理趣経 全文。 理趣経(りしゅきょう)とは何? Weblio辞書

空海の『理趣経』講話-恩と愛から-|北尾克三郎のページ

理趣経 全文

ご存知の通り、理趣経は真言宗に於いて僧侶が葬儀や法事、また日々の勤行などでよく読誦されるお経です。 ですが本来、理趣経は伝授を受け「理趣経加行」という行を終えて初めて読誦が許される経典です。 簡単に言えば、師匠から教えを受けてから読むお経です。 「理趣経加行」とは「四度加行」の前行(前段階に当たる行)の一つです。 在家の方で理趣経を読まれる方もおられますが、私はおすすめしません。 真言宗、密教において、師匠から授かっていない法にみだりに触れたり用いたりするのは、「越法罪」「越三昧耶」と呼ばれる仏法を蔑ろにする行為であり、法を乱す罪だと説かれています。 仏教や密教に興味を持って頂くことは嬉しいことですが、一般在家の方が、真言宗の作法でお勤めされるのであれば、在家用勤行次第や般若心経の読誦、御宝号「南無大師遍照金剛」の念誦を推奨いたします。 参考になれば幸いです。 しゅう様 川口英俊でございます。 問いへの拙生のお答えでございます。 「理趣経」は、本来、「金剛頂経」における「理趣広経」の略経となります。 「金剛頂経」自体は、灌頂・成就法の実践のための内容が大半としてあるため、確かに、灌頂を受けるための参考、更には、灌頂を受けてからの参考とすべき内容となっております。 しかし、だからといって読んではいけないというものでもありません。 拙生も、まだ灌頂の受けていない秘密集会(グヒヤサマージャ)の内容の研究を進めており、関連のタントラを拝読させて頂いております。 それは、いずれのご仏縁へと向けて備えるためでもあります。 しゅう様も仏典を読まれることが、どのようなご仏縁へと通じるかはわかりませんが、何よりご仏縁へと向かうための機縁がなければ、その可能性を狭めてしまうことにもなりかねません。 仏典を読むことはその機縁としても大切なものであると存じております。 ですので、拙生は、読まれても差支えはないものであると考えています。 ただ、やはり、先では灌頂を受けられることも視野に入れられての前提が大切であるかとは存じます。 四度加行が難しいようでしたら、毎日の一定の行が三昧耶戒となりますが、チベット密教の無上瑜伽タントラ(グヒヤサマージャ・マハーマーヤー・ヘーヴァジュラ・チャクラサンヴァラ・カーラチャクラ・チッタマニターラーなど)の灌頂を受けられる機会があれば、是非、受けられると良いのではないだろうかと存じます。 ポタラ・カレッジさんにおいて毎年その機会がございますので、是非、チェックされてみて下さい。 川口英俊 合掌.

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真言宗の葬儀で読まれる理趣経とは

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大意は「大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なりとの仏の覚りの境地を説く経」• 松長が一般向けの『理趣経』講義を行った所、「ポルノ教典か?」と興味本位で聴講に来た者もいたという。 勿論誤解である。 前述の大栗も述べるように、最澄と空海の話は俗に曲解されていることが多いが、空海と最澄の手紙のやり取りからするとこのようにしか解釈できない。 なお、が『空海の風景』で面白おかしく脚色しているものが流布しているが、真言宗では司馬の小説を厳しく批判しており、司馬の親友のに映画『』(1984年公開)の脚本を頼んだ時も、「司馬の解釈は映画に使わないでほしい」と申し渡した上、前述の宮坂の父、が司馬の小説に抗議している。 (『週刊司馬遼太郎9・空海の風景・坂の上の雲 完結編・新選組血風録』所収の早坂の回想及び、司馬の小説のあとがきより)• 「依経」(えきょう)とは、文字通り宗派のよりどころとなる教えを持つ経典を指す。 2000年代以前は立川流の側を性的思想を奉じた集団とする誤解があったが、21世紀現在は史料批判によって否定されている(を参照)• なお、この項目は中に四国で出家した村岡の実体験である。 ある檀家が『理趣経』の経文を覚えており、村岡の師僧の読経に唱和した所、僧は檀家を「ついてくるな!」と大喝し、「『理趣経』はお大師さんが在家のものには教えちゃならんといわれたんじゃ」と述べたという。 理由は、前述の最澄の経文借用の件と同じである。

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大般涅槃経全文 : お経大全集

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理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。 遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。 まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。 仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね? 詠春童子さん 手厳しい言い方になりますが、ほぼ誤読です。 「我々も大宇宙の一部」「誰しもがかけがえのない命を生きる」というところ以外、間違っておられます。 少し指摘をさせていただくならば 例えば「十七清浄句」の「〇〇清浄句是菩薩位」は暗喩です。 男女の和合(セックス)や欲望が清浄と書いてあると誤解する人もありますが、交わる男女というのは「方便」と「般若」の融合の例えです。 そして「〇〇清浄句是菩薩位」は「〇〇が清浄で菩薩の位にある」ではなく「菩薩の位においては〇〇は(すら)清浄である」というニュアンスで、本質は「自他無二」であるということ、「自他の区別が苦を生む」ことを説いています。 書き出すとキリがないのでこの辺りにさせていただきますが、理趣経は真言宗の僧侶が日常的に読むこともあり有名なお経の一つです。 しかし、本来は然るべき師匠のもとで「理趣経加行」という修行を終えて初めて読誦を許されるお経でもあります。 理趣経に登場する沢山の仏様のことや世界観を絵図にした理趣経曼荼羅、経の世界観を師匠より教えて頂き、その世界観を知って初めて意味がわかってきます。 昨今、どの分野においても独学で勉強しやすい環境は整っており、独学も素晴らしい学習方法です。 しかしながら仏教、真言密教、理趣経においてはまだまだ独学では難しい領域であり、然るべき師について学んでいただければ幸いです。 なおどうしても然るべき師が見つからない場合は中公文庫から出版されています松長有慶先生の「理趣経」という文庫本を手にとってみてください。 良い入門書です。 問いへの拙生のお答えでございます。 密教には、沙門 亮鷹様も既におっしゃられておりますように、しかるべき師より、しかるべき教えを受けるための資質を認められてから教えを頂かなければ、真に理解、実践ができないところがございます。 是非、しかるべき師よりの教えや灌頂を受けられてからが、やはり望ましいものになると拙生も存じます。 ただ、どうしても然るべき師が見つからない(見つける途上でも学ばれたい)場合として、一つアドバイスをさせて頂くならば、 理趣経の説く「自性清浄」は、我々が普段考えるような「きれい」、「きたない」の「きれい」として考えてしまうと、全肯定的な意味合い、(世俗的における)善いものという意味合いに捉えてしまうことでの誤解による弊害が生じてしまいかねないところがございます。 ここは、仏教における二つの真理へのアプローチとしてある「二諦」、「世俗諦と勝義諦」の理解が避けられないところでもあるだけに、是非、「二諦」について、まずは龍樹大師の「根本中論」からでも学び進めて頂けましたらと存じます。 そして、「勝義諦」の確かなる理解によって、「自性清浄」についてもしっかりと正しく理解して参りたいものでございます。 川口英俊 合掌 回答ありがとうございます。 正直に打ち明けると、うちの菩提寺は真言宗なのですが、 父親の代から住職と折り合いが良くありません。 詳細は省きますが、10年ほど前、母の葬儀の際にも 色々と不愉快な思いをさせられ、母の霊前もあり 私も父も我慢に我慢を重ねていましたが、 弟が勘弁ならず、とうとう怒鳴り声を上げてしまうような場面もありました。 父の代でも何かと問題あったようで、今でも型通りの法要などは 行っておりますが、距離は置いている状態です。 また祈願寺としてお世話になっている所は天台宗ですので、 真言密教や理趣経について気軽に尋ねられる僧侶の方が身近にいません。 しかし先祖代々の真言宗やお大師様には何かしらの縁を感じ、 独学で色々と学んできた次第です。 この度は、貴重なアドバイスを感謝いたします。 沙門 亮鷹 様 有難うございます。 ハスノハで質問を続けて、初めて真言宗の僧侶の方から回答を頂きました! 菩提寺の住職からは宗旨等について法話らしい法話を聞いた記憶が無いので、 沙門亮鷹様のご回答が、私にとって真言宗僧侶からの、生まれて初めての 法話となりましょうか。 人性最初の法話がお厳しい話になろうとは 夢にも思いませんでしたが(トホホ・・・) 不躾を重ねて申し訳ありませんが、よく意味を汲み取れなかった本が、 何を隠そう松長先生の「理趣経」でございます。 かつては「なんて享楽的な!これが仏教か?!」と誤読し、この度は 「もしかしたら、理趣経は自然主義的ヒューマニズムみたいなものか!?」 と誤読しました。 一から勉強しなおします(汗) 然るべき師のもとで「理趣経加行」を修めるのが読誦の前提との事ですが 生来が薄志弱行の身ゆえ、申し訳ありませんが僧侶となる程の 決心はつきません。 在家信徒として仏道に励ませて頂ければと存じます。 今後とも、間違った道に入りそうな時は叱咤激励をお願いします。 川口 英俊 様 有難うございます。 「根本中論」ですか。 龍樹の名前だけは聞いた事はありますが、難解そうなイメージがあります。 名著の誉れ高い松長先生の本ですら難しい私には(汗)・・・ 多分、解らない事は出てくると思うので、その時はまたご教授お願いします。 お二方とも、本当にありがとうございました! -追記- 沙門亮鷹 様 川口英俊 様 松長有慶師の本を中心に理趣経の勉強をさせて頂いていましたが、 「般若理趣分」なる経典の存在を知り、読んでみた所・・・ あまりに素晴らしい内容に圧倒されました。 理趣経の異本との事で、松長師の著作にも少し言及されてましたが、 印象はまったく違っており 「愛欲の大胆な肯定に見える理趣経の記述も、このような 透徹した空寂の境地に立った上での事なのか?!」 と目から鱗が落ちる事しきりです。 ここ数日、毎日読んで意味を噛みしめております。 (それに理趣経にしても、あからさまは性表現は最初の 17清浄句だけで、それだってある種の比喩ですもんね。 ) もちろん、比較して論じるべきものではないでしょうし、 経典自体に優劣など存在しないと考えております。 現在、参照している本は前述の松長師の「理趣経」と、 大栗道榮師の「図説 理趣経入門」です。 大栗師の著作はどれも解り易く、貴重な示唆を頂いており、 この方の書いた般若心経の本なども持っています。 しかしこの大阿闍梨さま、理趣経の百字の偈を 「30秒とかからない短い部分なので、朝晩にお唱えしましょう!」 と書いてらっしゃって、本当に良いのかな、これ・・・ と思ってしまいます。 (^^;) まあ、意味を履き違えぬよう、慎重に勉強させて頂いております。 私は真言宗が好きだし密教が好きだし、仏様と言えば実家の仏壇に鎮座する きらびやかな衣装を纏った大日如来様です。 今後とも厳しく優しく、ご指導頂ければと存じます。 追記コメントでも回答者様にメッセージが行くのでしょうかね? まあ、自分の中で得心するものがあったので、今更でしょうが 追記させて頂きます。 御二方とも、有難うございました。 あなたは、悩みや相談ごとがあるとき、誰に話しますか? 友だち、同僚、先生、両親、インターネットの掲示板など相談する人や場所はたくさんあると思います。 そのひとつに、「お坊さん」を考えたことがなかったのであれば、ぜひ一度相談してみてください。 なぜなら、仏教は1,500年もの間、私たちの生活に溶け込んで受け継がれてきたものであり、僧侶であるお坊さんがその教えを伝えてきたからです。 心や体の悩み、恋愛や子育てについて、お金や出世とは、助け合う意味など、人生において誰もが考えることがらについて、いろんなお坊さんからの癒しや救いの言葉、たまに喝をいれるような回答を参考に、あなたの生き方をあなた自身で探してみてはいかがでしょうか。

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