ハルトベルク 対 ザルツブルク。 南野拓実を間近で見る地元記者のリアルな評価は…。「彼はザルツブルクの全て」、リバプール移籍は間近に

TSVハルトベルク

ハルトベルク 対 ザルツブルク

夜のザルツブルク市街 英名 Historic Centre of the City of Salzburg 仏名 Centre historique de la ville de Salzbourg 登録区分 2 , 4 , 6 登録年 1996年 公式サイト (英語) ・ ザルツブルク市街の歴史地区(ザルツブルクしがいのれきしちく、 Historic Centre of the City of Salzburg)は、ののひとつ。 との国境に近い、オーストリア北西部の州都に所在する。 紀元前よりのによって栄えてきたこの町は、「 ザルツ(塩の)ブルク(城)」と呼称されてきた。 中世において塩は、「白い黄金」と呼ばれるほど貴重なものであった。 には司教座が置かれてとして栄え、左岸の旧市街には、や歴史的建造物が数多く建てられ、「 北のローマ」あるいは「 北のフィレンツェ」と称された。 、世界遺産()に登録されたが、オーストリア国内ではの「」とならんで初の世界遺産登録であった。 「教会国家」としての長い歴史にちなむ遺産、に由来する多くの建築物群、の生家などにまつわる多くの遺産で知られる。 ホーエンザルツブルク城からみた市街(南から)。 手前の建物が大聖堂。 ザルツァッハ川は南東から北西へと流れている。 川の向こう側が新市街 古来、塩の交易で栄えてきたザルツブルクであるが、都市としての歴史は、、・地方の司教であった ()が亡命し、のテオド大公が彼のために西はキームゼーから南はザルツァッハ川上流の土地を、司教区管轄地とすることを認めて、彼がメンヒスベルク山麓にを創設したことにさかのぼる。 以後、には最初のが大修道院司祭 ()によって創設され、9世紀には司教座が置かれて「司教都市」となり、中ごろまでには小規模ながら都市としての姿ができあがった。 後半、ザルツブルクはの支配する一侯国となり、商品中継地となっていた市民の多くはそのことを嫌ったという。 、直属の都市となって以来、大司教が世俗のを兼ねて宗教と政治をともに支配する絶大な権力者となり、、ザルツブルクにの地位を獲得させようという市民層の努力はでもあった大司教の手によって挫折させられた。 その後、大司教 ()(在位-)と ()によって都市のがはじまっている。 現在、 ツェントラル(旧市街)と呼ばれるザルツァッハ川左岸地域には、大聖堂、、聖ペーター僧院教会、などの歴史的建造物があり、市壁や中世都市の構造をよく残した数々の小路がある。 やの墓など音楽家にまつわる旧跡も多い。 ザルツブルク大聖堂 [ ] 1628年完成の大聖堂正面 最初の ドーム Dom はにによりメンヒスベルクの山裾に創設されたもので、司教聖ヴィルギリウスがを献堂し、そののちのやの基礎となった。 その後の数世紀、教会はその影響力をたえず広げようとし、やあるいは特権によって守られた宗教的な地位を、世俗的な権力を強めるためにも活用した。 2度目のドームは、からころにかけてに改築された。 以北では唯一、身廊が5つあるバシリカ様式の建築でドイツ皇帝聖堂との混合形式である。 一領主である司教がこのように優れた建築物を造ることができたのは、教会所有地の収入のほか、ハラインの岩塩採掘、タウエルンの金採鉱での収入によるものであった。 今日の ザルツブルク大聖堂は、にによって建て直されたものである。 ザルツブルクの歴史において最も華麗な祝典は、1628年の大聖堂の献堂式であったが、それはのさなかの出来事であった。 イタリア出身の(-)の設計案が廃案となり、同じくイタリア出身のサンティーノ・ソラーリオ(-)によって設計された大聖堂は、ドームの乗るの双塔をもち、をはさんで構成されたを特徴とする。 多数のによって装飾され、内装はの効果をふんだんに利用しており、イタリアのバロック様式を取り入れた美しい建築で知られる。 1万人もの人員が収容可能であり、大規模ながとりおこなわれ、また、ヨーロッパ最大のを所蔵している。 に設けられた聖堂の鐘も圏では最大のものである。 には改修を受けている。 この聖堂前を舞台に以来、『』が上演され、これがのオープニングになっている。 なお、この音楽祭の発案者は『イェーダーマン』の作者でもあるの文豪であった。 祝祭大劇場 [ ] ペータースフリートホフ その教会墓地である () Petersfriedhof はの時代には、ロマン主義者たちが好んだ強烈な磁場をもつ空間となった。 18世紀に活躍した(の弟)もここに眠っている。 また、ロマネスク-ゴシック期の岩窟礼拝堂、グロッタや初期の地下納骨堂()も見学することができる。 聖ペーター僧院教会に隣接して、メンヒスベルク山の岩盤をくりぬいた岩肌を利用した「」があり、のの宮廷に仕えたがに「ヨーロッパ最古のレストラン」として記録している。 以降は、や、たちがここに出入りするようになり、ミヒャエル・ハイドンもしばしば訪れている。 教会墓地付近には彼が居住したことを記したのある建物もある。 ノンベルク修道院 [ ] ホーエンザルツブルク城近景 Festung Hohensalzburg は、、との間に起こったのさなか、の大司教 ()(ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世)がの南ドイツ諸侯に対抗すべく建築した防衛施設で、旧市の南端、メンヒスブルク山の山頂に立地する。 ゲプハルトにはじまった増改築は(ころ-)のもとで一応の終了をみた。 「赤ひげ王」として知られる神聖ローマ皇帝(在位-)によってザルツブルクの町が焼き払われたことがあったが、この城はそのときも無事であった。 ホーエンザルツブルク城は、町のほとんどどこからでも見ることができ、1. 3キロメートルにわたって続く高さ約50メートルの高地をなしている。 一番高い場所(ホーアー・シュトゥック)の標高は508メートルである。 城のなかには、等身大の像がならんだ建造の「聖ゲオルク礼拝堂」、ザルツブルクの町の人びとに時を告げる、製作の機械「ザルツブルクの雄牛」があり、いずれもレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教(在位-)の大拡張によるものである。 その後も歴代の大司教により増改築がくり返され、後半にはほぼ現在の姿に近づいたと考えられる。 内部は ブルク博物館になっており、のの豪華なや武器、が盛行した時期の拷問具などが展示され、「黄金の大広間」「黄金の小部屋」など後期ゴシック様式の壮麗な部屋がある。 までは大司教の住居として使用され、それ以後は兵舎またはとして利用されたが、外敵に占領されたことが一度もなく、ヨーロッパ中世のものとしては完璧に保存された稀有な例となっている。 「レックの塔」からは北に市街地、南にアルプスの山々を見わたすことができる。 ホーエンザルツブルク城では毎年「国際サマーアカデミー」がひらかれており、世界中の芸術家が集まる。 山頂へは、開通のが約10分間隔で往復している。 市内にのこる市壁の痕跡 [ ] 11世紀後半の城の建設に対して、市壁の建設が決定されたのはようやくになってのことであった。 市壁の痕跡はいまも市街にのこっており、中世の都市構造はつづら折りになった小路とともによく残されている。 レジデンツ広場 [ ] レジデンツ広場の「アトラス神の噴水」 () Residenzplatz は、ツェントルムと呼ばれる旧市街の中心に位置し、中央には 「アトラス神の噴水」がある。 三方を大聖堂(南)、レジデンツ(西)、グロッケンシュピール(東)に囲まれた一画である。 広場西側にはその名称の由来となった レジデンツ(宮殿)が建っている。 現在の宮殿はに完成したもので、歴代の大司教が居住して政治をおこなった場所であり、すべての部屋の天井にはの絵が描かれている。 「神童」と呼ばれた天才が5歳で音楽会をひらき、また、はじめて自作のを上演したところでもあり、モーツァルトの主人であった ()(Hieronymus von Colloredo, -)はザルツブルク最後の大司教となった人物である。 現在、レジデンツ内部は ザルツブルク州立博物館となっており、そのギャラリーにはヨーロッパの美術品とくに中世絵画が多数収集され、中世のなども数多く展示されている。 レジデンツ広場とグロッケンシュピール グロッケンシュピール [ ] 広場の東側には35個の鐘をつけた新宮殿(州庁舎)のがあり、「」とよばれるがある。 、 ()大司教がベルギーのの鐘鋳造職人メルキオール・デ・ハーゼから購入したものと伝わる。 7時、11時、18時の1日3回、モーツァルトの曲を演奏する。 トゥーンは東インド会社に投資して巨額の儲けを得たとされるので、オランダの出島貿易の儲けがこの鐘の建設費を賄った可能性が考えられる。 モーツァルト広場と大聖堂広場 [ ] グロッケンシュピールの北側は モーツァルト広場 Mozartplatz とよばれ、中央にモーツァルト像があり、やレストランが並んでいる。 その北のモーツァルト小橋によってザルツァッハ川右岸の新市街と結ばれている。 レジデンツ広場の南側、大聖堂のさらに南には ドーム広場 Domplatz があり、聖ペーター僧院教会とのあいだの狭い坂道の裾にホーエンザルツブルク城へのケーブルカー搭乗口がある。 中世の小路と街並み [ ] ゲトライデ通り ザルツブルク旧市街にはゲトライデ通り Getreidegasse 、 Judengasse 、ゴルト通り Goldgasse 、ブロート通り Brodgasse 、河畔通り Kaigasse 、新市街にはリンツ通り Linzergasse 、シュタイン通り Steingasse など数々の路があり、中世の都市構造は、これら不規則に絡み合った細い小路によく残されており、その街並みにはをめぐらせた中庭がともなっている。 また、それぞれの小路では、中世様式、ロマネスク様式、ルネサンス様式、バロック様式など各様式で建てられた建築物や、の時代における擬古典的で優雅なを目にすることができる。 旧市街(ツェントラル)中心部の ゲトライデ通りには、同業者組合、業者などの装飾的な鉄細工のがたくさん並んでおり、現在では、ユーデン通りとならび、ザルツブルク旧市街で最も繁華な小路となっている。 ユーデン通りは、その名のとおり、かつての居住したのあった小路である。 ゲトライデ通りにあるモーツァルト生家 モーツァルト生家 [ ] にが誕生したといわれる家 Mozarts Geburtshaus は、ゲトライデ通り9番地に所在する黄色い建物の4階にあり、現在は モーツァルト記念館として残されている。 、ときの大司教 () Sigismund von Schrattenbach は、13歳のモーツァルトを宮廷楽団のコンサートマスターに任命している。 ここには愛用のやなどの、自筆ののほか、父、母、姉をはじめとするモーツァルト一家のなどが展示されている。 「大司教の町」であったザルツブルクは、ウィーンのような有力を欠いており、をたしなむ階級が圧倒的に不足していた。 モーツァルトは、すでに家族とともににはウィーンへ演奏旅行で訪れ、大好評を博していた。 彼がザルツブルクでの宮廷作曲家の職を辞し、、を皮切りに新天地に職を求めて旅立ったのは、モーツァルト21歳のときであった。 ザルツァッハ川右岸地域 [ ] 南東から北西にむかうザルツァッハ川の右岸、すなわち市の北部にあたる新市街にも歴史的に重要な建造物が残っている。 その代表的なものがである。 ミラベル宮殿 [ ] 庭園からみる「ペガサスの噴水」と宮殿 、大司教ヴォルフ・ディートリヒが愛人ザロメ・アルトのために建てたとされるのが () Schloss Mirabell である。 ヨハン・カスパール・ツッカリ(-)の設計による。 に火災があり、そのあと修復され、現在はザルツブルク市長公邸として用いられている。 2階には壮麗な「マルモーア・ザール(大理石の間)」があり、モーツァルト親子もここで演奏をおこなっている。 2階にのぼる階段は「天使の階段」と呼ばれ、にラファエル・ドナーによって造られたものである。 このミラベル宮殿のマーブルホールでは、今なおコンサートが開催されている。 なお、ツッカリによるザルツブルクの他の建築にはカイエターナー聖堂、エアハルト聖堂、レジデンツ、大学旧館などがあり、上述した旧市街のレジデンツ広場、大聖堂広場もツッカリの設計による。 ミラベル宮殿には、にフィッシャー・フォン・エルラッハ(-)によって設計された美しい () Mirabellgarten が付設されている。 庭園には、の神々のがならび、「ペガサスの噴水」のまわりは、映画『サウンド・オブ・ミュージック』で演じるが子どもたちと一緒に「」を歌い、踊ったところである。 なお、エルラッハの手によるものとしては、参事会聖堂、ヨハンネスシュピタール聖堂、ウルズリーネン聖堂があり、後述するもエルラッハの設計によるものである。 モーツァルテウム [ ] ミラベル庭園に隣接して音楽院モーツァルテウム Mozarteum がある。 附属にはモーツァルト関連が保管されている。 また、ウィーンで『魔笛』を作曲したという伝説の小屋が移築、保存されている。 人形劇場と州立劇場 [ ] モーツァルテウムに隣接して、人形劇場 Marionettentheater がある。 約1メートルの背丈のを用いてモーツァルトのなどを上演しているである。 隣接してザルツブルク州立劇場があり、内装の豪華なことで知られる。 三位一体教会 [ ] ザルツブルクにおけるフィッシャー・フォン・エルラッハ最初の建築といわれるのが、三位一体教会 Dreifaltigkeitskirche であり、からにかけて建てられた。 2本の時計塔を有するバロック様式の教会で、ドームのはヨハン・ミヒャエル・ロトマイヤーの手によるものである。 ヘルブルン宮殿 [ ] ヘルブルン宮殿 大司教マルクス・フォン・ホーエネムスの夏のとして建てられた Schloss Hellbrunn はザルツブルク南郊に所在している。 至るところに水の仕掛けがあり、庭の石造りのから定期的に水が噴き出す仕掛けや噴水により王冠を浮かび上がらせる「王冠の噴水」などで有名である。 かつて大司教はこの宮殿に客を招き、宴もたけなわになると水を降らせて客がびしょ濡れになるのを楽しんだという。 からにかけて改築され、5つの水力機械、256体の木偶を備えた機械劇場がある。 庭園内にはマルクス・フォン・ホーエネムスが1月で完成させたという伝説をもつ モーナーツ城(一月城)があり、現在は民俗博物館として利用されている。 登録基準 [ ] この世界遺産はのうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は公表のからの翻訳、引用である)。 2 ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 4 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 6 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。 アクセス [ ]• よりで約1時間。 から市内へはが出ている。 参考文献 [ ]• ユネスコ世界遺産センター『ユネスコ世界遺産13 新指定』、1998. 編『地球紀行 世界遺産の旅』小学館、1999. 10、• 監修『読んで旅する世界の歴史と文化 オーストリア』、1995. 『ザルツブルクとチロル アルプスの山と街を歩く』、ダイヤモンド社、2013年、 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (独・英・仏・伊・西・日・中・ポーランド・チェコ・ハンガリー・ロシア語)• (英語)• (英・独・仏・伊・西・チェコ・日・韓国語) この項目は、に関連した です。 この項目は、に関連した です。

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夜のザルツブルク市街 英名 Historic Centre of the City of Salzburg 仏名 Centre historique de la ville de Salzbourg 登録区分 2 , 4 , 6 登録年 1996年 公式サイト (英語) ・ ザルツブルク市街の歴史地区(ザルツブルクしがいのれきしちく、 Historic Centre of the City of Salzburg)は、ののひとつ。 との国境に近い、オーストリア北西部の州都に所在する。 紀元前よりのによって栄えてきたこの町は、「 ザルツ(塩の)ブルク(城)」と呼称されてきた。 中世において塩は、「白い黄金」と呼ばれるほど貴重なものであった。 には司教座が置かれてとして栄え、左岸の旧市街には、や歴史的建造物が数多く建てられ、「 北のローマ」あるいは「 北のフィレンツェ」と称された。 、世界遺産()に登録されたが、オーストリア国内ではの「」とならんで初の世界遺産登録であった。 「教会国家」としての長い歴史にちなむ遺産、に由来する多くの建築物群、の生家などにまつわる多くの遺産で知られる。 ホーエンザルツブルク城からみた市街(南から)。 手前の建物が大聖堂。 ザルツァッハ川は南東から北西へと流れている。 川の向こう側が新市街 古来、塩の交易で栄えてきたザルツブルクであるが、都市としての歴史は、、・地方の司教であった ()が亡命し、のテオド大公が彼のために西はキームゼーから南はザルツァッハ川上流の土地を、司教区管轄地とすることを認めて、彼がメンヒスベルク山麓にを創設したことにさかのぼる。 以後、には最初のが大修道院司祭 ()によって創設され、9世紀には司教座が置かれて「司教都市」となり、中ごろまでには小規模ながら都市としての姿ができあがった。 後半、ザルツブルクはの支配する一侯国となり、商品中継地となっていた市民の多くはそのことを嫌ったという。 、直属の都市となって以来、大司教が世俗のを兼ねて宗教と政治をともに支配する絶大な権力者となり、、ザルツブルクにの地位を獲得させようという市民層の努力はでもあった大司教の手によって挫折させられた。 その後、大司教 ()(在位-)と ()によって都市のがはじまっている。 現在、 ツェントラル(旧市街)と呼ばれるザルツァッハ川左岸地域には、大聖堂、、聖ペーター僧院教会、などの歴史的建造物があり、市壁や中世都市の構造をよく残した数々の小路がある。 やの墓など音楽家にまつわる旧跡も多い。 ザルツブルク大聖堂 [ ] 1628年完成の大聖堂正面 最初の ドーム Dom はにによりメンヒスベルクの山裾に創設されたもので、司教聖ヴィルギリウスがを献堂し、そののちのやの基礎となった。 その後の数世紀、教会はその影響力をたえず広げようとし、やあるいは特権によって守られた宗教的な地位を、世俗的な権力を強めるためにも活用した。 2度目のドームは、からころにかけてに改築された。 以北では唯一、身廊が5つあるバシリカ様式の建築でドイツ皇帝聖堂との混合形式である。 一領主である司教がこのように優れた建築物を造ることができたのは、教会所有地の収入のほか、ハラインの岩塩採掘、タウエルンの金採鉱での収入によるものであった。 今日の ザルツブルク大聖堂は、にによって建て直されたものである。 ザルツブルクの歴史において最も華麗な祝典は、1628年の大聖堂の献堂式であったが、それはのさなかの出来事であった。 イタリア出身の(-)の設計案が廃案となり、同じくイタリア出身のサンティーノ・ソラーリオ(-)によって設計された大聖堂は、ドームの乗るの双塔をもち、をはさんで構成されたを特徴とする。 多数のによって装飾され、内装はの効果をふんだんに利用しており、イタリアのバロック様式を取り入れた美しい建築で知られる。 1万人もの人員が収容可能であり、大規模ながとりおこなわれ、また、ヨーロッパ最大のを所蔵している。 に設けられた聖堂の鐘も圏では最大のものである。 には改修を受けている。 この聖堂前を舞台に以来、『』が上演され、これがのオープニングになっている。 なお、この音楽祭の発案者は『イェーダーマン』の作者でもあるの文豪であった。 祝祭大劇場 [ ] ペータースフリートホフ その教会墓地である () Petersfriedhof はの時代には、ロマン主義者たちが好んだ強烈な磁場をもつ空間となった。 18世紀に活躍した(の弟)もここに眠っている。 また、ロマネスク-ゴシック期の岩窟礼拝堂、グロッタや初期の地下納骨堂()も見学することができる。 聖ペーター僧院教会に隣接して、メンヒスベルク山の岩盤をくりぬいた岩肌を利用した「」があり、のの宮廷に仕えたがに「ヨーロッパ最古のレストラン」として記録している。 以降は、や、たちがここに出入りするようになり、ミヒャエル・ハイドンもしばしば訪れている。 教会墓地付近には彼が居住したことを記したのある建物もある。 ノンベルク修道院 [ ] ホーエンザルツブルク城近景 Festung Hohensalzburg は、、との間に起こったのさなか、の大司教 ()(ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世)がの南ドイツ諸侯に対抗すべく建築した防衛施設で、旧市の南端、メンヒスブルク山の山頂に立地する。 ゲプハルトにはじまった増改築は(ころ-)のもとで一応の終了をみた。 「赤ひげ王」として知られる神聖ローマ皇帝(在位-)によってザルツブルクの町が焼き払われたことがあったが、この城はそのときも無事であった。 ホーエンザルツブルク城は、町のほとんどどこからでも見ることができ、1. 3キロメートルにわたって続く高さ約50メートルの高地をなしている。 一番高い場所(ホーアー・シュトゥック)の標高は508メートルである。 城のなかには、等身大の像がならんだ建造の「聖ゲオルク礼拝堂」、ザルツブルクの町の人びとに時を告げる、製作の機械「ザルツブルクの雄牛」があり、いずれもレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教(在位-)の大拡張によるものである。 その後も歴代の大司教により増改築がくり返され、後半にはほぼ現在の姿に近づいたと考えられる。 内部は ブルク博物館になっており、のの豪華なや武器、が盛行した時期の拷問具などが展示され、「黄金の大広間」「黄金の小部屋」など後期ゴシック様式の壮麗な部屋がある。 までは大司教の住居として使用され、それ以後は兵舎またはとして利用されたが、外敵に占領されたことが一度もなく、ヨーロッパ中世のものとしては完璧に保存された稀有な例となっている。 「レックの塔」からは北に市街地、南にアルプスの山々を見わたすことができる。 ホーエンザルツブルク城では毎年「国際サマーアカデミー」がひらかれており、世界中の芸術家が集まる。 山頂へは、開通のが約10分間隔で往復している。 市内にのこる市壁の痕跡 [ ] 11世紀後半の城の建設に対して、市壁の建設が決定されたのはようやくになってのことであった。 市壁の痕跡はいまも市街にのこっており、中世の都市構造はつづら折りになった小路とともによく残されている。 レジデンツ広場 [ ] レジデンツ広場の「アトラス神の噴水」 () Residenzplatz は、ツェントルムと呼ばれる旧市街の中心に位置し、中央には 「アトラス神の噴水」がある。 三方を大聖堂(南)、レジデンツ(西)、グロッケンシュピール(東)に囲まれた一画である。 広場西側にはその名称の由来となった レジデンツ(宮殿)が建っている。 現在の宮殿はに完成したもので、歴代の大司教が居住して政治をおこなった場所であり、すべての部屋の天井にはの絵が描かれている。 「神童」と呼ばれた天才が5歳で音楽会をひらき、また、はじめて自作のを上演したところでもあり、モーツァルトの主人であった ()(Hieronymus von Colloredo, -)はザルツブルク最後の大司教となった人物である。 現在、レジデンツ内部は ザルツブルク州立博物館となっており、そのギャラリーにはヨーロッパの美術品とくに中世絵画が多数収集され、中世のなども数多く展示されている。 レジデンツ広場とグロッケンシュピール グロッケンシュピール [ ] 広場の東側には35個の鐘をつけた新宮殿(州庁舎)のがあり、「」とよばれるがある。 、 ()大司教がベルギーのの鐘鋳造職人メルキオール・デ・ハーゼから購入したものと伝わる。 7時、11時、18時の1日3回、モーツァルトの曲を演奏する。 トゥーンは東インド会社に投資して巨額の儲けを得たとされるので、オランダの出島貿易の儲けがこの鐘の建設費を賄った可能性が考えられる。 モーツァルト広場と大聖堂広場 [ ] グロッケンシュピールの北側は モーツァルト広場 Mozartplatz とよばれ、中央にモーツァルト像があり、やレストランが並んでいる。 その北のモーツァルト小橋によってザルツァッハ川右岸の新市街と結ばれている。 レジデンツ広場の南側、大聖堂のさらに南には ドーム広場 Domplatz があり、聖ペーター僧院教会とのあいだの狭い坂道の裾にホーエンザルツブルク城へのケーブルカー搭乗口がある。 中世の小路と街並み [ ] ゲトライデ通り ザルツブルク旧市街にはゲトライデ通り Getreidegasse 、 Judengasse 、ゴルト通り Goldgasse 、ブロート通り Brodgasse 、河畔通り Kaigasse 、新市街にはリンツ通り Linzergasse 、シュタイン通り Steingasse など数々の路があり、中世の都市構造は、これら不規則に絡み合った細い小路によく残されており、その街並みにはをめぐらせた中庭がともなっている。 また、それぞれの小路では、中世様式、ロマネスク様式、ルネサンス様式、バロック様式など各様式で建てられた建築物や、の時代における擬古典的で優雅なを目にすることができる。 旧市街(ツェントラル)中心部の ゲトライデ通りには、同業者組合、業者などの装飾的な鉄細工のがたくさん並んでおり、現在では、ユーデン通りとならび、ザルツブルク旧市街で最も繁華な小路となっている。 ユーデン通りは、その名のとおり、かつての居住したのあった小路である。 ゲトライデ通りにあるモーツァルト生家 モーツァルト生家 [ ] にが誕生したといわれる家 Mozarts Geburtshaus は、ゲトライデ通り9番地に所在する黄色い建物の4階にあり、現在は モーツァルト記念館として残されている。 、ときの大司教 () Sigismund von Schrattenbach は、13歳のモーツァルトを宮廷楽団のコンサートマスターに任命している。 ここには愛用のやなどの、自筆ののほか、父、母、姉をはじめとするモーツァルト一家のなどが展示されている。 「大司教の町」であったザルツブルクは、ウィーンのような有力を欠いており、をたしなむ階級が圧倒的に不足していた。 モーツァルトは、すでに家族とともににはウィーンへ演奏旅行で訪れ、大好評を博していた。 彼がザルツブルクでの宮廷作曲家の職を辞し、、を皮切りに新天地に職を求めて旅立ったのは、モーツァルト21歳のときであった。 ザルツァッハ川右岸地域 [ ] 南東から北西にむかうザルツァッハ川の右岸、すなわち市の北部にあたる新市街にも歴史的に重要な建造物が残っている。 その代表的なものがである。 ミラベル宮殿 [ ] 庭園からみる「ペガサスの噴水」と宮殿 、大司教ヴォルフ・ディートリヒが愛人ザロメ・アルトのために建てたとされるのが () Schloss Mirabell である。 ヨハン・カスパール・ツッカリ(-)の設計による。 に火災があり、そのあと修復され、現在はザルツブルク市長公邸として用いられている。 2階には壮麗な「マルモーア・ザール(大理石の間)」があり、モーツァルト親子もここで演奏をおこなっている。 2階にのぼる階段は「天使の階段」と呼ばれ、にラファエル・ドナーによって造られたものである。 このミラベル宮殿のマーブルホールでは、今なおコンサートが開催されている。 なお、ツッカリによるザルツブルクの他の建築にはカイエターナー聖堂、エアハルト聖堂、レジデンツ、大学旧館などがあり、上述した旧市街のレジデンツ広場、大聖堂広場もツッカリの設計による。 ミラベル宮殿には、にフィッシャー・フォン・エルラッハ(-)によって設計された美しい () Mirabellgarten が付設されている。 庭園には、の神々のがならび、「ペガサスの噴水」のまわりは、映画『サウンド・オブ・ミュージック』で演じるが子どもたちと一緒に「」を歌い、踊ったところである。 なお、エルラッハの手によるものとしては、参事会聖堂、ヨハンネスシュピタール聖堂、ウルズリーネン聖堂があり、後述するもエルラッハの設計によるものである。 モーツァルテウム [ ] ミラベル庭園に隣接して音楽院モーツァルテウム Mozarteum がある。 附属にはモーツァルト関連が保管されている。 また、ウィーンで『魔笛』を作曲したという伝説の小屋が移築、保存されている。 人形劇場と州立劇場 [ ] モーツァルテウムに隣接して、人形劇場 Marionettentheater がある。 約1メートルの背丈のを用いてモーツァルトのなどを上演しているである。 隣接してザルツブルク州立劇場があり、内装の豪華なことで知られる。 三位一体教会 [ ] ザルツブルクにおけるフィッシャー・フォン・エルラッハ最初の建築といわれるのが、三位一体教会 Dreifaltigkeitskirche であり、からにかけて建てられた。 2本の時計塔を有するバロック様式の教会で、ドームのはヨハン・ミヒャエル・ロトマイヤーの手によるものである。 ヘルブルン宮殿 [ ] ヘルブルン宮殿 大司教マルクス・フォン・ホーエネムスの夏のとして建てられた Schloss Hellbrunn はザルツブルク南郊に所在している。 至るところに水の仕掛けがあり、庭の石造りのから定期的に水が噴き出す仕掛けや噴水により王冠を浮かび上がらせる「王冠の噴水」などで有名である。 かつて大司教はこの宮殿に客を招き、宴もたけなわになると水を降らせて客がびしょ濡れになるのを楽しんだという。 からにかけて改築され、5つの水力機械、256体の木偶を備えた機械劇場がある。 庭園内にはマルクス・フォン・ホーエネムスが1月で完成させたという伝説をもつ モーナーツ城(一月城)があり、現在は民俗博物館として利用されている。 登録基準 [ ] この世界遺産はのうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は公表のからの翻訳、引用である)。 2 ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 4 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 6 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。 アクセス [ ]• よりで約1時間。 から市内へはが出ている。 参考文献 [ ]• ユネスコ世界遺産センター『ユネスコ世界遺産13 新指定』、1998. 編『地球紀行 世界遺産の旅』小学館、1999. 10、• 監修『読んで旅する世界の歴史と文化 オーストリア』、1995. 『ザルツブルクとチロル アルプスの山と街を歩く』、ダイヤモンド社、2013年、 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (独・英・仏・伊・西・日・中・ポーランド・チェコ・ハンガリー・ロシア語)• (英語)• (英・独・仏・伊・西・チェコ・日・韓国語) この項目は、に関連した です。 この項目は、に関連した です。

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