相田 みつを 山形。 相田みつを

日本遺産「山寺と紅花」 » 山形美術館「出逢い−相田みつを展」再開のお知らせ

相田 みつを 山形

台風19号に伴う豪雨で河川が氾濫し、冠水した道路。 大規模災害に備え、防災への意識を高める必要がある=昨年10月、高畠町 「100年に1度」とされる大規模災害が近年、全国で相次いでいる。 県内でも毎年のように豪雨被害などが発生し、昨年は6月の本県沖地震、10月の台風19号による大雨などで大きな被害が出た。 しかし、多くの県民は「災害の少ない山形」と過信しているのではないか。 豪雨、台風、地震、津波、そして雪による被害を最小限に抑えるには県民一人一人の防災への意識を高めることが不可欠だ。 県民の意識改革を促して「防災先進県」を実現するため連載企画を展開し、地域、学校、企業の取り組み、道路や河川整備、治水事業などについて現状を検証、県外の先進事例を提示しながら課題を指摘し解決策を探る。 身近な病気や予防策を学ぶ「県民健康講座」=昨年11月、米沢市・伝国の杜 健康寿命の延伸に向け、身近な病気やその予防策を学ぶ「県民健康講座」を今年も県内3カ所で開く。 山形大医学部と県医師会それぞれの医師による2コマの講演と、県看護協会による健康チェック・相談で構成する。 山形新聞、山形放送は1993年から生活習慣病の克服を目指した「健康フォーラム」を開催してきた。 県民健康講座はさまざまな疾病を取り上げるのが特徴で、広く県民が受講できるよう地域ごとに会場を設定。 開講初年度の昨年は山形、鶴岡、米沢の3市で、脳梗塞やロコモティブシンドローム(運動器症候群)、認知症などについて理解を深める機会を提供した。 毎回、本県医療の中核を担う山形大医学部、地域医療を支える県医師会が1人ずつ講師を派遣し、専門の立場から最新の治療法や具体的な予防策などを解説。 県看護協会が内臓脂肪レベルや筋肉量などを計る体組成測定を基に体質改善などをアドバイスし、健康長寿への一助としてもらう。 相田みつを作「一生感動 一生青春」 c 相田みつを美術館 「出逢(であ)い-相田みつを展」を4月3日~5月10日、山形市の山形美術館で開催する。 人生を自身の書や言葉の探求にささげ、世代を超えて勇気と感動を与え続ける詩人、書家の相田みつを(1924~91年)。 東北初公開作品や貴重な資料を含む約180点を飾り、心を癒やす言葉の魅力を紹介する。 1924(大正13)年栃木県足利市生まれ。 戦時下に兄を失い、命の尊さを見つめる独自の世界観を確立した。 「つまづいたっていいじゃないか/にんげんだもの」などの平易な詩と、親しみやすい書で知られている。 山形美術館では2003年に企画展を開催して以来、17年ぶりとなる。 今回は、相田みつを美術館(東京都)の所蔵作品を通して初期から晩年に至る活動の軌跡をたどる。 「にんげんだもの」(1980年)「道」(80年代後半)をはじめとする代表的な書、びょうぶを含むろうけつ染の作品、中学時代に描いた絵画、筆やすずりといった愛用品を展示する。 昨年9月にドイツのライン川河畔で開かれた「欧州一の芋煮会」(武田三五八さん提供) 「欧州一の芋煮会」は、ドイツ東北県人会が2008年から毎年、同国のライン川河畔で繰り広げている。 初めは数人だった参加者は約70人に増大。 県内企業などの協賛も得て、はるか海の向こうで根付いている。 今秋、広く参加者を募って交流訪問団を派遣し、鍋を囲んで「山形の風物詩」の魅力を再確認するとともに、「最上川さくら回廊」の海外版として桜を植える。 同県人会長を務め、オランダで日本食品宅配業を営む大江町出身の武田三五八(さごはち)=本名・忠博=さん(59)が、県出身者の親睦を図る野外パーティーとして開いたのが始まり。 大鍋で知られる山形市の「日本一の芋煮会フェスティバル」にちなんで命名。 参加者は徐々に増え、17年からはフランスでも開かれている。 海の向こうのイベントを本県側も後押ししてきた。 12年の第5回開催を知った山形市の会社役員岩瀬義和さん(54)が有志で県内企業への協力依頼に奔走。 以来、山形新聞社はじめ協賛企業がつや姫や玉こんにゃく、そばといった県産食材などを提供し、「欧州一の芋煮会」はさまざまな古里の味を満喫できる機会として親しまれている。 交流訪問団が参加する芋煮会は、ドイツ西部デュッセルドルフが会場。 日本企業が多く進出し、02年から「日本デー」が開催されている都市で、日本文化となじみが深い。 ライン川河畔で県人会の会員と交流を深め、本県の食や食文化などの可能性を探る。 また関係先訪問、視察などを予定。 最上川さくら回廊海外版の植樹も計画している。 県内の小中高生が競い合った第3回大会=昨年7月、天童市・天童カントリークラブ 小中高生を対象に「第4回山形新聞・山形放送杯ジュニアゴルフ大会」を7月、山辺町の山形ゴルフ倶楽部で開催する。 ジュニア層に競技の場を提供し、県内ゴルフ界の将来を担う若きプレーヤーを育成する。 大会は2017年7月、村山市のさくらんぼカントリークラブで初めて開催した。 ゴルフ界の一層の底辺拡大を目指して第2回大会から8大事業に格上げし、18年は山形市の蔵王カントリークラブ、19年は天童市の天童カントリークラブに県内各地から児童生徒が集まった。 高校男女、中学男女、小学4~6年男女、小学1~3年男女の8部門を設け、小学4年以上は18ホールのストロークプレー、小学1~3年はハーフプレーとする予定。 山形ゴルフ倶楽部と県内ゴルフ場の代表らで構成する実行委員会で事業概要を決定する。 大会には特別ゲストを招いており、第1回大会は日本ゴルフ界で一時代を築いた中嶋常幸さん、第2回は日本女子プロゴルフ協会の小林浩美会長、第3回は同協会の樋口久子顧問が表彰式に出席し、参加者にプレー上達のこつを伝授した。 苗木にそれぞれの思いを込めた植樹式。 母なる川の一帯でさくら回廊が伸展している=昨年10月、山辺町山辺小 「最上川さくら回廊」は、母なる川・最上川の一帯で桜並木の伸展を図るプロジェクト。 植樹を通して自然愛護と古里を慈しむ心を育むのが狙いだ。 山形新聞、山形放送が1996年に提唱してスタート。 国土交通省や県、県みどり推進機構、各市町村の協力を得て展開している。 これまでに県内全35市町村と東日本大震災で被災した宮城県東松島市の延べ170カ所に5244本を植栽した。 さらに海外版として2012年に台湾台北市、17年に中国江蘇省無錫市、18年に台湾宜蘭県、ブラジル・サンパウロ市で実施。 昨年もタイ・チェンマイ県、また東京の駐日タイ大使公邸に桜を植えており、累計は5296本に上る。 今年も10月から11月にかけて県内5市町村と東松島市での実施に向けて準備している。 植樹希望者は県民から募る。 選ばれた家族やグループには、それぞれの名前を刻んだ記念プレートを贈呈。 苗木に取り付け、末永く見守ってもらう。 最上川沿いを元気に歩く参加児童たち=昨年7月、大蔵村 本県の歴史や文化を豊かに彩ってきた最上川を学びのフィールドとし、未来を担う子どもたちが川沿いをたどる「最上川200キロを歩く 小学生探検リレー」。 今年も5~7月の11週にわたり、繰り広げる。 流域の自然に触れ、河川愛護や治水・利水の大切さを学び、郷土愛を醸成する事業は18年目を迎える。 昨年は米沢市の源流域から酒田市の河口まで、県内5市5町1村の児童280人が、たすき代わりの「ビッグフラッグ」に自分たちの名前を記しながら、リレーを展開した。 今年も源流域から河口を目指す。 出発日は5月9日。 毎週土曜日、県内の小学校・団体ごと児童が最上川のほとりを歩く。 自然の恵みと猛威を肌で感じながら、関連施設・設備の見学や地元ゆかりのゲストティーチャーによる講話などを通じ、母なる川への理解を深める。 7月18日に日本海にゴールする。 多彩なイベントを繰り広げた「子育て応援団すこやか2019」=昨年6月、山形市・山形国際交流プラザ 「子育て応援団すこやか2020」を6月27、28の両日、山形市の山形国際交流プラザで開く。 安心して子育てできる環境づくりをテーマにした参加型イベントで、14年目を迎える。 会場にはさまざまなコーナーを設け、無料で小児科医、歯科医、薬剤師が健康相談に応じたり、育児サークルが子育てについてアドバイスしたりする。 県と山形市の子育てに関する取り組み、体制の紹介もある。 ステージショーをはじめ、保育士を目指す羽陽学園短期大(天童市)の学生たちによる手作り遊具コーナー、親子工作教室など、毎年人気の企画を今年も継続する。 見て、触れて、学んで、親子で楽しめる空間を提供する。

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相田みつをさんの言葉

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今日は有楽町の相田みつを美術館に行ってきました。 先日、一風堂のパーティで長男の相田一人さんと会った時に頂いた招待券で。 これで3回目。 飽きませんね。 で、画像検索してたらこんなのが。 驚!ホンモノでしょうか?相田みつをがブレイク前からつきあってた仏教学者紀野さんの本に「知人に食えない書家がいる。 これが女遊びばかりしていて」みたいな記述がある。 相田みつをは若い頃イケメン。 ホントのような気が。 また、人間として生まれてきたからには、無駄にこの世を過ごしたくはない。 私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。 それが社会的に高いか低いか、そんなことは問題ではない。 その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きてゆくよろこびがあるのだ」昭和35年12月みつを ・・ということは、相田みつをが36歳の時。 60歳で初の著書「にんげんだもの」が出て、その後10年で100万部を越えて食うに困ることが無くなる、はるか以前の「明日の米どころか今日の米にもこと欠く」頃の、日々が極貧の頃の書。 この書にあえて題を付けるとすると、オレの大好きな「天職」ではないか。 組合職員や書道教室の先生を捨て、30歳前後から「書で独立起業」した相田みつをだったが、個展や旅館への飛び込み営業だけではなかなか食えない。 独自の「書」一本で食っていくと決意していたが、果たして、これがオレの天職なのかと悩んでいたのだろう。 いや、一時期は書とろうけつ染めをミックスした菓子店の包装紙デザインなどから収入を得ていた相田だが、「書」だけで生きることが天職とは決めていたはず。 しかし、現実はギリギリの生活。 自分では「これしかない!」が、対外的には「これが私の生きる道」とは言えなかったのか。 いずれにせよ、苦悩と覚悟と希望と決意が入り交じり、なんとも味わい深い。 誰もが同じように自分に言い聞かせた経験があるのではないか。 35歳前後はそういう年齢であり、オレも2度目の独立は36歳の時で、当時の広告代理業が「俺の天職!」とは言えなかった。 手がけた広告はもらった広告料以上の反応を叩き出し、自分の広告企画・コピーには自信はあった。 しかし、なんとも言えない違和感があった。 それが何かは当時はわからなかったが、今ははっきりとわかる。 それはいくら頑張って効果を出し、売上を上げても、所詮は広告「代理業」だったからだ。 クライアントの代わりに広告物を仕上げてメディアに出稿する。 当たり前だが、それは他人の天職創造の手伝いであり、下請だったからだ。 相田みつをも食えないときは包装紙デザインをやったが、本業の「書」では、人から頼まれた言葉や書を書くことはなかった。 自分が思う自分の言葉の「書」しか書かなかった。 まさに自分オリジナル。 しかし、今気づいたが、相田みつをは食うためにデザイナーをやり、オレも食うために広告代理業をやっていた。 オレは営業とコピーライティングだったが、なんと!同じ業種の仕事じゃないか。 ・・・・では収入はどのように得ていたか・・・意外なくらい、父は若い頃から講演に出かけている。 ・・・書の作品の<凝縮>の高まりと、それを発散するための講演活動は、相関関係にあったような気がする。 ・・作品を生み出す緊張感を保つためにも、講演という解放の場の必要性が高まったのだろう。 多いときには月に数回、毎週のように全国各地に出かけていった。 当然、講演をすればいくばくかの謝礼をいただくことになる。 現実的にはそれが収入となっていたのだろう」172p なんとも、オレと相田みつをは似ている!素晴らしい!やはり、著書100万部は夢ではない。 が、相田さんがそれを成し遂げたのは死後。 オレは40代のうちに成し遂げたいね。 しかし、相田みつをとオレの決定的な違いは、相田さんはあくまで「書」を残すのが第一で、書を集めた本の出版はずっと断っていた。 本の大きさに縮小された書は書ではないと。 が、1980年56歳の時に、書に惚れた兵庫県川西市の米田建築が創立記念誌に書を特集した「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」が口コミで10万部を越え、その記念誌に打たれた松本瑠樹というメンズファッションブランド「バツ」創業者が、なんと私費で編集制作し、文化出版局に持ち込んで生まれ、初版の大半は松本さんが買い取った。 それが、のちにミリオンセラーとなる「にんげんだもの」だ。 他の書を含めると、累計500万部くらいになってるんじゃないかな。 相田みつをには金銭欲はなかった。 最低限生活できれば、あとは人生のすべてを自分の「書」「言葉」を書くのに全精力を注ぎ込んだ。 貧乏な頃も、成功?したあとも、どんなに金を積まれても頼まれても、他人から頼まれた言葉の書は書かなかった。 勿論、書をまとめた本を100万部!なんて思ってもいなかっただろうし、売れた後もその手の欲にはまったく興味なかった。 (これはある意味、理想的な生き方。 しかし、凡人が真似るとすぐに破綻だ。 結果論だが、相田さんは書道業界の革命児・天才だった。 その生き方は清貧だ。 女遊びもしたそうだが、こと仕事に関しては清貧を貫いた。 素晴らしい生き方。 仏陀もマザーテレサもガンジーも、その手の人は皆、清貧だ。 しかし、その生き様を貫くには、相当の覚悟が必須。 でもオレもその手のタイプなんだよな) で、実はオレも、大きな声では言えないが、これをいうとまた妻が怒るし、30人の株主や様々な関係者に迷惑かけるのだが、はっきり言って最低限食え、たまに安い海外放浪できれば、それ以上の金にはあまり興味ない。 食い物や服や住まいや車は最低限でいいし、中洲や女遊びにも実は興味ない。 性欲はあるが、「ぷにゅぷにゅ」で充分。 はっきり言って、時間が惜しい。 勿体ない。 年収目標も1500万とか書いてるが、普段の生活は年収300万で暮らせるし、年収500万なら毎年200万余り、それでたまに世界や日本放浪できればいい。 それも自分が好きなことを話す講演と本で食えれば最高だ。 その合間に、独立起業に悩む人の相談に乗り、本人が望む収入が得られ、まさにこれが私の天職ですと言えるような人の、相田みつを的な起業家の、最低限の人生経営コンサルもしながら、「ありがとう」と言われ、でもそれは余興で金なんかいらない。 売ってるDVDやCDも、本当は全部タダにしたい。 講演料も印税も、本当は興味ない。 贅沢に興味はないので、あとは好きに自由に生きたい。 相田光男(本名)のように、金のことは考えず、自分の好きな書や言葉を書き、結果として読者がなにがしかの救いや感動やヒントが与えられればいい。 貧乏や挫折も大歓迎だ。 その適度な苦悩と迷いが人生経営を考えざるえない状況に追い込み、さらなる作品が産み出せる。 ・・・・なーんてことをたまに言うと、小学生の子供を抱えて日々現実生活を営んでいる妻は「どうでもいいけど、あなたの好きなようにやっていいけど、最低限のお金は稼いで!今後は食費も教育費もかかるんだから」というが、妻も贅沢には興味ない。 だから今までもそうだったが、本の印税や講演で最低限食えるようになると、次から次ぎにボランティア接近戦が増えまくる。 今もそうだが、そんな時には本の依頼も山ほどいただく。 が、接近戦を最優先し、本を書くことは後回しになり・・・。 ・・・・・・・・・・・ 東京丸の内にある相田みつを美術館は、常設作品の展示室や、ゆっくりと語れるカフェとともに、ミュジアムショップがあり、相田さんの作品集や、長男一人さんの文庫本、あるいは作家の解説書など大手出版社が競って発行した書籍がずらりとならんでいます。 また、相田さんの作品にかかわる色紙や、DVDビデオ、CDカセット、ポストカードからのれんや手ぬぐいまで、はては心の書としては読めないような字の携帯ストラップまでいろいろなグッズが販売されています。 もちろん通信販売もされています。 作家の故・立松和平さんは「思想の語り部」と相田さんを美しく評価されています。 しかし、生前の相田みつをさんを知る私には、美術館の中にも、立松さんの評の中にも、相田さんをみつけることはできませんでした。 あまりにも商業的な作品や、作為的に美化されてしまっているからです。 私が相田みつをさんと出逢えたのは、昭和五十二年の秋、京都の小さなみやげ物屋でみつけた一枚の色紙『生きていてよかった』との出逢いからです。 当時母はいろいろな悩みをかかえて、生きることに苦しんでいました。 そんな時、体に障害を持つ末弟が、同じ障害を持つ女性と結婚式をあげました。 その夜、車椅子から降りた母が「生きていてよかった」とポツリといいました。 色紙との出逢いからの仏縁で、私達の会社の創立十二周年記念誌として、相田さんの始めての作品集『雨の日には雨の中を風の日には風の中を』が生まれました。 朝日新聞日曜日の夕刊で当時の記事『心のページ』に紹介されたのがきっかけで、その後の十年で十万部を全国のみなさんへ郵便にておとどけいたしました。 平易でやさしいことば。 だれにでも読めるやわらかい文字。 それでいて見る人の心に人間的ふかい共感を与える。 これが相田さんの作品で、相田みつをさんその人の生きざま、人生感ではなかったでしょうか。 その後の昭和五十九年に、相田さん生前中の作品集として、文化出版局より『にんげんだもの』が発行されミリオンセラーとなりました。 つまづいたっていいじゃないか。 人間だもの。 にんげん我欲のかたまり。 にんげんのわたし。 なやみはつきないなあ。 生きているんだもの。 書家・詩人として、誰のまねでもない、自分の書、自分の言葉を求めつづけ、自分の弱さや甘さを正直にさらけだす。 それが相田みつをさんその人の、にんげんだものではなかったでしょうか。 平成三年十二月、少々の無理が重なり脳内出血により足利市にて永眠。 享年六十七歳。 コラム「声」の欄だ。 広島在住の母娘が門出に対し最高のプレゼントを頂く場面が載っている。 詳細は何れだが「出逢いが最高のプレゼント」にかわる。 素晴らしいことだ。 84年に出版された「にんげんだもの」 文化出版局 の大ヒットが、相田みつをの名を全国に知らしめた。 しかし、これより先の80年、まず評判を呼んだのが、「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」兵庫県川西市の米田建築が、創立12周年に発刊した記念誌で、67頁をみつをの書が占めた。 同社の米田典夫社長が、京都・嵐山のお土産店で「生きていてよかった」と、書かれた、みつをの色紙を見つけ、その場で50枚の色紙を買い取った。 2年後に記念誌を作る段になって、初めて米田社長はみつをと顔を合わせる。 足利市の岩下書店、岩下隆一氏は「感動というのは本当に人間を動かすんですね 当時75才会長職 」と、この記念誌をめくりながら語ったそうだ。 岩下さんは、東小学校 現在は廃校 、旧制足利中学校 現在の県立足利高校 で、みつをの1年後輩だった。 岩下さんの知るみつをは「相当人間くさい」と。 「すまないがこれでいくらか都合してくれないか」。 岩下書店に風呂敷包みを担いで、みつをが姿を現したのは、70年の暮れ。 風呂敷の中身は額縁に入った書の数々だった。 翌年の年賀状には岩下さんへの感謝の気持ちに加え、「雨ニモ負ケタ風ニモ負ケタ…」と窮乏生活を恥じながら、一方でそれを笑い飛ばす軽妙な文章が続いた、と。 みつをは、敬愛する高福寺 同市家富町 の武井哲応住職の講話を聴く「円融会」を設立。 道元の「正法眼蔵」や、武井住職の言葉を引用した会報「円融だより」を2カ月に1回発行。 市立山辺小学校や足利高校のPTA役員も務めるなど社交的な一面もあった。 背は高く往年の時代劇スターを思わせる風貌で、話術にも長けている。 「もてるタイプですよ!」と岩下さんは笑う。 しかし、アトリエでは繊細で孤独な芸術家の顔を見せた。 岩下さんがうずたかく詰まれた反古を見て「一枚くらいもらってもいいでしょう」と言うや、みつをの目の色が変わった。 「こんな作品を外に出したら恥だ!」「疲れれば疲れたと肩を落とすし、可笑しければ笑いころげる。 喜怒哀楽は、はっきりしてましたね」。 結局そんな表情豊かな生活が、人を感動させる書を生んだのではないかという。 勉強会を1200回開催。 成功事例DVD・動画・音声をネット通販(約200種)。 YouTubeやブログでも多数の情報発信。 家族世界一周。 ランチ会や缶ビール会も毎月開催。 福岡市出身。 百道中学・小倉西高・立命館大学卒・ヤマハ発動機・リクルート・IBMリース・ベンチャーと転職失敗後に東京で無料職業相談業は半年で廃業。 出版社のバイト経て、実家が他人の借金1億円かぶったので帰郷。 7社目は地場広告代理店アド通信社で広告営業。 同時にセミナー交流会「九州ベンチャー大学」開始。 実家売却・親自殺。 残債弁済のために8社目は広告代理店で独立。 借金完済。 本と講演に天職を見出し、2003年? は講演家・作家・天職コーチ。 詳細は「」をご覧下さい。

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【相田みつを 本気についても】相田みつを展、幕開け(山形新聞)

相田 みつを 山形

生い立ち [ ] 1924年、に6兄弟の三男として生まれた。 生家は名刹、(ばんなじ)の東に位置していた。 在学中に書や短歌、絵に親しんだが 、喫煙の濡れ衣をきせられ 軍事教練の教官に嫌われたために進学を断念。 卒業後は歌人・に師事した。 1942年、歌会で生涯の師となる高福寺のと出会い、在家しながら禅を学んだ。 1943年、書家を志してに師事、本格的に書の修行を積んだ。 1953年3月、卒業。 創作活動 [ ] 相田は書の最高峰のひとつとされるに1954年から7年連続入選するなど、技巧派の書家として出発した。 1947年のの臨書・「鄭文公碑臨書」で古典書道における実力を示す一方、1950年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露。 専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになり、三十歳のころ、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立した。 1954年、最初の個展を足利市で開催。 個展はその後も足利市などで毎年開催されるようになった。 1955年を学び、書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てていたが 、1974年、教えを受けていたのベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、さらに1984年、詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。 『にんげんだもの』はその後ミリオンセラーとなり 、つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)も約25万部のベストセラー 、地位を確立した。 若き日には、故郷足利市の老舗菓子店「虎谷」のミートサブレ(命名者も相田で「逢」のMeetが由来で)などの、包装紙や栞のデザインも手がけた。 1991年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、と診断され、それが原因となり急逝。 最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話になった。 67歳没。 作品に対して妥協を許さず、「逢」というたった一文字を書くために何百枚何千枚と紙を使用したり、印刷のわずかなズレや墨の色の微妙な違いから印刷済みの色紙千枚がボツになったこともあったという。 挫折を乗り越えてつくりあげられた作品には自らの実生活が重ね合わされているのが特徴である。 「 つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの みつを 」 —相田みつを(『にんげんだもの』より) 影響と批評 [ ] 相田は長く不遇であり、師匠の紀野一義によると、詩の文言が顧客に受け入れられずに長く苦しんだという。 晩年の大衆的人気と商業的な成功とは裏腹に、文学や書の分野で相田の作品が評論されることはあまりなく 、詩人のは「相田作品は処世訓のようなもの」、代表取締役であり詩人でもある小田久郎は「今は分かりやすいものが受ける時代。 詩は難解であっていい」、現代詩作家のは「実用的で即効性のあるものが求められているのを感じる。 でも、自分がどう生きるのか、長い時間をかけて考えさせてくれるのは文学しかない」と、おおむね否定的である。 は「素直に言ってこの相田みつをと言う人の、わざと下手に書いて人に阿(おもね)るような字も、それを紙に書きつけた、人の心の底の劣等感をごまかすような文句も私は嫌いである。 上手に書ける字をわざと下手に書く人には何か魂胆がある、と警戒したくなる」などと厳しい。 一方、詩人のは「相田みつをを詩人として認めるべき」であり「大勢の人に相田作品が読まれている現実を、無視するわけにはいかないでしょう。 むしろ詩人は、独りよがりになりすぎた現代詩の反省材料として、相田ブームを見るべきではないか」と述べた。 作家のは相田を「思想の語り部」と評し、「難しい言葉を一つも語らないで、仏教の根本的な哲理のようなものを語ってしまう。 そして、それを読んだ人に『なにかが残る』んですね。 行動経済学研究の第一人者である()は「彼の残した書の言葉は実に素晴らしく、心を打たれました。 行動経済学に通じるものがあります」と語り、相田の人に対する洞察が行動経済学が想定する「人類」をうまく表現していることを指摘した。 著名人の座右の銘 [ ]• 「そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 佛さまのものさし」 (パソナ代表取締役グループ代表)• 「そのとき どう動く」 菅原澄(画商・タマ美術代表取締役)• 「たまには涙をみせたっていいがな」 (新日本プロレス社長)• 「一生燃焼、一生感動、一生不悟」 常盤百樹(ときわももき、社長)• 「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」 (元及び・衆議院議員)• 「出会いが人を変え、感動が人を動かす」 (のパフォーマー) 遺産 [ ] 1996年、開館。 2004年、主演で相田の生涯が『』としてドラマ化された。 2007年、相田みつを美術館で新春書初めイベントが行われ、相田の書が楽しめる用ソフト『』の体験デモが行われた。 同年8月、による民主党代表選での演説で、「どじょう」(第2詩集「おかげさん」収録)が引用されると、美術館の来場者急増や詩集の注文殺到による増刷など脚光を浴びた。 は、自身の番組『』の「一期一会」のコーナーで相田の詩を紹介していて 、義母を介護する際にも読み聞かせていたという。 また、もTBSラジオ番組『』で毎週金曜日、「相田みつを・こころの美術館」で詩を朗読していた。 この他、インターネット上を中心に相田の詩を真似たパロディ作品も多数登場している。 著書 [ ] 50冊近い「相田本」はロングセラーを続け、累計1,000万部に迫るとされる。 単著 [ ]• 『にんげんだもの』 文化出版局(のち角川文庫)、1984年。 『おかげさん』 ダイヤモンド社、1987年。 『一生感動一生青春』 文化出版局、1990年。 『相田みつをひとり語り 第1集 いまここ』 ダイヤモンド社、1990年。 『いのちいっぱい』 ダイヤモンド社、1991年。 『いちずに一本道いちずに一ツ事』 佼成出版社(のち角川文庫)、1992年。 『雨の日には…』 文化出版局、1993年。 『しあわせはいつも』 文化出版局、1995年。 『アノネ』 相田みつを・心の詩1 ダイヤモンド社、1995年。 『空を見上げて』 相田みつを・心の詩2 ダイヤモンド社、1995年。 『大事なこと』 相田みつを・心の詩3 ダイヤモンド社、1995年。 『生きていてよかった』 相田一人監修、ダイヤモンド社(のち角川文庫)、1998年。 『相田みつをと私 著名50人が選んだマイベストコレクション』 毎日新聞社〈毎日ムック〉、2000年。 『じぶんの花を』 文化出版局、2001年。 『ひとりしずか』 角川文庫、2001年。 『私が「じぶん」に出逢うとき』 毎日新聞社〈毎日ムック〉、2002年。 『いまからここから』 ダイヤモンド社、2003年。 『「生きていてよかった」特別編 3年B組金八先生ベストセレクション』 ダイヤモンド社、2005年。 『いのちのバトン 初めて出会う相田みつをのことば』 角川文庫、2005年。 『本気』 文化出版局、2006年。 『相田みつをの「本気」で書き写し』 文化出版局、2006年。 『いのち いちばん大切なもの』 文化出版局、2008年。 『雨の日には雨の中を風の日には風の中を』 角川文庫、2009年。 『ある日自分へ』 監修、文化出版局、2010年。 共著 [ ]• 『育てたように子は育つ 相田みつをいのちのことば』 監修、小学館、1999年。 佐々木正美『なやみはつきねんだなあ 相田みつをいのちのことば』 小学館、2003年。 『日めくり物語 三十の人生の三十の感動』 小学館、2004年。 辻慶樹『ことばは光』 アスク、2005年。 『相田みつをの心 野崎洋光の味』 文化出版局、2009年。 私生活 [ ] 、材木商の末娘であった平賀千江と結婚。 千江は「短歌の会」で相田と知り合ったが、不器用で収入がなかった相田との結婚に周囲が反対したという。 一男一女をもうけ、家族四人は八畳一間で暮らしていたが、相田だけは三十畳のアトリエを独占していたという。 館長のは長男。 画商の菅原澄によると、相田は自分では「自分は書家ではない。 在野の坊主だ」と常々言っていたが、人間臭く、わがままで、嫌いな相手とすぐケンカになったり、女性に大層もてたりしたという。 在住の書道家 [ ]、女流書家の尾花也生(おばなやよい) など、懇意にしていた書道家仲間が多数存在した。 足利を代表する須永花火など数社を有する須永グループ代表の須永昇は相田のパトロンの一人であり、無名だった相田の作品を展覧会の度に購入して活動を支えた。 現在も須永家では相田の作品を数多く所蔵し、一部は相田みつを美術館に寄贈、須永コレクションとして展示されている。 参考文献 [ ]• 産経新聞. 2001年9月28日• 毎日新聞. 2006年6月7日• 東奥日報• 産経新聞. 2001年9月28日• 毎日新聞. 2011年4月2日• 中日新聞. 2007年4月1日• 産経新聞. 2011年9月1日• 読売新聞. 2002年4月4日• msn産経ニュース. 2011年8月31日. 読売新聞日曜版2014年12月21日2面• 産経新聞. 2001年9月28日• 産経新聞. 2001年9月28日• 都築響一、2006、「都築響一の夜露死苦現代詩」、『新潮』103巻2号(2006年2月号)、新潮社• 「泥鰌内閣」(『マルセイユの海鞘』)• 広野彩子 2009年10月6日. 日経ビジネス・オンライン. 産経新聞. 2001年9月28日• 産経新聞. 2001年9月28日• 池冨仁 2005年10月30日. 週刊ダイヤモンド• X BRAND 2013年2月18日. 2013年8月31日閲覧。 2006年12月28日• 田中聡 2009年3月25日. 2013年4月30日閲覧。 2011年6月17日. 2013年4月30日閲覧。 2013年4月30日閲覧。 2012年2月19日. 2013年4月30日閲覧。 2013年4月30日閲覧。 毎日新聞. 2006年9月17日• 中日新聞. 2009年5月10日 関連文献 [ ]• 『生きるのが下手な人へ』 光文社、1974年。 松本幸夫 『いのちの詩人相田みつをに学ぶ』 総合法令出版、1997年。 『父相田みつを』 文化出版局(のち角川文庫)、1998年。 相田一人 『書相田みつを』 文化出版局、1998年。 松本幸夫 『おかげさまの人生 相田みつをに学ぶ生き方』 総合法令出版、1998年。 『相田みつを 奇跡のことば』 河出書房新社〈Kawade夢ムック〉、2001年。 今井久喜 『ことばに生かされて 相田みつを・人生の応援歌』相田一人監修、小学館、2002年。 致知編集部 『現代人の伝記1』 致知出版、2003年。 外部リンク [ ]•

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