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北海道出身で1963年生まれの有名人

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八角理事長、(元横綱・北勝海)さんは 小学生時代から既に元横綱北の富士関から九重部屋への勧誘を受けていたほどの 逸材で有った様ですね。 本名は 保志信芳(ほし のぶよし)さんは柔道で名を上げて他の相撲部屋にも勧誘されていたそうです。 母親が電話で井筒に「 最初に来てくれたあの部屋に行きたい」という保志の意向を伝え、1978年九重(井筒から名跡変更)から勧誘され 東京に転校、この頃から九重の指導で稽古をしていたという。 今回、 暴力問題再発防止検討委員会からの提言を受けていた日本相撲協会の八角理事長は「いかなる目的でも許さない」と、 7項目の「暴力決別宣言」を発表したことで話題となっています。 1年前の酒席で起きた 元横綱・日馬富士関の幕内・貴ノ岩への暴行も意識した。 外国出身力士への指導強化に向け、年内にも有識者会議を発足させ大相撲の立て直しに必死の八角理事長です。 大相撲界から退会した元横綱であり 貴乃花親方の動向も注目されている大相撲界の改革が上手くいくと良いのですが。 今回は現在の大相撲かいでは中心的な立場にある 八角理事長の学歴や性格、年収はいくら?現役時代の愛称はブルドックとい可愛い所もお伝えして見たいと思います。 スポンサーリンク 目次• 八角理事長のプロフィール• 力士名:北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし)• ラテン文字:Hokutoumi Nobuyoshi• 本 名:保志 信芳(ほし のぶよし)• 生年月日:1963年6月22日(55歳)• 出 身:北海道広尾郡広尾町• 身 長:181cm• 体 重:150kg• 血液型:A型• 得意技:押し、左四つ、寄り• 最高位 第61代横綱 生涯戦歴 591勝286敗109休(80場所)• 初土俵 1979年3月場所• 北海道広尾郡広尾町生まれ。 現役時代の体格は身長181cm、体重150kg。 得意技は押し、左四つ、寄り。 愛称は本名の「ほし」に由来する「ポチ」、海外公演で付けられた 「ブルドッグ」。 「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一人です。 2015年11月20日に 北の湖敏満(日本相撲協会理事長)が死去したことにより、 理事長代行に就任しました。 代行業務としてはこれより以前の同年7月場所千秋楽以降、北の湖の体調不良のため協会御挨拶と表彰式を代理で務めていた。 北の湖死去直後の11月場所千秋楽の協会御挨拶では訃報に触れず、 土俵優先を貫く故人の遺志に従って「平成27年11月22日、公益財団法人日本相撲協会理事長、 北の湖敏満代読、八角信芳」と読み上げました。 現在は、年寄・八角 信芳(はっかく のぶよし)として八角部屋(高砂一門)の師匠。 第13代日本相撲協会理事長を勤めています。 八角理事長の学歴や性格を調査! 日本相撲協会が「暴力決別宣言」発表 八角理事長「粘り強く研修会を」 — ごっつええ話題 got2amatome 北海道広尾郡広尾町出身の八角理事長は、 広尾小学校の卒業文集に「将来は相撲取りになって、芝生のある家を建てる」という夢を書いた。 14歳で親元を離れ、九重部屋に入門。 早朝から稽古場で四股を踏み、それが終わると 中学校へ通う日々を送る。 1979年春場所初土俵。 19歳の83年春場所で 新十両昇進。 同年秋場所で新入幕を決める。 新入幕から所要 わずか2場所で小結に昇進。 三役に定着するとともに、三賞の常連となる。 立ち合いでぶちかまし、突き押しに徹するだけではなく差し手からの寄りなど、 馬力にスピードや技能も兼ね備えた取り口。 なにより、闘志を全面に出し、 最後まであきらめない気迫あふれる相撲でファンを魅了した。 西関脇だった86年春場所で史上初めて5大関を破り、13勝2敗で初優勝を飾る。 同年名古屋場所後に大関昇進。 しこ名を保志から北勝海に改名した。 87年春場所で2回目の優勝を飾り、翌場所は優勝を逃すも 13勝2敗の好成績を収め、23歳で横綱昇進を決めた。 横綱昇進時の口上は 「横綱の名を汚さぬよう、これからも一生懸命稽古をし努力します」。 これは親方の歩んできた相撲人生そのもの。 誰よりも稽古をし、それを自信に変えて土俵に上がった。 無類の稽古熱心と、兄弟子である 横綱千代の富士の胸を借りた猛稽古は語り草になっている。 と言うことで八角理事長は 学歴は中学校卒業ですね。 東京都内の中学校とあるので どこの中学校なのかは分かりませんでした。 又、 八角理事長の性格は、誰よりも稽古をし、それを自信に変えて土俵に上がった、 無類の稽古熱心であると、兄弟子である横綱千代の富士の胸を借りた猛稽古は語り草になっている。 と言うくらいですから、 真面目で純朴な人柄を感じますね。 愛称がブルドック!と言われるのもなんとなくほのぼのしたものを感じさせてくれますね。 88年夏場所千秋楽を腰痛で休場後、名古屋場所から3場所連続で全休に追い込まれた。 腰部椎間板損傷と左股関節挫傷で入院し、2ヶ月の間まともに歩くこともできない状態が続いた。 「なんとしてももう1度土俵に上がりたい」という執念で、1日8時間以上に及ぶ壮絶なリハビリを敢行。 マイナス190度の冷凍室に入る冷凍治療を取り入れ、腹筋や背筋、階段の上り下りで 徹底的に腰を鍛え上げた。 再起をかけた昭和天皇崩御の平成元年初場所は初日から14連勝と勝ち進み、千秋楽に旭富士に敗れたが 優勝決定戦で下し、見事な復活優勝を飾った。 親方は現役時代の思い出の1番としてこの場所の旭富士戦をあげている。 努力と辛抱で合計8回の幕内最高優勝を飾った。 92年5月に現役を引退。 28歳と若い引退を惜しまれたが「心も体も自分の全力を出し切った。 稽古もリハビリもやり残したことは何もない」と 完全燃焼したと語っています。 スポンサーリンク 八角理事長の現役時代 1965年の今日 11月29日 尾崎豊が生まれた。 これは有名な1枚の写真。 当時横綱の北勝海(現・八角理事長)尾崎が亡くなる前々日の1992年4月23日 六本木のスナックで知り合っていた。 — 竹下ひろし subarup12 元横綱・北勝海こと八角親方は、 現役時代は千代の富士の弟弟子として同時代の横綱として活躍。 引退後も八角親方として 日本相撲協会での仕事と後進の指導をこなしてきました。 これまでの八角親方といえば、 相撲愛好家なら誰でも知ってい存在ではありましたが、世間一般的にはやや影が薄い感が否めない存在でもありました。 ところが、2015年11月に日本相撲協会の 北の湖理事長が急逝すると、その代わりとして、日本相撲協会の新理事長に就任し、 一気に世間の注目を浴びる存在になりました。 日本相撲協会の新理事長として突如、注目を浴びることとなった 北勝海こと八角親方の現役時代は、まずは小学生時代ですが、なんとこの頃から、現役時代の 元横綱・北の富士から九重部屋への勧誘を受けていたというのだから驚きですね。 北の富士の九重親方の九重部屋へ、 中学卒業後、正式に入門します。 (実際には、卒業前から部屋に出入りし指導を受けていました)同期の力士は幕内で活躍した力士が多く、「花のサンパチ組」と呼ばれました。 同期で出世した力士では横綱・双羽黒がいます。 もっとも、総合的な実績では 「花のサンパチ組」のなかでは八角親方がトップと言えます。 1983年、19歳で十両昇進、同年9月に20歳で新入幕、1985年から3役へ定着し、その後も好成績を取り続けるようになるなど順調に成長していきます。 そして1986年3月には幕内初優勝、同年9月に大関に昇進します。 なお、初土俵から本名の「保志」相撲をとり続けていましたが、大関昇進時に 四股名を「北勝海」に改めています。 勝を 「と」と読ませるのは無理があると当時言われましたが、この 読み方はやがて定着し、今では違和感なく受け入れられています。 その後、1987年横綱に昇進。 ついに角界の頂点の地位に上り詰めます。 1992年5月に引退するまで、幕内優勝8回を数えました。 得意技は押し、左四つ、寄りなどオーソドックスな型で基本に忠実なことがわかります。 頭からの当たりの強さ (ぶちかまし)がトレードマークでしたね。 ちなみに現役時代のライバルはひとつ年上の横綱・大乃国とされていました。 八角理事長の愛称はブルドック 八角理事長は、横綱・千代の富士と九重部屋黄金期を築いた、 横綱・北勝海ですね!。 ロンドン海外公演では 「ブルドッグ」と呼ばれた!そうですね、人相や体の格好からも 愛嬌のある丸い目が可愛く見えますね。 各人の好みですから、 そう思わない人もいるかもしれないですが、ここだけは筆者の独断で 可愛いブルドック!の八角理事長です。 日馬富士事件に揺れる相撲界にあって、相撲協会のトップとして事態収拾に奔走する八角信芳理事長。 第61代横綱・北勝海(ほくとうみ)として活躍していました。 「昭和の大横綱」として無敵を誇った千代の富士とともに、九重部屋の全盛期を築き上げたのが北勝海でした。 現役引退後は、八角部屋の親方として北勝力ら関取を輩出するなど、 後進の育成にも手腕を発揮しています。 八角信芳理事長は、その風貌から、 ロンドン海外公演では、現地メディアから 「ブルドッグ」のニックネームで呼ばれました。 「花のサンパチ組」と呼ばれるように。 活躍したことは上記を参照してください。 スポンサーリンク 八角理事長の給料を調査! 八角理事長の役員報酬はどれくらいなのでしょう?調べて見ましたら、 規定が見つかりましたので、こちらをご覧ください。 公益財団法人 日本相撲協会 役員及び評議員の報酬並びに費用に関する規程ですね。 これによると理事は、 定例報酬として月額149万8000円だそうです。 これに勤続手当や本部勤務手当、年度末手当などの手当が追加されます。 抜粋 <定例報酬> 定例報酬として、次の通り定める。 なお、年寄を兼務する理事にあっては、 年寄としての報酬を含むものとする。 区分 月額 理事 1,498,000 円• <勤続手当> 年寄を兼務する理事にあっては、年寄の 勤続年数に応じて、次の通り勤続手当を支給 する。 ただし、準年寄として在籍した 期間は含まない。 勤続年数 月額 満 31 年以上 20,000 円 満 21 年以上 14,000 円 満 11 年以上 8,000 円• <本部勤務手当> 本部勤務の理事には、次の通り本部勤務手当 を支給することができる。 区分 月額 理事長 50,000 円 理事 40,000 円• <年度末手当> 常勤理事には、次の通り役員年度末手当 を支給することができる。 区分 金額 理事長 1,100,000 円 理事 800,000 円• <先発手当> 各地方本場所を担当した理事には、次の通り 先発手当を支給することができる。 区分 金額(1場所) 大阪 名古屋 福岡 理事 1,550,000 円 1,550,000 円 1,700,000 円• 常勤役員退職慰労金表 年寄を兼務する理事にあっては、年寄としての 退職慰労金を含むものとする。 話題になったところで、八角理事長の現役時代の学歴や性格、年収やブルドッグのニックネームも付けられた元横綱、北勝海さん。 小学校の時から大相撲に誘われていて、中学に通いながら九重部屋で稽古をしていました。 1986年3月には幕内初優勝、同年9月に大関に昇進します。 なお、初土俵から本名の「保志」相撲をとり続けていましたが、大関昇進時に 四股名を「北勝海」に改めています。 理事長の年収はどれくらい?と調べて見ました。 これによると理事は、 定例報酬として月額149万8000円だそうです。 これに勤続手当や本部勤務手当、年度末手当などの手当が追加されます。 最後まで読んで頂いて 有り難う御座います。 もし宜しければコメントなど頂ければ幸いです。

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79 所属部屋 得意技 押し、左四つ、寄り 成績 現在の番付 引退 最高位 第61代 生涯戦歴 591勝286敗109休(80場所) 幕内戦歴 465勝206敗109休(53場所) 優勝 幕内最高優勝8回 十両優勝1回 幕下優勝1回 序二段優勝1回 賞 3回 3回 5回 データ 初土俵 3月場所 入幕 9月場所 引退 3月場所(番付上では1992年5月場所) 引退後 8代 師匠 他の活動 第13代日本相撲協会理事長 2015年12月 - 日本相撲協会理事(5期) 2012年2月 - 日本相撲協会監事(2期) 2000年2月 - 2004年1月 備考 金星1個(1個) 現在 現役時代 入門前 小学生時代には既にから九重部屋への勧誘を受けていた。 1977年におじの勤務先の社長が元横綱北の富士(当時は年寄・)と知り合いだったことが縁で勧誘されるが、井筒は以前勧誘したことがあるのを覚えていなかった。 ちょうど保志は柔道で名を上げて他の相撲部屋にも勧誘されていたが母が電話で井筒に「最初に来てくれたあの部屋に行きたい」という保志の意向を伝え 、翌年1978年(井筒から変更)から勧誘され東京に転校、この頃から九重の指導で稽古をしていたという。 大相撲入門〜大関時代 中学卒業の(昭和54年)3月場所に。 後に北勝海と同じく「花のサンパチ組」が次々幕内上位で活躍する事となる。 尚同期生には横綱・がいる他、のちにプロレスラーとなった(孝乃富士)も同部屋で同期であった。 さらにと言われる九重部屋の兄弟子・との激しい稽古を重ねて強くなり、順調に出世していった。 (昭和58年)3月場所、19歳で新。 北勝海と同じ北海道・()出身であり、中学時代には地方に名の知れた柔道選手でもあった、一学年齢上のがこの場所新入幕で、同郷のといわれ始める。 同年9月場所に20歳で新入幕、いずれも同期生のなかでは一番早かった。 (昭和60年)からでの好成績が目立ち始め、当時「将来の候補」とも呼ばれている。 (昭和61年)3月場所、兄弟子の横綱・千代の富士が3日目から途中休場するが、それに奮起した保志が13勝2敗で自身念願の幕内初優勝を果たした 当時の5大関総撃破。 その次の5月場所は11勝4敗で、関脇の地位で3場所合計32勝を挙げたが、当時大関は5人も居たことや終盤優勝争いから完全脱落した理由などで不運にも見送られる。 しかし翌7月場所も12勝3敗の好成績により、関脇で3場所計36勝で異論無しに当場所後ようやく大関昇進となった(尚この7月場所は北尾(のち双羽黒)の横綱昇進も懸かっており、その北尾が横綱昇進を決め大関が1人減ることも有り「6大関」は成らず)。 ちなみに、この1986年の九重部屋の新年会では「維持では格好悪い」という事で言い出して大関を目標としていたが、それが達成された形となった。 初土俵から本名の 「保志」で相撲をとり続けていたため 、大関昇進が決まると、師匠は四股名を考えたが、出身地の「十勝(とかち)地方」にちなんで、「北十海」「十勝海」「十勝富士」などが候補だった。 しかし十勝の「十」の字は、『勝ち星が10勝止まりになりそうで止めた方が良い』と九重が発言、「十勝」から読みは十(と)ではあるが字は「勝」として、 「北勝海」と決めた。 当時『「勝」の字を「と」と読ませるのは無理がある』という声も聞かれたが、その後の本人の横綱昇進や、八角部屋創設後、所属力士の四股名に多用されたこともあり、現在では違和感なく受け入れられている。 大関昇進後、大関4場所目の(昭和62年)3月場所には、上位陣総崩れの中12勝3敗の成績ながらも6場所ぶり2回目の幕内優勝となる。 自身初の綱獲りだった翌5月場所は、12日目迄大関(当時)大乃国と共に12戦全勝だったが、13日目初対戦の・に苦杯を喫し1敗に後退。 千秋楽で14戦全勝の大乃国と対戦するも、結局されて13勝2敗と優勝次点の成績に終わる。 15戦全勝優勝の大乃国とは2勝の差があり、千秋楽の後にからへ諮問するとの公表も「横綱昇進は微妙」と報道された。 しかし、それまでの北勝海の稽古熱心な所と品格の良さが横審委員会から高評価を得たことなどにより、満場一致で同場所後に大関5場所目での横綱昇進が決定した(同時に関脇も大関に昇進となる)。 横綱では「 横綱の名をけがさぬよう、これからも一生懸命稽古し、努力します」と口上を述べた。 横綱時代 は兄弟子・千代の富士の指導の下、雲龍型を選択。 新横綱の1987年7月場所は11勝4敗と優勝を逃したが、翌9月場所は14勝1敗で横綱初優勝、通算3回目の優勝を果たした。 翌11月場所では13勝2敗の優勝次点の成績ながらも、自身初のに輝いた。 しかし(昭和63年)3月場所のでは、横綱大乃国に本割とで連敗、逆転で優勝を奪われた。 同年5月場所も終盤まで優勝を争ったものの、14日目に大関(当時)との取組前、支度部屋での準備運動で持病のを悪化させてしまい、翌日の千秋楽は自身初めての不戦敗・休場となる。 次の7月場所からは腰痛が回復せず3場所連続全休となった。 再起をかけた翌(平成元年)1月場所は、直前に発熱も重なり出場が危ぶまれたが、崩御で初日が1日遅れたこともあって回復が初日に間に合い出場。 初日から自身初の14連勝を達成、千秋楽に1敗の旭富士に敗れ自身初の全勝優勝は逸したが、14勝1敗同士の優勝決定戦でその旭富士に勝利、見事に8場所ぶり4回目の幕内優勝を果たして完全復活に嬉し涙を浮かべた。 これが平成初の幕内最高優勝となった。 また、同年5月場所でも13勝2敗同士の優勝決定戦に進出、再び旭富士を倒して5回目の幕内優勝を達成。 さらに同7月場所では、12勝3敗の成績で千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦で対戦。 惜しくも敗れはしたものの、その後の相撲でも横綱として充分な強さを発揮して優勝回数も多く重ねていった。 また1989年11月場所は2場所連続で11勝4敗に留まったが、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞する。 (平成2年)3月場所の千秋楽は、横綱北勝海、大関小錦、関脇(場所後大関昇進)の3人の優勝決定となった。 巴戦の場合は、1力士が2連勝すると優勝が決まるが、2連勝しない場合は延々対戦が続く。 最初の北勝海対小錦戦は小錦が勝利。 小錦が次の霧島戦に勝てば小錦が優勝だったが、霧島が勝って小錦の優勝ならず。 今度は霧島が次の北勝海戦に勝てば霧島の幕内初優勝だったが、北勝海が勝ってまだ対戦は続く。 そして次の小錦戦は北勝海がで下して2連勝、ようやく北勝海が5場所振り6回目の幕内優勝が決まった。 何と三つ巴の対戦が四番も続くという大熱戦だった。 しかし、北勝海の持病である腰痛の影響は大きく、次の5月場所以降は10勝前後で終わる事が多く、雲行きが怪しくなった。 水中ウォーキングやマイナス190度の冷凍室に入る等さまざまな治療やリハビリを試しつつ、横綱としての懸命の土俵が続いていた。 それでも、1990年9月場所は千秋楽にて13勝1敗の決戦で、当時新横綱だった旭富士を下し、7回目の幕内優勝を成し遂げている。 なお北勝海曰く、リハビリには1日8時間を要したといい、現役引退後の2017年9月25日に行われた横綱審議委員会の定例会合では宮田亮平委員が、「リハビリの方が稽古よりキツイ面もある」と力士たちに厳しいリハビリを積んで万全の状態で出場してほしいという考えから、その事実を知っていた上で北勝海に敢えて「横綱時代に3場所連続で休んだときにどれくらいリハビリをされましたか? 」と質問している。 特に冷凍室治療には150万円も診療代を使用しており、それだけでなく辛さも物凄かったため、その4年後には「もう一度、あの厳しいリハビリに耐えられる自信がない」と冷凍室治療を諦めて引退を決意したほどである。 (平成3年)3月場所は、14日目に大乃国と優勝争いトップの12勝1敗同士の対決で、北勝海がてひとり1敗を保持したものの、この一番で左膝をのに強かに打って負傷してしまう。 翌日千秋楽も北勝海の左膝は激痛で、まともに相撲が取れない状態だったが、隠し通しつつ横綱土俵入り及びを難なく務めあげた。 この場所は横綱同士の北勝海対旭富士戦で、その結び前の一番は横綱大乃国対大関霧島戦だった。 この場所の霧島は14日目で4勝10敗と負け越し、誰もがこの対戦は前日まで12勝2敗の大乃国が有利と見られ、千秋楽本割で大乃国が勝ち北勝海が負けると両者13勝2敗同士の優勝決定戦となっていた。 ところが大乃国は過去幕内での霧島戦が6勝7敗の苦手とし、さらに久々の優勝のもあったのか、不調の霧島に大相撲の末まさかの敗戦で12勝3敗となり、この時点で13勝1敗だった北勝海の3場所ぶり通算8回目の幕内優勝が決まったのである。 その後北勝海は結びの一番で、痛めた左膝を庇いながら旭富士に呆気なくされて完敗。 の観客や関係者達も大きくどよめいた一番だったが、これが北勝海の最後の優勝となった(北勝海が膝をケガしている事を対戦相手の旭富士は分かっていたが、大乃国と霧島は全く知らなかったという)。 現役引退 北勝海はこの膝のケガをきっかけに、休場が多くなっていった。 当時はがに名を連ねていたが、5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、次の7月場所では大乃国、翌(平成4年)1月場所では旭富士も相次いで土俵を去り、同年3月にはついに北勝海のみのとなった。 3月場所に再起を賭けて出場したものの、北勝海らしい相撲は全く見られず、初日から、に2連敗してそのまま途中休場した。 北勝海は横綱の責任感からぎりぎりまで復活を目指したが、度重なるケガは殆ど回復しないために同年5月場所直前の、番付に名を残しながら28歳10か月の若さで現役引退を表明した(横綱で廃業・死亡者を除けば・大乃国に次ぐ史上3位の早齢だった)。 これにより、わずか1年の間に4人の横綱が全ていなくなってしまったのである。 なお、北勝海の横綱在位数は29場所(番付上は30場所)だった。 また北勝海の引退により昭和時代に横綱に昇進した力士は全員引退となった。 さらにが新横綱だった1961年11月場所から30年以上続いた北海道出身力士の横綱が途絶えることとなった。 その後、1992年5月場所から5場所(番付上では1992年7月から4場所)の間((昭和6年)5月〜(昭和7年)10月以来60年ぶり2例目)が続いたが、翌(平成5年)1月場所後にがようやく横綱昇進を果たした。 その直後北勝海のが行われ、最後の横綱土俵入りには、新横綱の曙がを務めた(は当時大関の小錦)。 また、引退相撲では当時異例とも言える、北勝海最後の取組が行われ、その対戦相手は同じ「花のサンパチ組」のだった。 北勝海が最後の場所となった1992年3月場所、3日目の対戦が寺尾と決まっていたが、北勝海は不戦敗となり5月場所前に引退したため、彼自身寺尾と対戦出来なかったことが心残りだったという。 そして彼は、引退相撲で寺尾と最後の対戦をしたいと申し出ると、寺尾は快く承諾。 そしてその取組では、寺尾が北勝海を勝利したが、勝負が決まった瞬間寺尾は北勝海に「お疲れ様」と労いの言葉を贈った。 素質はそれほどなかったが、非常に稽古熱心であり特に千代の富士との稽古は凄まじいものだった。 その稽古熱心さから雑用を免除されており、チャンコ番をさせた兄弟子が千代の富士に叱られたという逸話も聞かれる。 本人も千代の富士がいなければ綱などとても取れなかったという。 横綱経験者としては自身が最多受賞である三賞11回の記録や甘めの横綱昇進などを引き合いに出して「それだけ特別に評価されてきたという証拠」という趣旨の主張を自伝に記述している。 さらに師匠の九重は「千代の富士が大横綱になったことよりも、北勝海が横綱に昇進した事が一番の驚きだった」とも語っている。 特に北勝海は昇進後、千代の富士が休場した場所や3月場所には滅法強く、その時期での幕内優勝が多かった。 髪の量は多い方だったが、頭から当たって突き押しで相撲を取るため、引退直前には額の生え際の毛は擦り切れかけていた。 エメラルドグリーンのを主に使用していたが、横綱昇進後は赤紫色の締め込みも見られた。 また北勝海は、もともとは十両に昇進することを最大の目標としていた、とも語っている。 富士昇(の実弟)事件を特集した相撲雑誌などに、将来の目標を「横綱」とした富士昇と対比する形で発言が引用掲載されている。 当時、大関に外見も取り口も似ているといわれ、師匠の九重も栃光の本を渡し読むように助言したという。 現役時代より現在に至るまで後援会長はが務めている。 はが務めた。 も浅田が経営していたから贈られたことがある。 なお、1991年7月場所千秋楽の旭富士対北勝海戦を最後に、日本出身横綱同士のでの対戦は行われていない((平成31年)時点)。 親方として 8代八角を襲名 引退と同時に横綱5年特権の一代年寄・北勝海を襲名。 これは、同じ九重部屋所属の元・の7代八角から定年後の年寄名跡譲渡の確約があったためであり、先代八角が定年退職した1993年9月場所後に8代八角を襲名した。 同年10月に八角部屋を立ち上げ、ら関取9人を出している。 また弟子の数が多く、ことに関取予備軍である力士が多く所属しており、スカウト活動と育成の手腕に優れている。 (平成12年)から2期4年(現在の副理事)を務めた。 広報部長としては2016年のインタビューで北の富士から「八角が広報部長の時ぐらいからでしょう。 ファン拡大に本腰を入れ始めたのは。 彼にそんな才覚があるとは思わなかったな」とその手腕を評価されるなどしている。 に役員待遇に就任したが、ので年寄(元・海鵬)との関与が発覚し、谷川は解雇、保志光も引退し、これに伴う責任として役員待遇を辞任した。 の役員改選でに当選し、広報部長、指導普及部長、危機管理部長、博物館運営委員に就任。 同年5月場所にて優勝争いの先頭を並走したの千秋楽の対戦相手に決まっていたが当日になって休場届を出し不戦勝を与えることがわかった際には「優勝に関わる相撲で大関が休場してこんな形になっては観客に申し訳ない、昨晩のうちにわかっていれば割り返しで対応できたのに、今日になってからでは遅過ぎる。 こんなことでは本人も師匠も自覚が足りないと言われても仕方がない。 協会の危機管理能力も問われかねない事態だ」と苦言を呈していた。 実際栃煌山不戦勝の場内放送から勝ち名乗りまでの間内はブーイングの嵐だった。 のでは、まで通常横綱経験者は行わない午後1時から2時30分までの幕下以下の取組の解説を1場所に1度担当した。 また、では「八角親方の金言苦言」というコーナーを持ち、実演を交えた解説を行っている。 近年の力士のぶつかり稽古の不足に警鐘を鳴らしており、「(胸を出してもらえるのだから)ありがたくぶつかれ」、「(きつい稽古も)毎日やってると普通になってくる。 普通になるまでやらなくちゃいけない」などと発言している。 、の横綱昇進の伝達式では、協会理事として使者を務めた(日馬富士と同じ一門の審判委員が同行)。 また、のの横綱昇進伝達式でも、同様に協会理事として使者を務めた(鶴竜と同じ一門の審判委員が同行)。 2014年の役員改選と同時に行われた新たな職務分掌では、理事の序列2位である事業部長の役職を与えられた。 日本相撲協会の理事長に就任 に(日本相撲協会理事長)が死去したことにより、理事長代行に就任した。 代行業務としてはこれより以前の同年7月場所千秋楽以降、北の湖の体調不良のため協会御挨拶と表彰式を代理で務めていた。 北の湖死去直後の11月場所千秋楽の協会御挨拶では訃報に触れず、土俵優先を貫く故人の遺志に従って「平成27年11月22日、公益財団法人日本相撲協会理事長、北の湖敏満代読、八角信芳」と読み上げた。 2015年12月18日、日本相撲協会理事会にて第13代理事長に選出された。 好角家で知られる漫画家のやくみつるはその十数年前、冗談半分で「親方が理事長になったらついていきます」とヨイショしたが、現役時代に横綱として突出した存在でもなかった八角に、当時は理事長の目があるとは考えられなかったと後に振り返っている。 やくみつるは2016年の雑誌の記事で「今となっては、もっと真剣に言っておくべきだったと悔やんでおります(笑)」と語っている。 2016年7月31日、同じ九重部屋の兄弟子だった千代の富士こと九重親方が、により61歳で逝去。 訃報の直後はショックが大きくコメント出来ず、翌8月1日記者陣に対して「(体調が)悪いと聞いていたが、現役時から絶対に強い、負けない、必ず治るだろうと思っていた。 まだ信じられない」と驚きを隠せず「兄弟子でしたが、もう1人の親方という感じだった。 『本当にお疲れさまでした』と言いたい」と目を潤ませていた。 2017年11月場所千秋楽、この場所中に発覚してから角界を揺るがしていた日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件に関して「横綱・日馬富士の問題により皆様には多大なるご心配、ご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます」と千秋楽恒例の協会あいさつで述べた。 2018年2月2日に行われた理事選挙では11人が立候補した中で11票を獲得して当選し、理事長続投が決定。 なお理事選挙を終えてから、元宮崎県知事で政治評論家のは2010年に文部科学大臣の指導によって無記名式に変更されていた投票方法を記名方式に突然改悪したことを批判している。 最後の本場所となった2019年3月場所、初日恒例の協会挨拶で館内のファンに向けて「平成最後」の文言を入れた。 最初の本場所となった、2019年5月場所では初日恒例の協会挨拶で館内のファンに向けて「横綱白鵬の休場は誠に遺憾ではございます」としつつも「新しい時代にふさわしい白熱した相撲で、皆さまのご期待にお応えできることと存じます」と「新しい時代」を強調した。 同年12月13日に、13代 元幕内 が血管肉腫のため41歳で逝去。 高砂一門葬の葬儀委員長としての弔辞では「明るく、誠実な人柄から、弟子には慕われ、先輩親方からは大変かわいがられました。 私もそういった人柄にほれ、一回りも若いあなたにいろいろな相談をしてきました。 そのたびに、あなたの言葉に助けられてきました。 本当に素晴らしい人でした」「自分の体の一部を失うように感じています。 41歳という若さで旅立たなければならないということに、運命の残酷さを痛感しています」と生前の故人との思い出や親交について明かした。 2020年1月31日の協会理事会で16代 元 が東関部屋の継承者として承認されるまでの間は、高砂一門の長として東関部屋を八角部屋に一時預かりをして責任者となった。 2020年3月23日、理事会にて全会一致で理事長に再選され、記者会見で「伝統を守っていくことが一番の課題だが、まず当面の最重要課題は新型コロナウイルスへの対応。 全協会員が結束を固め、また外部の方々のご指導を真摯(しんし)に受け止め、公明正大な協会運営をしていく」と抱負を述べた。 主な成績 通算成績• 通算成績:591勝286敗109休 勝率. 674• 幕内成績:465勝206敗109休 勝率. 693• 大関成績:56勝19敗 勝率. 747• 横綱成績:250勝76敗109休 勝率. 767• 幕内在位:52場所(番付上では53場所)• 横綱在位:29場所(番付上では30場所)• 大関在位:5場所• 三役在位:13場所(関脇9場所、小結4場所)• 連勝記録:20(1990年9月場所2日目〜1990年11月場所6日目)• :1987年(74勝16敗)、1989年(72勝18敗)• 連続6場所勝利:75(1987年5月場所〜1988年3月場所)• 通算(幕内)連続勝ち越し記録:18場所(1985年7月場所〜1988年5月場所)• 幕内連続2桁勝利記録:11場所(1989年1月場所〜1990年9月場所) 各段優勝• 幕内最高優勝:8回(1986年3月場所、1987年3月場所、1987年9月場所、1989年1月場所、1989年3月場所、1990年3月場所、1990年9月場所、1991年3月場所) 優勝同点:2回• 十両優勝:1回(1983年7月場所)• 幕下優勝:1回(1983年1月場所)• 序二段優勝:1回(1979年7月場所) 三賞・金星• : 11回(横綱経験者としては歴代1位)• 殊勲賞:3回(1985年11月場所、1986年3月場所、1986年7月場所)• 敢闘賞:3回(1983年11月場所、1984年1月場所、1986年5月場所)• 技能賞:5回(1984年11月場所、1985年7月場所、1985年11月場所、1986年1月場所、1986年3月場所)• 他に(は1990年3月場所)で旭富士に2勝、霧島に1勝、小錦に1勝1敗、大乃国と千代の富士(唯一の同部屋横綱決戦)に各1敗がある。 (カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数) 合い口 特別に大の苦手とする力士はおらず、横綱・大関陣との対戦成績はほぼ互角としている力士が多い。 しかし、大勝ちしている力士もいないのが特徴で、下位力士も苦手とする力士はいなかった。 第55代横綱・北の湖に対しては既に北の湖の全盛期を過ぎていた事もあって、3勝2敗と1つの差で勝ち越している。 兄弟子・千代の富士の「天敵」と言われた第59代横綱・隆の里に対しては5勝5敗と全くの互角であり、1985年1月場所から1986年1月場所まで4連勝していた。 1986年1月場所初日に当時関脇・保志の四股名で隆の里と対戦、保志にで敗れた隆の里は、この取組を最後に現役引退となった。 北勝海と同じ「花のサンパチ組」だった第60代横綱・双羽黒に対しては、8勝9敗と1つの差で負け越している。 北勝海と同じ北海道十勝地方出身で1学年上の第62代横綱・大乃国に対しては、優勝決定戦を含めると14勝21敗と一番の苦手としており(1つ不戦敗有り)、特に1985年3月場所から1986年1月場所まで、6連敗を喫するなど圧倒的な差をつけられていた。 だが、北勝海が横綱昇進した1987年7月場所以降は決定戦を含め8勝6敗(1不戦敗)と力関係が逆転し、さらに1989年1月場所以降の成績は6勝2敗と大きく勝ち越している。 第63代横綱・旭富士に対しては、優勝決定戦を含めると23勝19敗と僅かの差で勝ち越している。 のち第64代横綱・曙に対しては4回対戦し、2勝2敗と全く互角の成績だった。 のち第65代横綱・貴乃花(当時貴花田)は2回のみ対戦し、初対戦は敗れるも2回目の取組では勝利し1勝1敗と互角の成績。 のち第66代横綱・若乃花(当時若花田)も2回のみ対戦し、2戦2勝だった。 先輩大関・琴風に対しては5勝4敗とほぼ互角だった。 先輩大関・若嶋津に対しては13勝9敗と勝ち越していた。 1984年11月場所時点では3勝4敗と負け越していたが、1985年以降は5月場所から11月場所まで4連勝をするなど10勝5敗と得意としていた。 先輩大関・朝潮に対しては15勝11敗と4つの差で勝ち越している。 初顔から4連敗を喫するなど、初顔〜1985年の対戦成績は4勝7敗と苦手としていたが、1986年以降の成績は11勝4敗とカモにしており、北勝海の大関獲り以降、両者の力関係が逆転したことがわかる。 先輩大関・北天佑に対しては17勝18敗と1つの差で負け越しのほぼ互角。 かつて大関昇進前の1985年5月場所〜1986年1月場所で5連敗するなど苦手だったが、横綱昇進以降は1989年5月場所〜1990年3月場所まで6連勝するなど10勝5敗と力関係が逆転している。 横綱双羽黒らと同じ「花のサンパチ組」の後輩大関・小錦に対しても、優勝決定巴戦を含めると16勝17敗と1つの差で負け越し(1つ不戦勝有り)。 1985年5月場所〜1986年11月場所までは6連敗を喫していたが、その後の1987年1月場所〜1987年11月場所まで6連勝をするなどほぼ互角だった事がわかる。 後輩大関・霧島に対しては優勝決定巴戦を含むと11勝6敗と得意にしていた。 初顔から7連勝をしており、カモとしている時期もあったが、7連勝をした後は4勝6敗と苦手としていた。 エピソード 3月場所にめっぽう強く、自身の幕内優勝8回のうち半数の4回は3月場所で記録したものである(その他優勝同点も1回)。 兄弟子の横綱は、幕内優勝31回もしながら、3月場所の優勝はわずか3回に留まった。 さらに千代の富士が休場した場所で、弟弟子の北勝海が優勝するというケースも過去に5回もあった(1986年3月場所、1987年9月場所、1989年5月場所、1990年9月場所、1991年3月場所)。 他の3回も千代の富士が後半戦優勝争いから脱落した時(1987年3月場所・11勝4敗、1989年1月場所・11勝4敗、1990年3月場所・10勝5敗)の優勝である。 初優勝した1986年3月場所、北勝海(当時は保志)は関脇以下の力士としては初めて「1場所5大関撃破」を達成している。 翌年の3月場所はがで同じ記録を賭けて当時大関の北勝海と対戦。 北勝海は益荒雄を下し同じ記録達成は阻止した。 この場所北勝海は12勝3敗で2度目の優勝を果たした。 初の大関獲りが懸かった1986年5月場所は11勝4敗で昇進は見送りになったが、11勝で大関になれると思っていた保志は相当落ち込み、場所後の稽古にも身が入らなかったという。 しかし横綱千代の富士はそれを見逃さず、保志に対し「まだまだ稽古が足りないからだ」と助言。 その後保志は千代の富士との猛稽古で徐々に自信を取り戻し、翌場所も12勝3敗で文句なしの大関獲りを実現した。 綱獲り前3場所の成績は36勝9敗、さらに直前の成績では15戦全勝したとの差は星2つ。 現在の横綱昇進条件である「大関で2場所連続優勝、又はそれに準ずる成績」に充分該当するとは言えなかったが「北勝海だから昇進出来た」と言う声も多かった。 それだけ品格や稽古熱心さが評価されていた(幕内優勝は8回達成したが、横綱昇進後も連続優勝は一度も果たせなかった)。 師匠の親方(当時、元横綱・)は、かつて千代の富士の横綱昇進時には「ウルフ、引退する時はスパッと潔く辞めような」と語ったが、性格が生真面目な北勝海に対しては「横綱は本当に大変な地位だぞ。 勝てなくなったら引退するしかないんだから」と自ら経験した横綱の重みと厳しさを伝えたという。 千代の富士の優勝、または優勝争いで何度も援護射撃をしている。 新横綱の1987年7月場所は優勝と綱獲りがかかっていた大乃国を千秋楽に下し、千代の富士に21回目の優勝をプレゼントした(大乃国は場所後の横綱昇進も失う)他、1987年11月場所14日目には、千代の富士と共に全勝だった横綱を下している(翌千秋楽、千代の富士は双羽黒を下し22回目の優勝を決めた)。 1988年1月場所14日目には全勝の大関旭富士を下し援護射撃したが、千代の富士は同日の結びの一番で大関に、千秋楽に旭富士に敗れ優勝を逃した。 1989年11月場所12日目にも全勝の大関小錦を下しまたも援護射撃。 しかし千代の富士は翌13日目小錦に敗れ優勝を逃している。 1988年3月場所、横綱大乃国に逆転で幕内優勝をさらわれた際は大きなショックを受け、「あの悔しさは一生忘れない」と語っていた。 屈辱を胸に秘め臨んだ翌5月場所だったが、千秋楽の大乃国戦で初めての不戦敗・休場となり、さらに7月場所から3場所も続いて全休。 北勝海のプライドは相当に切り裂かれていた。 復活優勝した1989年1月場所では、14日目に大乃国を生涯最高の相撲で一直線で押し出した。 さらに同年9月場所の千秋楽の結びの一番では、7勝7敗と勝ち越しをかけた大乃国と対戦するも容赦なくあっさり下し、これで大乃国は7勝8敗とついに負け越してしまった。 1988年3月場所で「これ以上にない屈辱を受けた」という北勝海が、大乃国に対して「15日制が定着してからは初めての横綱皆勤負け越し」というそれ以上の屈辱を与える形でリベンジした。 特に1988年7月・9月・11月場所の連続全休は本人にとっても衝撃だったが、それによって人間的に大きくなったと、2002年の記者クラブ担当時代に語っており、講演でも逆転優勝されたこの場所のことで1時間は持つという。 復活優勝の1989年1月場所、北勝海自身初の全勝優勝がかかった千秋楽本割・結びの一番では、旭富士に完敗し14勝1敗同士の優勝決定戦へ。 「あの時(1988年3月場所)のことが頭を過ぎった」というが、「土俵に上がれるだけで幸せなんだから」と気持ちを切り替えて決定戦で旭富士を下した。 8場所振り4回目の幕内優勝に目に北勝海は涙を浮かべながら、「まさか優勝するとは夢にも思わなかった。 治療先では会う人全てがとても良くしてくれたから、自分も苦しい治療やリハビリを乗り切れたのだと思う。 とにかく復活することが出来て本当に嬉しい。 今までに会った人に感謝したい」と喜びを語る前に治療時にお世話になった人たちへのお礼の言葉を述べた。 また、この場所前リハビリから帰ってきた北勝海を見た師匠のは「以前より胸板が厚くなった。 本気でリハビリに取り組んでいたんだ」と喜んだという。 北勝海の人柄や真面目さを感じさせるエピソードである。 1989年7月場所での千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦。 本人曰く「廻しを切ろうとしても切れなかった。 稽古場でも強かったが本番では全く違う(ほど強かった)」と脱帽。 しかし取組後北勝海・千代の富士は二人共「もう二度と対戦したくない」。 九重親方もかつて「一度は(千代の富士対北勝海の)決定戦を見てみたい」と語っていたが、二人の決定戦の終了後は「師匠としてもまともに見ていられなかった。 もう(決定戦は)やらなくていい」とコメントしている。 これが両者にとって最初で最後の優勝決定戦だった。 1990年3月場所での優勝決定巴戦。 最初の小錦戦で負けたものの、その後戦と小錦戦で連勝してようやく優勝を決めた。 「今迄の相撲人生の中で一番苦しい優勝だった。 もしあと一戦あったら腰が持たなかったかもしれない」と語った。 1991年1月場所前での稽古総見ではが初参加。 旭富士や霧島などの上位陣に稽古を頼むも相手にされない。 しかし北勝海は曙と積極的に稽古し、羽目板にぶつけられることもしばしばだった。 その1月場所では曙のをかわし、腰についた北勝海がで圧勝。 「稽古場ではあんなのなかったのに」と落胆する曙。 北勝海は「曙と稽古しておいて良かった。 (稽古を)してなければ強さもわからなかったし、やり辛かった。 だてに羽目板にぶつけられていたわけじゃないよ」と振り返る。 1991年3月場所千秋楽の北勝海は、前日の大乃国戦で左膝を負傷するも医者に行かず一晩中氷水等で冷やし続けていた。 それでも、千秋楽当日の横綱土俵入りと自身取組前に三役揃い踏みをする際は、膝の痛みはそれほど気にならなかったらしい。 また北勝海が結びの一番の対戦前、土俵下で大乃国対霧島戦を見ていたが、自身も不振の霧島なら大乃国に負けるだろうと思っていたという。 しかしこの対戦は予想を翻し霧島が大乃国をって勝利。 この瞬間北勝海の8回目の幕内優勝が決まったが、同時に左膝の激痛が酷くなったのである。 その後結びの一番での旭富士戦は全く相撲に成らずに敗北。 左足を引き摺りながら花道を歩いた後、記者陣とのインタビューでは「大阪のお客さんに失礼しました。 最後は良い相撲を取りたかったのに」と語り、幸運がもたらした優勝であった。 1991年7月場所は休場明けで且つ稽古不足で大不振。 12日目にようやく勝ち越しを決めたが、引退したばかりの千代の富士に「勝ち越しおめでとう」と冷やかされる。 また9日目には、同郷のライバルの大乃国が28歳9か月の若さで引退を表明、自身にとっても大きなショックだったという。 さらに千秋楽は北勝海と同じく8勝6敗同士の成績不振ながら旭富士との横綱対決。 「泡の抜けたビール」「史上最低の千秋楽相星決戦」と叩かれる始末。 熱戦の末北勝海は旭富士を寄り切りで下し、何とか9勝目を挙げた。 それでも北勝海にとっては現役最後の千秋楽まで皆勤した場所 となり、翌9月場所以降は度重なる怪我に苦しみ、全休と途中休場とを繰り返す羽目となる。 自身3場所連続休場となった1992年1月場所中に旭富士も引退、これで横綱は北勝海たった一人となる。 同場所3日目、旭富士の現役最後の取組となった戦での北勝海は「その相撲(TV生中継)は見ていなかった。 もしかしたら…という思いがあったのかも知れない」と顔を強ばらせながらコメント。 翌3月場所、「ゲンの良い」大阪で奇跡の復活を目指したものの、1勝も出来ずに4場所連続休場へ。 「相撲勘が戻っていない。 もう少し時間が欲しい」と沈痛な表情ながら「場所後の巡業で猛稽古して次の5月場所で進退を掛ける」と公言していた。 しかしその1992年5月場所直前になっても、体調は依然回復せず思うように稽古は出来なかった。 自身がろくに相撲を取れる状態ではないにも拘らず、一人横綱という責任感からか、敢えて北勝海は一旦5月場所の強行出場を表明する。 師匠になったばかりの千代の富士は渋々認めたものの、旧師匠の北の富士は納得せず、当時の理事長(元横綱)にも北勝海の去就について相談していたという。 その後北の富士・千代の富士の二人の師匠らと3者の話し合いの結果、北勝海の現役引退が決定。 その引退会見での北勝海は「自分は稽古で、横綱まで上がった相撲取りですから、その稽古する気力がなくなったらもう、終わりかなと…」ハンカチで涙を拭いながら語っていた。 北の富士は「再起を期待したが想像以上に体力が衰え、大事な気力も落ちてしまっていた。 横綱がいなくなるのは心苦しいが、このまま本場所を出場しても横綱の名を汚すだけだと思った」と、自ら引き際の潔さを貫きつつ北勝海を延々説得し、引退を決意させたという。 千代の富士は「自身が現役辞めてから、僅か1年後に引退するとは思わなかったから、本当に寂しい。 でも自分が長く横綱を張れたのは、彼が九重部屋にいてくれたお陰」と労っていた。 北の富士は北勝海のことを「素質ではその辺の力士と変わらないが、稽古熱心さでは100人に1人の素材」と評した。 なお素質不足を気力で補う相撲の性質だったため、気が緩む面のある優勝決定後の取組は4戦4敗であった。 現役引退後、解説者として出演した「」で、霧島の取り組みを解説する際には「大関・霧島関」と敬称付きで呼んでいた。 老人ホームなどの福祉施設への慰問を現役時代より定期的に行っており、地元北海道の障害者施設に個人的に寄付もしている。 これについて北勝海は「父をはじめ地元の人たちの理解があったから、相撲の世界でやってこれた。 時間さえあれば地元に帰って積極的に祭事にも参加したいし、自分を育ててくれた地元に恩を返したい。 」と語っている。 また、の児童福祉施設の設立にも発起人として名を連ねている。 2020年始にの相撲記者の若林哲治と対談した際、が34歳になっても横綱として活躍していることに関して「普段の準備運動の賜物じゃないですか」と話しており、物議を醸している白鵬のかち上げについては「私の場合は相手がかち上げにきた方がやりやすかった。 相手の脇が空くからちょうど(突き押しで)いきやすい」と肯定している• 1980年3月場所時に「富士若」のに改名したこともあったが、たため1場所で本名に戻している。 人名漢字では「勝」を『とう』、「海」を『み』と読むことは可能であり、これを適用すると、「北・勝・海」の正確な読みは 「ほく・とう・み」である。 弟子の北勝力にも「北勝」は『ほくとう』と説明したことがあるという。 Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p64• 2017年9月26日7時0分 スポーツ報知• なお寺尾はその後も、「花のサンパチ組」だったと小錦の引退相撲でも、最後の取組相手として二人共に指名され、土俵に上がり勝負した。 大空出版『相撲ファン』vol. 4 14頁• これについては北勝海の師匠でこの日正面解説を務めた北の富士勝昭も「あってはいけないこと、這ってでも出場して欲しい、勝ち名乗りの前なら間に合うから休場届を取り消して土俵に来てくれないか」、向正面のも「もし逆の立場で、琴欧洲が優勝争いの先頭だったら土俵に上がっていたと思うんですよ」と全く同意見であった。 日馬富士の所属一門である春日山・伊勢ヶ濱連合(現・伊勢ヶ濱一門)の理事であった(元幕内・春日富士)が9月場所中に退職したため、代役の理事として八角が選ばれた。 この大役を務め上げて「光栄です。 なかなかこういうタイミングはない。 昨夜は緊張して眠れなかった。 出来は50点」と語った。 鶴竜の所属一門である時津風一門の理事が審判部長の(元関脇・多賀竜)一人しかいないため。 日刊スポーツ 2015年11月20日閲覧• 日刊スポーツ 2015年11月23日• 大空出版『相撲ファン』vol. 4 107頁• 日刊スポーツ 2016年8月1日• JIJI. COM (時事通信社、2018年2月3日閲覧)• デイリースポーツ 2018. (2018年2月3日閲覧)• 日刊スポーツ 2019年3月10日20時13分(日刊スポーツ新聞社、2019年3月20日閲覧)• 日刊スポーツ 2019年5月12日15時48分(日刊スポーツ新聞社、2019年5月12日閲覧)• スポニチAnnex 2019年12月19日. 2012年12月24日閲覧。 nikkansports. com 2019年12月23日. 2019年12月24日閲覧。 スポニチAnnex 2020年1月31日. 20020-03-23閲覧。 時事ドットコム 2020年3月23日. 2020年3月23日閲覧。 と優勝決定戦• 腰部椎間板損傷・左股関節挫傷により千秋楽不戦敗• 腰部椎間板損傷・左股関節挫傷により全休• 腰部椎間板損傷により全休• 腰部椎間板ヘルニア・強直性脊椎炎疑により全休• と優勝決定戦• ・と優勝決定戦• 左膝内側側副靱帯損傷により全休• 頸部外傷性頸椎頸髄症・左肩関節挫傷・左肘関節挫傷・右足首距腿関節骨片により全休• 左膝内側側副靱帯損傷・変形性膝関節症により8日目から途中休場• 左膝内障により全休• 左肩関節及び左肘関節挫傷後遺症により3日目から途中休場• 5月場所直前の5月8日に引退表明• その後9月場所に小結・、11月場所に関脇・が北勝海に次ぐ「5大関撃破」を果たした。 稽古でも手を抜かない曙を上位陣が嫌ったとされている。 対戦相手の横綱旭富士も北勝海と同様に、1991年7月場所が現役最後の皆勤場所になった。 時事通信 2020年1月1日(2020年1月3日閲覧).

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