近代 建築 で 最初 に 国宝 と なっ た の は。 日本近代建築史

建物探訪 近代建築と歴史的建築

近代 建築 で 最初 に 国宝 と なっ た の は

この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年4月) モダニズム建築(モダニズムけんちく、: Modern Architecture)または (きんだいけんちく)は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。 以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。 以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ。 の(1926年)、の(1929年)、の(1931年)などが代表的な作品である。 のバルセロナ・パビリオン(再現。 オリジナルは1929年に建てられた) に影響を受けたの活動と、芸術学校の開設がモダニズム建築の展開のうえで大きな推進力になった。 によって産業と芸術の統一が意図され、のタービン工場(1910年)が新しい建築のあり方を提示した。 ベーレンスの元で学んだは、バウハウス(1919年)の教育において建築を中心にした総合芸術を目指した。 グロピウスはやオランダのの合理主義・からも影響を受けた。 1925年にはバウハウス叢書として『国際建築』(Internationale Architektur)が刊行された。 1927年のコンペでは入選9案のうちにの計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達(流の旧式な建築家)はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。 CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。 1932年には、(MOMA)でとヘンリー・ヒッチコックの企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。 同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、(国際様式)建築という呼び方も一般的になった。 これらの1920年代をピークとする建築運動を 近代建築運動(Modern Movements in Architecture)という。 近年は、合理主義建築、あるいは建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い。 特徴 [ ] ル・コルビュジエは、「新しい建築の5つの要点(いわゆる近代建築の五原則)」としてピロティ、、自由な平面、水平連続窓、自由な立面を挙げたが、これらはやという新しい技術によって、が持っていた制約から自由になったことで可能になったものである。 モダニズム建築の多くは装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とし、「豆腐のような」「白い箱」と揶揄される。 機能的・合理的で、地域性や民族性を超えた普遍的なデザインとされた。 しかし20世紀半ばになると、装飾のない建物が一般的になり、近代建築運動は次第に革新性を失っていった。 モダニズム建築がアジア・アフリカ各国にも普及するに従い、風土への適用が課題となったものである。 ル・コルビュジエのも新地方主義の実践の一つといわれる。 成立の背景 [ ] ウィーンのミヒャエル広場。 向かって右の建物がによる通称「ロースハウス」(1910年建設) 近世以降のヨーロッパでは、古代ギリシア・ローマ建築に起源を持ち、で復興された建築様式が長く主流とされてきた。 建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、芸術的な作品を造ることが求められてきた。 しかし、・といった新しい素材が使われるようになり、また社会生活も多様となって建築に対する様々な要求が起こってくると、過去の様式を桎梏として、そこから離脱しようという試みが行われるようになってきた。 建築、工芸におけるモダンデザインの起源は、19世紀イギリスのによる運動に置かれることが多い。 産業革命の先進国イギリスでは機械による大量生産が進み、安価であるが低俗なデザインの製品があふれていた。 モリスはこうした状況を批判し、中世の職人が手仕事で作り出した工芸品に憧れ、生活と芸術の統一を主張した。 モリスの邸宅としてが設計した「赤い家」(、1860年)は煉瓦造で中世風の外観を持つ。 一見、過去への回顧的な装いであるが、素材とデザインを統一させた中に美を表現しようとする合理的、革新的な要素を持っていた。 モリスが始めたアーツ・アンド・クラフツ運動は各国に大きな影響を与えた。 フランスではの建築が過去の装飾を否定し、植物からモチーフを取った曲線的、自由なデザインを用いた。 ドイツの、オーストリアのゼツェッシオン()なども、国や作家の個性により多様ではあるが、歴史主義から離れた自由な装飾を用いている点で同様の傾向を示している。 ウィーン分離派の中心人物は「芸術はただ必要によってのみ支配される」 として、機能性、合理性を重視した近代建築の理念を表現した。 その影響を受けたはさらに「装飾は犯罪である」と宣言し、装飾そのものを否定した。 建築は用途や素材に従って設計するべきであり、装飾を付けるのは原始人の刺青のようなもので、文化の程度が低いことを示すものだという主張は大きな反響を呼んだ。 また、アメリカのの作品(例:ロビー邸、1909年)は間仕切りのない流れるような空間構成によってモダニスムの建築家に影響を与えた。 新技術の導入 [ ] 技術的には、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の普及、大量生産が可能になった板ガラスがモダニズム建築の前提条件となった。 鉄骨造の構造物としては、鉄橋、駅舎、博覧会施設(、)などが先駆となって、後に高層ビルの建設にも適用された(特にアメリカでの復興に際して高層ビルの建設が相次いだ)。 当初、鉄筋コンクリートは石材の代用品とみなされていたが、やがてなどの実践によってコンクリート特有の造形表現が知られるようになった。 新技術による作品例 [ ]• オーストラリアのシドニー、 (1973) 日本における展開 [ ] 日本にも末からに鉄筋コンクリート造という新しい技術が伝えられ、、らによって装飾の少ないモダニズムの先駆的な作品が造られた。 一般に日本の近代建築運動の始まりは・・らのに置かれる。 当時の建築界では鉄筋コンクリート造等の構造技術的な側面に注目が集まる一方、的な建築観が主流であり、装飾のない建築は評価されなかった。 こうした中、建築が芸術であることを主張し、過去の様式や装飾を否定した新しい造形を試みた分離派建築会の作品には、ドイツの影響が見られる。 旧式な折衷主義とモダニズムの対立として象徴的な例とされたのがの設計コンペで、日本風の瓦屋根を乗せたのの案が当選し、ル・コルビュジエ張りのの案は敗れた。 後に前川自身が「あの案で建てられていたら、自分は顔を上げて上野を歩けなかっただろう」といった言葉を述べているように、渡辺案より前川案が優れていたとは言い切れない。 それはともかく、1930年代半ばには、建築雑誌に紹介される作品もモダニズム建築が主流になっていった。 ナショナリズムの台頭を背景として、モダニズム建築に対抗するかのように、矩形のビルディングに日本の伝統的な瓦屋根を載せたが一つの潮流となり、、等の作品を生んだ。 など日本影響下の外地の方でも積極的に採用された(国内よりもむしろ影響力誇示のため日本的な意匠がより強く求められたためと考えられる)。 宇部市渡辺翁記念会館(1937年)、村野藤吾設計 第二次世界大戦後は、モダニズムの旗手として前川國男と、らが建築界をリードした。 また、日本の伝統建築(伊勢神宮やなどの建築)とモダニズムの近親性が論じられた。 これは柱と梁で構成される日本の伝統的建築と、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築を対比し、前者がモダニズムの理念と適合しているとするものである。 このように日本においては、モダニズム建築の理念が第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及し、過去の歴史様式をまとった建築は否定されるようになった。 この背景には、戦争の激化とともに物資が乏しくなったため、また戦後になると戦災から一刻も早く立ち直るため、とにかく時間をかけず廉価に建設することが社会的な要請として最優先され、が腕を振るって装飾を付けるようなことは無意味であり無駄だと考えられたこと、また海外及び日本の建築雑誌に紹介されるのはモダニズム建築ばかりであったことなどが理由として挙げられる。 モダニズム建築は20世紀になって突然生まれたものではない。 建築を理念によって支えるという点はにおいて萌芽したものであるし、要求に則した建築を機能的に設計するというプロセスは、用途や要求などの諸要素に対応して様々な様式を採用するという19世紀のの手法においてもみられる現象である。 むしろモダニズム建築は、それまでの建築思想を拡張し、再構成することによって成立したと言える。 単に装飾を省略するだけではモダニズム建築は成立しない。 後期に相対化された歴史的様式の代わりに、普遍的な「」の概念が導入されている。 にはらが著書『ラスベガス』(Learning from Las Vegas)を出版し、モダニズムの理想は一般の人々のためには高尚過ぎると批判、むしろ猥雑で張りぼてのようなや全米のロードサイドなどの日常的風景などを観察してその建築的シンボルを学ぶべきだと提唱、論議を呼んだ。 「近代建築の失敗」の象徴とされたのが、の団地(設計、1954年)であった。 これはを一掃した後の23haの敷地に建設された高層の集合住宅団地であるが、低予算で建設されたこと、低所得者層が主に住んだことなどで次第にスラムと化し、犯罪の巣窟となってしまった。 荒廃のため1972年に取壊されたが、その爆破シーンはモダニズムの終焉を象徴するものと受け止められた。 モダニズムを乗り越えようとするポスト・モダニズム()が提唱され、モダニズム建築によって否定された装飾や象徴性の復権などが唱えられた(参考:チャールズ・ジェンクス『ポスト・モダニズムの建築言語』)。 しかし、ポストモダンの動きには建築構造の工夫や素材の研究など、建築や空間を改善・改革する実質的・実験的な要素がなく、表層だけをにぎやかにしたものだという批判もある。 ポストモダンはやや皮相なものに留まり、1980年代の一時の流行の感が強い。 には新素材の利用やコンピュータを使った構造計算による大胆なフォルムが可能になる一方で、モダニズムの見直しも進み、機能性や簡素さが重要視されるようになり、モダニズムへの先祖帰りのような現象も起こった。 実用面でモダニズムを超える新しい建築デザインは未だ確立していないと考えられる。 モダニズム建築の評価 [ ] モダニズム建築の良さは、一般に理解されにくい。 例えば、「ミースのやのは、デザイン的にも機能的にもきわめて優れたモダニズムの超高層建築であるが、その優れた点をきちんと理解していないその後の建築家らが、表面的な物真似をして、平凡で粗悪な、四角い箱というだけの無味乾燥なを作り続けたために、モダニズム建築は誤解され、批判ばかりを助長する結果となった」というような言い方をされることがある。 これは、おそらく正しいことを書き記しているのであろうが、素人には、十分に理解できないところがある。 その理由として、モダニズム建築のよさ、または、よいモダニズム建築とそうでないものとの違いを、単なる表層に限ることなく、機能や思想まで含めて、具体的に、具体例をもって、示さないからである。 したがって、感覚的にしかモダニズム建築の良さが理解できない面があり、「この作品は、とても端整である」といったイメージの評価や抽象的な評価に留まることがある。 この点については、建築家でさえ全ての点を理解できないことがあるのだから無理もないとする意見がある一方で、モダニズム建築の優れた点を素人にも判るレベルで具体的に示す努力を怠ってきた建築家や建築評論家への批判もある。 かつての「モダニズム建築の旗手」たちが設計した建築は既に築後数十年が経過して老朽化が進み、今日の目から見ればさすがに時代性を感じさせており、機能的にも不十分な点が見られる。 「機能主義の建築は機能を全うしたら存在意義はない」という見方もあるが、モダニズムをも歴史の一つとして捉え、その保存を論じる必要性が問われている。 ヨーロッパでは近代建築運動自体を歴史的に評価する見方が支持されているが、日本では今後の課題として残されている。 脚注 [ ]• 『建築大辞典』第2版(彰国社、1995年)、『日本国語大辞典』第2版(小学館、2001年)、『広辞苑』第6版(岩波書店、2008年)の「近代建築」の定義を参照。 2000年代以降、日本の建築史家が明治時代の西洋館などを含む「」(欧米の影響のもと、新技術を導入して建てられた建物)と、近代建築運動に基づく建築(20世紀の機能的、合理的な建築)を区別するため、「モダニズム建築」という用語を使うようになった。 大川三雄・川向正人・初田亨・吉田鋼市『図説 近代建築の系譜』(彰国社、1997)。 ニコラウス・ペブスナー『モダン・デザインの源泉』(美術出版社、1976)P18-28、藤岡通夫他『建築史』(市ヶ谷出版社、1967)P224-225、柏木博『デザインの20世紀』(NHKブックス、1992)P12-26• 藤岡通夫他『建築史』P228• 熊倉洋介他『西洋建築様式史』P165• 『西洋建築様式史』P166。 1911年にライトの作品展がベルリンで開かれ、グロピウスに深い感銘を与えた(グロピウス『建築はどうあるべきか』P243)。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 などしてくださる(/)。

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日本近代建築史

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こうした植民地的支配は1945年8月まで続く。 このためソウル市内をはじめ朝鮮国内には植民地時代の建物が数多く残る。 特に、徳寿宮の周辺には近代建築が多く建つが、これは元々の徳寿宮の土地であったところが欧米列強の領事館や公使館の用地として切り取られたためではないかといわれている。 地図1 大韓帝国歴史館 石造殿 ソウル市内の徳寿宮の周囲には多くの近代建築物がある。 まずは、徳寿宮内にある大韓帝国歴史館から見ていこう。 徳寿宮は入場料1,000ウォン 65歳以上は無料 で、日本語のパンフレットもある。 石造殿は英国人ハーディングの設計で、1910年に竣工した皇帝のための建物である。 2009年から復元工事が始まり、2014年に大韓帝国歴史館として開館した。 石造殿の前にあった日時計 1434年製 光明門にある水時計 昌慶宮自撃漏、国宝第229号 貞洞第一教会 貞洞第一教会は、朝鮮最初のメソジスト教会で、吉澤友太郎の設計で、1898年に竣工した。 貞洞第一教会 新亜日報社別館 この建物には4カ国語 韓・英・中・日 の解説があった。 以下にそれを記述する。 「登録番号:登録文化財第402号 1930年代には、この建物はアメリカのミシン製造会社シンガーの社屋として使われた。 鉄筋コンクリート構造 に赤煉瓦が積み上げられている。 1階の中央入口の突出部や階段、バルコニーからは、建設当初のこの建物が貞 洞の街とどのように調和していたか、その雰囲気に思いをはせることができる。 内部の柱や床の構造、壁の暖炉 などが原型のまま残っている。 」 地下監獄 梨花女子高校シンプソン館 旧ロシア公使館塔 1890年に、ロシア人建築家サバティンの設計で竣工。 朝鮮戦争時に破壊され、現在は塔部のみが残る。 貞洞公園内に建つ。 培材学堂歴史博物館 アメリカ人宣教師アペンゼラーが設立。 この東館は1916年に竣工。 ソウル市立美術館 旧高等法院・京城地方法院 現在、ソウル市立美術館として使われている建物は、かつての高等法院・京城地方法院の建物の正面部分が保存されたものである。 朝鮮総督府技師の岩井長三郎と笹慶一により設計され、1928年に竣工した。 救世軍中央会館・本営 救世軍の韓国初の教会は1908年11月に建設された。 写真右の「救世軍営」の扁額は1915年に造られた中央会館のものである。 救世軍本営は、1926年に建てられたもので、士官養成、宣教、社会事業本部として使用するために建設された。 救世軍本営 聖公会ソウル聖堂 イギリスの国教である聖公会の聖堂である。 英国人ディクソンの設計により1926年に竣工した。 ソウル市庁舎 朝鮮総督府建築課の岩井長三郎により設計され、1926年に竣工した。 続いて、明洞付近の近代建築物について紹介する。 地図2 廣通橋 近代建築とは少々異なるが、この廣通橋に使われている石材は、元貞陵 朝鮮王朝初代国王の第2夫人の墓 に使われていた十二神将の石像が使われているのである。 橋の下を見ること。 廣通館 廣通館 帝業銀行鐘路支店 は、佐藤熊太郎の設計により、1909年に竣工した。 現在は、ウリ銀行鐘路支店として使われている。 明洞芸術劇場 明洞芸術劇場は、1936年に明治座劇場として竣工した。 設計は玉田建築事務所。 明洞教会 カトリック明洞大聖堂) 明洞教会は、韓国最初の教区聖堂で、1898年5月に竣工した。 日本語パンフレットあり。 韓国銀行・貨幣金融博物館 貨幣金融博物館の建物は、辰野金吾が設計し、1912年に竣工した。 元朝鮮銀行本店の建物である。 新世界百貨店 新世界百貨店は、1930年に三越百貨店京城支店として竣工した。 旧・朝鮮貯蓄銀行 第一銀行第一支店 旧朝鮮貯蓄銀行は、1935年に竣工した。 地図からはずれた場所にある建築物を以下に掲げておく。 東亜日報社屋 東亜日報社屋は、1926年、韓国人建築家の朴東鎮により設計され、竣工した。 現在は、一民美術館として使われている。 場所は、光化門広場の交差点の東南側である。 ソウル駅舎 旧・ソウル駅舎は、現在のソウル駅舎の東側の北側にある。 塚本靖の設計で、1925年に竣工した。 ソウル医科大学博物館 ソウル医科大学博物館は、1908年に大韓医院として竣工した。 1926年に京城帝国大学病院となり、現在はソウル医科大学の博物館となっている。 場所は昌慶宮の東側にあるソウル医科大学内にある。

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モダン建築探訪: 日本近代建築史 ー主要建築家とその代表作ー

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近代建築-旧岩崎邸・・国会議事堂- 2017年5月27日(土)、東京都内に立地している近代建築の旧岩崎邸、、国会議事堂を観て廻った。 都内での移動と入館手続きを考えて自宅の最寄り駅発の日帰りのバスツアーを利用した。 旧岩崎邸 は上野・に近い「」として公開されている。 旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家の中屋敷で、明治時代初期に牧野弼成(旧主)邸となり、(明治11年)に初代のが牧野弼成から邸地を購入し、現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)は、岩崎財閥3代の岩崎久弥によっての設計で建てられ、1896年(明治29年)に竣工したとされる。 往時は約1万5,000坪の敷地が現在は3分の1に、20棟あった建物も現存するのは わずか洋館・室・和館の3棟のみになっているとのこと。 戦後、に接収され、その後、日本政府に返還され、現在は東京都が管理している。 何とったいない。 現在、洋館の一部を修理中でその全貌を観ることができないが、内部は拝観でき、その財力を忍ばす造りと装飾を垣間見ることができる。 庭にある銀杏の大木は樹齢400年と表記されていた。 蛇足ながら、三菱Gのスリーダイヤモンドのマークが出身の土佐山内藩の門から来ていることを示す銘板があり、納得した。 因みに、土佐山内公の現当主は第19代で、今年8月4日に開催するふるさとテレビシンポジウムの殿様サミットのパネルディスカッションに出演頂く予定である。 は、2016年度から、外国からの賓客の接遇に支障のない範囲で通年一般公開されている。 この日は,特段そうしたことも問題なく拝観することができた。 西門の入場口で空港なみのチェックがあり、ができている。 ペットボトルは異物混入がないことを確認するするために一口飲まされていた。 は、元の屋敷跡にとして、や上記の旧岩崎邸、などを設計した建築家の弟子にあたる宮廷建築家片熊の設計により、1909年(明治42年)に建てられた。 そして、所管、利用方法等が変遷したが、108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は、和風別館はの設計協力により、政権当時の1974年(昭和49年)3月に現在の迎賓館が完成した。 2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、大規模な改修工事が行われ、2009年(平成21年)12月8日、旧()として明治以降のとしては初の国宝となっている。 まず、本館に入り、外交に使われた部屋を観て歩く。 その途中の通路はほとんど真っ白の無地の塗りで、海外の同様の施設の絢爛豪華な、あるいは文化的価値の高い絵画・壁画に彩られた空間と比べると、その歴史的な深みの差は遺憾ともし難い。 本館を出て、主庭に廻り西洋風の庭園を見る。 あまり感動はない。 そして、前庭に廻り、写真でよく見る外観を見る。 そして、正門からの儀典用の長いアプローチを見る。 全体に、よく頑張って造ってはいるが日本らしい良さは感じられず、日本の迎賓館としてはやはりが感じられる和風の建物・邸園が良いのではなかろうか。 京都だけではなく、東京圏にも和風の迎賓館が欲しいものである。 そのベースとなるものは少なからずあり、リノベーションすれば良い。 国会議事堂 を観る。 確かにこれもから昭和11年にかけて17年を要して建てられた近代建築である。 これは、現在もその役目を果たしている。 庭には、全国府県の木も植えられている。 国会議事堂は鉄骨鉄筋コン造で、外装は3種類のを使った石積みで、内装には33種類の大理石、2種類の蛇紋岩をはじめ、産珊瑚(貝を含む巨石、トラバーチン)等が使用され、建築材料や設備の素材のうち、郵便ポスト、ドアノブの鍵(マスターキー)、ステンドグラスを除き、すべて純国産品を使用しているとのこと。 暑い中、観覧者が全員揃うまで待たされて、案内人に連れられ、説明を聞きつつ、館内を観て回る。 傍聴席が観覧者で満員状態になっている。 建物は、確かに、乱闘にも耐えられそうな頑丈なしつらえと見て取れた。 普段、通りがけに見る光景とはまた違った建物としての国会議事堂を観ることができた。 歴史的建築 都内の近代建築を見てほぼ2週間後(2017年6月9日)、今度は江戸時代の歴史的建造物であるを観に行った。 以前にも観に行ったことがあるが、主だったところが修復中であまり詳細を見えなかったが、今回は本年3月10日に国宝「陽明門」が修復なったとのことでいろいろと見てまわった。 は、1617年(元和3年)徳川初代将軍公を御祭神とする神社で、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、1636年(寛永13年)に造営されたので、今から約380年前ということになる。 これらの社殿群は平成11年12月「」に登録されている。 高速道路から降りて、を抜け、午前11時過ぎに到着し、車を駐車場に止め、に向かう。 表で拝観料一人1,300円を払い、入ったところで音声案内ガイドの家族セット(3人分1,000円)を借りる。 これは多言語対応で、紙の印刷物の施設名にタッチすると説明が聞こえてくると云うものであるが、説明が簡単過ぎて、時々、他の団体の案内人の説明を聴いて補足する。 500円は高いが、家族割りで333円なら妥当と云うところか。 三神庫を眺め、神厩舎では有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を観て、修復なった陽明門をくぐり、にちなんで奉納されたを眺め、左甚五郎作と伝えられる「眠り猫」が掘られた坂下門をくぐり、奥宮に通じる200段の階段を上る。 この石段は一段毎に一枚岩を用いているとのこと。 よくぞこのような石を集めここまで運んで設置したものだ。 そういえば、このの石塀や基礎を観ていると城壁のような整層積みである。 坂下門の横の擁壁はややはらんでおり、崩壊の危険を感じるがそれ以外はしっかりしている。 いずれにしても、この階段は結構きついが、途中に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」との高札があり、しっかり上れと励まされているようだ。 途中で眼下に見える修復中の本社風景もなかなか良い。 周りに広がる杉の木立の風景も何ともいえない。 奥宮から降りてきて、本社に上がり、拝殿、石の間、本殿を、そして唐門を観る。 拝殿横にある将軍控えの間は、現在は徳川宗家御当主が来られたときに控えるとのこと。 ちなみに現在の徳川宗家御当主は第18代目である。 今年の8月4日開催されるで基調講演を頂くことになっている。 ここでもまた、不思議な縁を感じる。 鳴き竜で有名な本地堂(こちらはお寺)を拝観するが、こちらはかなり俗世界を感じる。 確かに、天井に描かれた竜の下で音を鳴らすと反響するが、商売気が過ぎる。 表門を出てから、改めて、、銅鳥居を観てから、に行く。 このエリアは絢爛豪華な装飾に彩られたエリアと、家康公のであるの黒を基調とした静かなエリアの空間対比がすばらしい。 そして、何よりも推定樹齢600年とされる杉の木を始め、杉の木立の醸し出すパワーに圧倒される。 昭和大修理、そして平成大修理と、歴史に残る建物は常なる修復をするだけの価値がある。 こうして、江戸時代から明治大正・昭和期にまたがる建物探訪をしてみると、改めて、建物及びその敷地空間には精神性が重要であることを思い知らさされる。 コストパフォーマンスやデザイン優先主義から、社会施設は後世においてもレガシーとしてリスペクトされる空間としてのあり方が問られるべきではなかろうか。 いろいろ、思い知らされる歴史 探訪であった。 newseitenx.

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