白河 の 清き に 魚の 住み かねて 元 の 濁り の 田沼 恋しき 意味。 近世史の授業改革

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白河 の 清き に 魚の 住み かねて 元 の 濁り の 田沼 恋しき 意味

生涯 [ ] 出生 [ ] 4年()7月27日、士からになったの長男としての本郷弓町の屋敷で生まれる。 幼名は 龍助。 父・意行はのだったが、部屋住み時代のの側近に登用され、吉宗が第8代となると幕臣となり小身旗本となった。 吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となるの西丸として抜擢され、享保20年()に父の遺跡600石を継いだ [ ]。 父・意行は息子を授かるためにに帰依し、そして意次が生まれた。 そのため意次は七面大明神に感謝し、をに変更したといわれている。 相良藩主時代 [ ] 2年()、・になり、2年()には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。 元年(1748年)に1400石を加増され、5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きたの()に関する裁判にあたらせるために、から1万石の大名に取り立てられた。 宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、4年(1767年)にはさらに御側御用取次からの後任としてへと出世し、5000石の加増を受けた。 さらにに進み2万石の主となって、明和6年()にはにあがりになる。 元年()、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増でわずか600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。 順次加増されたため、この5万7000石の内訳は相良だけでなく、、、、、の7か国14郡にわたり、からにまたがる分散知行となった。 田沼時代 [ ] 詳細は「」を参照 この頃より老中首座であるなど意次を中心としたの閣僚は、数々のを手がけ、 と呼ばれる権勢を握る。 悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。 内容はの結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、の開発計画、などの専売による外国との貿易の拡大、や手賀沼の干拓に着手する、などの政策を実施した。 田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策であり諸大名や庶民の反発を浴びた。 また、 幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判がおこった。 都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。 印旛沼運河工事の失敗や・の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部にと呼ばれる食糧難や疫病が生じた。 時には大飢饉に陥った西日本に対して、大名への拝借金、大規模な回米などといったかなり迅速かつ大規模な救援が幕府主導で実施されたが、時には幕府はわずかな大名拝借金を認めたのみで、積極的な被災地救援に乗り出そうとはしなかった。 その中にあって、財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、により年貢の取立てを厳しくしていった。 このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。 赤字続きだった長崎会所の財政を健全化し、国内の金保有量を高めた。 蝦夷の開発も行おうとしたときもあったが、蝦夷に送られた調査団は樺太、国後、択捉などの北方の島を含め蝦夷地を耕作適地と判断し、蝦夷地を新田開発すれば幕領の400万石を超える583万石の収入が手に入り、それはアイヌを3万。 穢多、非人を7万人移住させれば賄えると主張した。 ほか、などと親交を持ち、を手厚く保護し、の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度やを重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、4年(1784年)に意次の世子のままを勤めていたが内でに暗殺された ことを契機とし、権勢が衰え始める。 天明6年()8月25日、将軍家治が死去した。 死の直前から「家治のを被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や()の策謀があったともされる。 8月27日に老中を辞任させられ、に降格した。 閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。 その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。 は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。 長男の意知はすでに暗殺され、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫のが陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。 同じく軽輩からとして権力をのぼりつめたやが、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった。 その2年後にあたる天明8年()6月24日、江戸で死去した。 人物 [ ] 田沼は失脚前から既に悪評が出ており、田沼の賄賂政治を皮肉って以下の狂歌が歌われた。 この上は なほ田沼るる 度毎に めった取りこむ 主殿 ( とのも )家来も これは、田沼も家来もやたらと賄賂を取り立てることを皮肉った歌である。 当時、田沼邸には猟官運動をする大名や直参旗本,幕府からの受注を願う商人達が朝から列をなしていたといわれている。 しかし、贈収賄は江戸時代通じての問題で、それ自体も近代以後に比べればかえって少なかったという説も唱えられている [ ]。 なお、田沼の没後によって私財のほとんどを没収されたが、そのときには「塵一つでない」といわれるほど財産がなかったとの逸話もある [ ]。 は「賄賂政治家」という悪評は反対派によって政治的に作られていったとしている。 これらの説によると、田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたものとしている。 また、主からの賄賂を田沼が拒絶したと主張し 、逆に田沼を非難していた松平定信さえも田沼にいやいや金品を贈ったと書き残していることなどをその論拠として主張している。 ただし、大石はだからと言って意次が清廉潔白な政治家だったとは断定できないともいっている。 は田沼がの中将昇任への口利きをし、二年後に中将昇任を実現させたとしている。 その後、将軍からの拝領物などの件でも請願をうけ、実現のために働いている。 さらに、官位だけでなくは拝借金や上知撤回のために田沼に工作しており、薩摩藩も拝借金の件で同様に田沼に工作していた と主張している。 なお、日本大百科全書 ニッポニカ の田沼時代の解説には「諸人の激しく非難する賄賂 わいろ も当時の習慣だったとはいえ、とくに田沼の全盛期である天明年間には賄賂公行の政治となったのも事実で、失脚後の悪評とばかりはいえない。 」と書かれている。 このように田沼が受け取った賄賂は現代のお歳暮やお中元のような慣習上のものであり、賄賂ではないとする説もある。 だが当時、田沼の賄賂政治を批判した松平定信が行った寛政の改革の諸役人への贈り物を規制する触書ではあまりに高価な品を送ることを戒めてはいるが、新年、中元、歳暮などの儀礼的な年中恒例の贈答などを禁止などしているわけではなく、むしろ一年に何度も及ぶ恒例の進物は当然のこととされた。 それどころか、幕府役人への進物は大名らへの当然の義務であった。 さらに、側衆や表向き役人への進物は、大名と役人の私的な贈答ではなく、将軍の政務を担う役人への公的な性格のものだからきちんと贈るようにとも命じている。 寛政の改革で取り締まったのは、あくまで儀礼的な域を超えた猟官などのために行った賄賂である。 田沼失脚後に老中となった松平定信ら・によるが始まり、意次の政策は否定される。 11代将軍のには、の子と、田沼意次の四男らによる大御所家斉の浪費から生じた重商主義的な経済状況が生まれ、家斉の浪費によって市場の経済の状況は上向いたが賄賂政治が横行し、幕府財政の破綻、幕政の腐敗を招いた。 松平定信は庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約な方針だったので、良くも悪くも世俗的な田沼意次の政治を懐かしむ声も見られた。 この時期流行ったとして次の二つがある。 定信の就任当初は前者の歌が流行ったが、やがて改革が厳しすぎるとわかると後者の歌に取って代わられた。 田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水• 白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき 現在の田沼論はどちらかといえば「老中としての田沼」を論ずるのがメインとなっている感があるが、相良藩主としての田沼に関しては街道や港の拡張、火事対策(相良で起こった大火の後、藁葺きの家はことごとく瓦葺にするよう令を発している)、などきわめて正統的で当を得た施政を行っている。 旧相良藩中にある牧之原市では郷土の偉人として紹介されることが多い。 相良城が位置した場所に存在する牧之原市立相良中学校の校章は、田沼意次の威光にあやかり田沼家の家紋である「七曜紋」をモチーフとしたものになっている。 また、同校の体育大会と文化祭を総称して「七曜祭」と言う。 のは Tanuma Okitsugu, 1719-1788, forerunner of modern Japan 1955 において「意次は近代日本の先駆者」と評価している。 人脈 [ ] 田沼意次は幕府内での権力を維持するために表、中奥、大奥の全てに婚姻関係による人脈を作り権力の基盤を築いていた。 特に、父の代から田沼に重用されていた奥医師の千賀道有の養女は田沼の側室にあがっており、の生母お知保の方は千賀家の縁戚であった。 その繋がりを通じてお知保の方や大奥の奥女中たちに贈物を届け大奥を味方につけたとされる。 一方で親類縁者を使った政権の基盤固めを行っている。 長男の意知は通常は大名の当主しか就任できない奏者番に天明元年()就任し、天明3年(1783)には若年寄に就任するなど異例の出世を果した。 さらに、次男の意正は老中の水野忠友の養子に入り、長女は奏者番の西尾忠移にが嫁ぎ、次女は若年寄の井伊直朗に嫁いだ。 意知の岳父は老中のである。 このように意次の兄弟、子、孫、甥、姪はかなりの数の大名家に嫁ぎ繋がりを持ち、ついには老中は西ノ丸老中のを除けば全て田沼の親類で固められるに至った。 また江戸の両奉行や勘定奉行なども田沼家の家臣の娘と婚姻を結んでおり、田沼政権は田沼家を頂点とした親類縁者の集まりであった。 その強すぎる権勢は他大名家や旗本からの反発を招いた。 それにととまらず、意次は次代への権力の維持に力を注いだ。 田沼家は一橋家に大きな繋がりを持っていた。 意次の妻は一橋家の家老の娘であり、弟のは一橋家の家老に就任し、意誠の息子は後に家斉の御用取次に昇進した。 そのため意次は将軍家治の養子選定の際に一橋家に大きな「恩」を売ったのではないかといわれている。 仙台藩医のは、迫りくる北方の大国ロシアの脅威に備えるため「」を天明3年(1783年)、当時の幕府老中、田沼意次に献上した。 これが田沼の蝦夷地開発の原点になったといわれる。 田沼は、蝦夷地調査団に、まず、経世家のを招聘しようとしたが、辞退されてしまう。 代わりに本多から推薦されたのがであった。 発明家として有名だった平賀源内のことを田沼は大変気に入っていたといわれる。 田沼は平賀をオランダ商人のいる出島に遊学させたこともあった。 ところが、平賀源内が殺人事件を起こしたため、田沼は彼とのつながりを全面的に否定せざるをえなかった。 もし平賀が殺人事件を起こしていなければ、田沼は蝦夷地開発の責任者を平賀にやらせただろう、とも言われている。 ただし平賀は自身の思った通りのこと(遊学・江戸行など)を行うため、自家の隠居願と引き換えによりの扱いとなっていたため、そのあたりについては、はなはだ未知数な推測である部分は否めない。 政策 [ ] 貨幣経済を振興しようと思ったきっかけは、徳川吉宗による政治にあった。 吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、税を搾り取ろうとするものであった [ ]。 それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻するのである。 そして、天領における一揆ではないものの、意次は郡上一揆の裁定を任されたことから、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場であった。 また、米相場の乱高下に頭を悩ます吉宗を身近で見て、田沼は日本に貨幣経済を普及させて問題を解決できないか、と考えたという。 田沼の経済政策は、商人に対する課税によって幕府の財政を健全化させる目的があったとされている。 田沼時代の特徴の一つとして、幕府財政を健全化させることを目的として吉宗時代の米中心の税収に加え、新たに商業の面から収入の増加策に積極的に取り組んだことが挙げられる。 だが、その収入増加策の立案、運用が実のところ場当たり的なものが多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多発していた。 そして幕府に、の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。 そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。 町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。 このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた。 そのようなマイナス面を見て、彼の行った諸政策を「」の一言で切り捨てる向きもある。 また商人に様々な特権を与えた為に農産物の買い叩きや都市部への過度の集積を招き、その失政は天候不順に因る凶作の被害を甚大な物へと拡大させ大飢饉を引き起こし数年間で約100万人が死亡した。 株仲間の推奨 [ ] 同業者組合であるを奨励、などの組織を結成させ、商人になどの特権を与えて保護、、を税として徴収した。 だがしかし、このなどの上納は基本的にどれも少額であるため幕府の財政収支に与えた影響はあまり大きかったとは考え難く、氏などは冥加金は少額な為、財政上の意義は不明として冥加金の財政収入増加説に否定的である。 このように歴史学者の間でも田沼時代の幕府の意図をめぐっては、冥加金を上納させることによる財政収入増加策なのか、あるいは株仲間による流通統制、物価安定策だったのかと評価が分かれている。 長崎会所の健全化 [ ] を担っていた長崎会所は8年(1723年)にはその運上を5万両に定められていた。 だが享保18年には3万5000両に減額し、2年(1742年)にはとうとう廃止、以降は借金がかさみ3年(1746年)には拝借金21万両にまで膨れ上がった。 そのため、は寛延元年(1748年)から22年間がを兼任することで管理統制を強め、最終的には借金返済、運上金もかつての5万両の3分の1以下だが1万5000両を上納させることに成功した。 長崎貿易は俵物の増産が目指され、銀も輸出から輸入へと切り替わった。 なお、一般には田沼意次の積極的な貿易政策で輸出を増やしたといわれているが、鈴木康子の著書「長崎奉行の研究」によると、で定められた貿易総量を超えて貿易を始めたわけでも、銀を輸入する見返りに銅の輸出量を増加させたわけでもない。 よって、貿易総量に変化はなかったことがわかり、一般に言われているような積極的な貿易政策による輸出増加政策などしていないことがわかる。 藤田覚は田沼時代の積極的な貿易政策というこれまでの評価は再考を求められているとしている。 通貨政策 [ ] 財政支出補填のための・、四文黄銅銭といった新貨の鋳造を行った。 に関しては法定比価で金一両分だと元文銀104gに対し八枚79gと設定したので元文銀を材料にを鋳造すればが発生することになる。 四文黄銅銭は一文青銅銭に比べ額面上の額は4倍だが銅の量は1. 3倍でしかなく、これもまた発行すれば通貨発行益が発生した。 財政補填の為に発行されただが、その発行に関しては通貨発行益以外にも歴史的な意義がある。 金貨単位の計数銀貨の誕生によって通貨単位が金貨への統合を促された点である。 藩札などは依然銀単位の発行が多く、本格的な統合は明治に入ってからになるが、これはその萌芽といえる。 これらは時代に先駆ける政策であったが、それに反し時代に逆行する政策もしている。 紙幣発行については吉宗の時代には紙幣の通用が解禁されていたが、それを逆行させ1759年に金札・銭札の通用を禁止し、また銀札も新規発行を禁止した。 しかし、その法令に反し、それらの法令を無視して藩札・私札は発行され続けた。 蝦夷地開発 [ ] 田沼は、蝦夷地を調べるために幕府の探検隊を作った。 メンバーには、、、、などがいた。 また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行、勘定組頭などがいた。 そして、幕府の潤沢な財政を蝦夷地開発に注ぎ込んだが、成果は無く費用のみ嵩んだ。 田沼失脚後、は、田沼の政策である蝦夷地開発を中止し責任者を厳罰にしたが、その頃、蝦夷地近海に頻繁に現われるロシア艦船に不安を感じ、蝦夷地の天領化、北方警備に幕府として取り組み始めた。 上知令 [ ] 利益の大きい産業のある藩領を幕府領に編入するべく上地を命じようとした。 秋田藩領• 宝暦14年(1764年)貿易用の銅の直接確保のために5月に上知令を出したが、秋田藩の反発が激しく翌月撤回。 尼崎藩領 兵庫・西宮• 明和6年(1769年) 灯油の原料である菜種の生産地域1万4千石の村と都市を代替地と引き換えで上地を命じた。 蝦夷地• 松前藩から蝦夷地そのものを上地しようとしたが田沼失脚とともに頓挫した。 相良藩の藩政 [ ] 田沼意次はであった8年(1758年)に第9代将軍家重から呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の大名となった。 この時の相良は郡上一揆で改易となったが前領主であったが、城はなく陣屋のみあった。 4年(1767年)には第10代将軍家治より御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城を許可されて城主格となった。 翌年から相良城の建設を始め、完成までに11年間の月日を要した。 意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。 特にを築くことを許されており、縄張りをの須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。 出世を重ねた意次の所領は最終的に5万7,000石にまで加増された。 意次は江戸定府で幕政の執務に勤めていたため、国元の藩政については町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。 上記の築城の他、城下町の改造、後に(相良街道)と呼ばれるから相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して瓦焼きを奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。 意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残された。 殖産興業政策にも取り組み、農業ではや櫨栽培の奨励、業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた。 田沼時代の財政 [ ] 田沼意次の財政政策は世間の通説では積極財政 だと言われている。 だが藤田覚などの歴史学者の中には田沼意次の政策を緊縮財政 であったとするものもいる。 財政削減政策 [ ]• 諸経費削減 田沼は吉宗時代に倣った経費削減を行った。 大奥の縮小、将軍の私生活を賄う御納戸金の額を1750年には2万4600両だったものから1771年に1万5000両に削減した。 1746年に幕府諸役所経費の二年間節減を命じ、1755年に役所別定額予算制度を採用、1764年には、役所で使う筆墨、燈油などの現物支給を停止し、役所経費での購入に変更するなど、経費削減に取り組んだ。 御手伝普請 さらに、1757年、田沼は吉宗時代に停止されていた国役普請を再開した。 幕府普請よりも国役普請の方が私領での公儀普請時の領主負担分の立替金をきちんと徴収すれば幕府負担は工事費の10分の1の負担で済んだからである。 国持ち大名や20万石以上の大名にも御手伝普請を行わせることで、幕府の負担の軽減を図った。 命じられた大名達は財政難の中で、自分の領国統治には無関係で年貢増加にもつながらない手伝い普請を行うことで、多くの借金を背負うことなった。 命じられた藩の中には藩政改革中の藩などもいたが、かまわず命じられ回復した藩財政はふたたび借金の中に沈んだ。 特に、仙台藩は、1767年に利根川筋の御手伝普請を命じられたが、これによって22万両もの巨額の借金を抱えることとなり、今まで以上に藩の利益を追求することを余儀なくされたことで天明の大飢饉の被害を広げたのではないかと言われている。 の停止 明和八年(1771)拝借金を制限した。 拝借金とは、凶作や自然災害などによって経済的苦境におちいった大名・旗本を救済するため、無利子、年賦返済で融資するという制度だった。 これは幕府が大名や旗本たち武士身分の者達を保護する「公儀」であることを、金融面で示す制度であり、将軍・幕府への求心力を維持するための制度であったが財政難を理由にこれを制限した。 さらに明三年(1783)にはとうとう拝借金を全面停止するに至った。 倹約令の発布 宝暦元年(1751年)から十一年(1761年)の毎年は米は赤字のときもあったが金は黒字続きだったのが、宝暦十二年から次の明和では米・金ともに赤字が続いた。 明和元年(1764)に米五万石、金五万両の赤字になり、以降明和六年まで金方の収支は毎年赤字、米も四年以外は毎年赤字になっていた。 このように明和期以降幕府財政は赤字基調になっていた。 そのため、明和八年(1771)に五年間の倹約令を発布した。 明和の倹約政策をやめるとまた黒字は減っていき、天明の大飢饉による大赤字が起きた。 それに対応するために天明三年(1783)に七年間の倹約令を発布し、更に厳しい倹約政策を実施した。 また天明3年には大飢饉の最中、諸役人へ年貢量は維持、冥加・運上は増額。 堤防や道路、橋の工事費は減額すると命じている。 増税政策 [ ]• 広く薄い課税 上に書かれた通り、株仲間の推奨や、長崎会所の立て直し、貨幣発行益などを行った。 田沼意次の増税は広く浅くであった。 株仲間からの冥加金としては、京飛脚仲間は初年度30両、以降は10両、江戸三度飛脚屋仲間は初年度銀17枚、以降銀5枚などと規模の大きな株仲間としては冥加金の額が少なく財政収入の増加という点でどれほどの効果があったのか、疑問を差し込む余地もあったが、広く浅く課税をして少しでも財政収入を増加させようという意図が見受けられる。 農村へも安永元年(1772年)幕府は、農村に対しても、酒造、醤油・酢醸造、絞油、水車稼ぎ、薪といいった項目名を具体的に挙げ、更にそれ以外の品目でも、僅かでも稼ぎがあるなら冥加金を上納させろと諸役人に命じている。 官途 [ ]• 19年(1734年) - 徳川家重の小姓となる。 2年(1737年) - に叙任。 4年(1747年) - 小姓組番頭格。 元年(1748年)閏10月1日 - 小姓組番頭、奥勤兼務に異動。 石高1400石加増。 それまでは、小姓組番頭格奥勤。 元年(1751年)4月18日 - 御側御用取次側衆に異動。 宝暦5年(1755年) - 石高3000石加増。 知行合計5000石になる。 宝暦8年(1758年) - 石高5000石加増。 1万石の大名となる。 への出席を命じられ、美濃の審理に当たる。 遠江相良に領地を与えられる。 宝暦10年(1760年) - 9代家重引退し、家治10代となる。 意次御用取次留任。 宝暦12年(1762年) - 石高5000石加増され、合計1万5000石となる。 4年(1767年)7月1日 - に異動。 に昇叙。 石高5000石加増、合計2万石。 遠江国相良2万石の領主となる。 明和6年(1769年)8月18日 - に異動し、側用人兼務。 石高5000石加増。 明和9年(1772年)1月15日 - 老中に異動。 石高5000石加増、合計3万石。 11月18日、安永元年。 この年諸国で凶作。 3年(1774年)8月 - ら『』刊行。 6年(1777年)4月21日 - 石高7000石加増。 元年(1781年)4月2日 - 元年。 7月15日、石高1万石加増。 合計4万7000石。 12月15日、意知、奏者番になる。 天明5年(1785年)1月21日 - 石高1万石加増。 合計石高5万7000石となる。 天明6年(1786年)8月27日 - 老中依願御役御免。 石高2万石召上げ。 雁之間詰。 天明7年(1787年)10月2日 - 石高3万7000石召上げ。 となる。 系譜 [ ]• :意行はのだったがに従って幕府のとなった。 意行の嫡子・意次の代に異例の出世を遂げた。 は「丸に一文字」だったが、前述の七面大明神の逸話から定紋を「」に、「丸に一文字」は替紋になった。 本姓はだが、に改姓している。 これは途中、新田氏流の者が入ってきたためである。 井上伊織 近江国甲賀郡出身。 諱は良矩(よしのり)。 父は浪人の井上郡太夫。 16歳の時から田沼家に仕え、22歳で家老となる。 意次の信頼が厚く、当初は井上寛司といったが、意次の要望で伊織に改める。 築城の指揮をとる。 後に意次から永代家老職を与えられ、子孫は代々田沼家に仕え続けた。 三浦庄司(庄二とも) 備後領の農家出身(一説には江戸市民とも。 どちらにしても武士ではない)。 田沼家臣の養子となって用人を務め、意次のよき相談相手だったという。 倉見金太夫 江戸詰家老。 諱は庸貞。 意次の信頼厚く、また家中でも慈悲深い人情家であったという。 妻は意次室の姉妹であり、意次の義弟であった。 生没年は不明であるが、意次失脚後も意次の孫であるに仕えている。 各務久左衛門 家老。 旗本の三男であり、最初は目付の脇坂家に仕えたが意次の求めによって田沼家臣となる。 算学に秀でたほか武芸の達人でもあり、また意次同様に信仰心が厚い人柄であったという。 意次逝去の翌年に死去した。 須藤治郎兵衛 軍学を学んだ人物で、江戸城修理を手がけたことがあり、相良築城ではその手腕を発揮した。 城の完成後には意次から褒賞として御用人の地位を与えられた。 深谷市郎右衛門 家老。 深谷家は意次の父である意行の代から仕え、市郎右衛門はわずか23歳で意次の家老となる。 終始江戸家老として活躍し、老中として活躍していた意次を裏方で支える人物でもあった。 三好四郎兵衛 家老。 名は方庸(まさつね)。 相良の廻船問屋に生まれ、25歳の時に能役者を目指して江戸に行くも夢を果たせず、能筆家であることを買われて田沼家に仕える。 相良築城の際には相良の風土や風習に詳しいとして現地に家老として派遣される。 城の完成後には城代家老となった。 潮田由膳(内膳とも) 田沼家側用人。 田沼意次が登場する作品 [ ] 主人公として登場する小説• 『』(1953年) - 1983年に主演でドラマ化()。 『田沼意次』(1985年)• 『主殿の税』(1988年)• 『魚の棲む城』(2002年)• 『青雲の梯』(2009年) 脇役等として登場する小説• 『』シリーズ• 『』シリーズ• 『』シリーズ 漫画• 『』 - 意次の台頭から失脚までを丁寧に、かつ好意的に扱っている。 『』 映画• (1958年、 演者:) テレビドラマ• (1968年、 演:)• (1971年、 演:)• (1972年、 演:)• (・版)(1973年、 演:)• (1978年、 演:)• (1981年、関西テレビ 演:)• 剣客商売(・版)(1982年、フジテレビ 演:)• (1983年、関西テレビ 演:)• (1989年、TBS 演:)• (1990年、TBS 演:)• (1991年、 演:)• (1992年、 演:)• (1994年、 演:)• (1995年、NHK 演者:)• (1997年、、演:)• 剣客商売(・版)(2012年、フジテレビ 演:)• (2015年、テレビ東京、演:)• (2017年、NHK正月時代劇、演:)• (2018年、NHK正月時代劇、演:) 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 実際は斬られて重傷を負い、その傷が癒えないまま亡くなった。 将軍の取次役である側用人が処罰されることはないが(将軍の政治責任を問うことになってしまうため)、老中は失政の責任を問わされるためしばしば処罰を受けていた。 大石は「つくられた悪評」としている。 ただし、伊達家側役の古田良智に田沼の屋敷に直接訪ねる(=賄賂を直接受け渡しする)必要はないとしているのみで、「賄賂を拒絶した」記録ではない。 実際、古田は田沼家用人井上寛司と懇意に接触し、井上を通じた賄賂の受け渡しを行っている。 そのため、大石が史料を誤読しているとの指摘もある。 政府が積極的に支出をふやし、経済の拡大を図ろうとする財政政策• 支出をできるだけ減らして歳出規模の縮小を図る財政 出典 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2019年1月)• 『悪人列伝 近代篇』文藝春秋 1967年(初版) 文春文庫 2007年(再刊)• 『田沼意次-ゆがめられた経世の政治家』 清水書院 1971年• 『田沼時代』 岩波文庫 1980年• 『悲劇の宰相・田沼意次』 教育社 1982年• 『田沼意次の時代』 岩波書店 1991年• 『田沼の改革』 郁朋社 2001年• 『江戸300藩 バカ殿と名君』 光文社新書 2004年• 『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007年7月。 藤田覚『田沼時代』吉川弘文館 2012年5月• - NHK高校講座• 「」経済教育ネットワーク 関連項目 [ ]• - 田沼意次が藩主を務めた旧で考案された 外部リンク [ ]• 1681-1695• 1685-1689• 1685-1689• 1686• 1688• 1688• 1688-1689• 1688-1709• 1689-1690• 1689• 1689-1691• 1693• 1694-1709• 1696-1697• 1704-1706• 1705-1709• 1709-1716• 1710-1716• 1717-1730• 1725-1733• 1756-1760• 1760-1767• 1767-1772• 1777-1785• 1788• 1788-1790• 1790• 1812-1818• 1825-1834• 1841-1845• 1859-1862.

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「白河の清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という狂歌は誰を批判したものか

白河 の 清き に 魚の 住み かねて 元 の 濁り の 田沼 恋しき 意味

ゲスト: 童門冬二 今回のTHEナンバー2はある有名な2つの歌からご紹介いたします。 「田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水」 汚職にまみれた田沼時代を揶揄し、その後を託され、寛政の改革を進めた松平定信に江戸庶民が期待した歌です。 しかし、こんな歌も残されています。 「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」 定信の改革のあまりの引き締めに、庶民が辟易し田沼時代の華やかさを懐かしむ歌です。 財政改革に挑んだ田沼。 寛政の改革で幕府を立て直そうとした定信。 どちらの改革が幕府にとって真に必要なものだったのでしょうか?二つの歌の中にある真実を探してみましょう。 日本を貨幣経済へ導こうとした男、田沼意次 賄賂政治家の代名詞として知られている田沼意次。 しかし、今日では優秀な改革者としても評価されています。 田沼の改革は武士よりも町人の力が強くなってきた時代に貨幣経済中心の国作りを考えます。 そして貨幣経済の発展により江戸は豊かになり、さらに歌舞伎や浮世絵等の江戸文化の発展も遂げてゆくのです。 田沼は更なる偉業を成し遂げます。 それは48年ぶりの日光社参の成功でした。 田沼はみるみるうちに出世し、老中と側用人を兼任。 江戸幕府始まって以来の強い権力を握りました。 未曾有の天変地異を救った救世主、松平定信 天明の大飢饉。 浅間山の噴火と冷害が大凶作をもたらします。 当時白河藩主になったばかりの松平定信は次々に斬新な対策を打ち出してゆきます。 凶作を免れた越後にある白河藩の飛び地から一万俵の米を送らせ、さらに江戸で食料品・日用品を買い集め白河に送らせたのです。 そして不況の白河藩民に仕事を与えるための公共事業を考え、また特産品を次々に考案しました。 そしてその資金は定信が責任を持って借金をし、白河の危機を救ったのです。 その噂は江戸でも噂になり、飢饉対策の遅れた田沼政権の限界がささやかれ始めていきました。 改革者の結末・・・ 田沼は失脚後将軍に手紙を送りました。 「老中職にあるときはひたすら天下のためと、粉骨砕身努めてまいりました。 私が少しも偽りを行わなかったことだけば伝えたいのです・・・」将軍のため、幕府のために尽くした人生。 最も清廉潔白な男は、彼だったのかもしれません。 定信は田沼失脚後、老中となり江戸で寛政の改革を実行します。 飢饉にそなえ、農業重視の政治で町人文化を取り締まり始めました。 世に言う「倹約令」です。 しかし江戸ではすでに広く貨幣経済が浸透していました。 「なぜわからぬ!全てはのさばる商人をこらしめ武士が権威を取り戻すためなのに」定信の政治は民を苦しませ結局、失脚させられます。 タイプの違う二人の改革者。 …ふたりは今の日本をどうみているのでしょうか。

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白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

白河 の 清き に 魚の 住み かねて 元 の 濁り の 田沼 恋しき 意味

5ch. gif 瀬戸内海でイカナゴ漁など漁業の不振が続いていることについて、兵庫県の水産技術センター研究チームが「栄養塩」と呼ばれる海中の窒素やリンの減少が主な原因とする調査結果をまとめたことが分かった。 かねて、水質改善が進んだことが「海の栄養不足」を招いたと推測されており、科学的に裏付けた。 県は排水の規制緩和など栄養塩回復に向けた取り組みを進め、国にも海の環境基準の変更を働き掛ける方針。 県によると、高度経済成長期に窒素などを含む排水の影響で赤潮が多発した瀬戸内海では、近年の技術向上で浄化が進む一方で、沿岸の漁獲量が減少した。 周りの海は潤う。 今度オリンピックウンコアスロンを行う、東京お台場というところだそうな。 72 ID:2UE6aDRJ0. 95 ID:I44R9uT00. 87 ID:bWKnychU0. 15 ID:XuajOyiK0. net 瀬戸内や伊勢湾、東京湾等閉鎖性水域は特別厳しい排出基準が設定されてるから、これを緩和したら企業が潤う。 23 ID:orFwE01y0. 19 ID:0UPqYKKnO. net 東京湾みたいにウンコ流せよ。 41 ID:s2MR1rJc0. 42 ID:pRqzchkb0. net 透き通った水にしか棲まない魚だって居るじゃん。 15 ID:S9cNbQfF0. 77 ID:MlnAEFau0. 63 ID:uiggbpm00. 72 ID:S9cNbQfF0. 04 ID:nXqHsJdl0. 32 ID:D1sIRHpd0. 50 ID:TnbxqQuN0. 16 ID:fqsRBl4C0. 53 ID:neN4FX180. net ???「いいこと考えた。 お前ここでションベンしろ。 net 人間がいなきゃ自然環境って維持されないのかな? つまり自然って人工なんだな。 net あー・・人にとって綺麗な水と魚にとって住みやすい水って違うからなあ 魚飼ってるとよくわかる。 78 ID:QtZ3CRdH0. 20 ID:CBuchPtb0. 29 ID:U1ZzwGNW0. 31 ID:ExGSEaHg0. 70 ID:9TCBgBNX0. 45 ID:4LFc8rz90. net 引き潮のときに底の白砂が見えるまでになってるもんな。 01 ID:NGl2tooP0. 27 ID:GmOxvCuY0. 02 ID:lnOnShUd0. 71 ID:0xXbL21J0. 49 ID:4LFc8rz90. net 近海での漁業だけの話なんだな。 04 ID:sTpZhjwv0. 51 ID:5FcN2DjG0. 24 ID:9YvKFDRn0. 37 ID:4LFc8rz90. net 近海で魚が捕れないなら沖のクジラを捕れば良い。 79 ID:c0dF7LnY0. net この場合の浄化の反意語は汚染じゃないだろ。 79 ID:qC442Ubo0. net いやいや、日本は河川の擁壁を整備し過ぎて土が流れ込まない、自然の地形が残ってない。 54 ID:5fDz6YIK0. 00 ID:Qyl594j70. net しまなみの工事で海の流れが変わったからだよ。 家の前の豊かな浜が砂に埋れて まだ復活できてない。 73 ID:lnOnShUd0. 31 ID:fpp2aUSC0. net 瀬戸内海は下水の放流基準が厳しく、他よりも窒素を低く処理してる。 けれどそれによる低栄養化が主因じゃない。 根本原因は、近年まで続いてた建材用の海砂採取。 海底の砂を根こそぎ浚渫したから砂漠化。 海藻も生えなければ小動物も生息しない死の海底化して、魚の住処が奪われた形。 これの自然回復は長期を要するものと思われる。 net 島の周りをぐるりとでっかい藻場があって、そこにはいろんな魚がたまごを生みつけていたのに、 しまなみの工事で埋もれた。 富栄養化でプランクトンが大量発生。 これにより海水の酸素濃度低下、プランクトン自体が魚のえらを詰まらせて窒息死などの弊害。 net 法令で下水処理水は大腸菌ゼロを目指すから、放流水に次亜塩素が混ざってるのはどこも一緒。 んでカキやノリの養殖業者が、生育を妨げるとクレーム入れてくるのも全国一緒。 そういう所では高コストを承知で、紫外線照射など別の殺菌方法がとられてる。 net 無リン洗剤を騙されて買った俺たちが馬鹿だった。 47 ID:WLGHrYV00. 66 ID:N1h94lrU0. 21 ID:eHsjQ4bV0. 80 ID:CdHKYP3k0. 11 ID:lyH0XodH0. 54 ID:QmdpP7rI0. 河川から土砂が流れてこないから岩肌むき出しになるし 落ち葉や腐葉土が海へ注がれない。 50 ID:2Z29LTtM0. 91 ID:5QuvfCKX0. 23 ID:2H229zMB0. 16 ID:3W9GB2uT0. 09 ID:hxeesHm00. 19 ID:UlD5WIdr0. 83 ID:NNbXK86r0. 66 ID:x2tZzTE40. 82 ID:TQ71Kwm90. net 生まれが山口だが 泳ぎに行くのは日本海側。 瀬戸内海は泳ぐ気にならん。 85 ID:eTXI1xgA0. 74 ID:VSo7qr0s0. net 昔は広島では牡蠣の養殖のためにクソを撒いていたらしいぞ。 net 栽培魚業にシフトするの一言 テレビの釣り番組でアフォみたいなのが爆釣って喜んでるけど あれは水産試験場の育てた稚魚が成長したもの。 漁師が食われて騒ぎになってた。 05 ID:wCWvNRO00. 93 ID:USod8wu40. 75 ID:RwjMKS7H0. net とりあえずクルーズ船とかフェリーの汚物を流れの速い場所で廃棄すれば良い。 net 土止めたからだろ。 川が氾濫するからとか護岸工事で土止めたから。 小魚生まれずに魚減った。 net やっぱ人の数をぐっと減らした方がいいと思う。 人間多すぎ。 96 ID:SjT8k0Wp0. 05 ID:SLy6eRdM0. net 魚の世界にも過疎化ってあるんよ。 原因なんか特にない。 net スレタイ間違いだろ。 取り杉。 25 ID:Bdp3Pu6g. 57 ID:uok8Nz7t0. 04 ID:bQeRG2BN0. これで沿岸部の埋立造成が実質不可能に。 高度成長期の序盤は瀬戸内工業地域への工場進出が活発なのに急ブレーキになったの。 とはいえ水源の余力に乏しい瀬戸内沿岸部は、どこかで工場誘致が頭打ちになってたろうから、 これに責任転嫁するのも筋違いだろう。 64 ID:lT0343xeO. 47 ID:uh5sFfz70. 台風や大雨のあとは都民の糞尿がエキスが流れ出すことがバレたしな。 10 ID:ziNe8uH70. net 昔は商店街に年中やってる金魚すくいがあって、そこらの噴水なんかでは金魚が半ば野生化して泳ぎ回ってたのに最近の噴水とか全然魚泳いでないよね。 net ゴミ収集車が来るようになるまでは、畑に埋めるか、海に生ごみを捨ててたな。 子供のころ母親について夜行ったことがある。 海も今思えばそりゃ汚かった そのかわりその辺の砂を掘るとデカい本虫がうじゃうじゃ取れてた。 大阪湾沿岸出身のおれからしたら海面が近すぎて怖く感じる。 02 ID:w2gVfeAI0. 63 ID:d3uEdNqw0. net 神戸で大規模埋め立てしたのが原因だろ 加古川河口に溜まった砂の処分に困って須磨辺りを遠浅にしてしまった。 釣り愛好家達は懸念してたけどな。 元々海流の関係で瀬戸内海は魚が美味くなるんだわ。 広島やら神戸って言ってもみんなが海沿いの下町ソダチジャないからな。 そりゃ今どきの市街地から一山越えたニュータウン出身なら魚や海なんて外国のことくらいなもんなんだろうよ。 それにしても博多は魚不味いな。 醤油も変だし。 九州近海は海流の種類が乏しいから魚が美味くならない。 本州の人が九州沖縄に行くとみんな言うのが「どの魚も同じ味」だね。 net イカナゴがいなけりゃ、他の魚種にも影響するよな。 どんな味覚障害だよ。 45 ID:FCEGB00u0. 23 ID:5D6kTEVb0. net >魚の食べ方なんて >生のまま切るだけでしょ 九州のほうの人たちは極端に小魚やら赤身の魚食わないからな。 バカにする気は無いがこんなスレでわざわざ瀬戸内海沿岸をDISるやつなんて程度が知れてるわな。 58 ID:WzRxUZZE0. 94 ID:vv2lnTDm0. 44 ID:TZ0j07jYO. 47 ID:UnqD97DP0. 67 ID:UnqD97DP0. 13 ID:onVagwnV0. 地方のインフラ整備が無駄だとか、食料なんて輸入すれば安いから農家なんて不要とか。 52 ID:sIDcaATq0. net 除菌済みの栄養源ならOKだが 下水を垂れ流すのだけは勘弁な。 72 ID:E9OcqR3z0. 22 ID:86bO2cJR0. 54 ID:xmV7eaoE0. 49 ID:LxOhQCru0. 40 ID:qmrq8XcO0. 02 ID:iRDjO3WX0. net 寂聴、美人アシスタントに生気を吸われてヨボヨボに。 net 1974年12月18日、三菱石油 株 水島製油所から大量の重油が 瀬戸内海に流れ出し、これまでにない大汚染が広がった時は、 もう瀬戸内海はダメだと思った。 ここまで浄化されるとは思わなかったな。 net あのねカキの栽培魚業は海水をきれいにするためなの このスレはデマ。 むしろタコを刺身でってのは高級な部類なんじゃないの? 日持ちさせて食べるとかそんなんがあってこそ魚食文化が発達した地域ってことになる。 魚好きはむしろ刺身より骨の多い魚の煮物や焼き物を好むしな。 水質改善は副次的な効果。 それが目的ではない。 取り過ぎも魚が少なくなった原因の一つだろうが、瀬戸内ではあまり漁獲されない魚まで減ってるのは、それだけでは説明できない。 マハゼやネズミゴチ、アミメハギなど。 あと居着いてるわけでもないワタリガニも減った。 42 ID:5z1PD4Ty0. net 肉も魚も骨の周りの肉が美味いもんだからな。 82 ID:nMmwOD7G0. 46 ID:dVmcVW2n0. net 洗剤、プラスチック、薬品、ゴミ・・・じゃないよ。 net 昔は汚水流すし治水もそんなに良くなかったから食料としてお口に入ってきていてサイクルできてたんだよな いま汚水からの汚泥は焼却処分メインだからバッサリきられてるし どこから目線が良いのだろうな日本人はキレイ目指しすぎる と思う浄化槽管理士でした。 01 ID:QwDVe6190. net あのね、せっかく綺麗にしてるのに文句のある人は養殖場を手伝えばいい すこし放っとくとすぐに海は汚くなります。 74 ID:BQmBryrg0. net 一年中タルイチで釣りしてるが この時期は寒チヌの爆釣シーズンなんだが全然釣れない。 テトラの表面がツルツルで全く海藻がない。 net 水産試験場が育てて放流したチヌを釣って爆釣って言うのなんだかなあ 釣り番組でアコウが釣れるって喜んでたやついたけど、 あれも水産試験場がせっかく育てて放流した魚でないのっと。 63 ID:MnL2Pwui0. net インターネットにいろんなサイトがあるけど 信じる信じないはあなた次第 このスレタイは嘘くさい。 瀬戸内海みたいな閉鎖性海域は すぐに汚れる。 大地震前でトラフから硫黄源泉とかは別 総レス数 441 67 KB.

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