ニュース 23。 小川彩佳アナの『ニュース23』がスタート 「徐々に腹をくくれている」(コメント全文)

FNNニュースレポート23:00

ニュース 23

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ニュース 23

『 ニュースステーション』(: NEWS STATION)は、(60年)から(16年)まで、テレビ朝日系列()で(も含む)22時台にされていたである。 と(形としては企画・制作協力扱い)の共同制作。 全4,795回の平均は、14. 通称「 Nステ(エヌステ)」、「 NS(エヌエス)」、「 Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。 概要 [ ] が平日23時台に放送していた『』『』に代わり、やを放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。 テレビ朝日の本社移転()と同時に開始された。 構想段階からであるが深く関与した。 も構想の段階で起用が決まり会議に参加しており、などのため、久米は1985年4月までに『』(系列)以外のレギュラー番組を降板した。 当時としてはこの時間帯のニュース番組は前例のない番組であり、開始第一週目の週平均のは8. 関東地方より先に関西地方()で視聴率(ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム)を獲得した。 「 でもわかるニュース」をコンセプトとして、やなどのニュースにおける難解な用語や展開などを、や、、実物、政治家人形、などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした。 これで徐々に視聴率を獲得した。 初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、についても最新技術を積極的に導入している。 で争われたでは全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。 1990年代初めにはのの協力で天気予報にを使い 、ではに「システム」を用い、後ののように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。 あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。 この他、BGM・ナレーション・テロップなどをのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。 また久米が「 個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。 久米のコメントや番組の基本姿勢は、久米がマスコミ人として持っている反権力・反戦争の信条を色濃く反映したものだったため、広く人気を博した反面、筋や派などから、報道内容が偏向しているとの根強い批判・反発も呼んだ。 従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、ごく一部の例外 を除いて番組制作が外部に委託されることがなかった中で、という外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。 本番組開始以降、現在の『』(『報ステ』)に至るまでネットスポンサー各社は、スポーツコーナーを除いて30秒枠の企業も60秒扱いでクレジットされている。 また、読み上げも既に『』で導入されていた全社読み上げ形式で、これも『報ステ』に引き継がれている。 音声は当初であったが、 からになった。 番組の歴史 [ ] 初期(1985年10月 - 1988年4月) [ ] 当番組の原型となる企画を練る会議は、1984年夏ごろから『』(日本テレビ)の企画会議と並行して、久米とオフィス・トゥー・ワンのスタッフで水面下で進められていたという。 久米は『TVスクランブル』を「未来のニュース番組につながるステップボードのような役割を果たしている」としており、そこで考えたのが当番組のコンセプトである「中学生でもわかるニュース」だった。 彼らが常に意識していたのが当時、報道番組の王座に君臨していた『』(NHK総合テレビ)だったが、久米は「裏で勝負するのは無謀極まりない」として、せいぜい午後11時からの30分枠を思い描いていた。 しかし、話を進めるうちに平日帯のプライムタイム枠での1時間枠という構想に膨らんでいった。 しかし1時間では採算が取れないため結果的には1時間15分となった。 その後、電通の参入や、当時の報道局次長であるの訴えに応じた、の社会部出身で当時の社長・の英断でテレビ朝日も参入が決まった末 、1985年10月7日に民放初の平日帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。 「 今までにない全く新しい形の報道番組を目指す」というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの(当時論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの、リポーターの)に加えて、一般公募による出演者オーディション から数名のキャスター・リポーターを起用した。 一般公募組の中には、(元アナウンサー、スタジオアシスタント)、(元調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元コンパニオン、ニュース担当)、(院生、リポーター、後にへ転身)、(学生、天気キャスター、後にへ転身)などがいた。 第1回の放送で最初に取り上げたのは、に入れるの話題。 (当時アナウンサー)の自宅、・のスタジオ、のサービスエリアにあるを結んでの生中継を実施した。 本来は「鮭を切り口に環境問題について考える」という趣旨だったが、本番中に最新鋭のVTR再生機が故障し、結果的に上記の内容になったという。 これが初日の惨敗を象徴する出来事になったとして、以後しばらくの間、スタッフ間で「鮭」は禁句となり、久米も1年間鮭を口にしなかったという。 その直後には、同市出身の(当時自民党衆議院議員)が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。 初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17、金曜日のみ22時台は『』 など、当時の(現在の朝日放送テレビ)制作枠であったため、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 翌0:00の放送となった(「」放送時は23:00 - 23:45)。 開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオからは一般ニュースを放送しない(一般ニュースは『ANNニュースファイナル』時代の名残から1コーナー扱いとされ、報道局のNスタジオから小宮・坪井 貴 が伝える形となっていた)構成が採られるなど、報道にバラエティ色を加味した内容となっていた。 しかし、開始早々からの21年ぶりのリーグ優勝・日本一、など、重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、開始数回でAスタジオでの観客入れを廃止したのを皮切りに番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められ、1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制 で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色の強い番組構成にリニューアルされた(この際、リポーターと並行して不定期で天気コーナーを兼務するようになった橋谷、同じく不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板している)。 ただし、「金曜版」については上記の番組リニューアル後も引き続きバラエティ色の強い構成を継続(しばらくNスタジオ・Aスタジオ併用の構成も継続し、小宮はNスタパートのみ出演していたが、末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)し、Aスタジオでの観客入れも継続していた。 この「金曜版」は、当時週休二日制が定着していたことから、土曜に代わる「休日前夜」という位置づけで通常のニュースに加えて、毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「ニュース分水嶺」「ニュースのふるさと」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。 1986年7月からとして『』がスタートする。 1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台撤退により月曜日から金曜日まで放送時刻が統一されることとなり、との2週にわたって「金曜版」終了スペシャルを放送する予定だったが、3月25日は臨時ニュース のため放送できず、4月1日のみの放送となった。 「金曜チェック」は2本立てで放送された。 なお、「金曜版」最終回の4月1日より22:00 - 23:17の放送となっている。 中期1(久米・小宮時代、1988年4月 - 1998年3月) [ ] 新体制となる1988年4月4日から全曜日統一して報道色の強い構成となったが、金曜日は金曜版からの名残もあり、月曜日から木曜日までとは違う雰囲気作りが図られるようになる。 これは現在の『報道ステーション』でも変わっていない。 1990年には久米が第27回・テレビ部門個人賞を受賞。 1993年には番組として30周年記念賞を受賞。 1993年7月1日(木曜日)、久米が同年の下半期突入を期にメガネ を着用するようになった。 この頃のメガネはまだ報道キャスターらしいシンプルな枠が無いレンズのみのものであり、このメガネは1999年10月の一時降板までは一貫して変更せずに着用し続けた。 1995年4月からは新たにスタジオサブキャスターを金曜日のみに新設。 この金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。 1996年10月3日からスポーツキャスターがからに変わり、角澤は番組終了まで7年半にわたってスポーツを担当することとなった。 翌週10月7日からテーマ曲と作曲者を約7年半ぶりに新しいものに変更した。 1997年4月から金曜日のみに女性スポーツキャスターを設けた。 初代はテレビ朝日スポーツ局記者のが務めた。 1998年3月27日、小宮がの後任として『』のメインキャスター就任のため降板。 但し、金曜日のみの出演に移行した(『Jチャンネル』も半年間は金曜のみ出演せず)。 小宮降板後の2代目サブキャスター就任までの間、同年までサブキャスター代理として月曜から木曜は(3月30日 - 4月17日)・(4月20日 - 5月1日)・渡辺宜嗣(5月4日 - 8日)の3人で繋いだ。 中期2(久米・真理時代、1998年4月 - 1999年12月) [ ] 1998年5月11日、改編期から約1ヶ月遅れでリニューアル。 久米に加え、後任のサブキャスターに退社直後の、スタジオサブキャスターにテレビ朝日スポーツ局記者の、1997年11月から出演しているコメンテーターのの4人体制となる。 これまでは金曜日のみスタジオサブキャスターを設けていたが、このリニューアルによってスタジオサブキャスターは月曜から木曜にも追加新設され、全曜日で設けられるようになった。 なお、金曜日のみは引き続き小宮とが担当する。 テーマ曲がの曲に刷新されて、番組ロゴも若干アレンジしてリニューアル。 オープニング映像もニュース映像に変わり(但しリニューアルした初回は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像を流した ほか、ゴスペラーズがゲスト出演した際はスタジオでオープニングを生披露しているのを背景にするなどの例外あり)、最初から日付表示がなされるようになった タイトルは映像の最後に表示。 但し大きなニュースが入った時はピアノ曲になりスタジオ背景で日付出てから直ぐにタイトル表示となる。 の降板で金曜日も『Jチャンネル』に出演するため、番組開始から12年半出演後も1998年4月3日以降の金曜日に限って出演を続けてきた小宮が1998年9月25日を以って完全降板、翌週の10月2日には丸川も降板した。 翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。 1999年2月から月曜と火曜のみが担当し、白木は水曜から金曜の担当に縮小となった。 1999年8月、セットをリニューアル。 ところがその約2ヶ月後の10月6日放送を以て、となった。 これを受けて翌10月7日放送から約3ヶ月間、年末まで宜嗣が代役を務めた。 後期(2000年1月 - 2003年9月) [ ] 、前年12月23日に寿退社のため降板した白木清かと入れ替わる形で、久米が3ヶ月ぶりに番組に復帰。 それに伴い番組もリニューアルした。 スタジオサブキャスターも上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。 また、コメンテーターも・・・の4人(2002年頃に船曳が降板し、以後は3人体制)に一新された(日替わりでいずれか1人が出演)。 テーマ曲が作曲のものに刷新され、スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアルした。 オープニング映像はその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。 その際に復帰した久米は髪染めをやめ白髪交じりとなり、口ひげを蓄えた上メガネについてもそれまでの枠がないレンズのものから枠のあるシャレたデザイン、さらにそれまで金曜チェックなどごく一部の日しか着用していなかったノーネクタイスタイルという、第1期の出演時期とは全く違う大幅なイメージチェンジという出で立ちとなり、復帰翌日の各紙や『』、TBS『』、『』をはじめとした他局での各で大きく取り上げられた。 また、復帰当日の全国紙にはテレビ朝日のロゴと「 今夜、ニュースステーションがニュースになる」という文字だけが描かれた広告が掲載された。 2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始のとなった。 同時に番組構成も若干変更が行われる。 2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員 として復帰)した長島三奈に代わり、『』(日本テレビ系列)で注目を集めたタレント・女優のを起用。 同日よりが本番組に対抗する形で同時間帯で『』を開始。 2002年4月1日から6月28日までは日韓共催の開催に伴い、オープニングで毎日の歴史を流す特別オープニングに変更 のナレーション入り。 タイトルと日付は紹介後まとめて上にタイトル下に日付という形で表示された。 テーマ曲はが担当した。 2002年7月1日からテーマ曲がの曲に変更。 また、角澤のスポーツ担当曜日がこれまでは月曜から木曜だったのが、月曜日から水曜日に縮小され、空いた木曜日にはが担当することになった。 その後、2002年10月4日を以って真中が降板。 これと同時に番組開始から17年(一時期降板していた時期あり)出演してきた宜嗣もに代わり『』のメインキャスターに就任するため降板した。 翌週から河野が金曜日も担当するようになり、月曜日から水曜日は角澤、木・金曜日は河野がスポーツを担当する。 2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送終了が発表された。 久米は番組終了発表会見で「十分にやった、スタミナ切れ」「2000年復帰後3年という話だったこと」ということを終了理由に挙げていた。 テレビ朝日・広瀬道貞社長は2003年9月30日の定例会見で、久米が3年ほど前から降板の意向を度々申し出ており、これ以上の慰留は出来ないと判断したため出演契約を2004年春で満了とする事で合意したことを明らかにした。 末期(2003年10月 - 2004年3月) [ ] 2003年9月29日、テレビ朝日の本社移転に伴い、放送スタジオがからへ移りスタジオセットとテーマ曲をリニューアル。 テーマ曲はが担当した。 2004年3月26日の最終回ではその日のニュースに加え、過去18年半のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどの内容で放送され18年半の歴史に幕を下ろした(最終回の詳細は後述)。 後継番組は『 』である。 なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっているとは引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。 久米が会見で後継番組の初代メインキャスターを務めるに関して記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。 存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ。 」と発言した事に対し、雑誌のインタビューで古舘は「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど。 」「それから久米さん嫌いになったんですけど。 」と述べた。 その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。 半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど。 」と語った。 ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。 (最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。 自由に造って来た。 でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。 その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある。 また、久米は「古舘君をはじめ、かなりの人が勘違いしている。 僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。 僕が原稿を読んでいる時間が結講あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。 このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。 僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている。 久米は本番組終了後、テレビ朝日へは直接の出演を一切行っていない。 なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『』をとして放送した。 出演者 [ ] メインキャスター・サブキャスター・コメンテーター 期間 メイン サブ コメンテーター 月 - 木曜日 金曜日 1985. 7 1991. 2 1991. 2 1991. 17 (不在) 1991. 20 1992. 9 1992. 12 1996. 29 1996. 1 1997. 31 1997. 3 1998. 27 1998. 30 1998. 8 (週替わり) 1 小宮悦子 1998. 11 1998. 2 1998. 5 1999. 20 渡辺真理 1999. 23 1999. 6 2 1999. 7 1999. 23 3 2000. 4 2004. 26 久米宏 4 4 4 4• 1 渡辺真理の着任延期に伴い、代理のキャスターが担当(前述)。 2 『』コメンテーターを兼務。 3 久米の降板に伴う事実上の代役。 4 日替わりで出演。 船曳は2002年頃までの出演。 小林を含めニュース解説者としてのコメンテーターは船曳・森永を除いて歴代、記者またはその経験者。 開始にあたり人選を朝日新聞社に依頼し、小林が選ばれた。 初代コメンテーターの小林は、久米・小宮と名トリオとして親しまれたが、に逝去。 小林は、久米不在時に一度だけメインの代役を試みたことがある。 1990年代まで金曜日は主にゲストコメンテーターが出演する場合あり。 渡辺真理は、久米と同じ出身であり、当番組とその競合番組「」の両方でキャスターを務めた唯一の人物である。 ゲストコメンテーター• - 「ユニセフカード」告知のため。 - 国政選挙時に出演し、選挙予想をことごとく当て有名になった。 - 特に全米・全英オープンゴルフ大会(彼が解説者として出演)のPRと現地中継リポートで出演することが多かった。 - 金曜日にレギュラー格として出演していた(1996年)。 - 主に金曜日に準レギュラー格として出演していた(1997 - 1998年頃)。 - 主に初期の金曜版に出演。 巨人ファンということもあり、ジャイアンツエイドにも出演していた。 - 本人による取材リポートが中心、後番組『報道ステーション』も引き続き出演。 - 本人曰く「出てやる」。 - 巨人ファン代表としてたびたび出演し、どんな状況でも巨人が優勝するとこじつける「安心理論」を展開した。 など スタジオサブキャスター・スポーツキャスター・お天気キャスター 期間 スタジオサブ スポーツ お天気 月・火曜日 水・木曜日 金曜日 月 - 水曜日 木曜日 金曜日 月 - 木曜日 金曜日 1985. 7 1986. 3 1 1 1986. 4 1987. 18 なし 朝岡聡 1987. 21 1988. 1 2 1988. 4 1990. 2 1991. 29 松井康真 1991. 1 1993. 1 1993. 4 1994. 3 1994. 4 1995. 31 6 1995. 3 1996. 29 なし 5 1996. 1 1996. 2 岡田洋子 5 1996. 3 1997. 28 1997. 31 1998. 27 小谷真生子 角澤照治 1998. 30 1998. 8 丸川珠代 1998. 11 1998. 2 1998. 5 1999. 29 白木清か 1999. 1 1999. 10 白木清か 1999. 10 1999. 23 2000. 4 2000. 7 上山千穂 7 2000. 10 2000. 12 2001. 4 2002. 28 上山千穂 2002. 1 2002. 4 角澤照治 8 2002. 7 2004. 26 河野明子 8• 1 橋谷はAスタジオからのスタジオアシスタント、坪井貴はNスタジオからのニュースコーナーを担当(前述)。 2 金曜日は『』を兼務。 3 松井の『ミュージックステーション』との兼ね合いによる。 4 1989年3月まで『』、同年4月以降は『』と『』を兼務。 5 1995年10月から1996年9月まで『』を兼務。 6 1995年のみの出演。 7 台風接近の際は随時出演。 8 後継番組『』も続投(河野はサブキャスターとして)。 その他のキャスター [ ] スポーツキャスター(メイン以外)• - ・担当(1993. 4 - 2004. - 朝岡不在時の代役• スタジオサブキャスター(不定期出演、代役時)• (2002. 1 - 2004. 3) リポーター [ ]• - 久米不在時にはメインキャスター代理も担当。 - 第1回出演者のひとり。 夜桜中継が有名、不定期でゲストコメンテーターとしても出演。 共演者の久米や降板時点のテレビ朝日報道局長との不仲・確執で降板したとされている。 - 小宮不在時にはサブキャスター代理も担当。 橋谷能理子 - 初期のスタジオサブ・天気コーナーも担当。 1987年9月まで出演し、平日朝の『』に異動。 - 主に支局から出演。 宮嶋泰子 - スポーツ特集担当兼ディレクター• - 主に国会記者会館から出演。 - 「心と感動の旅」を担当。 - ピアノ演奏中継(天気コーナー)• - CNNコーナーを担当。 - 皇室関係担当、一時期天気予報も担当。 (1998. 9 - 2002. 7) - ほぼ毎日リポートを担当。 平石直之• 長島三奈• 岡田洋子• 小谷真生子• 渡辺宜嗣は、休暇中の久米の代役の定番であり、当番組長寿化の功労者の一人。 また、リポーター・スタジオサブキャスターを務めた小谷を始め、初期のCNNコーナーを担当した安藤や、スタジオサブやリポート、お天気コーナーまでマルチにこなした橋谷など、後に他局で活躍する女性キャスターたちがこの番組を足掛りとしている場合も多い。 代役について [ ]• 久米が夏休みや取材等で不在の時は、初期から1990年は宜嗣、1991年から1994年までは朝岡が代理を務めていた。 1995年から再び宜嗣が代理を務めたが、メインキャスターというよりはサブキャスター的ポジションであり、実質上の代理はいずれも小宮が務めた。 真理がサブキャスターとして登場して以降は宜嗣が担当。 2000年からは宜嗣は出演せず、真理が実質上の代理を務めていた。 小宮が不在の場合は渡辺みなみが代理を務め(後期は小谷が代理を務めることもあった)、真理が不在の場合は不定期出演のスタジオサブキャスターが代理を務めていた。 上山が不在の場合は久米と真理の2人体制で行うか、同局の若手女性アナウンサーが代理を務めていた。 スポーツニュースの代役は、朝岡時代は宮嶋、それ以降は不明。 2000年代は上山・河野(2002年より)が担当した(上山も不在場合は女性アナウンサーが担当)。 放送時間 [ ] すべてで記す。 期間 月 - 木曜日 金曜日 1985. 07 1988. 31 22:00 - 23:17(77分) 23:00 - 翌0:00(60分) 1988. 01 1994. 30 22:00 - 23:17(77分) 1994. 03 2000. 24 22:00 - 23:20(80分) 2000. 27 2001. 28 21:54 - 23:09(75分) 2001. 01 2004. 26 21:54 - 23:10(76分) 備考• による繰り下げ、・の拡大・特番により、放送時間が変更される場合もあった。 は年末・正月特番編成の関係上、放送休止。 代わりに『』を10 - 15分間放送している。 2000年3月27日から開始時刻を6分前倒し、を実施。 この間、平日20時以降の時間帯の番組は一斉に正時の6分前からのフライングスタートとしたが、視聴者の反応が鈍く、20時台の番組は2000年9月に、21時台の番組は2001年9月に廃止された。 21:54 - 22:00枠 は廃止されたが、2000年3月27日から2001年9月までは21:48 - 21:54枠 を充てて、2000年10月より19:54 - 20:00枠を新設した。 末期の放送時間は後継番組『報道ステーション』でも受け継いでいる。 特別編成 [ ] 大災害などの緊急ニュースの発生時には放送を21時からに前倒しあるいは放送終了時間の延長をすることがあった。 初めて放送終了時間の延長を行ったのは、である。 この日フィリピン政変が起こり、それに関連して、30分の時間延長がなされた(詳細は後述)。 初めて前倒し編成を行ったのは、1986年である。 この日に発生したの大噴火に関連して、22時から約2時間の拡大版として放送した(詳細は後述)。 この件をはじめとして、それ以後も開戦、ご成婚、、などではほぼ同様の措置がとられ、特に三原山噴火の際には、当時で、テレ朝枠を持っていたが編成の都合上差し替えもできなかったことから、臨時ネットとして60分のみ放送したことがある。 スポーツ番組による特例編成 [ ] 高校野球開催期間中 が行われる毎年8月中旬の2週間は、ハイライト『』(制作)を放送するための特例編成となっていた。 までは平日の同番組の放送が22:00 - 22:30 であったので、とは番組の開始から終了まで全編30分ずらし(通常日は22:30 - 23:47、金曜版のみ23:30 - 翌0:30)としていた。 とは1時間に短縮し22:30 - 23:30とした。 同番組の放送は大会前半は23:20 - 23:50、大会後半は23:00 - 23:30であった。 同番組の放送も全日程を通して23:09 - 23:39となったが、からは23:10 - 23:40となっている。 大相撲開催期間中 期間中は『(以下:ダイジェスト)』を放送するため、『Nステ』は3分短縮となっていたが、1995年4月改編を期に解消された。 2000年4月のフライングスタート開始以後は・の後に『ダイジェスト』を放送した。 2003年9月の六本木ヒルズ新本社移転直前をもって『ダイジェスト』は終了する。 なお、1988年3月までの金曜版は23:45までの45分間に短縮して放送していた。 番組での出来事など [ ] 1980年代 [ ] ニュースステーションスペシャル 初期には年末に『ニュースステーションスペシャル』と題して、大掛かりな特集を中心とした長時間番組を放送した。 はを特集し、は後述のであった。 その後も何度か、長時間特番を組むことがあった。 で「」が起こり、が交代した。 この日は、からの生中継を企画するも、回線が各国のテレビ局に全部押さえられてしまい、現地からのを断念。 当時のテレビ朝日プロデューサー・が、番組前に30分の放送時間延長を決断した。 久米の責任でを新しいと断言。 放送終了の1分30秒前に、でされた・のを翻訳付きで流し、大統領のおよび政権崩壊の一報を伝えた。 当時だった(現在、『』メインキャスター)が、市からで中継を行った。 安藤は、隣にいたの情報を聞き取っていたという。 この日のニュースは、後に「ニュース番組を変えたニュース」として伝えられている。 この日放送のは、19. のにあるが、数日前から活発な火山活動を始め、この日の夕刻、新たな噴火口から大規模なが始まった。 これに伴い、全町民に避難命令が出され、さらには島外への退避命令が出されるに至る。 その動きに合わせ夕方から番組の休止や内容変更が続く中、朝日放送の責任枠であった当時の金曜21時枠および22時枠を内容変更し、この番組が急遽放送開始を前倒しし、21時台のANNに引き続き、22時から23時57分まで時間枠を拡大し放送された。 なお23時までは番組自体はテレビ朝日から放送されたが、提供クレジット・および番組配信は朝日放送が行った。 ・の優勝決定試合である対戦(。 いわゆる)を朝日放送が第1試合始めから生中継放送しており、一部ANN系列局でも生放送、テレビ朝日は放送こそしていなかったが中継制作協力を行っていた。 だが、テレビ朝日でも夕方以降『』と『』の中で朝日放送の中継映像を使い部分的ではあるものの生中継を行った。 すると、視聴者から「もっと見たい」「中継を続けてほしい」などという要望電話がテレビ朝日に殺到。 テレビ朝日局内でも朝日放送から裏送りで流れていた中継を見る人が大勢いる有様だったため、編成局で20時以降の中継について協議した結果、21時からの『』を休止(当初は繰り下げの予定が結局飛ばされた)し 、同時間からを一切入れない形で全国放送に踏み切った。 その後、ニュースステーションでも放送予定の大半をやめて(さらには放送時間を10分延長した)、そのまま試合終了まで生中継を続けた。 なお、視聴率は 30. 関西地区は 46. この日は、でによる本社、社、および同社社長室長自宅のが行われたり、の身売り発表や、貨物列車脱線事故など大きなニュースが相次ぎ、さらにこの日は前年に発生したからちょうど1年だったことを受け予定していた・からの生中継を翌日の20日に延期した。 1990年代 [ ] 番組開始から出演していた初代コメンテーターのが1991年2月19日に亡くなり、この2日後に番組の冒頭で20分間にわたり追悼特集を組み、終盤では小林夫人が記した手紙を小宮が読み、号泣した。 「ラジオ版ニュースステーション」と題し、ラジオブースに見立てたセットから放送を行った。 しかし、評判は芳しくなく、視聴者から厳しい批判の意見が殺到したこともあり2度と行われることは無かった。 この模様は1999年に放送された「ニュースステーション物語」でも10秒弱流され、ナレーション(俳優のが担当)で「視聴者からは、お叱りの言葉をいただいた」と説明された。 ()の発生から1ヶ月後の1995年2月17日、のにある本社スタジオから番組を放送した。 サンテレビはテレビ朝日系列の朝日放送の放送区域である兵庫県をカバーしている系列外のである(朝日放送とは業務提携関係にあった)。 震災の主たる被災地の地元局であることから、この日のみサンテレビと共同で番組を制作・放送したものである エンディングの制作協力で紹介。 なおこの日は朝日放送、サンテレビだけでなく岡山・香川県域の系列局のも制作協力している。 また当時のサンテレビの看板ニュース番組であった『』の兵庫県内向けニュース・天気予報も全国のANN系列でそのまま流されるなど、報道番組としては極めて異例の取り組みが行われた。 なお、阪神大震災関連の政府の動きを伝えた部分やスポーツコーナー、全国の天気予報に関しては東京のスタジオから 当時スポーツ担当の坪井直樹と4月から金曜日のサブキャスターを担当することになる岡田洋子が担当 、阪神大震災関連のライフライン情報は朝日放送のスタジオからそれぞれ放送した 朝日放送アナウンサーが担当。 この日、の代表・(本名:松本智津夫)容疑者が逮捕されたことを受け、21時から前倒し拡大で放送。 番組のほとんどを麻原容疑者逮捕のニュースに充てたほか、当日夜にで発生したについても最新情報を伝えた。 この日、番組開始以来サブキャスターを務めてきた小宮が降板。 番組終盤で「ニュースステーション・小宮悦子メモリアル」として、久米が番組開始の1985年から1998年に至るまでの小宮との思い出の映像を久米が直筆で前略... から手紙に書き示しながらナレーションするVTRを放送し、エンディングではコーナーキャスターの女性2人から小宮へ花束が贈呈された。 ただし、小宮が4月3日以降金曜日のみ継続出演するという説明はされなかった。 同日の特集により(後に民事訴訟で提訴された)が発生。 久米の降板 久米はテレビ朝日との間で契約更新に合意できなかったため、から年末まで番組を降板する。 この期間は渡辺宜嗣と渡辺真理の2人で進行する。 この期間の久米についてテレビ朝日は「 休暇」としているのに対し、久米の著書・などでは、この期間を「 無職」としている。 2000年代 [ ] 久米が3ヶ月ぶりに番組に復帰。 同時に番組オープニング、タイトルロゴ、スタジオセットがリニューアルされた。 この時久米は口ヒゲを生やし、それまで黒く染めていた髪を白髪のままにするなど、イメージチェンジを遂げた。 ほぼ全編の立てこもり現場の中継に終始。 - で開催したの独占放送権をテレビ朝日が取得。 世界水泳の中継が午後9時24分に終わってしまうため、ちょうどが行われる直前ということもあって、この間「SPECIAL WEEK」とし、21時36分からの放送となった。 - 久米が遅めの夏休みをとり、真理と萩谷だけで放送していた11日。 放送開始前の午後9時45分、のにが突入。 のニュースを伝えた後、第一報を報じた()。 その後、台風15号のニュースの続報を伝えている最中に2機目が突入。 この事態により、午前0時まで放送した。 上山は直後のANN報道特別番組から宜嗣と共に担当。 、『』を休止。 21時から23時30分までの放送で、全編テロ報道となる。 13日、休暇中の久米がを切り上げて復帰。 番組欄の最後に「久米宏」と書いてアピール。 プロ野球速報も伝え、放送時間の拡大も無かったが、11日・12日より高い視聴率を記録した。 2001年 この日の当番組の前座の時間帯で、プロ野球、パ・リーグののリーグ優勝が懸かった対オリックス・ブルーウェーブ(現:)戦を朝日放送(現:朝日放送テレビ)の制作で全国ネット生中継していた。 試合は近鉄が3点リードされた状態で迎えた9回ウラ、ノーアウト満塁の状況から代打・が逆転サヨナラ満塁ホームランを放ち優勝を決める劇的な結末を迎えた。 中継終了後に始まった当番組でも、番組冒頭で北川が逆転サヨナラ満塁ホームランを打った瞬間を流し、スタジオの久米も「こんな漫画みたいなことが起こるんですね」と驚いた。 その後、予定していた内容を一部変更し、試合が行われていたからの中継を交えながら近鉄のパ・リーグ優勝関連のニュースを詳報した。 この日、で立てこもり事件が発生。 21時54分の番組冒頭からトップニュースで伝え、「犯人は現在も立てこもり中、動きがあり次第お伝えする」として次のニュースへ進行した。 しかし、午後10時ちょうどにが突入を開始。 の報道番組『』がまさにその瞬間を生中継で伝え、ニュースステーションとしては遅れを取る格好となってしまった。 その後、犯人確保の続報を伝えるも、久米が最後に「いやんなっちゃうなぁ~、(『 - ニュース10』が始まる)10時ちょうどに突入するんだもん」とぼやく始末だった。 で、軍事政権により軟禁されていると久米が5分間の電話対談を行い、録音した音声を放送した。 なお、久米はミャンマーの軍事政権を嫌い、国名を旧国名の「ビルマ」と伝えていた。 で、が初めての決勝トーナメント進出を決定したこの日は、この日戦が行われたにほど近い、のから生放送が実現した。 この日、プロ野球・が番組が始まった1985年以来18年ぶりのセ・リーグ優勝を果たし、冒頭からタイガース優勝関連のニュースを中心に放送。 この中で、大阪・道頓堀の盛り上がりも中継で伝えたが、その際久米は道頓堀を「第2祝勝会会場」と定義していた。 また、この日の番組中、2003年6月に福岡市で起きたの続報を報じた際、VTRの音声が出ないトラブルが発生し、エンディング前に久米がニュースの内容を簡潔にまとめた原稿を読み上げる一幕があった。 2003年 同じ内に本社を置く()の『』と同時放送(午後9時から30分ほど。 年内最後の放送という事もあり1時間早めて放送)、久米とがニュース原稿を読み、久米がJ-WAVE社内の様子をリポート、が六本木ヒルズ内から生中継で『』を披露した。 最終回(2004年3月26日放送) [ ] オープニングでは、番組開始と同じ年に植えられたの桜並木から夜桜中継をした。 番組中盤では、10月16日の番組10周年の特別企画の際に、10年目を迎えた久米が、番組初回の自分を激励しに、当時のスタジオへ行った企画の映像を使い、最終回を迎える久米が、1年目の自分と10年目の自分に、番組終了を報告しに行くVTRが放送された(2004年3月23日に収録)。 ただ、番組終了を報告した部分は番組終盤に放送された。 その後続けて、歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交え、過去18年半のニュースを振り返った。 その後、フラッシュニュースを挟んでエンディングではまず真理が視聴者への挨拶を行った。 そして、久米がの在り方について、を始め、の、歴代の・スタッフなどへ感謝の言葉、時代の自らのの内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。 さらに、による予告編「久米的電視台」が放送された。 最後は、スタジオに集まった出演者・関係者からの大きな拍手の中、久米が一人手酌のを一気に飲み干して、(降板していた時期があったため)「本当にお別れです。 さようなら! 」と挨拶し、18年半の歴史に幕を閉じた。 番組終了後、同日中に競合番組である『』()内のコーナー「多事争論」で、が久米宏への「労いの言葉」を述べたことを始め(その日のタイトルは「さようなら、NS」)、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙でも報道されるなど、報道番組としては極めて例外的な扱いを受けた。 本番組終了で、プロダクションのは、同時間帯の報道番組制作から撤退することになる。 後継番組『報道ステーション』は、本番組とは全く別の番組という位置付けがなされ、花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。 最終回の視聴率は19. 番組構成 [ ] 番組内で久米が番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定にするようアピールしてきた。 番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。 10時開始だった2000年3月までの番組構成を例に挙げると、スポーツは22:30頃、天気予報は22:50頃に放送。 主なコーナー [ ] ニュースフラッシュ 番組終盤に放送。 開始当初は「 ニュースウォッチ」と題し、映像に乗せてNスタジオから小宮と坪井 貴 が交互に読み上げていた。 90年代半ばにボードを更新してからは、初めに「 一枚の写真」と題してボードに映し出された写真にまつわるニュースを伝えた後、ボードのパネルを回転させてニュース項目を表示させる場面転換の演出を付加した。 2000年から番組終了までは初期以来、スタジオ演出を用いず映像のみで構成、BGMやアタック音も加わった(読みは主に真理が担当)。 この時、久米が前振りで「 できるだけニュースです」 と言うのが通例だった。 天気予報 天気キャスターが読み上げる。 2001年1月から番組終了までは上山がスタジオサブキャスターと兼任して読み上げる。 中期になると季節の変わり目等の節目節目に有名な産地や名所へ行ったり、後述の夜桜中継や滝中継・紅葉中継と合わせて行うこともあった。 特集 様々なニュースやそのニュースに関連した内容など、多種多様にわたって取り上げる。 この他、後述の企画、各月の行事や最新の流行もの、話題のものに関するものまで幅広く取り上げている。 2000年代は気になる現代社会問題のニュースや最近のニュースに関連した内容を取り上げる「 NEWS IN-DEPTH」というコーナーもあった。 スポーツ [ ] 野球 [ ] プロ野球に関しては当日の試合速報が番組の主力コンテンツとしてあり続けた。 日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が解説者として出演することもあった。 プロ野球速報 番組初期、のある日は「日本一速いプロ野球速報」をウリにしていた『』に対抗すべく22:25頃から「プロ野球速報」として放送していた。 試合速報は取材した放送局が編集・ナレーションを行い、各リーグの順位表が初代セットの一部に組み込まれていた。 試合映像は各放送局から配信(ナレーションも原則各放送局アナウンサー。 地方球場遠征の場合、系列局がない地域ではテレ朝か近隣系列局アナウンサーが行う場合あり)しており、試合の映像が終わってから、東京のスタジオから詳細なスコアテーブルを全画面表示して、選手・監督のコメント、記録などの一口メモを流すという体裁だった。 当初から独自のコーナージングル を採用しており、アニメ番組の主題歌のイントロを加工したもの も使用されたりした。 また、のシーズンからチームの呼称を報道番組としては初めて愛称名(「ジャイアンツ」「ライオンズ」など)のみとした。 その後一時「親会社名+愛称名」のフル名称になった時期もあったが、「巨人」あるいは親会社名のみの呼び方は番組終了までされなかった。 ペナントレースの優勝チームの決定が近づくとがセットに吊り下げられ、優勝が決まるとそれを割って祝福するシーンもあった。 日刊スポーツとの中継 木曜日の放送で、「まゆげのノーさん」ことの編集委員が出演。 同社東京本社()と中継回線をつないで、プロ野球解説や翌日の日刊スポーツ紙面の紹介を行っていた。 プロ野球1分勝負 ニュースフラッシュのあとに放送された名場面(珍プレー)を中心に、その日のプロ野球を1分でまとめたコーナー。 1999年のシーズンまで放送された。 BGMはの「」、の「天下無敵の一発屋」等。 クドちゃんナベちゃん キャンプフライデー の春季キャンプにて、に在籍していたとによるキャンプ地リポートコーナー。 ジャイアンツエイド ファンの久米宏が、ファンの著名人(やなど)を招いて、巨人が優勝するための策などを主張させ合った。 宜嗣とドラゴンズ キャンプ取材では、大のファンであるが毎年、中日の北谷キャンプを取材し、監督らにインタビューし、最後に「」を大熱唱することが恒例となっていた。 久米さん、始球式ですよ! 、久米宏がで行われる対の開幕戦始球式を務めることになり、始球式用の練習の様子やキャッチボール、本番に至る様子が数回に渡って放送された。 久米はファンであるダイエーのユニフォームで登場し、背番号はこの年、当番組がフライングスタート(9時54分)を開始したことにちなんだ「 9:54」。 サッカー [ ] が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演した。 Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。 では川平がフランスから連日放送。 ではテレビ朝日が担当した日本対チュニジア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。 放送日にJリーグの試合がある場合、他のスポーツニュースでは試合映像の終わりのところでその試合のスコア結果を字幕出ししていたが、この番組はプロ野球と同じ要領で、試合映像を最初に映した後、映像が終わってから別のカットで詳細なスコアテーブルを全画面表示して、そこに川平が選手・監督談話や記録などの一口メモを述べる体裁をとっていた(一部の日、1-2試合程度しか行われなかった場合は除く)。 日本人選手の海外進出や2002年W杯人気もあり、海外リーグの話題も伝えた。 特に発足以後からは、週末に行われたJ2の試合を他のスポーツニュースよりも詳しく伝えた(は注目のカード数試合を抜粋して放送)。 これには川平は登場しない。 川平慈英のJ2めぐり この「マンデーJ」との連動で、1999年のJ2発足当時に、「J2の」といわれるチームを川平が訪問し、そのチームのJリーグでの取り組みや試合の観戦レポートを紹介するコーナーがあった。 都並さんといっしょ 当時サッカー解説者であったが登場し、川平とともに、サッカーについてのミニ知識などを解説したコーナー。 レインボー のエレキギター演奏と共に、ゴールシーンの映像を振り返り、ボールの軌道を虹なぞらえて演出する。 日本代表試合での日本代表選手のゴールシーンなどに使用。 「次はいつ? 」 川平にはお馴染みのフレーズが多く存在した。 「いいんですか? いいんです! 」や心酔した時の「くぅーーー! 」など。 ハイテンション過ぎて、久米から「次はいつ来るの? 」と冷やかし半分に訊かれ、未定だと「(呼ばれれば)いつでも!! 」と締める事が多かった。 その他スポーツ [ ] 特集 スポーツ特集は野球・サッカー以外の幅広い競技にも及ぶ。 マイナースポーツの取材数では他のスポーツニュース番組より圧倒的に多く、さらに毎年継続して取り上げた(やなど)。 スポーツ特集にはがディレクターとして取材。 スポーツ中継告知 テレビ朝日で放送されるスポーツ中継の告知は色々な形で行われた。 やや(男女・シニア)のある時期は開催先から解説陣が最新の様子を伝えるなど、告知は怠らなかった。 また、全英オープンの際の久米との掛け合いも名物であった。 ネーミング なにかとダジャレや気の利いたフレーズを使うことが多かった。 Jリーグ順位掲示板「回転くん」「かめすけ」や、カウントダウンの「あと韓日くん」など。 角澤ポジション(角ポジ) 2000年1月4日の久米復帰に合わせたスタジオリニューアルに合わせ、ブーメランテーブルの手前に、当時のスポーツ担当であったの専用席が設けられ、以降、角澤担当曜日のみその専用席に角澤が位置してスポーツコーナーを進行する形になった。 これにより、角澤は久米・真理・上山の3人を背にして進行を行う形になり、各出演者の表情も一緒に覗うことができるようになった。 基本的にはコーナー全体を通して専用席で進行するが、最初は専用席で進行し、途中からブーメランテーブルに移動して進行を行うこともあれば、以前と同じように一貫してブーメランテーブルで進行することもあった。 この専用席は通称「角澤ポジション」と呼ばれた。 なお、角澤以外の女性スポーツキャスターは従来通りブーメランテーブルで進行していたが、角澤不在時の代行担当者らが「角ポジ」を使用するとやといった名称がついた。 名物企画・シリーズなど [ ] 夜桜中継 「夜桜中継」は例年春に行われた大規模な中継である。 初期に担当したは、久米の進行が気に食わないことが多く、契約が終わると久米批判で知られるようになった。 夜桜中継は他系列のやなども中継に協力していた()。 正式なANNのネットワークニュースではないために協力が得やすかったと言われる。 初回は1986年3月31日、最終回は2004年3月26日(番組自体も最終回)に放送、初回・最終回いずれもの(磯山)が中継先となった。 このほかに夏の「滝中継」、秋の「紅葉中継」も行われた。 久米によると「日本の美」を演出するために仮設やぐらを組み立てて、500ワットと1ワットのパーライトを10~20個ほどつけていたという。 立松和平こころと感動の旅 作家・が世界各地からの衛星生中継で、自然の中を旅するリポート。 による水中リポートも織り込まれることがあった。 立松の独特の語り調子と、須賀の酸素ボンベでの呼吸音が話題を呼んだ。 初期は、須賀の実父がカメラマンとして同行していた。 金曜コンサート 若林正人がクラシック音楽を紹介した企画。 1988年9月23日に、がから中継出演した際は、このタイトルで放送した。 最後の晩餐 『最後の晩餐』は、久米が著名人に「人生最後に食べたいもの」というテーマでインタビューするという企画。 のちに単行本化された。 なお、久米の夏季休暇が3週間で定着してから考え出された企画で、初期は休暇3週目に放送されていた。 シリーズ日本の駅 が目前に迫っていた1986年当時、日本の様々な駅を紹介した。 の「おだやかな時代」がテーマソング。 国鉄民営化をもってコーナーも終了した。 シリーズ新・日本の駅 の「駅」がテーマソング。 マンハッタン瓦版 ニューヨーク支局のが、地元紙の気になる記事を紹介するコーナー。 が代役を務めることもあった。 絶滅危惧商品 忘れかけた頃に放送されるシリーズ。 戦後復興期に使われ、その後使用されなくなった商品の今昔を、ナレーターがその商品に扮して伝える。 これを端に、発酵食品だけにとらわれず、いろいろな地元食を扱った。 業界新聞 あまり目に触れることのない、業界内向けの新聞に着眼点を置き、その新聞の生い立ちや、取り扱う業界について探る。 登山シリーズ テレビ朝日のディレクター・(『』プロデューサーなどを歴任)による登山紀行。 取材は何回かに分けて放送、これ以降はがナレーターを務める。 後に日曜午後に放送される番組の先行ダイジェスト版という形式をとる。 ビートルズ映像公開 が『』に出演した映像や、に発表した「新曲」「」のミュージック・ビデオの日本初公開、がリマスタリングした際に作成した日本で1回しか放送できないミュージックビデオなど貴重な映像を放送。 チャンスの前髪 渡辺真理が、話題の人物にインタビューする企画。 轡田隆史のぶらり旅 朝日新聞の論説委員でかつてコメンテーターだったが各地を旅するという企画。 所沢ダイオキシン問題 [ ] に「 汚染地の苦悩 農作物は安全か? 8の濃度が検出された』と、青山社長がコメンテーターとして久米と対談のうえセンセーショナルに報道した。 予てから東部の沿いに広がる「くぬぎ山」と称する周辺での小型や中間処分場が1990年以降多数立地するようになり、排煙や焼却に含まれるによる・が懸念されていた。 1997年にが全国の野菜に含まれるダイオキシン濃度を検査したことを受け、所沢(現:JAいるま野)は地元産のやなど野菜5品目を測定するも公表しなかった。 そこで番組はこれら周辺の状況を絡めて報じたのである。 この結果、を始めとする所沢産の野菜がダイオキシンに汚染されているとなど小売業各社が認識し、翌2日より所沢・産はもとより、一部でのなど埼玉県産の農作物全般で自主的に販売停止措置を講じて締め出されるという騒動に発展。 農作物の出荷は継続されるもで埼玉県産農作物の卸価格が半値以下に下落する被害が出た。 当時、全国朝日放送 通称:テレビ朝日 は『』で1995年から1998年にかけて所沢市の産業廃棄物処理場とダイオキシン汚染による健康被害など環境問題を7回取り上げており(判例より)、初回放送直後の放送回でコメンテーターの菅沼は「 この報道をやめて(ダイオキシン問題を)救えるかってんだ! 」と生放送の番組内で大声で啖呵を切るなどして誤りを認めなかった。 これを受け、同月5日に埼玉県が事実確認を行う旨公表し、テレビ朝日以外のキー局は番組名を伏せてなどで騒動を取り上げるようになった。 同月6日に所沢(現:JAいるま野)が検査結果を公表する動きを見せ、同月8日にJAと地元農家がテレビ朝日を訪問し抗議。 同月9日にJAは野菜のダイオキシン濃度はきわめて低いとする詳細な検査結果を公表し、安全宣言。 同月18日に埼玉県が報道の最高値は であったと発表し、全国朝日放送は番組内で不手際があった事を認めた。 煎茶は乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、飲用では健康に悪影響はないものだった。 なお、ホウレンソウも同時に計測されており、1グラム中最高0. 同月12日にが全国朝日放送 テレビ朝日 報道局長宛に調査を行うよう申し入れを行い、翌2月13日、久米が番組内で農家に謝罪。 「検査対象が茶だとは知らなかった」と弁明したが、その後、批判対象は環境汚染の元凶である産廃施設とそれを管轄する行政(所沢市・埼玉県)にあるとする動きを見せた。 全国朝日放送は同年6月21日付で(現:)から「農業生産者に迷惑をかけ、視聴者に混乱を生じさせる不正確な表現が行われたことは、放送法の趣旨に照らし遺憾」として厳重注意のを受けた。 所沢市周辺の食品スーパーでは徐々に野菜の販売が再開されたが、それ以外の埼玉県内を含む首都圏の食品スーパー・百貨店では農作物の販売再開に慎重な動きを示した。 また逆になど埼玉産のが販売自粛に追いやられ、鹿児島県や静岡県は煎茶のダイオキシン濃度を自主的に検査する動きを見せた。 後に中川農水相や首相が所沢産野菜を食して安全宣言を出すパフォーマンスを行う事態になった。 農家側は同年にを受けたとして、同年9月に当初376人の原告団を結成して全国朝日放送 ANB と環境総合研究所に対して謝罪広告の要求を兼ねた損害賠償請求のをし( 平成11年(ワ)1647号)、民事事件へと発展した。 この一連の騒動は販売停止の解消と提訴が行われるまで地元紙のでほぼ連日報道されていたが、同時期にやなど皮肉にも埼玉県を事件現場とする凶悪事件が立て続けに発生し、前者は日本における問題提起のきっかけとなる程社会に衝撃を与えた事件であり後者は被疑者が繰り返しメディアに会見を行うというその行動の特異性からこぞって各マスコミがこの2つの事件の取材に人員を回したことから各マスコミでの報道は急速に縮小した。 訴訟では2001年判決の1審と2002年判決の2審(平成13年(ネ)第3301号)がテレビ朝日側が勝訴 、で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された((一小)平成14年(受)第846号)。 番組終了後のに、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立。 原告団は900万円を噴火被害による農業振興に役立てて欲しいとに、100万円を活動へ役立てて欲しいと所沢市にした。 環境総合研究所に対しては測定内容が事実であったことから1審・2審ともに敗訴が確定している。 『ザ・スクープ』の報道後の1997年に所沢市は「ダイオキシンを少なくし所沢にきれいな空気を取り戻すための条例」など幾つかのを施行していたが、この騒動を受けて埼玉県はの自粛要請・産業廃棄物排出事業者の公表を、政府レベルでは「」・「」が施行され、や炉に対する規制が強化された。 また、くぬぎ山に所在するの焼却炉は不燃物を粉砕する中間処理施設への転換が相次いだ。 久米はゲスト出演した2014年2月23日放送の「」(系)の中で「地域的にも、所沢の方とか、いろんな所に迷惑をかけた。 裁判所に呼ばれそうになるし」といった発言をしている。 演出 [ ] スタジオセット [ ] それまでニュース番組のセットは、キャスターの背後にクロマキーなどの壁板を置き、横1列になって座るのが主流だった。 当番組では後述するように「全国の都市生活者に向けて発信する」という理念から、従来の壁板というセットを廃し、都心の高級マンションの一室のような、都会的でおしゃれなオフィス空間をコンセプトに、「自宅で食べたりくつろいだりするような日常の気分を番組に持ち込みたかった」という。 本物の質感とイメージを追求し、木組みの床を貼り、柱や梁、階段には建築用資材を使用。 セット建て込みには美術スタッフだけではなく大工の手も借りたという。 セットはすべて久米が提供したコンセプトとイメージが実現された。 久米はスタッフに念のため予算を聞いたところ「考えなくていい」と言われたという。 スタジオセットは、地下3階にあったAスタジオ(テレビ朝日の本社移転後は、新本社4階にある第4スタジオ)に常時建て込まれている状態で、2階(末期のセットでは3階)まで作られたほか、ゲストを招く部屋や家具までも仕込まれるなど大掛りで非常に手の込んだものになっている。 コンセプトは「 久米宏の部屋」で、放送終了までに5回改築された。 初代:1985年10月7日 - 1990年9月• ドラマ担当の美術デザイナーが担当。 アメリカ・の朝の報道・情報番組『』のスタジオセットで採用されていたリビングスタイルのイメージをもとに、「敷地内のビルの最上階の久米宏のオフィス兼リビング」という設定で制作された。 セット自体は白を基調とし、茶色・木目調の什器類がアクセントを添えている。 質感や色は、久米の当時の自宅の部屋にそっくりだという。 背景のホリゾント幕には、アークヒルズから見える東京都心部の群を再現したミニチュアを配した。 ビル上部のの明滅まで再現された精巧なものである。 正面奥には、スタッフルーム(後にゲスト用の客間)、右手にはソファのある応接セットがあり 、1988年3月までの金曜版は、応接セットの位置から放送した。 壁には巨大プロ野球順位表が設置されていた。。 2代目:1990年10月 - 1995年10月• テーマは「無駄な豊かさ」。 3代目:1995年10月 - 1999年8月• テーマは、「バブル期の華やかさ豪華さの次に来るもの」。 これまでの雰囲気を一新し、富山県や岐阜県にあった民家の木材を使用。 4代目:1999年8月 - 1999年12月23日• これまで改装中は1階のNスタジオから放送していたが、ここでは先代の2階にある「」がテーマの小さなセットを使用した。 このセット奥の窓には高層階からではないが夜景が見えていた。 この時に久米の契約交渉がまとまらず、久米は3か月間不在となる。 5代目:2000年1月4日 - 2003年9月26日• レンガがアクセントになったセットで、久米曰く「関東のとあるワイン倉庫(後に自動車修理工場 )を改装した」という設定。 美術(大道具)搬入口付近まで建て込むなどアークAスタに組んでいたセットとしてはこれまでで最大の規模となった。 1階左奥には囲炉裏を囲んだ板の間、その手前にはテラス。 正面奥にはキッチンその右手前には書斎。 2階左側に趣味の部屋、ここは「ビートルズ映像公開」企画で使用された。 同じく2階右側は通路を兼ねた書棚が置かれている。 ここは天気コーナーでしばらく使用していた。 2002年4月に1階書斎部分を改装した。 6代目:2003年9月29日 - 2004年3月26日• テレビ朝日の社屋移転に伴い、使用していたスタジオはアーク放送センターAスタジオから、六本木ヒルズ新本社の第4スタジオへ変更となった。 「に浮かぶ700tクラスのの船底をイメージした」という3階建ての作りで、40tもの鉄を使い、建て込みには数百人がかりで1ヶ月もかかった超豪華なセットであった。 同じスタジオ内には夕方のニュース番組『』のセットも作られ、『ニュースステーション』よりは小規模ながらも、共通のデザインコンセプトで設計されている。 『ニュースステーション』側のセットは現社屋への移転時点で番組終了が決定していたためわずか半年で撤去されたが、『Jチャンネル』側のセットは残され、2017年12月27日まで幾度か手直しを加えたうえで継続使用された。 新セットを作るにあたり、テーブルなどほとんどのセット内のものは新調されたが、一部の家具や小物は前のセットから引き続き使用された。 番組終了後、この6代目セットと10代目オープニング映像、リアルタイムCGにより、スタッフが2003年度のテレビ美術を対象とする「第31回伊藤熹朔賞」を受けた。 ブーメランテーブル [ ] 『ニュースステーション』ではキャスター席に特徴的な「 ブーメランテーブル」 が使われ、のタイトルを『NSブーメラン』とするなどこの番組の名物であった。 番組開始当初は濃い色のものが使用されていたが、後に交換されたときには薄い色のものへ変更になった。 テーブル自体は、大道具担当ではなく家具メーカーに発注し作られた。 それまでは前述のとおり、横一列に座るのが主流だったが、多くの出演者が座って話す際、横一列では平面的になり、互いの顔を正面から見ることができず、丸いテーブルだと視聴者不在の印象を与えてしまうことから、画面効果と機能面を突き詰めて余分な部分を突き詰めた結果、「湾曲したテーブルの形」になったという。 磨きぬいたテーブルに傷がつかないように出演者もスタッフも細心の注意を払い、本番開始直前までテーブルは分厚い布製カバーで覆われ、本番終了後も直ちにカバーをかぶせていた。 テーブルは食卓をイメージしているため、従来のように前を覆っておらず、出演者の脚や靴までがすべて見える。 さらに、それまで出演者は一つの画面に収めるために肩と肩がぶつかるほど座っていたのを、十分な距離を置いて座らせ、空間を贅沢に使った。 ブーメランテーブルについては、「湾曲していたほうが出演者同士が話しやすい」「情報は一方的伝えるだけでなく、視聴者から帰ってくる反応を汲み取り、さらにまたニュースを伝える」との意図があった。 キャスターの足が見えるテーブルは、ニュース番組では初めての試みであり、家具メーカーが製造した一般のテーブルのため、音声のや確認用のモニターは設置されなかった。 テーマ曲・コーナー別使用音楽 [ ]• 1985年10月7日 - 1987年9月25日:「ANNニュースのテーマ」()• 他の『ANNニュース』でもこのテーマ曲に変更。 ただし本番組とそれ以外では若干アレンジが異なる。 1987年9月28日 - 1989年1月27日:曲名なし()• 週末の『』や『』と共通でテレビの三原色を示す光線が放たれた(後者はテーマ音楽も同じ)のみスタジオ風景が細切れに現れたところでタイトルというCG混在映像が使われていた。 この代の途中からスタジオ挨拶のところで日付表示をするようになる。 1989年1月30日 - 1993年4月16日:「Good Evening」()• 本バージョンの使用を開始した頃から、オープニング曲・CM前以外に番組内で使われる音楽もトータルにコーディネートされ始めるようになり、天気予報のBGM、スポーツコーナーのテーマ(「JUMP UP」)なども本多が担当している。 歴代のテーマ曲の中ではこの曲が長く使われている(約4年3か月、作曲者だけでも含めると約7年8か月)。 1989年発売のベストアルバム「FOOT PRINTS」(、CT32-5427、既に廃盤)収録。 1993年4月19日 - 1996年10月4日:「Harmony」(本多俊之)• 一部、同じ本多が作曲した「Good evening」をアレンジしたものであった。 曜日毎にメロディーパートの楽器が変動する。 ()演奏のフルバージョンはの楽曲として1993年にCD化されている。 曜日別メイン楽器は以下の通り。 月曜日:• 火曜日:(シンセサイザーでの演奏)• 水曜日:• 木曜日:• 金曜日:• オープニング映像はアニメーションで、25-35歳程度の青年が近未来の都会で寝転んだり自然と親しみ余暇を愉しむ様が春夏秋冬季節ごとに4パターン用意された。 番組ロゴはアニメーションに含まれず、日付とともに小さく表示された。 アニメーション画は。 なお提供クレジット、CM入り、エンディングはピアノ演奏バージョンが使われた。 1996年10月7日 - 1998年5月8日:「」()• 1995年に制作され、幾度かリリースが検討されることもあったが、結局リリースされることがなく、結果的に番組終了後の2004年8月にのシングル「」として再製作されてリリース。 ASKAは天気予報のBGM(違う曲)も提供。 オープニング映像は、世界の有名な絵画をアニメーション化したもの。 数バージョン制作された。 1998年5月11日 - 1999年12月23日:「靴は履いたまま」()• オリジナルバージョンはアルバム『』収録。 本来歌詞ありの楽曲だが、ニュースステーションで用いられたバージョンは全編であった。 これ以降、オープニング映像の中で日付を表示。 オープニングではその日のニュース映像を流し 但し1998年5月11日は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像、プロ野球がリーグ優勝を決めた1998年10月8日はのコメントからニュース映像になるなどの例外あり 、最後にごく短くタイトルCGを表示するという簡素なものとなった。 重大ニュース時(1998年5月28日のパキスタン核実験実施など)は定時開始であっても通常のスキャットバージョンを使用せず、ピアノをベースとしたインストアレンジ版が使われ、スタジオの引きの映像を背景に日付表示から直ぐにタイトルCGが表示された。 この曲がオープニングに起用されて3か月ほど経った1998年8月20日、ゴスペラーズがゲスト出演し、オープニングで生歌唱。 久米と対談も行った。 なお、ゴスペラーズはテーマ曲を担当する前の1997年12月25日放送分にも出演していたため、これは都合2度目の出演であった。 ゴスペラーズはスポーツの楽曲「イントロ'98」も担当しており、 同じくアルバム『Vol. 4』に収録されている。 2000年1月4日 - 2002年3月29日: 「NS2000(NEW STREAM 2000)」()• オープニングのCG映像はが手がけた。 を表現したようなフル映像となり、その日の放送する複数のニュース映像素材をCG映像内の部分にしダイジェスト形式で短時間流すとともにカテゴリーや放送予定時間を英文表示するスタイルに変わった。 これ以降、オープニングCGの中で放送内容の告知を行う(Char演奏のW杯バージョンを除く)。 2001年ではこの曲のニューバージョンとして「NS2001」が使われた時期もあった(アルバム『Calling -The Latest Best-』収録)。 導入当初は30秒あったが、2000年3月27日のフライングスタート開始時から1フレーズカット(5秒ほど)。 直前の「SPECIAL WEEK」期間中の午後9時36分からの放送となった2001年7月23日 - 7月27日の間はアニメ『』のものを使用した。 スポーツ「Trance Zone」 - アルバム『Calling -The Latest Best-』収録• ニュースフラッシュ「5scenes from a Dizzy day」 - シングル「NEW STREAM 2000」、アルバム『Y・Voices』収録• 2002年4月1日 - 2002年6月28日:「A FAIR WIND」()• この期間内に、があり、このテーマ音楽に乗せ、のナレーションで1回目からのW杯の歴史を振り返る特別バージョンで、決勝戦とともに終了。 なおタイトルと日付はオープニングの最後に上にタイトル下に日付表示という形でまとめて表示された(「NS2000」と「サラバンド」の期間も、シドニーオリンピックの会期中や2003年10月の阪神優勝時などニュース映像から始める際にこのタイトル表示の方式が取られた)• 2002年7月1日 - 2003年9月26日:「サラバンド」()• アルバム『ハレム』、『輝けるディーヴァ 〜ベスト・オブ・サラ・ブライトマン〜』収録(共にフル・ヴァージョン)• スポーツ「ハレム」 - アルバム『ハレム』収録• オープニング映像は近未来風の世界を彩った映像を使用し、「NS2000」の時と同様にその日の放送する2項目のニュース映像素材を交えてダイジェスト形式で短時間流すものになった。 2003年9月29日 - 2004年3月26日:「」()• スポーツ「」、ニュースフラッシュ(「できるだけニュース」)「」、エンディング「」もU2の楽曲が用いられた。 オープニングはの夜景に浮かぶヴァーチャルスクリーンによりその日のニュースの一場面が表示されるというもの。 この代ではタイトルが最初に表示され、その日の放送する2項目のニュース映像素材を交えてダイジェスト形式で短時間流してから日付表示される形になった。 最後は船のドックに近づくと、オープニングに合わせて照明を消して暗い状態にし、赤い照明だけ灯したスタジオをクレーンカメラでパンさせて本編へと移る。 最終回が近づくと、船のドックにカウントダウンが表示されるようになり、最終回はそれが「FINAL DAY」になっていた。 この代のみハイビジョン制作だった。 平均視聴率ベスト10 [ ]• 数字はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。 位 視聴率 放送年月日 備考・放送内容 1 34. 19」当日。 上記を参照 4 28. クロスネット加盟である福井県の(放送開始後の加盟)と、宮崎県のは、その関係上NNN(日本テレビ系)の夜の最終ニュース『(現:)』などを放送していた。 その他、ANNフルネット局が出現するまでANNに加盟していたクロスネット局に、ネットしていた局はなかった(報道特番等の臨時ネットは除く)。 しかし、久米は系列局が都市部に限られていることから「NHKのように全国に配慮した全方位型ではなく、都市生活者に向けたニュース番組にできる」と前向きに捉えていた。 ANNは、テレビ放送ネットワークとしては他の放送系列よりも系列局の設置などにはばかるほどの起伏に当たるばかりになってしまい、その後、日本テレビとフジテレビの人気番組の勢いが優位的になると、各地のローカル局は人気ネット番組の整理に追われるようになる。 1989年のKABの開局を皮切りに、テレビ朝日はそれまで進んでいなかった全国ネットワーク構築を再展開。 それまで他系列とのクロスネットを組んでたローカル局ともネット関係をほぼ断ち切るようになり、フルネット24局体制を『ニュースステーション』の放送期間中に完成させ、「ニュースステーション」は、北海道から沖縄までテレビ朝日の放送が視聴できる体制づくりにも貢献した。 なお、番組中に系列局発のローカルニュースを挿入する部分が一貫してなかったため、系列局今日最後のニュースは、この番組の放送終了後か、深夜枠に回されている(とは言え深夜枠は日付が翌日になったあとに系列局が放送する例が多く、実際は日付が変わったあとのニュースと捉えなければいけないようである。 これは『報道ステーション』に移行した今日にも至っている)。 関連番組 [ ]• 番組タイトルに「ステーション」を持つ『Nステ』の派生番組。 初代番組ロゴは『Nステ』の初代番組ロゴと共通のデザインだった。 国政選挙の。 1986年7月の衆参同日選挙から2003年11月のまで『Nステ』の特別番組として放送された。 1987年10月4日から1988年4月3日まで、日曜日午前11時台に放送された。 渡辺みなみが司会を務め、若林正人が経済解説をした。 テーマ曲も当時の『Nステ』と同じであり、「金曜チェック」の再放送が目玉の一つだった。 ニュースステーション=駅・根拠地に対して「シャトル=定期便」とした、かつて放送された平日夕方時間帯のニュース。 週末ランキングコーナー(後に「」として独立)が有名。 ・530ステーション・ 「ステーション」ブランドを採用した、かつて放送されていた夕方のニュース。 600ステーションと530ステーションのロゴの「ステーション」の部分はニュースステーションと同じであった。 番組開始前の1983年より2004年まで『』等の特番枠で不定期放送してきた、久米宏司会による患者とその周辺に密着したドキュメンタリーシリーズ。 ドキュメント天皇崩御 昭和から平成へ 「平成」改元が行われた1989年1月8日(日曜日)12時から2時間にわたって放送された。 久米宏と小宮悦子が司会を務め、『Nステ』のスタジオセット(ただし背景は昼の風景)から放送した。 ニュースチャレンジステーション 1996年と1997年に放送された『』の番組内ニュースコーナー。 通常編成における『』の代用的位置付けであり、1996年放映版は『Nステ』のタイトルロゴをアレンジしたものだった。 キャスターはタレントのと(当時テレビ朝日アナウンサー)。 後継番組。 『Nステ』とは別番組の位置付けではあるが、『Nステ』の制作手法などの名残りを受け継いでいる。 ・ 『Nステ』に対抗して、系列で1987年10月~1989年9月にかけて平日22時台に放送されていた報道番組。 結果としてこの試みは失敗に終わり、2年で22時台のニュース番組から撤退。 当番組には後述のにもメインキャスター出演の打診をしていたが、この時は実現していない。 ・ TBS系列で平日23時台に放送されている報道番組。 上記番組終了後の1989年10月2日より放送開始。 『Nステ』同様平日最終版のニュースの概念を大幅に変えた番組。 同時間帯で何かと比較された。 また、久米宏と初代キャスターの筑紫哲也は双方ともの出身、かつ「のファン」でもあった。 ちなみに、双方の古巣は久米宏は、筑紫哲也はであった。 また、渡辺真理も時代、この番組に出演していた。 『ニュースステーションに対抗する報道番組』を作ってほしい、という の意向を受けた幹部から声が挙がって、会長時代に放送開始。 視聴率では『Nステ』に負けていた。 、『』に移動する形で放送終了。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• からまで実施。 それ以前はを実施していた。 その『おしゃれ』も1987年4月に終了し、以後久米は最終回まで仕事はほぼ本番組に絞っていた。 しかし、番組開始に伴う番組編成の改編で、平日夜22時台に放送されていた番組を中心に放送時間が変更され、これに伴う視聴者離れで『』、間接的だが番組編成上の問題で『』が終了に追い込まれた。 これらの改編に加え、1980年代後半から1990年代はテレビ朝日ではヒット番組に恵まれず視聴率において、終始4位(民放キー局、除く)だった。 これを見ていた当時のがこれを応用し、に『』をスタートさせた。 2009年1月 - 6月、に『』として放送。 久米曰く「3Kトリオ」。 で起きたの修学旅行生を載せたに関するニュースが中心。 この日はゲストは呼ばず、Nスタジオから久米・小宮のみ、さらに放送時間が繰り下げられて23:30 - 24:15の45分枠での放送になった。 正確には老眼鏡である(当時の久米は48歳)。 2001年2月1日から2014年1月31日まで。 ただし、・番組のネット局であったへは出演歴あり。 ただ、10月1日から9月26日までは月曜から木曜に限り5分拡大し23:15まで放送していた。 の第1回熱闘甲子園のみ21時開始。 の第2回以降まで22時開始がずっと定着していた。 それから25年後の2020年1月17日、サンテレビで放送された震災関連の特番に小宮がゲスト出演し、当番組放送以来の同局出演を果たした。 また、久米も同日に朝日放送テレビのローカル報道番組『』の特番『キャスト特別企画 久米宏が語る震災25年』にゲスト出演した。 頃から事ある毎に週刊誌で「久米降板」説が取り沙汰された。 1995年から1998年までの金曜版は、小宮とスタジオサブキャスターの2人で交互に伝えていた。 番組前半で伝えたものも含めてニュース項目は原則、時系列順に並べていた。 また80年代は円相場もこの中で伝えていた(ニュース項目の一番下段に為替を表示)。 この台詞は最終回のエンディングで流れた予告編「久米的電視台」(前述)でも使われた(久米と中国人女性の2人でこの台詞をコール)。 「」OP『』、「」ED『』など。 コメンテーターは基本的に映ることはないが、3人のうち1人が不在の場合は、コメンテーターも背にして進行を行うこともある。 具体的な事例としてはを参照のこと。 但し、以外の・・・などごく一部の地域ではフルネットを未だに開局できていない地域がある。 また沖縄県の琉球朝日放送も、この番組の放送当時はとにしか中継局がなく、(・)と(・)ではを含め視聴できなかった。 実際は9月24日のサービス放送開始日から(出典:1991年9月24日以降の東奥日報テレビ欄)• 1985年6月14日の朝日新聞他4紙に募集の全面広告を出したところ、問い合わせが1万件、5762名(内訳は、男性1811人、女性3547人、プロダクションなどの推薦404人。 )の応募があった。 半数は関東在住だが全都道府県から応募があり、海外からも5名の応募者がいた。 中には夫婦で応募したものも3組いた。 男性応募者の最高齢は当時79歳。 女性応募者の最高齢は当時74歳だった。 また、リニューアル初日の前座番組『』の本編終了直後に流れたでも真理がテレビ朝日局内の廊下を歩く映像を流した。 局内では、20時台の『』と『さすらい刑事 - 』の2番組を全面差し替えする案も出ていたという。 出典 [ ]• 『メディア 影の権力者たち』1995年4月講談社 [ ]• 夕刊 1985年10月16日。 『』 株式会社ウェザーニューズ• テレビ朝日は1978年まで報道部門を自社ではなくに委託していた。 朝日新聞縮刷版の番組表を確認 [ ]。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、138頁。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、141・148頁。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、147・148頁。 『朝日新聞』、1985年7月28日朝刊、23面。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、12・13頁。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、159頁。 2014年11月14日閲覧。 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。 『朝日新聞』、2000年1月4日付朝刊、36面。 ,LITERA,2014年7月15日• 『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』での公開記者会見にて発言。 ,Sponichi Aneex,2004年9月21日• ,スポーツニッポン,2016年4月23日• なお、『世界の車窓から』は2001年10月1日より23:10 - 23:15に移動。 神戸新聞(2020年1月6日作成). 2020年1月19日閲覧。 デイリースポーツ(2020年1月10日作成). 2020年1月19日閲覧。 : p. 18(夕刊・社会). 2003年10月16日• (アーカイブ)• 『鹿児島放送30年のあゆみ』鹿児島放送、2013年 p. 15, p. 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、181頁。 鈴木秀美・山田健太・砂川浩慶 編『放送法を読みとく』p. 86 2009年 商事法務• 1977年から2003年までのテレビ朝日の正式社名。 J-castニュース• 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、186~188頁。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、190・191頁。 8-9。 2000年1月4日放送、オープニング冒頭での久米の発言より。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、189・190頁。 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、、12・13頁。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• および 前番組 番組名 次番組.

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ニュース映像|NHK 戦争証言アーカイブス

ニュース 23

のであったが、本番組終了以降も『』の名は後続番組に継承されている。 放送開始の経緯 [ ] の平日ニュース最終便は、(62年)から22時台にニュース番組(『』、(63年)からは『』)、23時台後半に『』、翌日0時台に『』を編成していた。 その後1989年10月改編で22時台のニュース番組から撤退するのに伴い、21時以降のTBSの平日のテレビ編成の見直しと兼ねて、23時台のニュース番組新設の際にをメインキャスターに迎えた『筑紫哲也ニュース23』を開始した。 TBSは以前から、テレビの出演経験の豊富な筑紫にニュース番組のキャスターを打診していた。 にとのが行われるまで、TBSとNET(現)は腸捻転と言われた関係にあり、TBSとの関係はもともと深かった。 また本番組開始の4年前にはテレビ朝日にて、TBS出身のがキャスターを務める『』が放送開始したこともあり、筑紫のニューヨーク転勤をはさんで円満に筑紫のキャスター起用が決まった。 番組名に使われている数字「23」は放送時間の由来もあるが、の(SBO方式)におけるフルカウントこと「ツー スリー」の略称の由来もあり、読みは「にじゅうさん」や「トゥエンティースリー」ではなく「 ツースリー( トゥースリー)」の読みになった。 これは当時が低迷していたTBSの平日最終版ニュースの「 起死回生」にかけた。 筑紫は番組スタート当時の雑誌インタビューや自らの著書『ニュースキャスター』などで「『君臨すれども統治せず』の編集長」と自らの立場を説明していたが、を機にTBSの社長人事にまで影響を及ぼした。 、の契機となったとされるでは、内部調査の結果として一貫して否定していたTBS側が、一転して事実を認めて謝罪したことを受け、筑紫が番組コーナー『多事争論』内で、マスメディアが視聴者との信頼関係の上で存在していることに触れながら、「TBSは今日、死んだに等しいと思います。 ……今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と発言した。 この発言は大きな波紋を呼んだが、筑紫はその後10年以上にわたってキャスターを務めた。 しかしこの問題が発覚して以降、裏番組で老舗である『』()や、より始まった後発の『』()といった、同時間帯の他局のニュース番組に視聴者が流れ、一時は視聴率が急速に低下した。 番組の変遷 [ ] 初期(1989年10月 - 1997年9月) [ ] 1989年10月2日、TBSにおける夜のワイド編成の報道番組の原型となった『』以来となる深夜帯での1時間半に及ぶワイド編成の報道番組として放送開始。 新番組告知のCMでは、荒野を歩く筑紫をバックに「真夜中のニュースランド 『筑紫哲也 NEWS23』」とのキャッチコピーを流した。 (CMソングは「Myself」) 出演者は、筑紫哲也、・を中心に進行。 スポーツキャスターの初代は野球解説者の。 初期は23:50もしくは翌日0:20からのローカル枠 を挟み、番組の前半では報道局とスポーツ局が制作するニュースと特集、スポーツニュースを放送。 23:55もしくは翌日0:22からの番組後半では社会情報局(後の社内改革で廃止)が主に制作する特集を放送。 ただし当時、番組は「報道」「スポーツ」「情報」の3つから成るという表現もしており、当初はテレビ雑誌の番組表では23:30から「スポーツ23」という表記がみられたが、番組前半内の時間分けは次第に曖昧になっていった。 番組後半はアシスタントを、、、後期はが務めた。 ニュース部分を報道局担当パートに集約させたため、いわゆる「企画枠」として、インタビューからドキュメントまで幅広く扱った。 そのため、いわゆる硬派のジャーナリズムを標榜する番組前半とは対照的に、番組後半は()的要素の強いものだった。 『』時代より番組後半は「任意ネット=ローカル」枠で、ネットしない放送局があった。 当初は番組前半のラストに(番組後半のエンディング曲のインストゥルメンタル版をに)筑紫もしくは浜尾が「今日のニュースとスポーツをお伝えしました」と言って、番組前半でネットを終える局への挨拶代わりにしていたが、番組後半をネットする局が増えるにつれて簡素になっていった。 ただし特別編成により全局が番組前半のみで終了する場合は、同じBGMできちんと締めていた。 この頃の番組ロゴは、二段表記で「 筑紫哲也 NEWS・23」(黒丸が入っている)、新聞のラ・テ欄表記は「 筑紫哲也ニュース23」であった。 中期(1997年10月 - 2006年9月) [ ] 1997年9月29日にリニューアル。 筑紫と1996年10月から出演していたに加え、・の4人となる。 また若者向け情報バラエティ『』のスタートに伴い、金曜以外の番組後半も廃止された。 テーマ曲は作曲のものに刷新されオープニングとエンディングの曲を統一、Nスタジオのセットやグラフィックデザインもリニューアル。 これ以後、番組ロゴは「 NEWS23 TETSUYA CHIKUSHI」と筑紫の名も含めて全て英字表記に、新聞のラ・テ欄表記も「ニュース23」(初期のロゴから英語の「NEWS23」となったまま)から「 NEWS23」に改められた。 このリニューアルから1998年9月までの1年間は、夜の最終版ニュース番組では珍しくキャスター全員が立席だった。 リニューアルに合わせ、30分遅れの金曜を通称「金曜版ニュース23」とし、番組後半を「」と改称。 1999年からは金曜日のテーマ曲をピアノアレンジ違いとしている。 1998年4月からは月曜から木曜の放送開始時間が6分繰り上がり、22:54開始のとなった。 リニューアル当初、佐古は1999年9月まで月曜日から木曜日の出演だった。 1999年10月より、全曜日出演となる。 同時にスポーツキャスターが進藤晶子からに交代。 2000年からの3年間、2月に年間テーマを基にした5日連続特番を放送。 その日のニュースは手短に伝え、さらに放送時間を30分拡大して放送した。 2004年10月からは月曜日の放送を拡大し、23:50 - 翌0:25に「」を開始。 同時にスポーツキャスターが小倉弘子からに交代する。 から、TBSがに伴い、「NEWS23」もタイトルロゴ、テーマ曲を1997年秋以来7年半ぶりに、スタジオセットを5年ぶりに刷新した。 天気予報も全曜日ででタレントのが務めた(2004年4月から2005年3月までは金曜日のみ気象予報士のが務めてきた)。 末期(2006年9月 - 2008年3月) [ ] 、筑紫以外の出演者のリニューアルを行う。 のとに加え、がスポーツキャスターを担当。 また、これまでは金曜日に限りオープニングの音楽がピアノバージョンだったが、このリニューアルをもって金曜日のオープニングも他の曜日と同じアレンジに統一された。 しかし、出演者の離脱・休養・加入が相次ぐ。 (詳しい経緯は)。 リニューアルしたその週に、山本モナが『』に不倫報道を報じられ、翌週から出演を見合わせ、そのまま降板となる。 これを受けて、12月に・が加入、2007年3月にが加入する。 一方、筑紫は2007年5月から病気治療のために入院することになった。 筑紫は入院中も音声メッセージによる出演を行い、10月には5ヶ月ぶりにスタジオから出演。 以後は不定期の出演となる。 筑紫の不在を受けて、2007年12月3日から(元編集局長)がメインキャスターに就任。 筑紫は「スペシャルアンカー」として、大きなニュースがある場合のみ出演する事となった。 後藤が就任した後もしばらくは『 筑紫哲也 NEWS23』のまま放送したが、2008年3月28日放送の筑紫出演回で「来週からの番組リニューアルで、タイトルから私(筑紫)の名前が消えます。 ただ、体力の許される範囲・番組にプラスになると思える範囲内で番組には関わりたい」と挨拶。 2008年3月31日より、番組名から筑紫の名前を外して『 NEWS23』と改題された。 出演者 [ ] メインキャスター・サブキャスター・スポーツキャスター・天気キャスター 期間 メイン サブ スポーツ 天気 サブ (番組後半) 月 - 木 金 月 - 水 木 金 1989. 02 1991. 29 1 (女性サブが担当) 2 1991. 01 1992. 03 1992. 06 1992. 02 1992. 05 1993. 31 1993. 01 1996. 27 1996. 30 1997. 26 池田裕行 1997. 29 1999. 24 佐古忠彦 3 (廃止) 1999. 27 2000. 31 2000. 03 2001. 01 小倉弘子 4 草野満代 4 2001. 02 2004. 26 小倉弘子 2004. 29 2004. 24 草野満代 2004. 27 2005. 25 2005. 28 2006. 22 2006. 25 2006. 01 (日替わり) 5 2006. 04 2006. 28 2007. 09 2007. 02 出水麻衣 岡山裕子 2007. 05 2007. 30 膳場貴子 6 2007. 03 2008. 01 筑紫哲也 7 8 2008. 04 2008. 28 出水麻衣 9 膳場貴子 9 岡山裕子• 上記の筑紫以外の末期キャスター陣は全員、後身番組『』も続投。 1 『』から続投。 2 『』から続投。 3 1999年9月まで、金曜日は出演せず。 5 当初はと膳場が日替わりで担当。 山本の降板後は膳場が担当。 6 (MBS)からの出向。 7 スペシャルアンカー(特別キャスター)として不定期で出演。 8 金曜日は出演しない(下記参照)。 9 出水の『』担当との兼ね合いによる。 ナレーター 『筑紫』時代は一貫してがニュース・特集企画のナレーションを担当。 スポーツニュースは時期の詳細は不明であるが、(水曜まで)と(木曜・金曜)が担当した。 「サッカー23」解説者• (スポーツジャーナリスト)• (TBS・サッカー解説者。 日本代表関連の話題で不定期に出演していた) かつて、毎週月曜日(原則)に、主として前週末に行われた各国のサッカーリーグ戦などについて解説していたが、久保田が降板した2006年9月以降は行われなかった。 番組末期の出演者の変遷・出来事 [ ]• 、同日発売の「フライデー」(号)で、とのとのが報じられた。 山本は翌週放送分から「体調不良による休養」として出演を見合わせ、付けで番組を降板した。 山本降板以降、後述の三澤の加入までは、スポーツキャスターの高野がニュースコーナーにも出演した。 、(TBSアナウンサー・2006年入社、月 - 木曜担当)と(出身のフリーアナウンサー・、金曜担当)が加わる。 ただし2名とも天気コーナーのみ担当として出演。 出水は同年同月のみ『』との兼ね合いにより水曜までの出演で、木・金曜は岡山が担当した。 、が加入。 三澤はの系列局・(MBS)の(として入社)で、MBSからの出向。 、「多事争論」のコーナーをオープニングで行い、そこで筑紫自身から初期のであることを公表。 筑紫は闘病・休養に入ることとなり、出演を見合わせる。 筑紫のコラム「多事争論」の頻度は減り、声だけの出演となった。 これに伴い翌より、筑紫がいないことを前提に、膳場・三澤体制での『NEWS23』がスタート。 と、膳場と三澤がMBSの報道局デスクやスタジオ(通常『』(関西ローカルの夕方ニュース)を放送しているスタジオ。 三澤は同番組の初代メインキャスターでもあった)から、番組全編を放送。 高野は唯一東京のスタジオで留守番(プロ野球など世界陸上以外のスポーツニュースを伝えた)。 この2日間の天気予報は、膳場が大阪から伝えた。 からまで開催されていた「」をMBS・TBS系列が独占放送していたことにちなむ(膳場・三澤はそれぞれ世界陸上に湧く大阪の実情を取材)。 この時、出水は同大会の(インタビュアー)担当だったことから、から出演。 から、膳場がをとり、三澤が膳場の代役を1週間務めた。 出水・岡山が共に全曜日にわたって出演。 サブキャスターの役割は月・火曜が出水、水 - 金曜は岡山が担当。 天気予報については、岡山が金曜に加え、出水が担当していた月・火曜も担当した(出水は水・木曜を担当)。 ニュース原稿は基本的に出水と岡山が交互に伝えた。 、筑紫が復帰。 「これまで通り毎日来ることはできないかもしれない」「大きいニュース(政局が動いた場合や大事件・事故)がある時に駆けつける形になる」とも語っており、以降、不定期出演という形となった。 また、の影響で髪も抜け落ち、戻りつつある(筑紫は、発展途上という言葉に置き換えて伝えた)が、付け毛をしていることも明かした。 、筑紫が「環境スペシャル地球破壊3! 中国編! "巨龍発熱"」で復帰後2度目の出演(この日は普段ネットしないMBSが月曜の番組後半もネットしている)。 、筑紫の出演が不安定な事情や、筑紫の意向もあり、新メインキャスターを(元編集局長)が担当することが発表された。 、の代表辞意表明(のちに撤回)を受けて筑紫が3度目の生出演。 関連して、には筑紫が録画出演し、小沢との1対1のインタビューを行った。 、筑紫が・より復帰後4度目の生出演。 、後藤がメインキャスターとして最初の出演。 なお就任当初、金曜は取材日に充てるため出演せず、大きなニュースがある場合のみ出演という形を取った。 、高野が翌週から『』を担当することになったため番組を降板。 、出水と岡山の担当が変わり、出水がスポーツキャスター、岡山が天気予報を担当することになった。 なお、出水は日曜日に『』(2006年10月から担当)の生放送があり、本番組に全曜日出演することになると週6日勤務となり、TBS内の労使協定に反する過重勤務となるため(もっとも同年春以降この協定はうやむやになった)、『J-SPO』の方の都合が付くまで月 - 木曜のみの生出演とし、しばらく金曜のみ膳場がスポーツコーナーを担当した(出水が取材VTRに出演することもあった)。 、筑紫が出演し、「多事争論」の中で番組名に自身の名前を冠した最後の放送となることを明かす。 代役について [ ] 筑紫の休暇や出張、療養などで休みの時は、初期は、しばらくは、らが代理を務めていた。 末期は休暇の場合、前述の嶌をはじめとした文化人や評論家が日替わりで登場するようになったが、キャスターというよりはコメンテーター的ポジションであり、「多事争論」以降の番組後半からは登場しなかった。 実質上の代理は浜尾や草野らのサブキャスターが務め、2006年9月以降および、筑紫闘病・休養中は膳場が担当。 池田が不在の時には、当時TBSアナウンサーのが担当することもあった。 佐古は降板後も国会からの中継報告などで度々登場していた(他の時間帯にも登場)。 2007年11月7日は約1年ぶりにスタジオにも登場した。 スポーツニュースの代役は浜尾・草野が担当した。 2007年は不明。 年間テーマ [ ] 1991年から2008年までは、その年の年間テーマを掲げ、シリーズ特集を組むことがあった。 2008年は後藤謙次がメインキャスターだった時期だが、筑紫は『地球破壊』シリーズで取材を行っている。 1991年:日本が危ない! 1992年:年間テーマなし• 1993年:乱• 1994年:論• 1995年・1996年:脱• 1997年:年間テーマなし• 1998年:壊• 1999年:それから• 2000年:こころ• 2001年:幸福論、世界が変わった日(9月12日 -、の発生による)• 2002年:新・幸福論(2001年に放送した2つのテーマの仕切り直し)• 2003年:Go! Slow スローで行こう• 2003年・2004年:この戦争の正体(に伴う)• 2005年:翔• 2006年:変• 2007年:破、がんを生きぬく(この期間に筑紫ががんを患っていることが判明)• 2008年:地球破壊 多事争論 [ ] 開始。 90秒間にわたり、筑紫の私的な意見や感想を述べるコラムコーナー。 コーナー名の由来はの言葉からであり、本番組以前の「」編集長時代にも同名のコラムを連載するなど、筑紫が好んだ言葉でもあった。 テーマは筑紫がにで書いて掲示した。 1997年9月から1998年9月まではフリップを用いず、大型モニターにテロップで筑紫直筆の題目と関連する映像が映し出され、その前に筑紫自身が立って話すというスタイルをとっていた。 筑紫が事実上メインキャスターを退いた2007年5月からは放送頻度も減り、入院・療養中の2007年6月から同年9月までは音声のみで出演した。 『』では、当時の・が過ちを認めた(平成8年)のの後、その日の「多事争論」にて筑紫は「 TBSは今日、死んだに等しいと思います」「 過ちに対して(中略)つまり、その後の処理の仕方というのが殆ど死活に関わるということを、これまでも申し上げてきました。 その点でもTBSは過ちを犯したと私は思います」「 今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と発言し 、「身内に甘い」と評されるテレビ業界にありながら、TBS局内で自身のから身内に対して痛烈批判をした。 筑紫が夏休みで番組を休んだ場合、各日のゲストコメンテーター(や、の教授など)が「多事争論」コーナーで意見を述べている。 コーナー開始前の小映像もそれぞれその日のコメンテーターが登場するものである。 7月には「私の多事争論」と題して、落語家のが出演した。 筑紫哲也の多事争論は番組公式にて、後日にて映像のがなされた 日本初・当時としては『先駆的』な取り組みをしたコーナーであった(『23』のハイライト配信は2001年から)。 いわゆる「」が当時それほど普及しておらず、日本のテレビ放送局ではTBSが自社のニュースサイトでニュース映像を公開していた。 ただし、多事争論開始当初からしばらくの間は映像は無く、テキストで書いてあったのみ。 2006年頃からでもこのコーナーのみで0:30、1:30(月曜と金曜深夜は2:30も)に放送されていた(2008年3月まではにはタイトルが掲載されていたが、当該枠は最新ニュースとスポーツニュースを送っていた。 主要ニュースとスポーツはこの番組からの再構成である。 OBJECTION [ ] 番組前半と後半の合間にあったローカルニュース枠で、関東地方のみで放送されていた街頭インタビューコーナー。 ひとつのトピックをもとに街頭インタビューを行い、賛成、反対、それ以外などさまざまな意見を織り交ぜて紹介した。 スポーツコーナーでパロディを放送したことがあり、全国でも知られることとなった。 1989年の番組スタート時は、CMを挟み街頭インタビューVTRのみの3分間コーナー。 タイトルも「キャスターも黙って聞く、異論!反論!OBJECTION」であった。 1991年、ローカルニュース枠が5分間に延長されたことにより、スタジオでのトークコーナーを設け、タイトルも「異論!反論!OBJECTION」に変更した。 1997年からの放送時間短縮後は「多事争論」とセットで全国枠での放送となっていたが、月曜日の番組前半エンディングと「マンデープラス(のちの月ONE)」の間のローカル枠での放送という、番組初期と同じ時間となり、一部地域では視聴できなかった。 「月ONE」廃止と共にコーナーも終了したものの、『NEWS23』になった後、2014年の最終放送と2017年10月の放送で一時的に復活。 その後、2019年6月からの『』においてレギュラー復活を果たしている(ただし、月 - 木曜日のローカル枠で放送のため一部地域でしか視聴出来ない )。 特集 [ ] 月曜から木曜までは番組後半に特集が放送されてきた。 『』から引き続き社会情報局が制作を請け負ったが、TBSビデオ問題による廃止により報道局が引き継いだ後、1997年9月29日、バラエティ番組『』開始に伴い終了した。 初期の番組後半のネット局に関しては、前身となる『情報デスクToday』のネット局が少なく、当初は(MBS)や(RKB)などを中心に放送しない局が多かった。 は、「〜Today」はネットしていたが本番組になって番組前半のみに変更された。 その後、番組後半の特集が評判を呼び、徐々にネット局が広がった。 筑紫は山陰放送が番組後半のネットを開始した直後の1991年10月の米子での講演で、「番組後半をネットしないと講演依頼も受けない、と言ってきた」と発言し、自らネット拡大に努めていたことを明かした。 ただしMBSだけは、一貫して番組前半のみ放送する体制を続けた。 金曜深夜便 [ ] 金曜の番組後半はローカルニュースとCMを除くと10分間と短く、1997年10月『ワンダフル』開始後も唯一放送を継続している。 またこの時期より正式に「金曜深夜便」となり、筑紫降板後も2009年3月まで続いた。 金曜深夜便では、文化(カルチャー)で際立つ人選を行うことがある。 1999年がパンク・ロックに編曲した『』が国旗国歌法制定と合わさり発売延期騒動となった際、バンドを率いて『君が代』を披露。 2007年にはがスタジオ生演奏、『』を披露した。 この他にもや、も登場した。 マンデープラス [ ] 2004年10月改編を機に、月曜のみ番組後半が復活。 23:55から翌日0:25までの30分、ドキュメンタリーを放送した。 2008年3月まで担当していたナレーターのと女性キャスターが交互に伝える。 第1期のタイトル「NEWSラウンドアップ」は事実上『』の「フラッシングToday」の後継枠である。 第1期(筑紫・浜尾)末期にあたる1996年からの金曜版はゆったりした進行を意識し、その日のニュースは冒頭にフラッシュニュースで伝えるのみとした。 1998年4月にフライングスタート開始した際、放送時間が重複していた『』を参考にし、フラッシュニュースから始まり、特集予告などを挟み、オープニングCGが流れてキャスターの挨拶という順序をとった(およそ1か月)。 スポーツ 小林繁時代は本番組立ち上げ以前のスポーツニュース番組『』の名称をコーナー名として承継していたが、後にこのコーナー名は廃止され、口頭で「スポーツです」との紹介にとどまる形になった。 2005年3月28日よりコーナー名として「SPORTS23」と再命名された。 ただ、コーナー名の紹介はロゴ等の表示でしか確認できず、以前と同じように「スポーツです」と紹介されている。 特集企画 [ ] 年間テーマ以外ではない短期集中型のシリーズ企画。 話題になっているテーマに関することや現代社会を捉えるものまで多種多様。 終戦記念日特集 毎年8月15日は戦争に関するもの、日本の時代精神に問いかけるものなど、様々な特集を放送してきた。 この日は通常では番組後半を放送しない地域でも放送されることがある。 若者を招いて車座集会を開いた際、死生観に関する議論が殺伐とした雰囲気になったこともある。 阪神淡路大震災 1996年から2005年まで、毎年1月17日にキャスターが神戸から生中継した。 1997年から筑紫・佐古がそれぞれ中継するのが恒例となり、も生前は筑紫と共に生中継に出演した。 2005年の震災10年目は神戸出身のロックバンドがライブハウスからの中継で『』を演奏。 「マンデープラス」にかけて放送し、普段番組後半を放送しない地元・毎日放送もネット。 おすぎと哲也の映画紹介 映画評論家・と筑紫による最新映画紹介。 夏休み前と年末年始前の年2回放送。 金曜版23の定番企画として続けられた。 CMベストテン 初代編集長でコラムニストのが選定。 1年間のCMを総括するもので、12月の金曜日に放送された。 番組前半で国内のCMランキングを、「金曜深夜便」で国内外の珍しい・面白いCMを紹介という形が多かった。 争論・大争論 2001年に「争論」と題した筑紫司会、ゲスト2人による討論企画が放送。 その後、数人のゲストを呼び「大争論」と題した企画がたびたび放送された。 元TBSアナウンサーで、現在はフリージャーナリストのが担当。 大きく取り扱われていたニュースが残したもの、あの時見えなかった側面などを探る。 2005年4月からタイトルから「75日」が外れ、月1回の放送となった。 レギュラー企画 [ ] The Interactive テーマを基に視聴者から寄せられたメールを紹介する。 草野が加入した1997年10月に始まり、草野が代読していたが、2ヶ月で終了し「OBJECTION」の復活に至る。 コレヨモ。 金曜版23のローカルニュース枠の企画で、オススメの一冊を紹介。 2005年10月から半年間放送。 NEWS23 蛙男劇場 2006年6月16日から月1本のレギュラーコーナーとして開始。 がサラリーマン層のプライムタイムである「NEWS23」の中で、時事ネタを独自の観点から鋭く風刺し、今までのアニメでは獲得できなかった層を獲得した。 2006年9月29日からは隔週放送となった。 『NEWS23』への改題後も2009年3月27日まで放送が続けられた。 その他、著名人と筑紫による対談「筑紫録」が随時放送されていた。 筑紫1周忌に当たるより随時、で「筑紫哲也 NEWS23 対談特選〜時代を映す言葉たち」として放送された。 タウンミーティング [ ] 1998年11月19日の訪日を契機に、国家首脳と事前に番組が選考した日本国民とのが何度か企画された。 元々がビル・クリントン大統領(当時)日本訪問の際にタウンミーティングを計画し、NEWS23に対してオファーしたものである。 収録された本編にCMは一切流さない、などアメリカ流の手法がそのまま持ち込まれた。 23側からは、ゲストインタビューで恒例だった5つの質問が企画された。 最後に多事争論にて「本当に小渕さんに申し上げたいんですが、今度は『あなたの番』です」と、番組内でへの出演依頼で締めたが、小渕は在任中に急逝した。 クリントン訪日の当日は、「あんなのような人()とは断じて連立は組まない」と明言していた小渕のが、党内外の事情から一転、「小沢先生には平伏してでも連立をお願いしたい」と公言して自・自連立が内定するなど、日本の政治情勢は混乱を極める暗たんとした状況だった。 フォローアップと観客にマイクを渡す役目として草野・佐古・(キャスター)が出演。 この時、から中継で質疑が行われ、クリントン不倫疑惑について質問した。 大阪は(毎日放送アナウンサー)がフォローアップを行った。 クリントン大統領出演時の舞台裏はタウンミーティング翌日の番組で特集され、アナウンサーのロッカーも私物を残さないで空にさせたり、タウンミーティングの収録スタジオは収録に直接関係する「特別通行証」所持の社員以外は、前日から社員でも近づけなくするなど局内に厳戒態勢が敷かれた様子が放送された。 アメリカ合衆国では、劇場やコンサートホール(多目的ホール)で行われる為に、放送局のスタジオで開催したのは貴重な事例である。 ビル・クリントンアメリカ合衆国大統領(1998年11月19日)• (2000年10月15日)• (2001年10月15日)• (2008年4月21日) 李明博出演の回にはが出演し、質問を行った。 放送時間 [ ] 「筑紫哲也 NEWS23」放送時間の変遷 期間 月曜日 火 - 木曜日 金曜日 1989. 02 1997. 26 23:00 - 翌0:30(90分) 23:30 - 翌0:35(65分) 1997. 29 1998. 27 23:00 - 23:55(55分) 1998. 30 2004. 01 22:54 - 23:50(56分) 2004. 04 2008. 28 22:54 - 翌0:25(91分) 22:54 - 23:50(56分) 新聞発表上では月 - 木曜の番組開始時間が22:54になっていたが、実際は22:56開始であった(22:54時点では、2分間CMを流していた)。 の延長や、・の拡大・特番編成により、放送時間が変更される場合もしばしばあった。 年末年始は特番編成の関係上、放送を休止している。 代替番組として、15分間の『』を23:30頃に設けている。 また、(国際的な)ゴルフ中継やテニス中継(ダイジェスト・総集編含む)などで、番組後半を休止したこともあった。 2008年以降はを参照。 報道特番時の対応• の番組前半終盤に「の米軍撤退」の報が入り、番組前半をCMなしで30分延長した。 またこの日は番組後半を臨時ネットした局もあり、次の番組が1時間10分遅れることとなった。 長時間報道特番として早朝から放送。 直前の制作『』放送中、が崩壊する事件が発生。 22:37に同番組を打ち切り、「NEWS23の開始までに時間はありますが、重大な事件が発生しましたので、予定より20分早くNEWS23を始めます」と筑紫が挨拶し、予定より20分程度早いスタートとなり、12日0:50まで放送。 佐古は12日4:00より再び担当。 翌12日は20:54 - 21:30まで特別番組を放送(この日はプロ野球中継があり、30分延長のオプションを特番に充てた)。 その後23:24より90分特番として放送。 マンデープラスの枠で報道特番を放送。 同日は番組後半もJNN協定が適用され、毎日放送を含む全局が放送した。 直前の予定だった『』を休止し、21:10より報道特番を放送。 キャスターを筑紫と草野が務めた。 2006年:代表逮捕• 時間拡大の上、6日1時過ぎまで放送した。 :(第1次)辞任• 時間拡大の上13日0:10まで放送し、筑紫も音声越しで出演した。 2007年:佐世保市銃乱射事件• 番組内容を大幅変更。 予定していたCM大賞も中止され、初めて放送が年明けに回された。 また通常「金曜深夜便」に充てる時間もこのニュースに費やし(大きなニュースであったものの、毎日放送では通常通り24:20で飛び降りた)、当時金曜の放送に出演していなかった後藤も出演した。 その他• オウム真理教事件に関連するTBSビデオ事件の不祥事を鑑みて、TBSテレビのみ深夜放送を自粛することにしたため番組後半の放送を取りやめ、JNN全国共通ネットである番組前半のみを放送した。 この間、番組後半をネットしていた局は「ドキュメントDD」などの番組などを代替として放送していた。 月曜日から木曜日の4日間は23:50までで、の金曜日は翌0:20まで番組前半のみの放送となった。 ネット局 [ ] 1997年9月まで続いた番組後半は徐々にネット局を拡大させて最終的には(MBS)を除く全局が放送するに至った。 「マンデープラス(月+)」は中部日本放送(CBC)・チューリップテレビ・毎日放送・テレビ山口は放送しない。 毎日放送は金曜の番組後半もネットせず。 23:00開始時代にはで流れるはずのないの23:00. 00の時報が稀に聞けた。 また当時の時報をが提供していた。 CBCは2005年9月まで「月+」を定期ネットしていた。 2007年1月29日の「月+」(テーマは「屋久島移住 その夢と現実 大定年時代到来」)はCBCが制作したため、この日に限りCBCでも放送。 の開催週(原則としてが該当)に、同大会予選ラウンドのハイライトを放送するため「金曜深夜便」を休止。 山陽放送は原則「月+」「金曜深夜便」双方ともネットされるが、「月+」については不定期でローカルスポーツ中継(録画)を行なうために休止することがある。 1998年4月から2008年9月までフライングスタートをとり、2分間CMを放送して本編が始まっていたが、ではこの時間、自社制作番組「キラリ! 広島県」を放送していた。 テーマ曲 [ ] オープニング [ ]• 1989年10月2日 - 1997年9月26日: 不明 筑紫が井上陽水に直接会い、直談判の上で依頼した。 井上は制作コーディネーターとしてを指名し、当時大瀧の事務所でスタッフをしていたと共同で制作に当たった。 このテーマソングに曲名・歌詞はついておらず、CDなどへの音源化はされていない。 井上のスキャットのみで、一部の箇所はCM前のジングルで使われていた。 1997年9月29日 - 2005年3月25日:『put your hands up』 1999年以降、金曜日のオープニングはピアノバージョン。 通常版のオープニングとエンディングは坂本のアルバム『』に、ピアノバージョンはシングル『』に収録されている。 2005年3月28日 - 2008年3月28日: with 『』 2006年9月22日まで、オープニングは月曜〜木曜が番組オリジナルのバージョン(Salyuのスキャットが入る)、金曜はピアノバージョン(CM前アイキャッチでも一部分を使用)。 エンディングでは原曲が流れた。 2006年9月25日からオープニングはテクノ調にアレンジされたものを全曜日で使用、エンディングにはCM前のアイキャッチと同様、ピアノバージョンが使用された。 筑紫や番組スタッフが聴き、メロディや歌詞の内容が番組のコンセプトに合致しているということで主題歌にしたという。 Bank Bandによるシングル盤には、原曲とピアノバージョンのみ収録。 エンディング [ ] 放送開始から1997年9月までのエンディングテーマは筑紫が選び、アーティストに直接頼み込んで実現したものもある。 1989年10月 - 1991年5月:井上陽水『』…後に、によってカヴァーされた。 1991年6月 - 1991年9月:『』• 1991年10月 - 1991年12月:』• 1992年1月 - 1992年3月:&『また明日』• 1992年10月 - 1992年12月:『いま、思い出してみて』• 1993年1月 - 1993年3月: (、、、、)『soul searching』• 1993年4月 - 1993年6月:『川は流れる』• 1993年7月 - 1993年9月:『世・世・世〜You You You〜』• 1993年10月 - 1994年3月:『』• 1994年4月 :アイ・ジーン『川は流れる』• 1994年5月- 1994年6月:『風よ!FORTISSIMO』• 1994年7月 - 1994年9月:『黄金の花』• 1994年7月 - 1994年9月:『風を追いかけて』• 1995年1月 - 1995年6月:『シンシアリー [Sincerely]』• 1995年7月 - 1995年9月:『清河への道』• 1995年10月 - 1995年12月:『子守歌(ファムレウタ)』• 1996年1月 - 1996年3月:『翼』• 1996年4月 - 1996年6月:『』(後に、『』の挿入歌として使用されている)• 1996年7月 - 1996年9月:・・国吉昭子『月桃』(映画『』主題歌)• 1996年10月 - 1996年12月:『星の河を渡ろう』• 1997年1月 - 1997年3月:サザンオールスターズ『』• 1997年4月 - 1997年6月:『手引きのようなもの』• 1997年7月 - 1997年9月:『私はあなたの空になりたい』 これ以降は前出の『put your hands up』『to u』のアレンジ版を使用した。 前者に関しては一時期、筑紫が司会し、キャンペーンにもなった『地雷ZEROキャンペーン』のテーマ曲『』が、エンディングにかけられたこともあった。 『ニュースステーション』との関係 [ ] 『NEWS23』放送開始の4年前からが放送していた『』(Nステ)との間では、よく比較の対象となっていた。 『Nステ』が放送終了した放送の「多事争論」で筑紫は、 「この番組(Nステ)が無かったら私たちの番組も生まれていなかっただろう、ライバルというより『同じニュースというものを追究している仲間だ』という想いが強くあります」と述べ 、互いに意識していたことを明かした。 また、これ以前の1999年9月に、久米宏が番組からの一時降板を発表した際にも筑紫は、同じく「多事争論」の中で 「『休養』という名で番組からまもなく姿を消すという話を聞いて、大変残念だという思いがする。 (中略)希有の才能をお持ちの方なんで、本当に『休養』して、また戻ってきて欲しいもんだと思います」と久米への思いを語っていた。 評価 [ ] 番組の内容については筑紫の「君臨すれど統治せず」の姿勢により、筑紫や編集担当者が関心のあるテーマを重視する傾向にあるとされ、賛否両論になることもよくあった。 肯定的評価 [ ]• 『NEWS23』でサブキャスターを務めたは「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。 でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。 ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と評している。 否定的評価 [ ]• 関連、関連の報道やについては慎重に、他方、(主にの立場から)、問題、基地問題などに関するニュース、にまつわるについては、時間を多く割いて報道する傾向にあると批判され続けた。 スタンス [ ]• によると、筑紫は「少数派であること、批判されることを恐れずに、多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由な風気を保つこと」を自身の報道姿勢としていた。 2008年、筑紫が病床から『NEWS23』スタッフへ向けて送った手紙にこの考えが表されている。 (以下、全文) 近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。 その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。 ひとつの「論」の専制が起きる時、 失なわれるのは自由の気風。 そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか。 2008年夏 筑紫哲也 批判された報道内容 [ ]• (7年)に発生した()に関する報道において、からの中継に臨んだ筑紫が、による火災で燃え上がるの様子を「まるで(おんせんまち)に来ているようです。 そこらじゅうから煙が上がっています」との発言が『あまりに無思慮である』とされ、筑紫も非を認めている。 歌手のは、自身の曲「怒りのグルーヴ〜震災編〜」でこれを取り上げている。 撮影取材を拒絶した被災者のグループを取り上げた際、筑紫が「被災者は感情的になっている」とコメントした。 この被災者のひとりと知人であったは、自身の著書『神戸震災日記』で、この撮影取材が被災者に無断で行われたもので、なおかつ放送しないことを約束したにも関わらず放送された、としている。 ただし、この田中の指摘は事実とは異なり、取材映像は放送しておらず、筑紫が補足コメントで述べたもの。 筑紫は自著の中で田中の名を挙げなかったものの、この批判を知っていたとしている。 (平成9年)、「きょうの特集」において北朝鮮に渡った日本人妻へのインタビューを放送。 そこでは「日本人妻は何の不満も無く差別されずに安泰に暮らしている」という日本人妻たちの回答を流した。 これについては、共産圏とはも無いわけで、筑紫がまさかそんな基本的なことすら知らないジャーナリストではない筈であり、明らかに日本人妻の本音とは違う部分を何の論評もせずに垂れ流すというのは、北朝鮮の宣伝に加担しているものであり、明らかに意図的でありの何ものでもなかった、と筑紫とこの番組の批判をした。 (平成11年)、多事争論においてを取り上げた際、をとで報道した上で、当事者に批判的な発言を行った。 また、このときを「かなり恣意的で、トイレの落書きに近い、などという酷評すらあります」と批判した発言は、インターネットを中心に批判が広がり、「便所の落書き」発言として一人歩きすることとなった。 放送当日のスポンサーが東芝で、多事争論直前にのCMが放送されたとされることも非難を大きくする要因となった。 11月、筑紫が編集委員を務めていた雑誌「」がの家族(当時北朝鮮在住)にインタビューを行ない、「『はやく北朝鮮に帰ってきてほしい』との趣旨の記事を直接曽我に届け、精神的に追い詰めた」として週刊金曜日に批判が集まった。 このことについて、放送の多事争論「永遠のジレンマ」で、「国の方針に水を差すような報道、取材はすべきではないという、こういう議論になりますと、自由な報道や言論というのは死んでしまって、北朝鮮と何ら変わらない国に私たちはなってしまいます」と週刊金曜日を擁護する発言をする。 (平成15年)、番組で北朝鮮の人権問題に取り組むドイツ人医師・のインタビューを放送したが、同日にで行われた、などが主催した集会のニュースを報じなかった(この集会のニュースは他局のニュース番組はもちろん、同局の他のニュース番組でも報道されている)。 TBSに対し、フォラツェンがなぜ報道しなかったのか問い質すと、TBS側から「あれはの集会だったから放送しなかった」と回答されたと明かし、雑誌のインタビューなどで番組とTBSの態度を非難した。 2003年に放送された終戦企画「終戦スペシャル・殺す、な」は、恐怖感を煽るようなBGMを多用するなど、演出手法に批判が集まった。 (平成18年)、首相(当時)の参拝について、の ()国際関係委員長の「行くべきでないと強く感じているわけではない(: Not strongey alone. )」という発言を、字幕で「行くべきではないと強く思っている」と改変して報道した。 のちにに正確ではない表現があったと釈明した。 に環境問題特集「ほっとけない! 私たちにできること」を放送したが、中国での化学工場爆発事故(11月13日に発生)による環境汚染問題については報じなかった。 のシリーズ「この戦争の正体」で実施した(電話アンケート)の集計結果と、画面に表示されたグラフの間に多大なる乖離があった。 (18年)の北朝鮮核実験報道に関して、筑紫が何ら批判的な言質を表明しなかった。 、関東アマゴルフ選手権初日において、番組キャスターのに認めさせたを、がに手渡そうとしたシーンを放映したが、その一方でTBSの他番組が行なった石川選手の同伴者に対する盗聴マイク装着依頼、ヘリコプターでの会場中継強行へ批判が集まった。 筑紫哲也NEWS23を批判する立場からの文献 は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2020年3月)• 編集部『筑紫哲也「妄言」の研究・『NEWS23』、その印象操作&偏向報道の作られ方』• 『ニュースキャスター筑紫哲也を斬る・このままテレビの偏向報道を許していいのか もはや中国、北朝鮮の代弁者か』• 『天晴れ! 筑紫哲也NEWS23』• 関連番組 [ ]• (裏番組) 関連項目 [ ] ウィキニュースに NEWS23に関するニュースがあります。 ただし、「金曜深夜便」「マンデープラス」などで歌手・ミュージシャンによる生演奏が行われる際は、その部分だけが実施された。 2008年11月8日. TBS 筑紫哲也 NEWS23 ホームページ アーカイブ。 金曜は2分。 事前収録や中継先からの放送でフリップを用いなかった場合は、筑紫直筆の題目をテロップで表示していた。 1996年3月26日. 筑紫哲也 NEWS23. 2010年4月12日閲覧。 ただ、放送終了後にTBSテレビ報道局の公式フェイスブックにコーナーの動画が投稿されるため、非ネット地域でもこちらで視聴可能。 2014年7月18日 朝日新聞デジタル・アーカイブ,(参考))。 特に開始時間が遅くなる金曜の放送では、プロ野球中継の延長などで放送時間が深夜0:00(24:00)、もしくはそれ以降となる場合は、筑紫が冒頭で「 ニュース24(ツーフォーかトゥーフォー)」と読み上げることもあった。 出典:東奥日報1993年9月及び1994年4月のテレビ欄から。 1996年5月17日(金)放送 (アーカイブ)「私たちのこの『ニュース23』という番組、1局を除きましては1時間半で一つの番組を毎日構成しております。 (中略)来週いっぱいは、その後半がないことになりまして、片翼で飛ぶことになります。 2008年11月25日号• 2004年3月26日 (アーカイブ)• 1999年9月29日 (アーカイブ)• asahi. com• 筑紫哲也『ニュースキャスター』集英社新書• 井沢元彦『逆説のニッポン歴史観』234頁• 2006年7月8日. 2007年6月14日閲覧。 外部リンク [ ]• - 2008年春のリニューアル前のページ。 (アーカイブ) アーカイブページが残されているが、多事争論以外はトップページから誘導されないようになっている。 特集アーカイブ(1999年6月から2008年まで)• 多事争論アーカイブ(1995年10月16日から2008年まで) および 前番組 番組名 次番組• 2 2012年春より単独メイン。 3 月曜-木曜担当。 4 金曜担当。 5 サブキャスター兼務(蓮見は2012年10月から)。 6 後藤のメイン就任後はスペシャルアンカーとして随時出演(2008年3月まで)。 7 番組開始から1997年9月まで。 8 金曜日のみ出演。 9 筑紫哲也夏季休暇時のメインキャスター代理。 10 膳場貴子不在時のメインキャスター代理。 11 番組開始前、筑紫にキャスター就任の要請あり(実際のメインキャスターは)。 12 2018年10月から金曜日のみが担当。

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