つめたい よる に。 つめたいよるに / 江國 香織【著】

江國香織『つめたいよるに』

つめたい よる に

(2003年5月読了) 短編集である。 以前少しだけ(「とくべつな早朝」だけ)読んだことがあるが、このたび全編読了した。 「とくべつな早朝」の思い出 ちなみにその「とくべつな早朝」は、大学時代に友人の家で酒を飲んだ折、ごろ寝をしながら読んだのだが、確かそれは友人が恋人に振られたとか、そういうくさくさした飲みだったので、読み終えて「なんだよちくしょう」みたいな気持ちを友人と共有することになったのを鮮烈に憶えている。 それはもちろんただの八つ当たりであって、再読した「とくべつな早朝」は、とある特別な冬の夜のしっとりした感じと、清冽な朝の空気が感じ取れてよかった。 それ以外の作品 それ以外にも合計20篇くらいの小品(掌編?)が収録されていて、色々と多彩なものが入っている。 「桃子」「草之丞の話」といった初期の絵本作品もあるし、「ねぎを刻む」のような女性の怖い部分を見せられる話もあったりする。 いつぞやので出題され、泣いてしまう受験生が出たという「デューク」もそうだが、前者の童話に近い作品群は、さらりとしていながら「なんかいいな」と思わせられる。 それと「たち」はモチーフの使い方が巧い。 どの話も、一定の「キレイキド」のようなもので描かれている感じがする。 そこが好みの別れるところだろうが私は面白く読んだ。 一人旅なんかに持っていくといい感じかもしれない。

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江國香織さんの短編集「つめたい夜に」を読んでの感想・備忘録

つめたい よる に

駅で階段につまずいた昼間の自分を、シャワーを浴びているとふと思い出して、あーっと声をあげることがある。 穴があったら入りたいなんて言葉では足りず、別の世界に逃げこみたくなる。 そんなとき、私は本を読む。 登場人物に降りかかる災難や心の深い部分に触れると、自分の恥ずかしい失態や悩み事がどれだけちっぽけか気づくことができる。 美しい言葉に触れ続けたからか、読んだあと世界の見え方が鮮やかに変わることもある。 短編集を好きになったのは、中学生のときだ。 きっかけは江國香織さんの『つめたいよるに』。 この本に収録されている「デューク」という短編が国語の教科書に載っていた。 「私」は飼っていた愛犬、デュークが死んでしまい泣いている。 見知らぬ少年がそんな「私」を気遣ってくれたので、お礼をするために一緒にその日を過ごすことになる……。 当時、私自身が愛犬をなくしたばかりだったということもあり一気に引き込まれ、何度も読み返した。 少年の優しさや、読めば読むほど感じる切なさに心が震えた。 たまらなく大好きだった。 なぜ、この話はこんなにも私を魅了するのか。 歌うような言葉やストーリーの素敵さはもちろんだが、それらが短編にすっきりとおさまっていることも大きな理由だったのだと思う。 一話を読み終えるまでたったの十分。 その十分間で私は救われた。 愛犬のいない寂しさを、つめたいものからあたたかいものに変えてもらったのだ。 「デューク」が『つめたいよるに』に収録されていると知り、私は本屋に走った。 他の話もこどもの夢のフルーツパフェのように、とびきりだった。 逆三角形のガラスの器はどこか儚く、沢山のフルーツがここに収まっているなんて奇跡だ、と思う。 さくらんぼもシロップの味のみかんの数も少ないかと思いきや、充分。 そのくせ、食後の甘美な物寂しさったら。 その贅沢を知り、私はすっかり短編集の虜となったのだ。 さんの『』を読んだときは高校生活の真っ最中だった。 恋愛のことがよく分からない私に、この本は衝撃を与えた。 十人十色の恋が、余すところなくきちんと詰め込まれている。 幼馴染みに自分の恋の香りを悟られないようにする少女や、年上の女性に彼氏を奪われた少女が真っ赤な口紅を塗ってした決別のキスは、自分の周りにある話のようでいてどこか遠く、ドキドキした。 ふらっと立ち寄ったお店で、店員さんに試しに大人な香水を吹きかけてもらう。 今はここにあるのに、いつか消えてしまう繊細さ。 自分がこんなものを知ってしまっていいのだろうかという背伸び感が、この本にも存分にあった。 たまらなかった。 喜びも怒りも悲しみも全て「うっとり」に包みこまれた短編集。 憧れの恋愛はこの短編集のなかにある。 憧れでなく日常の恋がしまいこまれているのは、さんの『』だと思う。 ここに収録されている話は、他の短編よりも更に短めで、読みやすい文で日常を切り取っている。 それだけだとなんてことない話に思えるが、間違いであることにすぐに気がつく。 どの話も、ハスキーさと重力を持っているのだ。 どこにそんな風に思う要因の言葉があるんだろう、と改めて探しても見つけられない。 でも、読み終えると切なさに近い感覚に陥る。 地元にしかないと思っていたファミレスをふいに見つけた感覚にも近い。 なんてことない日常を改めて想うと、心がきゅっとなる。 たった十分間できゅっとしながら、主人公の日々を追体験し世界の見え方が少し変わる。 短編集にそっと救われ、私は歌なんて口ずさみながらシャワーを浴びるのだ。 それは「デューク」で少年が心からのお礼を告げたことで「私」がふと前を向けた状況に似ている。 この文章を読み始めて、そろそろ十分。 この十分があなたの目の前の世界を少し軽やかに変える何かしらのきっかけとなりますように。 (おおとも・かれん=1999年、群馬県生まれ。 女優、モデル) 1964年東京都生まれ。 1987年「草之丞の話」で「小さな童話」大賞、1989年「409ラドクリフ」でフェミナ賞、1992年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、1999年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞、2007年『がらくた』で島清恋愛文学賞、2010年『真昼なのに昏い部屋』で中央公論文芸賞、2012年「犬とハモニカ」で川端康成文学賞、2015年『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』で谷崎潤一郎賞を受賞。 他の著書に『ちょうちんそで』『はだかんぼうたち』『なかなか暮れない夏の夕暮れ』など多数。 小説以外に、詩作や海外絵本の翻訳も手掛ける。 この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

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晴れた空の下で 『つめたいよるに』より 江國香織さん 著 : Sチャンミン's ROOM。

つめたい よる に

名前はもちろん知っていたが、作品をちゃんと読むのは初めての作家さん。 友人から借りて、初めて接することができた。 読みやすさを気づかってくれたのか、小説の短編集だった。 なんだろう。 子どもや老人が登場する話がいくつかあったからかもしれないが、読んでみて一番感じたのは、 清潔感。 凛とした文章だなと。 どろどろとした自分の内面を、さらっと洗い流してくれるような作品だった。 以下、いくつか心に留まった箇所を書き記す。 「子供たちの晩餐」 いつも親の言うことをちゃんと聞いて、品行方正に生きている幼い兄弟姉妹が、両親が出かける日に行なう、ちょっとした贅沢。 「いくぞ」 豊お兄ちゃんが言い、私たちはぞろぞろと庭にでた。 庭の左端、椿の木の前に、シャベルで深く穴を掘る。 「いいみたい」 お姉ちゃんが言ったとき、穴はバケツくらい深くなっていた。 私たちは台所に駆け戻り、それからまた庭に戻って、ぱっくりと口をあけた土のバケツに、一人一人パンを投げ捨てた。 鮮やかな緑色の冷えたサラダを捨て、チキンソテーを捨て、つけあわせのにんじんとほうれん草も捨てた。 その上からレモンジュースをどぼどぼ撒くと、バケツはお腹一杯の、幸福な胃袋みたいに見えた。 「よし。 食事にしよう」 豊お兄ちゃんを先頭に、私たちはまず手を洗い、うがいをした。 それからパーティーみたいにして、ベッドの下に隠しておいた憧れの食べ物-カップラーメン、派手なオレンジ色のソーセージ、ふわふわのミルクせんべいと梅ジャム、コンビニエンスストアの、正三角形の大きなおむすび、生クリームがいっぱいの、百円で売っているジャンボシュークリーム-を思いきり食べた。 好きな場所で、好きなだけ。 歩きながら食べたり、歌いながら食べたりもした。 禁止事項は全部やってみることにしていたのだ。 大騒ぎの夜ごはん。 時々お姉ちゃんがうっとりと、「ああ、身体に悪そう」とつぶやいて、それをきくと私はぞくぞくした。 スリルと罪悪感。 胸の中で、梅ジャムとシュークリームがまざりあう。 恍惚感が伝わってくる。 こっちまでぞくぞくしてくる。 「晴れた空の下で」 お婆さんに先立たれ、食事の面倒は次男の妻に見てもらっているお爺さん。 ちょっとボケていて、お婆さんはまだ生きていると思い込んでいる。 わしは無言で歩き続けた。 昔から、感嘆の言葉は婆さんの方が得手なのだ。 婆さんにまかせておけば、わしの気持ちまでちゃんと代弁してくれる。 伴侶への全幅の信頼感を感じるとともに、本人の感性も鋭いことをうかがわせる。 わしは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。 いれ歯のせいではない。 食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。 せつなくもあるが、ほっこりもする。 「南ヶ原団地A号棟」 おなじ団地に住む三人の子供の書いたもので、どれもとてもおかしくて、そのくせ妙に切実なのだ。 「ねぎを刻む」 アパートにつくと、私はショルダーバッグをおろし、指輪をはずし、イヤリングをはずし、腕時計をはずしてストッキングをぬぐ。 そしてカーテンをしめる。 ぬいだ服をきちんとハンガーにかけてから、ごろんと床に倒れこむ。 からだが重くて、頭も重くて、半死半生の気分だ。 ごろごろと転がってみる。 孤独は減らない。 あーっ、とか、うーっ、とかうめいてみる。 孤独は減らない。 手足をばたばたさせてみる。 孤独は一グラムだって減りやしない。 …… 牛乳のパックに直接口をつけて飲む。 きちんとコップに移して飲むよりは、孤独じゃないような気がして。 孤独を減らそうと、ごろごろと転がったり、呻いたり、手足をバタバタさせる様を想像すると楽しい。 そして、 「パックに直接口をつけて飲む」と孤独じゃないような気がする感性にバンザイ。 紘子にかけると、二度目のコールでいきなり本人がでたので、私はあわてて電話を切る。 びっくりした。 …… 私はアドレス帖をひっくり返し、他に、まだ帰っていなさそうな人がいないかどうか考える。 こんな風に電話をかけまくらなければいられない夜は、誰かと話せば話すだけ孤独になるのだ。 …… 誰にも、天地神明にかけて誰にも、他人の孤独は救えない。 ブラボー! 短いながら切れ味の鋭い一節だ。 「コスモスの咲く庭」 十七歳になる長男は、日曜日に家にいたためしがない。 つねに「友達んとこ」か、「友達とそのへん」である。 それでもとりあえずぐれもせずに大きくなったようなので、まあ良かったことだと思う。 友達を大切にしているらしいのもいい。 何気ない一節だが、これまた言葉の選び方というか、つなぎ方が上手い。 そして、偶然にも、による作品解説がついていた。 映画のカメラマンの専門用語に「マジック・アワー」という不思議な言葉がある。 太陽が沈んだあと、数分間だけ、まだ光が残る。 その短い時間は、光がもっともきれいなときで、この時間に撮影すると信じられないような美しい映像が得られるという。 これは、単純に知識として「へ~」と思ったのでピックアップ。 作品のどの部分とかかわっているのかは記憶にない。 悪しからず。 短編集の宿命だろう。 読後に強い印象は残らなかったが、独特の空気感、言葉を選ぶセンス、文章を紡ぐセンスが確かに感じられた。 また別の作品も読んでみようと思う。 いい出会いだった。

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