぜん、コトエが泣きだしてしまった。 昼めしぬきの彼女は、つかれかたもまたはやかったろうし、がまんできなくなったのだろう。 道ばたにしゃがんで、ええン ええン と声を出して泣いた。 すると、ミサ子と富士子がさそわれて、しくしくやりだした。 みんなは立ちどまって、ぽかんとした顔で泣いている三人を見ていた。 じぶんたちも泣きたいほどなのだ。 元気づけてやることばなど、出てこなかった。 きびすをかえせばよいのだ。 もう帰ろうや、と、だれかがいえばよいのだ。 しかしだれも、それさえいいだす力がなかった。 マスノや小ツルさえ、 困惑 ( こんわく )の色を 浮 ( う )かべていた。 彼女たちにしても、泣きだしたかったのだ。 しかし泣けなかった。 いっそ、みんなで泣き出せば、どこからか救いの手がのべられるだろうが、それにも気がつかなかった。 初秋の空は晴れわたって、午後の 陽 ( ひ )ざしはこの 幼 ( おさな )い 一団 ( いちだん )を、白くかわいた道のまん中に、異様さをみせてうしろから 照 ( て )らしていた。 家へ帰りたい気持はしぜんにあらわれて、知らずしらず歩いてきた道のほうを向いて立っていたのである。 その前方から、 警笛 ( けいてき )とともに、銀色の 乗合 ( のりあい )バスが走ってきた。 瞬間 ( しゅんかん )、十二人は一つの気持にむすばれ、せまい道ばたの草むらの中に一列によけてバスを 迎 ( むか )えた。 コトエさえももう泣いてはいず、一心にバスを見まもっていた。 もうもうと、 煙 ( けむり )のように白い砂ぼこりをたてて、バスは目の前を通りすぎようとした。 と、その窓から、思いがけぬ顔がみえ、 「あら、あら!」 といったと思うと、バスは走りぬけた。 大石先生なのだ。 わあッ! 思わず道へとびだすと、 歓声 ( かんせい )をあげながらバスのあとを追って走った。 新らしい力がどこからわいたのか、みんなの足は早かった。 「せんせえ」 「おなごせんせえ」 途中 ( とちゅう )でバスがとまり、女先生をおろすとまた走っていった。 松葉杖 ( まつばづえ )によりかかって、みんなをまっていた先生は、そばまでくるのをまたずに、大きな声でいった。 「どうしたの、いったい」 走りよってその手にすがりつきもならず、なつかしさと、一種のおそろしさに、そばまでゆけず立ちどまったものもあった。 「先生の、顔みにきたん。 遠かったあ」 仁太が口火をきったので、それでみんなも口ぐちにいいだした。 「みんなで やくそくして、だまってきたん、なあ」 「一本松が、なかなか来んので、コトやんが泣きだしたところじゃった」 「せんせ、一本松、どこ? まだまだ?」 「足まだ痛いん?」 笑っている先生の 頬 ( ほお )を 涙 ( なみだ )がとめどなく流れていた。 なんのことはない、一本松も先生の家も、すぐそこだとわかると、また 歓声 ( かんせい )があがった。 「ほたって、一本松、なかなかじゃったもんなあ」 「もう 去 ( い )のうかと思たぐらい遠かったな」 松葉杖をとりまいて歩きながら先生の家へゆくと、先生のお母さんもすっかりおどろいて、きゅうにてんてこまいになった。 かまどの下をたきつけるやら、何度も外に走りだすやら、そうして一時間ほども先生の家にいただろうか。 そのあいだにキツネうどんをごちそうになり、おかわりまでするものもいた。 先生はよろこんで、 記念 ( きねん )の写真をとろうといい、 近所 ( きんじょ )の写真屋さんをたのんで、一本松まで出かけた。 「もっと、みんなの顔みていたいけど、もうすぐ日がくれるからね。 うちの人、心配してるわよ」 帰りたがらぬ子どもらをなだめて、やっと船にのせたのは四時をすぎていた。 短かい秋の日はかたむいて、 岬 ( みさき )の村は、何ごともなかったかのように、夕ぐれの色の中に包まれようとしていた。 「さよならァ」 「さよならア」 松葉杖で浜に立って見おくっている先生に、船の上からはたえまなく声がかかった。 三人の大人たちが町から村をさがしまわっているとき、十二人の子どもは、思いがけぬ道を通って村へもどった。 わあい! やあい! 時ならぬ 沖合 ( おきあい )からの 叫 ( さけ )びに、 岬 ( みさき )の村の人たちは、どぎもをぬかれたのである。 叱 ( しか )ってはみても、けっきょくは大笑いになって、大石先生の人気はあがった。 その翌々日、チリリンヤの大八車には、めずらしい荷物が積みこまれた。 あんまりこまかいので、チリリンヤはそれをリンゴの 空箱 ( あきばこ )にまとめて村を出ていった。 道みち、いろんな用たしをしながら一本松までくると、リンゴの箱をそのままかついで歩きだした。 腰 ( こし )の 鈴 ( すず )がリリンリリンと、足をかわすごとに鳴りつづけ、やがて、リッ と鳴りやんだのが、大石先生の家の 縁先 ( えんさき )である。 チリリンヤのリンの音は、どこかから、なにかが届けられるときのあいさつである。 いいわけは、あまり必要でなかった。 「はーい。 米五ン合の豆一 升 ( しょう )。 こいつは軽いぞ 煮干 ( にぼし )かな。 袋 ( ふくろ )には名前が書いてある。 それはみな、 義理 ( ぎり )がたい岬の村から、大石先生への 見舞 ( みま )いの米や豆だった。 写真ができてきた。 一本松を背景にして、 松葉杖 ( まつばづえ )によりかかった先生を十二人の子どもたちが、立ったり、しゃがんだりしてとりまいている。 磯吉、竹一、松江、ミサ子、マスノ、順々に見ていって 仁太 ( にた )のところへくると、思わずふきだした。 あんまり仁太がきばりすぎているからだった。 つめている 呼吸 ( こきゅう )が、いまにも、うううともれて、うなりだしそうにかたくなっている。 気をつけのその 姿勢 ( しせい )は、だれが見たって笑わずにいられるものではなかった。 マスノとミサ子のほかは、生まれてはじめて写真をとったということで、だいたい、みんなかたくなっている。 そのなかで仁太と吉次はとくべつであった。 仁太とは反対に、身をすくめ、顔をそむけ、おまけに目をつぶっている吉次は、ふだんの小気さをそのまま 映 ( うつ )しだされているようで、かわいそうにさえ思えた。 かわいそうにキッチン、こわかったんだろう、写真機の中から、なにがとびだすかと思ったんだろう…… ひとり写真をながめて笑っているところへ、本校の校長先生がきた。 その声をきくと、こんどは大石先生のほうが、思わず気をつけのようになって 玄関 ( げんかん )に出ていった。 松葉杖ははなれていたが、まだまだびっこの歩きぶりを見ると、校長先生はちょっと 眉 ( まゆ )をよせ、気のどくがった顔で見ていた。 「ひどい目にあいましたな」 「はあ、でも、ずいぶんよくなりました」 「いたいですか、まだ?」 返事にこまって答えられないでいると、校長先生がさいそくにきたとでも思ったらしく、お母さんがかわって答えた。 「いつまでもごめいわくをかけまして、すみません。 もうずいぶんらくになったようですけど、なんしろ、自転車にのれないものですから、いつまでもぐずぐずしておりまして、はい」 しかし校長先生のほうはそんなつもりではなく、 見舞 ( みま )いがてら 吉報 ( きっぽう )をもってきたのであった。 友人の 娘 ( むすめ )である大石先生のことも、 今日 ( きょう )は名前でよんで、 「久子さんも片足 犠牲 ( ぎせい )にしたんだから、 岬勤 ( みさきづと )めはもうよいでしょう。 本校へもどってもらうことにしたんじゃがな、その足じゃあ、本校へもまだ出られんでしょうな」 お母さんはきゅうに 涙 ( なみだ )ぐんで、 「それは、まあ」 といったぎり、しばらくあとが出なかった。 思いがけない喜びであり、きゅうには 礼 ( れい )のことばも出てこなかったのだ。 それをごまかしでもするように、さっきから、やっぱりだまっている娘の大石先生に気がつくと、 「久子、久子、なんです。 ぼんやりして。 お礼をいいなさいよ」 しかし、大石先生としては、せっかくのこの校長先生のはからいが、あんまりうれしくなかったのだ。 これがもし、半年前のことならば、とびとびして喜んだろうが、今ではもう、そうかんたんに、いかない事情が生まれてきていた。 だから、口をついて出たことばは、お礼ではなかった。 「あのう、もうそのこと、きまったんでしょうか。 後任 ( こうにん )の先生のことも」 まるでそれは、とんでもないといわぬばかりの 口調 ( くちょう )である。 「きまりました。 きのうの職員会議で。 いけませんかい」 「いけないなんて、それは、そんなこという 権利 ( けんり )ありませんけど、でもわたし、やっぱりこまったわ」 そこにお母さんでもいたら、大石先生は 叱 ( しか )りつけられたかもしれぬ。 しかしお母さんは、 茶菓子 ( ちゃがし )でも買いにいったらしく、出ていったあとだった。 校長先生はにこにこ笑って、 「なにが困るんですか?」 「あの、生徒と 約束 ( やくそく )したんです。 また岬へもどるって」 「こりゃおどろいた。 しかし、どうしてかよいますかね。 お母さんのお話だと、とうぶん自転車にものれんということだったので、そうはからったんですがね」 もう、いいようがなかった。 すると、岬の村がいっそうなつかしくなり、思わず 未練 ( みれん )がましくいった。 「後任の先生は、どなたでしょう」 「 後藤 ( ごとう )先生です」 「あら!」 お気のどくといいそうになってあわててやめた。 後藤先生こそ、どうしてかようだろうとあんじられたのだ。 もうすぐ四十で、しかも 晩婚 ( ばんこん )の後藤先生には 乳呑 ( ちの )み 子 ( ご )があった。 じぶんよりは少し 岬 ( みさき )へ近い村の人とはいえ、一里半(六キロ)はあるであろう岬へ、寒さにむかってどうしてかようだろうかと思うと、その気のどくさと、じぶんの心残りとが ごっちゃになって、急に 眉 ( まゆ )をあげた。 「では、校長先生、こうしていただけませんでしょうか。 わたしの足がすっかりなおりましたら、いつでも代りますから。 それまで後藤先生にお願いすることにして……」 いかにもよい思いつきだと思ったのだが、校長先生の返事は思いがけなかった。 「 義理 ( ぎり )がたいこというなあ、久子さん。 あんたがそないに気をつかわんでも、ちょうどよかったんだから。 後藤先生は、すすんで岬を希望したんだから」 「あら、どうしてですの?」 「いろいろ、あってね。 老朽 ( ろうきゅう )で来年はやめてもらう番になっていたところを、岬へいけば、三年ぐらいのびるからね。 そういったら、よろこんで、 承知 ( しょうち )しましたよ」 「まあ、老朽!」 三十八や九で老朽とは? まだ 乳呑 ( ちの )み 子 ( ご )をかかえている女が老朽とは。 あきれたような顔をしてことばをきった大石先生を、いつのまにか外から帰ってきたお母さんは、くだものなど 盛 ( も )った 盆 ( ぼん )をさし出しながら、 娘 ( むすめ )のぶえんりょさに気が気でなく、 「久子、なんですか、せっかくの校長先生のご好意に、ろくろくお礼もいわないで。 だまってきいてりゃ、さっきからおまえ、ヘソ曲りなことばっかりいうて……」 そして校長先生の前に手をつき、 「どうもほんとに、わたしが行きとどきませんでな。 つい、ひとりっ子であまえさせたらしく、失礼なことばっかり申しまして。 これでも、学校のことだけはあなた、寝てもさめても考えとりますふうで、早く出たい出たいと申しとりましたんです。 おかげさまで、本校のほうにかわらしていただけましたから、もう十日もしたら、バスにのって、かよえると思います。 こんな、気ままものですけど、どうぞもう、よろしゅうお願いいたします」 娘にいわせたいことを、ひとりでならべたてて、何度もぺこぺこ頭をさげた。 そして、それとなく目顔であいずをしたが、大石先生はそしらぬ顔で、まだ後藤先生にこだわっていた。 「それで、もう後藤先生は、岬へかよってるんでしょうか?」 校長先生もまた、この少しふうがわりの、あまのじゃくみたいな娘を相手にして、おもしろがっているようすで、 「そいつは、まだですがね。 なんならもう一度職員会議をひらいて取り消してもよろしい。 後藤先生は、がっかりするでしょうがなあ」 お母さんひとりは、気をもみつづけ、はらはらしていた。 そのお母さんにむかって、校長先生は、 「大石くんに、似たとこがありますな。 一徹居士 ( いってつこじ )なところ。 なにしろ彼は、小学生でストライキをやったんだから、 前代未聞 ( ぜんだいみもん )ですよ」 あっはっはと笑った。 その話は、まえにも聞いたことがあった。 なんでも、小学校四年生の父が、受けもちの先生に 誤解 ( ごかい )されたことをおこって、級友をそそのかして一日ストをやったというのだ。 同級生だった校長先生も、 同情 ( どうじょう )して、みんなでいっしょに村役場へ押しかけていって、先生をとりかえてくれといったのだという。 今年の春、 就職 ( しゅうしょく )をたのみにいったとき、はじめて父の少年時代のことをきいて、母と子はいっしょに笑ったのである。 ただ思い出話として笑って語られる父のことが、今の大石先生には、ふしぎと、まじめにひびいた。 校長先生が帰ったあとも、ひとりで考えこんでいる大石先生を、お母さんはいたわるように、 「でもまあ、よかったではないか、久子」 しかし大石先生はだまっていた。 そして 晩 ( ばん )の御飯もいつもよりたべなかった。 夜おそくまで考えつづけたあげく、やっとお母さんにいった。 「よかったのかもしれないわ。 わたしにも、後藤先生にも」 それは「よかったでないか、久子」といわれてから四時間もあとのことであった。 お母さんはほっとした顔で、 「そうとも、そうともお前、 万事 ( ばんじ ) 都合 ( つごう )よくいったというものよ、久子」 すると先生はまた、ややしばらく考えてから、はっきりいった。 「そんなこと、ぜったいにないわ。 万事都合なんかよくならない。 すくなくも後藤先生のためにはよ。 だって、 老朽 ( ろうきゅう )なんて、失礼よ」 この娘は気が立っているのだというふうに、お母さんはもうそれにさからおうとはしないで、やさしくいった。 「とにかく、もう寝ようでないの。 だいぶふけたようじゃ」 その 翌朝 ( よくちょう )、思いたった大石先生は、 岬 ( みさき )の村へ船で出かけた。 船頭 ( せんどう )は小ツルの父親とおなじく、 渡 ( わた )し舟をしたり、車をひいたりするのが 渡世 ( とせい )の、一本松の村のチリリンヤであった。 十月末の風のない朝だ。 空も海も青々として、ひきしまるような海の空気は、 両袖 ( りょうそで )で思わず胸をだくほどのひやっこさである。 「おお 寒 ( さ )ぶ。 もう 袷 ( あわせ )じゃのう、おっさん」 「なに、 陽 ( ひ )があがりゃ、そうでもない。 今が、いちばんえい季節じゃ。 暑うなし、寒うなし」 珍 ( めず )らしく 絣 ( かすり )のセルの着物に、 紫紺 ( しこん )の 袴 ( はかま )をつけている大石先生だった。 ゴザをしいた船の 胴 ( どう )の 間 ( ま )に横いざりに 坐 ( すわ )った足を、袴はうまくかくして、深い 紺青 ( こんじょう )の海の上を、船は先生の心一つをのせて、 櫓音 ( ろおと )も規則ただしく、まっすぐに進んだ。 二か月前に泣きながら渡った海を、今はまた、気おいたつ心で渡っている。 「なんせ、ひどい目をみたのう」 「はあ」 「若いものは、骨がやらこい(やわらかい)から、折れてもなおりが早い」 「骨じゃないんで。 筋ともちがう。 アキレス 腱 ( けん )、いうんじゃがのう。 骨よりも、むつかしいとこで」 「ほう、そんなら、なおいかん」 「でも、ひどい目にあわすつもりでしたんじゃないさかい。 怪我 ( けが )じゃもん、しようがない」 「そんな目に おうても わかれの あいさつとは 気のえい こっちゃい。 ゆんとん、 さんじゃい」 船頭 ( せんどう )さんは 櫓 ( ろ )にあわせて短かくことばをくぎりながら、「ゆんとん、さんじゃい」で、いっそう力を入れてこいだ。 大石先生もくつくつ笑いながら、それにあわせて、 「そんなこと いうても たったの 一年生が 親にも ないしょで 見舞 ( みま )いに きたんじゃもん いかんと おれるかい ゆんとん さんじゃい」 大石先生がきゃっきゃっと笑うと、船頭さんもいい気持らしく、 「ぎりと ふんどしゃ かかねば なるまい そういう もんじゃよ ゆんとん さんかよ」 もう大石先生は腹をかかえて、思うぞんぶん笑った。 海の上ではだれも気にするものはなく、その笑い声まで櫓の音でくぎられながら、船はしだいに 沖 ( おき )にすすみ、やがて対岸の村へと近づいてゆく。 まだ朝げの 靄 ( もや )の消えきらぬ 岬 ( みさき )のはなは、もうとっくに今日の出発がはじまったらしく、小さな物音がしきりにひびいてきた。 今ごろ、あの子どもたちはどうしているだろうか。 自転車でかよっていたとき、よろずやの前にさしかかると、あわてて走りだしてきていた松江、よく、 波止場 ( はとば )の上まで出てきて待ちうけていたソンキ、三日に一度はちこくする 仁太 ( にた )、おしゃまのマスノ、えんりょやの 早苗 ( さなえ )、一学期に二度も教室で小便をもらした吉次、と、ひとりひとりの上に思いをめぐらしながら、よくぞあのチビどもが、思いきって一本松までこられたものだと思うと、あの日の、ほこりにまみれた足もとなど、思いだされて、いとしさに、からだがふるえるほどだった。 あのときは、わたしのほうがおどろかされたから、今日はひとつ、みんなをびっくりさせてやる……。 だれにまっさきに見つかるだろうかと、たのしい空想をのせて船はすすみ、緑の木立ちや黒い小さな屋根をのせて岬はすべるように近づいてきた。 二人の女の子が砂浜に立ってこちらを見ている。 一年生ではないらしい。 ふしぎそうにこちらから目をはなさない。 変化にとぼしい岬の村では、海からの客も、陸からの客も見つけるに早く、好奇の目はまたたくまに集団をつくるのだった。 立ちどまっている子どもが五人になり、七人にふえたと思うと、その姿はしだいに大きくなり、がやがや 騒 ( さわ )ぎとともに、ひとりひとりの顔の見わけもつきだした。 しかし、子どものほうではだれもまだ着物の先生に 見当 ( けんとう )がつかぬらしく、ま顔で見つめている。 笑いかけてもわからぬらしい。 しびれをきらして思わず片手があがると、がやがやはきゅうに大きくなって、 叫 ( さけ )びだした。 「やっぱり、おなご先生じゃア」 「おなご せんせえ」 「おなごせんせが きたどォ」 浜べはもういつのまにか 大人 ( おとな )までがまじっての大かんげいになった。 船頭 ( せんどう )さんのなげたとも 綱 ( づな )は 歓呼 ( かんこ )の声でたぐりよせられ、力あまって船は砂浜まで引きあげられるさわぎだった。 ひとしきり笑いさざめいたあげく、ともかく学校へ向かった。 途中 ( とちゅう )で出あう人たちは、いちいち 見舞 ( みま )いのことばをおくった。 「 怪我 ( けが )はどないでござんす。 あんじよりました」 先生のほうもいちいちあいさつをかえした。 「ありがとうございます。 そのせつは、お米をいただいたりしまして、すみませんでした」 「いいえ、めっそうな。 ほんの心もちで」 すこしゆくと 鍬 ( くわ )をかついだ人が、はちまきをはずしかかっている。 同じような見舞いを聞いたあと、 「こないだはどうも、きれいなそら豆をありがとうございました」 すると、その人は少し笑って、 「いやァ、うちは、 胡麻 ( ごま )をあげましたんじゃ」 じぶんの 馬鹿正直 ( ばかしょうじき )さに気がつき、これからは米とも豆ともいわないことにきめた。 わずか一学期だけのことだったので、一年生の父兄のほかはよく顔もおぼえていなかったのだ。 そのつぎに出あった、 漁師 ( りょうし )らしい 風体 ( ふうてい )の人を見ると、魚をくれたのはこの人かと思い、用心しいしい、頭をさげた。 「こないだは、けっこうなお見舞いをありがとうございました」 するとその人は、きゅうにあわてだし、 「いや、なに、ことづけようと思とったんですが、つい、おくれてしもて、まにあいませなんだ」 先生のほうも同じようにあわてて、赤い顔になり、 「あら、どうも失礼しました。 思いちがいしましたの」 これが以前だったら、女先生は見舞いを 催促 ( さいそく )したといわれるところだったろう。 行きすぎると子どもたちが笑いだし、その中の男の子が、 「先生、 清六 ( せいろく )さん 家 ( く )は、人にものやったためしがないのに。 もらうだけじゃ。 山へ仕事に 行 ( い )とって しょうべんしとうなったら、どんな遠うても、わが 家 ( うち )の畑までしにいく人じゃもん」 わあとみんなが笑った。 その話はまえにもいちど聞いたことがあった。 四年生にいるその 息子 ( むすこ )が、組でひとりだけ、どうしても音楽帳をもってこなかった、そのときである。 いつも忘れてくるのかと思ってただすと、泣きそうになってうつむいた。 するとならんでいた生徒が、かわって答えた。 「歌をなろうても 銭 ( ぜに )もうけのたしにはならんいうて、 買 ( こ )うてくれんのじゃ」 つぎの 唱歌 ( しょうか )のとき、 清一 ( せいいち )という [#「清一という」は底本では「精一という」]その子に音楽帳をやると、うれしそうに受けとったことを思いだした。 彼は、教科書まで全部、他人の使い古しをもらっていた。 しかも村で二番目の しんしょ持ちだというのだ。 そこに清一のいないことで、ほっとしている先生へ、 「せんせ足、まだ痛いん?」 まっさきにきいたのは 仁太 ( にた )である。 もう松葉杖ではなかったにしろ、やっぱりびっこをひいているのを見ると、仁太は うたてかったのであろう。 「せんせ、まだ自転車にのれんの?」 こんどは小ツルだった。 「そう、半年ぐらいしたら、のれるかもしれん」 「そんなら、これから、船でくるん?」 ソンキの質問にだまって顔をふると、コトエがおどろいて、 「へえ、そんなら、歩いて? あんな遠い道、歩いてエ?」 コトエにとっては忘れられない二里の道だったのだろう。 空腹 ( くうふく )と心配でまっさきに泣きだしたコトエである。 仲間はずれになりたくないばかりに、本の包みを 藪 ( やぶ )にかくして出かけたコトエは、船で送りとどけられたときにも、ひとり気がふさいでいた。 どんなに 叱 ( しか )られるかと、びくびくしていたのだ。 しかし、 迎 ( むか )えに出ていた おばんは、どこの親たちよりもまっさきに、船にアユミのかかるのもまちきれず、じゃぶじゃぶと海の中へはいってゆき、どの子よりもまっさきにコトエを船から 抱 ( だ )きおろしたのである。 まるでがいせん 将軍 ( しょうぐん )のように晴れがましくアユミをわたる子どもらとそれを迎える親たちのなかで、コトエとおばんだけは泣いていた、 藪 ( やぶ )へまわって本包みをとってもどりながら、もうそのときは二人ともふだんの顔になって話しあった。 「これからは、だまって やこい行ったらいかんで。 ちゃんと、そういうて行かにゃ」 「そういうたら、行かしてくれへんもん」 「そうじゃなァ、ほんにそのとおりじゃ。 ちがいない」 おばんはふるえるような力のない笑い声でわらい、 「でもな、なにがなんでも飯だけはたべていかんと、からだに毒じゃ」 そういわれてコトエは、先生の家でごちそうになったキツネうどんを思いだした。 思いだしただけでも 唾 ( つば )が出てくるほどうまかったキツネうどん。 空腹はキツネうどんの味を 数倍 ( すうばい )にしてコトエの 味覚 ( みかく )にやきついていた。 その後も彼女は、何度かキツネうどんの話をしては、大石先生を思いだし、先生を思いだしてはキツネうどんを思いうかべた。 思いがけず先生がやってきた今、彼女はまた、あの遠い道とキツネうどんを思いだしながら、聞いたのである。 あんな遠い道を、歩いてエ? と。 しかし、コトエでなくとも、子どもらは、 今日 ( きょう )の先生を、ふたたび学校へむかえたものと考えていた。 だれもうたがおうとしない 態度 ( たいど )を見ると、先生は、 上陸 ( じょうりく )第一歩で今日の目的をはっきりさせるべきだったと思った。 お別れにきたのよう…… そう 叫 ( さけ )びながら船をおりたら、そくざにそのような 雰囲気 ( ふんいき )が生まれたろうにと、くやみながら、コトエのことばにしがみつくようにして、ゆっくりといった。 「ね、遠い遠い道でしょ。 そこを、ひょこたん ひょこたん と、ちんばひいて歩いてくると、日がくれるでしょ。 それでね、だからね、だめなの」 それでも子どもたちにはさっしがつかなかった。 網元 ( あみもと )の 森岡正 ( もりおかただし )が、正らしい考えで、 「そんなら先生、船できたら。 ぼく、毎日迎えにいってやる。 一本松ぐらい、へのかっぱじゃ」 正は近ごろ 櫓 ( ろ )がこげるようになり、それが 自慢 ( じまん )なのであった。 先生も思わずにこにこして、 「そうお、それで 夕方 ( ゆうがた )はまた、送ってくれるの?」 「うん、なあ」 あとをソンキにいったのは、少し不安でソンキに 加勢 ( かせい )を求めたものらしい。 ソンキも、うなずいた。 「そう、ありがとう、でも、困ったわ。 もっと早くそれがわかってたらよかったのに、先生もう、学校やめたの」 「…………」 「今日は、だからお別れにきたの。 さよなら、いいに」 「…………」 みんなだまっていた。 「べつのおなご先生が、すぐきますからね、みな、よく 勉強 ( べんきょう )してね。 先生、とっても 岬 ( みさき )を好きなんだけど、この足じゃあ仕方がないでしょ。 また、よくなったら、くるわね」 みんな一せいにうつむいて先生の足もとを見た。 早苗が目に一ぱい 涙 ( なみだ )をため、それをこぼすまいとして、目を見ひらいたままきらきらさしている。 感情をなかなかことばにしない早苗のその涙を見たとたん、先生の目にも同じように涙がもりあがってきた。 と思うと、きゅうに 蜂 ( はち )の 巣 ( す )にでもさわったように、わあっと泣きだしたのはマスノだった。 するとコトエやミサ子や、気の強い小ツルまでが、しくしくやりだした。 泣き声の合唱である。 岬分教場の古びた 門札 ( もんさつ )のかかった石の門の両側に、大きな 柳 ( やなぎ )と松の木がある。 その柳の木の下で、三十四、五人の生徒にとりまかれて、女先生もまたかまうことなく涙をこぼした。 マスノの 音頭 ( おんど )があんまり大げさだったので、吉次や仁太まで泣きそうになり、それをがまんしているふうだった。 大きな生徒のなかにはおもしろそうに見ているものもいた。 職員室の窓からその光景を見ていた男先生は、古ぐつの 先革 ( さきがわ )だけをのこした上ばきをつっかけてとんできたが、わけをきくと、 「なんじゃあ、おなご先生がせっかくおいでたんだから、笑うてむかえんならんのに、みんなはでに泣くじゃないか。 さ、どいたどいた。 おなご先生、早く中へおはいりなさい」 しかしだれひとり動こうとはせず、しくしくつづけた。 「やれやれ、 女子 ( じょし )と 小人 ( しょうじん )は なんとかじゃ。 泣きたいだけ泣いてもらお。 泣きたいものは、なんぼでも泣け泣け」 古ぐつの上ばきをぱっく ぱっく音させて男先生が去りかけると、はじめてみんなは笑いだした。 泣け泣けといわれたのがおかしかったのだ。 始業の 板木 ( ばんぎ )が鳴りわたり、いよいよ今日の勉強もはじまるわけだ。 そのはじめに別れのあいさつをして帰るはずの大石先生であったが、別れのことばをいったあと、なにかに引っぱられるようにして、一、二年の教室へはいった。 久しぶりの女先生に、みんなうきうきした。 「じゃあ、この時間だけ、いっしょにべんきょうしてお別れにしましょうね。 算数だけど、ほかのことでもいいわ。 なにしよう?」 はい はい と手があがり、まだ名ざしをしないうちにマスノが、 「 唱歌 ( しょうか )」 と叫んだ。 歓声 ( かんせい )と 拍手 ( はくしゅ )がおこった。 みんなさんせいらしい。 「浜で歌うたう」 わあっと、また、ときの声があがる。 「せんせ、浜で歌うたう」 マスノがひとりで 音頭 ( おんど )をとっている。 「じゃあ、男先生にそいって、浜まで送ってきてね。 船がまってるから」 パチパチと拍手がおこり、 机 ( つくえ )ががたがた鳴った。 男先生に相談すると、それならみんなで送ろうということになった。 びっこの大石先生をとりまくようにして十二人の一年生が先頭を歩いた。 一ばんしんがりの男先生は、 怪我 ( けが )の日以来ほこりをかぶっている女先生の自転車を押していった。 道で出あった村の人も浜までついてきた。 「 蛍 ( ほたる )の 光 ( ひかり )だ、そりゃあ」 男先生がそういったが、一年生はまだ蛍の光をならっていなかった。 「そんなら一年生も知っとる歌、『学べや学べ』でもうたうかい」 男先生はじぶんの教えた歌を聞いてもらいたかった。 しかしマスノがいち早く 叫 ( さけ )んだ。 「山のからす」 彼女はよほど「山のからす」がお気にいりらしかった。 そしてもう、まっさきに、うたいだしたのだ。 へんじかこうと 目がさめりゃ なんのもみじの 葉がひとつ くりかえし歌って、いつかそれもやみ、しだいに遠ざかる船にむかって呼びかける声も細りながら、いつまでもつづいた。 「かわいらしいもんじゃのう」 船頭 ( せんどう )さんに話しかけられて、はじめて我れにかえりながら、しかし目だけは、まだ立ちさりかねている浜べの人たちからはなさずに、 「ほんまに、みんな、それぞれ、えい人ばっかりでのう」 「昔から、ひちむつかしい村じゃというけんどのう」 「そうよの。 そんな村は、気心がわかったとなると、むちゃくちゃに人がようてのう」 「そんなもんじゃ」 つよい日ざしと海風に顔をさらしたまま、もう 胡麻粒 ( ごまつぶ )ほどにしか見えない人の姿とともに、 岬 ( みさき )の村を心の中にしみこませるように、いつまでも目をはなさなかった。 櫓 ( ろ )の音だけの海の上で、子どもたちの歌声は耳によみがえり、つぶらな目の 輝 ( かがや )きはまぶたの 奥 ( おく )に消えなかった。 海の色も、山の姿も、そっくりそのまま 昨日 ( きのう )につづく 今日 ( きょう )であった。 細長い岬の道を歩いて本校にかよう子どもの群れも、同じ 時刻 ( じこく )に同じ場所を動いているのだが、よく見ると顔ぶれの 幾人 ( いくにん )かがかわり、そのせいでか、みんなの表情もあたりの木々の 新芽 ( しんめ )のように 新鮮 ( しんせん )なのに気がつく。 竹一 ( たけいち )がいる。 ソンキの 磯吉 ( いそきち )もキッチンの 徳田吉次 ( とくだきちじ )もいる。 マスノや 早苗 ( さなえ )もあとからきている。 この新らしい顔ぶれによって、物語のはじめから、四年の年月が流れさったことを知らねばならない。 その四年間に「 一億同胞 ( いちおくどうほう ) [#「一億同胞」は底本では「一臆同胞」]」のなかの彼らの生活は、彼らの村の山の姿や、海の色と同じように、 昨日 ( きのう )につづく今日であったろうか。 彼らは、そんなことを考えてはいない。 ただ彼ら自身の喜びや、彼ら自身の悲しみのなかから彼らはのびていった。 じぶんたちが大きな歴史の流れの中に置かれているとも考えず、ただのびるままにのびていた。 それは、はげしい四年間であったが、彼らのなかのだれがそれについて考えていたろうか。 あまりに 幼 ( おさな )い彼らである。 しかもこの幼い者の考えおよばぬところに、歴史はつくられていたのだ。 四年まえ、 岬 ( みさき )の村の分教場へ入学したその少しまえの三月十五日、その翌年彼らが二年生に進学したばかりの四月十六日、人間の解放を 叫 ( さけ )び、日本の改革を考える新らしい思想に政府の 圧迫 ( あっぱく )が加えられ、同じ日本のたくさんの人びとが 牢獄 ( ろうごく )に 封 ( ふう )じこめられた。 そんなことを、岬の子どもらはだれも知らない。 ただ彼らの頭にこびりついているのは、 不況 ( ふきょう )ということだけであった。 それが世界につながるものとはしらず、ただだれのせいでもなく世の中が不景気になり、けんやくしなければならぬ、ということだけがはっきりわかっていた。 その不景気の中で東北や北海道の 飢饉 ( ききん )を知り、ひとり一 銭 ( せん )ずつの 寄付金 ( きふきん )を学校へもっていった。 そうした中で 満州事変 ( まんしゅうじへん )、 上海 ( シャンハイ )事変はつづいておこり、 幾人 ( いくにん )かの兵隊が岬からもおくり出された。 そういうはげしい動きのなかで、幼い子どもらは麦めしをたべて、いきいきと 育 ( そだ )った。 前途 ( ぜんと )に何が待ちかまえているかをしらず、ただ成長することがうれしかった。 五年生になっても、はやりの 運動靴 ( うんどうぐつ )を買ってもらえないことを、人間の力ではなんともできぬ不況のせいとあきらめて、 昔 ( むかし )ながらのわらぞうりに 満足 ( まんぞく )し、それが新らしいことで彼らの気持はうきうきした。 だからただひとり、森岡正のズックを見つけると、みんなの目はそこにそそがれてさわいだ。 「わァ タンコ、足が光りよる。 ああ ばば(まぶしいこと)」 いわれるまえから正は気がひけていた。 はいてこなければよかったと 後悔 ( こうかい )するほど恥ずかしかった。 女のほうでは小ツルがひとりだった。 靴は、足をかわすたびにぶかぶかとぬげそうになった。 小ツルはとうとうズックを手にもって、はだしになり、うらめしそうに靴をながめた。 六年生の女の子がじぶんのぞうりと取りかえてやりながら、大声で、 「わあ、 十文半 ( ともんはん )じゃもん、わたしにでも大きいわ」 おそらく三年ほどもたせるつもりで買ってやったのだろうが、小ツルはもうこりこりしていた [#「こりこりしていた」はママ]。 ぞうりのほうがよっぽど歩きよかったのだ。 ほっとしている小ツルに、松江は笑いかけ、 「な、コツやん、べんとが、まだ、ここで、ぬくいぬくい」 そういって 腰 ( こし )のあたりをたたいてみせた。 「 百合 ( ゆり )の花の弁当箱?」 小ツルが、いつ買ったのだ、という顔で問うのを、松江は気弱くうけ、 「ううん、それは 明日 ( あした )お 父 ( とっ )つぁんが 買 ( こ )うてきてくれるん」 そういってしまって、松江ははっとした。 三日前のことを思いだしたのだ。 ミサ子もマスノも、ふたに百合の花の絵のあるアルマイトの弁当箱を買ったと聞いて、松江は母にねだった。 「マアちゃんも、ミイさんも、百合の花の弁当箱買うたのに、うちもはよ買うておくれいの」 「よしよし」 「ほんまに、買うてよ」 「よしよし、買うてやるとも」 「百合の花のど」 「おお、百合なと 菊 ( きく )なと」 「そんなら、はよチリリンヤへたのんでおくれいの」 「よしよし、そうあわてるない」 「ほたって、よしよしばっかりいうんじゃもん。 マッちゃん、チリリンヤへいってこうか」 それではじめて彼女の母はしんけんになり、こんどはよしよしといわずに、少し早口で、 「ま、ちょっとまってくれ、だれが 銭 ( ぜに )はらうんじゃ。 お父つぁんにもうけてもろてからでないと、 赤恥 ( あかはじ )かかんならん。 それよか、お母さんがな、アルマイトよりも、もっと上等のを見つけてやる」 そういってその場を流されたのだが、松江のためにさがしだしてくれたのが、古い昔の 柳行李 ( やなぎごうり )の弁当入れとわかると、松江はがっかりして泣きだした。 今どき柳行李の弁当入れなど、だれも持っていないことを、松江はしっていたのだ。 世の中の 不況 ( ふきょう )は父の仕事にもたたって、 大工 ( だいく )の父が、仕事のない日は、草とりの日ようにまでいっているほどだから、弁当箱一つでもなかなか買えないこともわかっていた。 しかし松江は、どうしてもほしかったのだ。 ここで柳行李をうけいれたら、いつまでたっても百合の花の弁当箱は買ってもらえまいということを、松江は感じて、ごねつづけ、とうとう泣きだしたのである。 しかし母親もなかなかまけなかった。 「不景気なんだから、ちっとがまんしい。 来月になって、景気がよかったら、ほんまに買おうじゃないか。

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BL短編集!!(実況者)

ぴく と 小説

pkt side 雨は好きじゃない。 じめじめするし、暗いし、濡れてしまうから。 だから、この状況は必ずしも僕にとって良くはない。 ざあざあと、雨が地面を濡らして、傘がたくさんの雨粒を弾くような状況は。 もはや不幸としか言いようがないよ。 たまたま散歩に出掛けた帰り道に、ゲリラ豪雨に遭遇するなんて。 そんで、不幸中の幸いは折り畳み傘を持っていた事。 ほんっと、運が良いのか悪いのか..... そんな事を考えながらも、家に向かってひたすらに歩き続けていた。 しかし、家までもう少しの場所まで来たその時。 とある音が僕を引き止めた。 「にゃー」 微かに聞こえた、猫の声。 耳を傾ければ、雨音混じりで聞こえにくいが、何度も、何度も聞こえる。 まさかと思って、その声がする方向へと駆け寄った。 僕の視界に映ったのは、今にも氾濫しそうな川の水面下でもがいている、小さな白猫。 『ああぁぁ!!、っもう!!』 傘を投げ捨て、川へと飛び込む。 準備体操もせず荒れ狂う冷水に浸かった体が一瞬硬直する。 だが、そんなのに気を取られている暇はない。 急いで子猫を抱き上げ、うねる水流に対抗しながら陸地を目指した。 ーーーーーーーーーーーーーー 『もう、溺れるんじゃないぞ』 そう言って腕に抱えていた子猫を降ろす。 その子は体を振って水気を落とした後に、さっさと立ち去ってしまった。 頭や服に当たる雨粒はもう気にならない。 投げ捨てた衝撃で使い物にならなくなった傘を拾い上げて、再び家の方へと歩き出す。 もちろん寒いし、だるいし気持ち悪い。 でもなってしまったものはどうしようもない。 仕方がないので、先刻よりは早足で家を目指した。 家に着いても疲れていては何をする気もせず、体を軽く拭いた後、着替えだけして眠りについた。 [newpage] 昨夜の大雨が嘘の様に、雲一つない晴天を窓から眺める。 こんな景色を観ると大抵は気分が上がる、のだが、どうも体が重い。 昨日のあの所作か?と思ったが、顔まで熱くなっているのを理解して、棚から体温計を取り出した。 ピピッ 音が鳴り、電子板に表示された数字をそのまま読み上げる。 『38. うっわ見事に熱あんじゃん.... 』 こういうのは意識してしまうともっと駄目になる物だ。 ベッドに背中から倒れ込み、はぁ、と息を吐いた。 ピロリン どこか軽快そうな電子音が静かだった部屋に鳴る。 そこには、 鬱《ぴくとさーん。 本日がなんの日か、覚えてらっしゃいますかー?》 と、書かれてた。 そうだ。 前々からの約束で、今日はWR国で皆さんと一緒にお茶会をする事になっていんだった。 うわマジ最悪じゃん..... でもこれは完全に僕の不注意が原因だ。 皆さんに迷惑を掛ける訳にはいかないな。 そう思いつつ、適当に返信しといた。 白いパーカーに腕を通し、ピンで留めるタイプの黒い蝶ネクタイを付ける。 熱があると思わせない様に。 風邪だと悟らせない様に。 そう決意して、家を出た。 [newpage] コ「ちわっす!!ぴくとの兄貴お久しぶりっす!!!」 鬱「やっほ〜」 ゾ「チッスチッス!!チッスチッス!!」 ロ「元気にやっとりましたか!? 」 基地に着くと、わちゃわちゃしながらも丁寧に出迎えてくれるWR国の幹部の皆さん。 『ご無沙汰してました!いやーそれにしても皆さんお久しぶりですね!!』 いつも道理に、何事もなかった様に話さなくちゃな。 ト「そうやな。 何気に、結構な期間会ってなかったんちゃう?」 ゾ「せやなぁ」 鬱「そやなぁ」 コ「それなぁ」 『あれなぁ』 ロ「わかる!!!!!」 某VOICEROID曲風 ト「お前らそれがしたかっただけやろ!てかぴくとさんも便乗しないでください!!」 ゾ「ンヒヒヒャヒャヒャwwwこうなるとは思ってなかってんwww」 『僕もwまさかこんなにも上手く行くとはww』 鬱「なんか察したからwwついww」 ロ「アッハハハハハハハwwww!!いや、おもろいなぁwwww」 コ「ヒーッヒーwwwハッハッハwwワッハハハハッハハッハハッハハハァハハッハアッハハh」 『コネシマさん大丈夫ですか??』 鬱「さあてと、立ち話も野暮ですし、はよ中行きましょ」 ト「せやで。 」 ロ「あっちょっゾム!!お前待てや!!」 『........ 子供みたい 二つの意味で 小声 』 ロ「ん〜?ぴくとさん。 何か言うてはりましたか?」 『イエナニモ』 ト「wwwww」 鬱「草生えますわぁ」 こんなほのぼのとした会話をしていると、自分が病人な事をつい忘れてしまう。 が、突如として、締め付ける様な激しい頭痛に襲われる。 少しふらついてしまったが、慌てて気を持ち直した。 鬱「ぴくとさん、大丈夫ですか?」 『うん、ちょっと目眩がしただけ』 鬱くんから心配されので、適当な理由を付けてはぐらかした。 それ以上は何も訊かれなかった。 バレてないかな?取り敢えずは一安心。 鬱くんはこーゆー時だけ鋭いから、用心しなくちゃ。 ずきずきと痛む頭を押さえながら、僕はWR国の基地に足を踏み入れた。 雑談に花を咲かせてる内に、目的地の一歩手前まで来た。 そこは重厚感がある大きな扉の前で、プレートには「会議室」と記されていた。 グ「ぴくとよ!待ってたゾ!!」 エ「こんにちは〜準備は万端やで〜」 オ「やっっっっと!!お茶会が始められるんやな!!」 ショ「うっす、いつぶりで」 扉を開ければ白いテーブルに真っ赤なテーブルクロスが掛かった円卓と、それを囲んで座っているWR国の幹部の皆さん、パート2。 正確に言えば一人、違うが。 『お久しぶりです!待たせてしまってすいません』 エ「いや、丁度終わったとこやから、そんな心配せんくてもええですよ」 ショ「オスマンさんとグルッペンさんはつまみ食いしようとしてましたけどね」 ト「ほ〜う。 」 オスマンさんに急かされて、僕らも席に着いた。 グ「それでは諸君!このお茶会に乾杯!!」 全「乾杯!!!!」 グルッペンさんの一言で、賑やかなお茶会が始まった。 でもこれ全部を鬱くんが作ったのだと言われると、どうも解せない。 いや美味しいけどね。 美味しいんだけど、やっぱりどこか可笑しい。 そんな気がする。 鬱「ぴくとさん?ぴくとさん?」 『ん?どーしたの鬱くん』 鬱「なんか失礼な事考えてません?」 『いやそんな事あるわけないよー 棒 』 鬱「にしては喋り方が片言になって『それは置いといて!そっちのお菓子取って!!』えぇ... 」 ゾ「シッマ、こっちのケーキも食べてみ?美味いで!!」 コ「ちょっ.... せめて飲み物くれへんか.... 」 オ「はあぁ.... とってもおいしいめぅ〜」 ト「この紅茶美味いなぁ」 エ「これは世界三大銘茶の一つ、ダージリンティーって言うんや。 本当なら、万全の状態で来たかったと後悔してる。 未だに痛む頭は、少しでも動くと更にキリキリと響き、苦しい。 折角鬱くんが作ってくれたお菓子の数々も、今は美味しく頂けないや。 ゾ「ぴくとさん!!」 『うぉわっ!? 』 いきなりゾムさんに声を掛けられて、思わず肩が跳ねた。 ゾ「ヒャヒャヒャw相変わらずええ反応やなぁ」 『んもーこっちの身が持ちませんよ..... それで、どうかしましたか?』 ゾ「いや、どうせなら食後の運動せえへんか!!? 久しぶりにぴくとさんと戦ってみたいねん!!」 え ロ「お!久々やな!!俺もやるで!!」 ショ「俺もやりたいっすね」 グ「それは面白そうだな!!」 オ「なになに?暴れるんだったら俺もやる〜」 コ「よっしゃあ!!思いっきり戦えるで!!」 えっえっ ト「まあ、ええんやないか?最近は特に大きな被害もあらへんかったしな」 エ「やられたら三倍返しや!!さっき煽られた恨み、晴らさせてもらうで!!」 ええぇぇ..... コネシマさんやショッピさん、ロボロさん達はともかく、一応常識人枠のトントンさんやエーミールさんまで... もう僕の味方は鬱くんしか........ コ「大先生もやるよな!!!!」 鬱「せやなぁ.... まあ、たまにはええでしょ。 とんち、第二訓練場使ってええか?」 ト「おん、ええで」 コ「しゃああぁぁ!!そうと決まったらはよ行くで!!」 前言撤回。 どうやら僕の味方は最初から居なかったようだ。 [newpage] てんやわんやで話は進み、ルールはじゃんけんの結果、総当たり戦になった。 それこそ最初の内は激しい乱戦が繰り広げられてた。 が、今このフィールド上に立っているのは僕とゾムさんだけ。 いや僕もう立ってるだけでも辛いんだけどな.... そんな僕とは対照的に、ゾムさんはとても楽しそうだ。 フードで隠れてても表情が分かるぐらいには。 二本のナイフを振りかぶり、僕の胸元目掛けて突進して来る。 咄嗟に剣で防ぐが力が強く、やや押され気味の体勢になってしまう。 しかしいつまでも動かないこの状態に痺れを切らしたのか、僕の横腹に蹴りを入れようとする。 こちらもそれを脚で受け止め、ズレた重心を狙って隠していたナイフを投げる。 いとも容易く避けられたけど。 ゾ「んふふ、どうしたんやぴくとさん。 いつもより動き鈍いんちゃうか?」 『舐められたもんっすね.... 』 こうして言葉を交わしている間にも止まることのない攻防戦。 いつもより身体が動かない事も、そろそろ限界が近いのも分かり切ってる。 滲む汗の量も尋常じゃない。 温度感覚が狂ってんだ。 正常に機能してない脳に押し寄せる痛みと気だるさが、僕の身体に重く伸し掛る。 熱いのに、 寒くて、 苦しくて、 いたくて 、つらくて、 なんだか 、 めが、 ちかちか 、 するなぁって 、 あれ 、 なんで 、 ゆかが 、 こんなに 、 ちかいの ? おきな、きゃ 、 しんぱい 、 かけちゃう 、 から 、 はやく 僕はそのまま床に突っ伏し、意識を失った。 [newpage] 頭にひんやりした何かが触れる感覚で目が覚めた。 重い瞼を開けば、見慣れた面々が驚いたような顔をする。 ショ「えぴくとさん起きt「ぴくとさんが起きたあぁぁああ!!!!」クソ先輩煩いっす」 ゾ「ぴくとさん、だ、大丈夫なんか!? 」 ト「どこか痛む所とかあらへんか?! 」 『あっ、僕は全然大丈夫ですよ』 かなり心配を掛けてしまったらしい。 あーあ。 僕の努力はどこへやら..... ひとまず起き上がろうとしたが、腕に全く力が入らず、身体が思うように動かない。 ぺ神さんに支えられ、やっとの事で身体を起こせた。 神「やっぱり、大丈夫なんかじゃないでしょ。 熱、何度あると思ってんの?」 『え〜っと、39度ぐらい?』 神「41. 3度だよ。 」 全「はああぁぁぁああ!?!? 」 『えっそんなに!? 』 コ「お風呂より熱々やん!!」 神「そ。 だから少なくとも今日と明日は絶対安静!大人しくしてね!」 『まじかぁ..... 』 ロ「ぴくとさんぴくとさん」 『ん?なんでs』 全「すいませんでしたああぁぁぁああ!!」 『えっなんで皆さんが謝るんですか!? 』 ロ「なんでって、悪いのは俺らやろ!!ぴくとさんの容態に気づけんくて、無理までさせてもうたし.... 」 ゾ「ごめんな!!俺も気づけへんくて、それなのに本気でやってもうた..... 」 『いえいえいえ!!悪いのは僕の方ですよ!!これは僕の不注意が原因ですし、皆さんは何もゲホッゲホ』 ショ「ぴくとさん!? 」 大声で喋った所為か、喉がガラガラになって痛い。 割れるような頭痛は収まる気配がなし、くらくらしてくる。 それに加えて寒気もするし、やっぱり自分は病人な事を痛感する。 神「ああもう言ったそばから。 はいこれ飲んで。 錠剤苦手なら水と一緒に、あ、お湯の方が良いかな?」 テキパキと手馴れた動きで風邪薬とぬるま湯を用意して、僕に差し出してくれた。 お礼を言ってそれを受け取ろうとするが、手が震えて上手く掴めない。 神「あーこれ軽い痙攣も起こしてるね。 お薬追加〜っと」 ペ神さんは棚からまた違う薬と、CMで見た事があるゼリーの様な物も取り出した。 グ「まさかそれは..... 」 神「そう、薬を包んでもぐもぐするやつだよ」 オ「美味しそう.... 」 鬱「マンちゃん?マンちゃん?」 神 カチャカチャ 「それじゃ、口開けて?」 『えっ?』 全「えっ?」 エ「あの〜、もしかしなくてもこれは...... 」 神「うん。 あーんだよ。 あーーん」 『えっ普通にやだ』 神「じゃあ自分でスプーンとお皿持てるの?」 『うっ...... 』 ショ「観念した方が良いっすよ」 『ううっ.... 』 神「ほい、あーん」 『ううぅぅ...... あー パクッ モキュモキュ ゴックン 、意外と美味しいかも..... 』 鬱「良かったじゃないすか」 『屈辱的だけどね』 そんな他愛もない会話をしている内に、ゼリーのお皿は空っぽになった。 神「薬も飲んだし、あとはもう寝るだけだね。 皆が居ると煩いから、ちょっと出てってもらおうか」 『あっ、いえ、あの!!』 ペ神さんの命令で外に行こうとする鬱くんの袖を引っ張って止める。 意図した事ではなかったが、自分が望んだ事だ。 『その、僕が寝るまでは、皆さんと一緒に居たいんですけど.... だめ、ですか?...... 』 これ以上迷惑を掛けてしまう事は、百も承知だった。 けれど、もう少しだけ、温かくて居心地の良い空間に居たいんだ。 そんな意味を込めて言ったつもり。 しかし何故か、鬱くん達は顔を押さえて上を向いていた。 理由は分からなかったが、いいよと言われたのでとても嬉しかった。 そしてそのまま、眠りに着いた。 全 「一緒に居たい」とかいつものぴくとさんじゃ絶対言わないし.... 不意打ちすぎるやろ..... [newpage] ・あとがき はぁい、春の七草です。 気軽に七草とでも呼んでください。 痛いとこ突かれた そうなんです.... ネタはあるんですが、文字起こしがひたすらに面倒なんです.... なので今年以内に次の小説を出すのは難しいかと...... もうすぐハッピーメリークルシミマスですね。 末永くお幸せに爆発してくださいそこらのカップルの方々。

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